こんなご時世だから聞きたい
――我が家の教育方針――
子供には「危険な遊び」をさせろ
私には、今年25歳と21歳になる娘がいる。上の娘は結婚して静岡県の御前崎に落ち着き、下の娘はアメリカ・モントレーの大学に在学中だ。基本的に、子供たちには子供たちの好きなようにさせてきたと思っている。
ただ、2人とも3歳くらいから自分のヨットスクールに入れて、他の子供たちと一緒に合宿もするし、ヨットもウインドサーフィンもやるという生活をさせてきた。子供たちはスクールでよその子供たちが引っ叩かれているのを見て、どうすると叩かれるかすぐわかったようで、その結果、私が体罰を加えたことは1度もない。
上の娘は、女の子らしい女の子で、地に足がついているというのか、着実にやっていくタイプ。昔でいうところの洋裁学校みたいなところへ通って、服飾デザイナーを目指していた。だが「女の世界」がいやになって、この間ウインドサーフィンをやっている人と結婚した。
下は、アメリカに行きっぱなし。とても要領がいい。この子は中学に入ってすぐオーストラリアに行った。小学6年の時から「オーストラリアいいなあ」とか「いつか行けるといいなあ」とそれとなく仄めかし、中学生になって切り出してきた。オーストラリアに私の知人がいたのだが、期間や飛行機の便など何から何まで自分で決めて、1人で行って帰ってきた。そして高校3年の時にはカナダの田舎へ1年留学して、帰ってきた時にはアメリカの大学を決めてきた。最初は2年といっていたのが、4年になっていまに至っている。
子供の好きなようにとはいっても、親としてできるだけいろんな経験をさせるようにはしてきた。特に小学校の間が重要だとわかっていたから、下の子が中学になってすぐ自分で行動し始めたのを見て、まずは成功したと思ったことがある。
ヨットスクールで事故が起きて私が逮捕されたのは昭和58年、上が小学4年、下が幼稚園の時だった。以後ずっと裁判を続けてきたが、子供たちは少しも親が間違っているとは思っていない。小さい頃からヨットスクールにしょっちゅう出入りして、実際に子供が変わっていく姿を見ている。あの子がああなった、という例をたくさん知っているから、親が間違っていると思うはずがない。世間が間違っていることくらい、すぐに理解した。子供たちは毅然としていたから、学校でイジメられることもなかった。
事件では、子供たちを裁判所に見にこさせたし、また、拘置所へ面会にもこさせようとした。面会には3歳を越えた子供を入れてくれないので、これは残念ながらかなわなかった。
家庭でやれることには限界がある
結局、親が子供にできるのは、できるだけいろんな経験をさせてやることくらいなのではないか。経験といっても子供が勝手にすることだから、親はただその場を与えてやるだけ。拘置されたり裁判を受ける場にいる身としては、それを見せてやるだけのことである。
私は、家庭でやれることには限界があると考えている。いまは何でも家庭のせいにするが、本当にそうなのだろうか。スポーツ選手で、親が一生懸命に英才教育をして一人前になったという例がいくつかある。だから家庭でいろんな教育ができるように思われているが、人間教育について親がやれることは多くはない。だいたい親子は馴れ合いというか一体である。わがままもいえる。親から子供にわがままをいうことだってある。果たしてそういう中で、人間教育はできるか。
親は、安心して帰れる場所を作って、子供を外に送り出してやりさえすれば、それでいいと思う。外の社会で子供たちは人間性を高めるトレーニングをする。しかしトレーニングというのは厳しい。子供がまいってしまうこともある。その時に帰る場所、頼る場所としての家庭があればいい。子供は弱いから安定させる場所が必要で、家庭はそこを受け持つ。だから、守ってやる、行かせてやる。それでだけいい。
もっとも、いまは外の世界がおかしなことになっているから、難しいところもある。例えば子供たちが一緒に遊ばない。かたまっていても、一人ずつ違う遊びをしている。
中でも問題なのは、子供に危険な遊びをさせないことだ。ひたすら危険な遊びをするのが、小学生いっぱいまでの遊び方なのである。危ない遊びが人間性を完成させる。勉強ではない。これが不足しているから子供がおかしくなる。
私が、ヨットやウインドサーフィンを教えているのは、危険な遊びと同じメカニズムを創り出そうとしているからである。こうした本当に危険な遊びを一人でやるとどうなるか。自分でしか自分を助けることができない。生きるか、死ぬかの状態。これが脳の、本能のトレーニングとなるのだ。
こうやって本能をトレーニングし、完成させなければ、人間性はできてこない。
人間性は本能から創られるもの
世の「インテリ」たちは、人間性に関して、理性とか自由とか尊厳などとよく口にする。彼らはたいていこうしたものがもともと「ある」と考えている。だが、そうではない。
確かに世界人権宣言には「人間は生まれながらに自由である。権利と尊厳について平等である。理性と良心を付与されている」と書いてある。だが、付与したのは誰なのか。エホバだ。この文面にはそれが隠されている。アメリカの独立宣言にもフランスの人権宣言にも同じ言葉がでてくるが、「神によって」と書いてある。つまりこれはキリスト教的一神教の押しつけでしかない。そこから出てきた精神論である。これをそのままありがたがって、理性を「ある」と考えている。「インテリ」は、ヨーロッパ崇拝に弱い。
間違えてはいけない。理性も自由も尊厳も「創る」ものだ。例えばヨットでもウインドサーフィンでも、ものすごい風の中で波に乗る。そこで自由自在に乗れようになるのは技術が身についたからだ。自由を「創った」のである。理性も尊厳も同じことで、「創る」ものだ。
ではそれをどこから創るのかといえば、本能からだ。だからまず本能を完成させなくてはいけない。弱い本能からは弱い理性ができる。不安定な本能からは不安定な理性ができる。だからまず本能を正しく創る。これには子供の遊びをしっかりしておけば、正しく強く安定した本能が自然とできるのだ。
その時期は、3歳から小学校いっぱい、だいたい13歳くらいまでで、第一次反抗期から第二次反抗期までに重なる。
3歳での第一次反抗期は母親に対する反抗期である。子供は母親と一緒にいては脳のトレーニングができない。だから母親から逃げ出す。母親から離脱するには母親に嫌われなければならない。そのために反抗する。反抗しない子供は、そこまで育っていないということで、つまりは愛情が足りなかったということになる。守るということを充分子供に体感させなかったから、子供は怖くて外に出れないのだ。
第二次反抗期は家族全員に反抗する。これは家からの離脱だ。自分が一人前になるために社会に出て行く姿である。これが起きないのは、やはり社会に出ていくだけの力がない、まだ備わっていないからなのである。
反抗期があるのは、これを通じて子供が脳を完成させているからである。だから本能の完成は13歳で終ると考えなければいけない。その後は手遅れと見たほうがいい。
体罰も3歳から小学校卒業までで、3歳からちゃんとしていれば5歳くらいで必要なくなる。一方、中学・高校から体罰を始めると、それこそヨットスクールでやっているくらいに厳しくしなければいけなくなる。なぜなら相手は「既得権」を持っているからだ。それまで殴られたことがなければ、殴られないのが当然と思いこんでしまっている。ちょっとくらい殴られても、そんないわれはないと頑張る。こうした子供にはヨットスクールのようなところが必要になる。
私は親から体罰を受けた記憶がない。父は明治43年生れで、大正デモクラシーの影響か、自由放任だった。だからずいぶんわがままに育った。それでも勉強ができたから、教師も親も遠慮していた。昨今の事件を起した17歳に似ているかもしれない。幸いその後に私は名古屋大学ヨット部の合宿生活で鍛えられた。いま考えてみると、親がもう少し厳しかったら、もう少したいしたものになったかもしれない。