第一章 逮捕の日まで


 "狂気の暴力集団"という極悪のレッテルを貼られた我が「戸塚ヨットスクール」は、マスコミの集中砲火を浴びていました。

 体罰を課すヨット訓練のやり方を非難し、厳しい指導方針を行き過ぎと批判する各種の報道にせっつかれた形で、愛知県警、同地検が私たちに牙をむいたのは、それから間もなくのことでした。昭和58年5月25日、それより1か月ほど前に起きた"暴走族傷害事件"でスクールのコーチ6人が逮捕されたのです。

 スクール付近の国道を深夜零時頃に、けたたましい騒音をたてながら"暴走"していた若者たちをつかまえ暴行を加えたとしてコーチたちを逮捕し、マスコミで叩かれている「戸塚ヨット」をしょっ引いてきて、その活動を停止させようという県警・地検の狙いは明らかでした。

 私たちのスクールのある愛知県知多郡美浜町は、知多半島東側に位置する静かな浜辺の町で、近くには海水浴場もあります。実にのどかでひっそりとしたところなのです。そこを真夜中すぎに、大きな音をまき散らしながらオートバイを連ねて走る輩(やから)がいれば、誰だって「けしからん」くらいには思うでしょう。

 常日頃、蛇蠍(だかつ)のごとくマスコミや警察に嫌われている"族"の連中もヨットスクールに比べればはるかにかわいいものとみえ、この時ばかりは哀れな被害者扱いです。暴走族撲滅のスローガンは、ちょっとお休み、といったところなのでしょう。

 「いよいよ官憲が本格的に我々に弾圧を加え始めようとしている」
 もう私にはあまり時間が残されていないと感じ、それからの私は秒を惜しむ勢いで日本中を駆け回り始めました。もちろん、連日のようにテレビや雑誌、新聞でやり玉にあげられている「戸塚ヨット」の真の活動内容を伝え、私たちの活動に期待をかけていて下さる方々に安心してもらうためです。講演に飛び歩き、テレビに出演し、多くのジャーナリストに会って「戸塚ヨット」の実像を知ってもらおうとしました。

 しかし、マスコミはあらかじめ「戸塚ヨット」を悪者と決めてかかり、ヒステリックに糾弾するために私を呼びつけた、というような感じが強く、真面目に面と向かって私と討論をしようとするところはわずかでした。テレビなどは討論と称して一方的に私をなじり、反論や事実を述べようとすることすらさせないといった局まである始末。私は電波に乗せられ「市中引き回し」されたようなものでした。

 教育評論家という男が私の話に耳を貸さず、識者という男が私を断罪しました。ヨットスクールにくる情緒障害児の実態を何一つ知らないまま、シゴキを非難し、暴力を否定し、子供の権利を主張し、私たちの活動全体を狂気の沙汰と決めつけました。

 暴力否定、結構なことです。
 私はサディストではありませんし、私の考えに共鳴して一緒に仕事を引き受けてくれているコーチたちも暴力愛好家などではありません。好きで人を、それも年端のいかない子供たちを殴ったり蹴ったりするわけがありません。

 体罰を課すことなく済ませられれぱ、こんなに楽なことはないのです。ピンタも鉄拳もなくヨットスクールができれば、私もコーチたちもうれしいし、何より物理的に楽ができるわけです。

 しかし、体罰というものは子供にとって必要にして有効な手段なのです。さらに、スクールに来ている訓練生がどういう子供たちか、という問題を知ってもらわねぱなりません。

 エモーショナル・トラブルド・チルドレン――いわゆる情緒障害児という子供たちが、どんな子なのか、私や「戸塚ヨット」の指導方針、いや、その存在そのものさえも否定しようとした"識者"たちに知ってもらいたかったのです。私たちの「情緒障害児の治療教育法」を非難する人で情緒障害児の実態に通じている人はほとんどいませんでした。

 テレビ局のスタジオにしつらえられたテーブルにつき、居心地のいい椅子に座ってなら、誰にでも「暴力反対」のお題目を唱えることはできます。評論家はいかにも評論家らしく「真の教育」をぶつことができるでしょう。そこでは「愛情を持って子供たちに接すること」で、問題を抱えた子供たちが見事に立ち直るのかも知れません。しかし、それは言葉のゲームです。

 では、学校や精神病院、矯正施設を渡り歩き、どこからも厄介払いされた挙句、ワラにもすがる思いで「戸塚ヨット」の門を叩いてきた子供は、一体なんなのでしょう?ありとあらゆるところで「愛をもって接して」もらった子供が、なお情緒障害児として私の所へ来なけれぱならなくなるのは、どうしてなのでしょう?

 教育評論家先生の言う「真の教育」では、彼らを立ち直らせることができない、ということではないですか。

 それが情緒障害児たちの"現実"なのです。テレビ局のスタジオでは決してわからない"現実"なのです。

*        *

 こうして私がテレビに出演し続け、よってたかって罵倒され続け、悪人・トツカのイメージはより強烈になっていくぱかりでした。私は少しでも「戸塚ヨット」の真実を広めたいと思っていたわけですが、事態は反対の方向にしか進まなかったことになります。しかし、私にはもう残りわずかの時間しかない。それまでお世話になった一部のマスコミ関係者には、お礼の意味もあったし、最後の取材に応じておかねぱ、という気持ちだったのです。

 また、その時期には講演依頼も殺到していました。断り切れない依頼には応じなけれぱならなかったし、おまけに出版を間近に控えた著書の校正もしなければなりません。とにかく多忙でした。

 私が逮捕されるのは時間の問題でした。私が引っ張っていかれた後のスクールをどうするのか、逮捕後の法廷闘争をどう進めていくのか、それからの問題は山積みしてもいました。"そのとき"の迫っているのを感じながら、スクールに子供を預けていらっしゃる父兄の方たちと話し合いをするために会合を大阪で持ったのは6月の10日でした。

 会合を終え、新大阪から東京へ向かおうとすると、ある新聞杜の記者がまた私の前に姿を見せました。

 また、というのは、その日の2、3日前からずっと私に張りついて離れなかった記者だったからです。スクールの近く、わざと見える所に張り込んでいて、たまに近寄ってきては、
「2日間も待機していたんだから、何かしゃべってくれてもいいはずだ」
と言うのです。時間が少しでも惜しい私にとって、記者の言う理屈はひどく手前勝手な言い分です。それも、従来の報道から、彼がどういう意図で取材に来ているのかは分かりきっています。私が何か一言でも発言すれば、それをネタにして悪口雑言を並べ立てようと身構えているのですから。

 私が一言もしゃべらなければ"ニュース"がない。だから記者も必死です。3日間も、私についてどこまでも追いかけて来ていたわけです。

 新大阪から東京へ行くつもりだったのですが、記者を追い払うつもりでタクシーに飛び乗りました。そうすると、その記者も別のタクシーに乗って追跡してくる。執ように追いかけてきます。

 そこで私のタクシーの運転手さんと打ち合わせをして一計を案じました。しばらく走ってから停車して降ろしてもらい、追跡してくる記者が同じようにタクシーを捨て、他のタクシーが近くにいないのを確認してから、もう1度初めのタクシーに拾ってもらったのです。手強い相手でしたが、ようやく追跡をかわすことができました。

 新大阪駅に戻ると、またその記者が現れる危険があるので、そのまま京都までタクシーを飛ばしました。予定外のとんだ出費です。第一、尾行をまくなどと、映画や小説じゃあるまいし、何でこんな茶番を演じなけりゃならんのかと、正直いって情けなくなりました。

 東京駅には知人が迎えに来てくれており、出演する予定になっているテレビ局が用意してくれたホテルニューオータニまで送ってくれました。その夜は、翌日、ちょうど帰国するアメリカの友人が会いに来てくれ、お別れに2時間ほどおしゃべりをしました。

 その時、たまたま横の席に座っていた方が「戸塚ヨットスクール」に好意を持っていてくれていたらしく、初対面だというのに話が弾んでしまい、友人が帰った後も長々としゃべり続けてしまいました。

 話し終えて部屋に上がると、もう真夜中の12時を回っていました。人と話すと、この頃はいつも非難ばかりされていたので、まともに話ができるとなると、ついうれしくて話しこんでしまったようです。ホッとするとやけに腹が減ってきたのですが、よく考えてみると、この日は夕食をとるのを忘れていたのです。面倒臭いので、そのままベッドに潜り込んで寝てしまいました。

 翌6月11日は、朝、ホテルまで飯田康之さんが迎えに来てくれました。
 飯田さんは映画「スパルタの海」の撮影スタッフの1人で、アル企画という会社の社長さんです。映画ロケの際は、撮影遂行の陰にある膨大な雑事を一手に引き受けておられた方で、朝一番早く起きて夜一番最後に寝る、という役回りでした。社員数名を従え、ロケ現場ではそれこそコマネズミのように動き回っておられたのが思い出されます。そしてその時の女子社員の1人が、スクールの小杉コーチと結婚したのですから、縁というのは面白いものです。

 実は、この飯田さん、私の逮捕後、混乱状態に陥ったスクールに、なんと半年以上も詰めっ切りになってスクールの事務をきり回してくれました。ご自分の会社そっちのけです。感謝してし尽くせないお世話をかけてしまいました。

 「戸塚ヨットスクール」は私1人の力ではどうすることもできません。これまでもそうでしたが、これから先もそうです。飯田さんのような方が協力してくれて、ようやくスクールとしての活動が可能なのです。極悪人と決めつけられ、サディストと呼ばれる私に協力を惜しまず励ましてくれる方がいる。そう思うと、感謝したい気持ちはもちろん、それ以上に、信頼し、共鳴して頂ける私の活動方針をより強く堅持し、スクールの灯を絶対に絶やしてはならない、と決意を新たにしたものです。

 飯田さんの車で朝のテレビ番組出演に出かけ、それからその日の宿舎・山の上ホテルに移りました。チェックインして10分もたたないうちに、ロビーへ降りて行きました。飯田さんがセッティングしてくれた面会者と会うためです。

 何人の人と会ったのか分かりません。お昼過ぎから、次から次にやってくる人に会って話をして、そのまま夜寝る時間までしゃべり続けたのですから、相当な人数でしょう。私1人では、こんなにうまくアレンジできるわけもありません。飯田さんの手際の良さには驚かされます。

 しかしながら、私は20年間も海でヨットに取り組んできた人間です。自然の中で伸び伸びと体を使って生きるのが本性の男です。都会のホテルで一日中人に会って話をしているというのは、実にしんどい。人と話すだけで疲れを感じるタイプの私が、この時期、集中的に人と会ったり取材を受けたりすることが続き、実際ヘトヘトの状態になっていました。

 けれども、海へ出て子供たちを鍛えるということに向ける情熱とは違った面で、私は必死でした。私のその情熱が理解されず、しかもその情熱を燃やす場を奪われようとしているのですから、当然です。これも試練だと思って、私は人に会い、話し続けたのです。

 あくる日は昼に新宿へ移動。また飯田さんの運転でワシントンホテルヘ向かいました。用意された会議室で、東京のスクール生の父兄と会合し、今後のことを話し合い、検討するためでした。

 新宿に着いたところ、会合の予定時間までにはまだ少し間があるというので、近くの喫茶店で一息入れることにしました。するとどうでしょう、注文したコーヒーを運んできてくれたウエートレスが「スパルタの海」を撮影した時に生徒役をやった女の子だったのです。まったくの偶然。これには私もびっくりしました。

 聞いてみると彼女は、昼はその喫茶店で働き、夕方からタレント養成学校に通っているということでした。ヨットスクールにやってくる訓練生と同じ年頃の彼女です。自分の目標に向かって、自分の力で生き、進んでいる彼女のひたむきな姿勢に、頭が下がる思いがしました。

 スクールの子供たちは、学校や社会生活から落ちこぼれ、いわゆる「東大エリートコース」を頂点とする学歴競争から脱落してしまった子供たちです、人生の最初のスタートでつまずき、大きく後れをとってしまった子供たち。でも、それで人生そのものに絶望し、無気力になってしまってはいけない。どんな小さな目標にせよ、自分の力で自分の人生を切り開いていかねばならないはずです。

 彼女のように、堂々と、胸を張って自分の夢を追う人生を歩んで欲しい。私が今にも逮捕されようという時に、まったくの偶然から彼女のような人に出会えたことは、私に大きな希望を与えてくれたような気がします。私が信念を貫き、身の潔白を明らかにした上で、再びスクールに戻って、子供たちを鍛え、彼女のように自分の人生に立ち向かう人間として育てあげられるようにと、"何か"が私に示してくれたのかも知れません。

 ホテルの会議室に集まってくれた父兄有志の方の数には、少々驚かされました。土曜日ではありましたが、仕事を休まれた方も多かったそうです。父兄の方たちの熱意が伝わってきて、非常にうれしく励まされる思いがしました。

 しかも、逮捕目前の私に対して、世間の目は冷たく、厳しいマスコミの批判が私に集中していた最中でした。「戸塚ヨット」の作られた虚像が大手を振ってまかり通り、世をあげて大騒ぎをしている時に、このような会合に集まってくれる父兄が大勢いらっしゃるということに、私がどれほど元気づけられたか分かりません。ただ、もう、感謝の一言です。

 そこで、甘えついでに私はこうお願いしてみました。翌日の朝のテレビ番組に、出演する予定だったのですが、
「どなたか一緒に出て頂けないでしょうか?」
つまり、私と一緒に非難の嵐の中に足を踏み入れてくれないだろうか、という頼みでしだ。

 ところが、その場で4人もの方が、
「一緒に出演しよう」
と言ってくれたのです。
 涙が出るほどうれしかった。ありがたかった。

 マスコミは私や私の指導するスクールはもとより、そこへ自分の子供たちを送り込む親にも敵意をむき出しにしていました。"狂気の暴力集団"に我が子を任せてしまう親にも責任がある、という論理で、スクール生の両親に非難の目を向けていたのです。批判されている「スクール生の親」という顔のない存在から、私と一緒にテレビ出演することで、今度は名前のある「スクール生の親」になってやろうという父兄が4人もいたのです。

 うれしいと感じると同時に、これほどまで私を信頼してくれている、という大きな責任感を感じもしました。

 この時期、この騒動の中で、実に多くの人間に会いました。先生と呼ばれる人、学者や知識人、ジャーナリスト。そこではたくさんの卑怯者を見ました。しかし、私はまた、実に多くの勇気ある人たちにも出会いました。

 情緒障害という深刻な問題を抱えたわが子を"子捨て山"と悪名の高い「戸塚ヨット」に送り込んでしまう無責任、無慈悲な親と、悪しざまに言われる父兄が、大きな勇気なくして私と一緒にテレビに出られるものでしょうか。

 そして、重大な決意を持って出演を快諾してくれた父兄たちを、周りからよってたかって中傷する連中に、そんな勇気のかけらでもあるのでしょうか。

 マスコミという武器を使い、世論という名のもとに私や父兄たちを攻撃するのは、たやすいことです。多勢に無勢です。数が正義なのであれぱ、私たちはまさに悪者でしょう。マスコミは安心して、私たちをひどい目にあわせることができるでしょう。

 しかし、それは、単に、弱い者いじめをしているにすぎません。

 何が真実なのか。何が問題なのか。
 それを正面から見据えようとせずに、一面的な部分のみを材料に使い、馬鹿の一つ覚えのように「暴力否定」を叫ぶだけの声が、本当に"世論"だと言えるのでしょうか。

 そう反論する場に、自分から出て行こうという父兄がいる。私はその勇気に、畏敬の念を持って感謝するほかありませんでした。

 そもそも「報道」とは何なのか?事の理非を問わずに多数の側につき、弱い者をいじめることしかできないのなら、それこそ大きな後ろ楯がなければ何もできない愚かな弱者ではないでしょうか。

 情緒障害児の問題を論じずに、その問題児を抱え、万策尽き果てた末に「戸塚ヨット」へ子供を連れて来た親を非難する。自分の子供に対する「もしかしたら」という危惧を、彼らを攻撃することで忘れようとしているのかも知れません。まさに"弱者"の発想です。

 私や問題児の親を批判しても、情緒障害という問題は解決しません。その問題を、微力ながら懸命に解決しようとしている動きを妨害することになりこそすれ、何ら前向きの方向には進展しません。

 にもかかわらず、"世論"は弱い者をいじめて喜んでいる。そして最近では、子供の"いじめ"の問題に眉をひそめています。自分たちも同じように弱い者いじめをやっておきながら、子供のいじめは深刻な問題になっている、などとしたり顔をする。

 "世論"というのは、まことに節操のないものです。

 父兄の会合の場を離れ、私は夕方から八重洲口にある藤田観光ホテルで、ある新聞社のインタビューに応じることになっていました。名古屋から上京したばかりの花井美紀さんも同行してくれました。

 花井さんは以前、取材者として初めて我がヨットスクールを訪れ、それから私の方針に共鳴してくれ、色々な面で私たちを支援してくれている方です。
 が、彼女のような全くの第三者で「戸塚ヨット」の支援者になると、警察、検察からマークされ、事実、常に尾行がついているということでした。

 知人や勤め先、関係する会社に警察手帳をちらつかせた刑事が現れ、どうでもいいようなことを、わざと大袈裟にかぎ回るのだそうです。「捜査」という名の嫌がらせとしか思えません。

 「それが嫌ならトツカの味方なんかするんじゃない!」
ということなのでしょう。

 彼女に限らず、他にも嫌がらせや、不当な扱いを受けた支援者の方は多いようです。ある人は、立ち小便をしている現場を写真に撮られ、
「これで2、3か月ブチ込める。嫌ならトツカと縁を切れ!」
とおどされたと言っています。『フォーカス』や『フライデー』じゃあるまいし、このような馬鹿騒ぎを国民の血税を使ってやっているのですから、暗たんたる気分にさせられてしまいます。

 ホテルのロビーで待ち構えていた記者は、
「新聞報道ではよく分からないので、直接会って話したかった」
と言いました。つまり、自社の記事を信用していない、ということです。まったく、何たることなのでしょう。いちいち本人に会って記事の確認をすることなどできない一般読者にとって、新聞報道とは何なのでしょうか。記事は書くが信用してくれるな、とでも言うのでしょうか。ますます気分は重たくなってきました。

 何しろ、これまでの報道では分からないと言う記者ですかち、私は「戸塚ヨット」について初めから話さなけれぱなりません。父兄や支援者の方たちと夜の9時に一緒に食事をとる予定にしていたのですが、とてもそんな時間には間に合いっこありません。電話を入れてみましたが、うまく連絡がつかずに夕食の約束はほごになってしまいました。

 長時間のインタビューを終えてホテルの自室に引きあげてきたのは、この日も夜半過ぎ。疲れ切って、後はもう眠るだけでした。ぐっすり、というわけにはいきませんでしたが、今考えてみれぱ、これが"シャバ"での最後の眠りになったわけでした。

*        *

 翌朝、電話で起こされると、既にテレビ局の車が迎えに来ているということでした。まったく息つくヒマもないほどの売れっ子ぶりです。ただ、それがチヤホヤされる売れっぷりではなく、出向いて行く先々で袋叩きにあうための超多忙なのですから報われません。

 この日のテレビ出演は、前日に出演依頼をお願いした4人の父兄の方たちと出た番組でしたが、意外なことに、私たちの言い分を一方的にしゃべらせてくれるという、これまでにない番組でした。

 "世論"は常にリンチであり、リンチは常に"娯楽"である、というテレビのメカニズムからすれば、この演出は非常に珍しいものです。私に求められるテレビ用のキャラクターは"大悪党"としての戸塚宏であり、テレビという"公器"が、それを思う存分痛めつける――テレビ的構造とはそういうものと思っていたので、こちら側だけが一方的に言い分を述べるという番組作りには意表をつかれました。

 しかし、当方はテレビのシロウトです。いくらたっぷりと時間を与えられたからといって、テレビを使って自分の真意を充分に視聴者に伝えるなどということはできません。また、私たちのスクールを分かってもらうには、長年に渡って築いてきた訓練生が立ち直ったという事実、実績を見てもらうしかありません。言葉で構築した理論ではなく、実際に直してきたんだという理屈抜きの成果を分かってもらうしかないのです。

 しかるに、与えられた時間内に、スタジオでしゃべってこれを伝えようとしているわけですから、その効果は絶望的と言わざるを得ません。口角泡を飛ばしているうちに、やはりこれまた気分がふさいでくるのでした。

 テレビ出演を終え、電話をかけてきた知人と六本木のレストランで昼食をとりました。イタリア料理店で、私はソーセージ・スパゲティを食べたのですが、この食事が、ちゃんとした食事の最後になってしまいました。

 ところが、あまりおいしいと感じませんでした。特にそのスパゲティがまずかったというのではありません。そのところずっと、何を食べてもうまくない。第一、あまり腹も減らないような感じになっていたんです。

 車、新幹線、飛行機を乗り継ぐ移動の連続。一日中人に会い、四六時中しゃべり通し、ホテルに帰る生活。肉体的には運動不足、精神的には緊張の連続でまいっています。

 体調に異状をきたしていたわけです。
 だから何を食べてもおいしく感じない。日常的に、こういう生活を続けている人もいるらしいですが、なんともお気の毒に、と言うほかはありませんね。

 昼食の時間もそこそこに、次のテレビ局に駆けつけたのですが、本番前に見せてもらった台本をチェックして仰天しました。その番組には以前にも1度出演したことがあったんですが、その時よりもさらに敵意がエスカレートしていたようです。

 司会者のYは、NHKの「中学生日記」で教師役をやったことのあるタレントですが、その経験でいっぱしの教育者気取りの男でした。虚と実の境目が分からなくなっている困り者です。

 レポーター的な役割のKは、ベトナム戦争当時はべ平連で通し、教育問題がやかましくなってからは教育評論家になりすましている男でした。

 とにかく私の出る幕もなさそうなので、結局、この番組はボイコットすることにして、その朝の番組出演の際に告知した講演会場の方へ急ぐことにしました。実を言うと、テレビでいくら私がしゃべっても、時間に制限がありすぎるし、どうもうまく表現できないので、その番組のディレクター氏に頼み込んで急きょ、講演会の会場を確保してもらったわけでした。同じ「テレビ」というメディアでも様々な違いがあるものです。

 朝、それも当日の早朝に1度告知しただけだというのに、会場のダイヤモンドホテルヘは50人ほどの聴衆が来てくれました。

 スクール生の父兄と同じように問題児を抱えた人、この機会にトツカに一言いってやろうと思っている人、聴衆は色々な人がいます。とにかく真面目に話を聞こうとする人であれば歓迎です。

 そういう人たちが50人も来てくれたのですから、たった1度の告知で、これなら上出来だと思うのですが、聴衆を大幅に上回る数の報道陣が詰めかけているのにはウンザリさせられました。どうしてどこまでもついてきて邪魔するのでしょう。常に私を追い回し、緊張させ、失敗を引き起こさせ、いじめて楽しみたいのでしょうか。本当に悲しくなってしまいます。

 午後のテレビ出演をボイコットしたおかげで、予定の時刻までには30分ほどの余裕ができました。そこでスクールの合宿所に電話を入れてみますと、留守中に実にたくさんの用件が山積みになっていることが分かり、また気が重くなってしまいました。

 その場で、今晩、人に会う新たなアポイントを入れ、予定が増えたのでもう一晩、東京にとどまることにしました。久しぶりに今夜はスクールに戻れると思っていたのに。そうなると、どこかにホテルの部屋をとらなくてはなりません。東京のホテルは、これ程たくさんあってもなかなか予約がとりにくい。今夜泊まる所の心配をしなけれぱならなくなってしまいました。

 講演を終えても、問題児を抱えている聴衆のうち、20人ばかりの人が居残って、もう少し詳しく話を聞きたい、ということでした。中には学校の教師をなさっていて、担任のクラスに問題児がいる、という方もいました。各地の講演会でも、決まってそういう先生方が来られます。

 とりあえず喫茶室の方へ集まって頂き、私がそちらへ移ろうとすると、女性週刊誌の記者が追いすがってきて、
「女子生徒を強姦したそうじゃないですか、どう責任を取るんです!」
とわめいでいる。どこでそんな話を作り出すのか、根も葉もない作り話を、自分たちのセックス満載雑誌に合わせてでっちあげ、質問を浴びせてくるのです。これはもう、私には答えろというのが無理な話です。

 慌ただしく有志の方との話を終え、去りがたい様子の方たちを残していとま乞いをし、私は次のアポイントのために山の上ホテルヘ移動。たまたま部屋の確保できたホテルヘチェックインしてから、約束の場所まで、地下鉄で行くつもりだったんです。

 ホテルまでの車をまたまた飯田さんにお願いし、同乗した飛鳥新杜の土井社長と私の著書の最終打ち合わせをするという超過密スケジュールです。大急ぎでチェックインを済ませて出てくると、地下鉄の駅へ向かおうとする私の両脇に、ぬっ、と2人の男が現れました。
「トツカさん、タイホ状が出とるデよー」
 名古屋弁の刑事でした。わざわざ東京まで追いかけ回して逮捕するとは、愛知県警もかなり焦りを感じていたらしいですね。

 「とうとう来たか」
と思った瞬間、妙にホッとした気分にも襲われました。

 「やれやれ、これでやっと休めるか」
というのが、正直な感想だったからです。

 コーチ6人が逮捕されて以来、2週間以上もの間、私は九州から東京の間を駆け回り続けてくたびれ切っていました。体の調子もおかしくなり、神経も擦り切れ寸前の状態。変な話ですが、県警が逮捕するのをもっと遅らせていたら、私はどこかでぶっ倒れていたに違いありません。

 『戸塚ヨット校長逮捕 訓練の名で暴行』

という大きな活字が、翌日の朝日新聞のトップを飾り、各紙とも私の逮捕を写真入りのトップニュースで扱っていました。

 「愛知県知多郡美浜町北方、戸塚ヨットスクール事件を捜査していた愛知県警捜査一課と半田署は13日午後6時40分、東京都内で校長の戸塚宏(42)=名古屋市千種区千種三丁目=を、昨年12月12日、訓練中に外傷性ショックで死亡した神奈川県藤沢市鵠沼松が岡四丁目、同市立鵠沼中学1年小川真人君(当時13)に対する傷害致死容疑で逮捕した」(朝日新聞・58年6月14日付朝刊第1面)

 私はそのまま手錠につながれて新幹線で名古屋へ連行され、以来、2年以上もの間自由を奪われたままでいます。

 あの日、久しぶりに名古屋へ帰れると思っていて予定を変更。苦労してホテルの部屋をとったのが無駄になりました。鎖につながれてはいましたが、私はやはり、当初の予定通り、あの日の夜に名古屋へ帰ってきたわけでした。