第四章 拘置所日記(V)
60年4月25日
朝…コウナゴ佃煮、ミソ汁(モヤシ、ワカメ)
昼…チキンのトマト煮、大豆昆布佃煮、クリームシチュー
夕…八宝菜、干塩鱈
願い事…面会用メモ携行願い、発信願い(1通)、領置願い(手紙2通)、更新願い(春日一幸氏からの手紙コピー、石原慎太郎氏からの手紙コピー)
AM9:15…運動(徒歩4500歩のみ)
PM1:20…面会(松本先生)
PM2:30…差し入れ(パイン缶詰、松本先生より)
PM5:40…来信(3通)
* * *
近頃、気がつくと立ち上がったり掃除をしたりする時、必ずヒザに手をあてている。運動の時間が40分間と短いため、走る、歩く、腕立て伏せで終わってしまう。これでは背筋、腹筋が著しく弱くなるのは当たり前だ。少々走っても、こんな程度の運動では、下半身の衰えも進んでしまう。
4月9日からはそれまでのメニューを一新して、体全体をまんべんなく動かすように工夫した。走1000歩、腕立て伏せ100回、背骨の捻り運動100回、腹筋50回、背筋100回、スクワット50回――これを1ラウンドのサーキットとし、2〜3ラウンド半で運動時間が終わりになる。
一昨日、運動が終わって房に戻り、汗を拭いてから正座していると15分ほどして、背中全体が何となくおかしくなり、さらに10分ほど経つと腰椎のあたりがどんよりと重い感じになった。軽いギックリ腰かなと思い、松本先生に問い合わせてもらったら、今日わざわざ面会に来て下さったわけだ。
松本先生は実にウデのいいカイロプラクティックの先生で、ヨットスクールに毎週2日来て頂き、子供たちの脊椎側わんなどといった骨格の矯正を無料でやってもらい、我々を大いに援助してくれた方である。
ヨットだけでは長時間かかってしまう矯正も、カイロプラクティックを併用すると非常に直りが早く、松本先生の恩恵を被った子供はたくさんいる。もっとも、カイロの施術はかなりの激痛が伴うこともあり、松本先生の善意も、当の子供たちにはなかなか伝わりにくかった。素直に感謝する子はほとんどいなかったし、そもそも、それが善意の治療だという、その「善意」ということさえ分からないのである。情けないが、それが悲しい現実だった。
松本先生がせっかく面会に来てくれても、拘置所が、私を直接診察治療できるように融通をきかせてとりはからってくれる、というようなことがあるはずもない。わずかに、アクリル透明板越しに私の背骨を見てもらうだけである。この"診察"で松本先生の診断は、
「第三腰椎がほんの少しよじれている」
と出て、治療法を聞かせてもらい、その後1週間ほどで私は完全に治してしまった。
今日受け取った来信の1通はS氏からの手紙で、私が月刊『現代』に寄稿した記事、「修羅場を見ずに子供が救えるか」を読んで疑問を感じた点について書いてこられた。
S氏の疑問点は、次の2つである。
@一体、ヨットスクールのやっていたことは教育なのか、治療なのか?そこがハッキリしない。
Aマスコミ批判をマスコミに乗せて展開するのは矛盾ではないか?
この2点だ。
まず簡単にAの疑問について書いてみよう。民主主義の制度下では絶対権力の存在を認められていない。司法、行政、立法はそれぞれがお互いを牽制し合う仕組みになっている。
ところが不思議なことに、マスコミにはこれを審査、弾劾する「権力」が存在しない。つまり、民主主義社会の中にあって、マスコミだけが「絶対権力」を欲しいままにしている存在だと言うことができるのだ。
したがって、何者もマスコミに対して「権力」を行使できず、そんなことができるとすれぱ、それは同じマスコミにしかできないのである。
マスコミの暴走を止めることができるのは、マスコミ自身にしかあり得ない。私がマスコミ批判をマスコミに発表するのも、そうした背景があるからである。
さて、もう一方の疑問@について、我々が「戸塚ヨットスクール」でやってきた活動は教育なのか、治療なのか?S氏の疑問は素朴にして当然、かつ根本的な疑問であると言えよう。
ほとんどの人は無意識的に、非行や登校拒否、家庭内暴力、いじめといった素行の「治療」と「教育」とを同一線上に考えていると思われる。しかし、そのような情緒障害から起こる素行は「脳幹論」で説明したように、「心身症」と同様の理由から生じており、これを直そうとすることは医学的な「治療」のようなものだ。事実、登校拒否と「心身症」を併発している子供を預かった場合、その両方が同時に治癒するのである。
ある人から「仏教を勉強してみろ」としきりに勧められ、最初は面倒臭いと思いながら、しぶしぶ読んでみて、これまで自分が仏教に対して抱いていた想像がまったくの的ハズレであったことが分かった。私が分かったのは、仏教というのは進歩の科学である、という点だった。
仏教の教えのスタート地点には「諸行無常」――全てが変化するという考え方がある。そこから発して、我々がいかにして進歩したらよいかという現実的かつ科学的な方法論を述べていることが分かったのである。
今問題にしている「治療」と「教育」もこの考え方で解明してみよう。
次の図のように、肉体や精神がマイナスになってしまった状態が「病気」である。これをゼロの方向、快方へと変化させるのが本人の自然治癒力であり、その変化を助けるのが薬やカウンセリングといった「治療」だ。
「治療」はあくまで補助的なものであり、本人の自然治癒力が主役だ。我々がスクールでやってきた「治療」は、この自然治癒力をトレーニングすることによって強化しようとするものであり、薬品を投与したり、手術して腫瘍(しゅよう)を摘出したりする、患者と全く関与しない外的な治療とは一線を画している。
「教育」は進歩を目指したもので、ゼロからプラスの方向へ変化させるため、本人の自己向上能力を刺激するものである。だからゼロまできていない子供に教育はできないと思った方がいい。進歩するのは必ず本人が努力するからであって、他人が強制的に進歩させることなどできるものではない。
教育者は、ただ効率のいいトレー二ング法を指示するだけに留まり、あとは本人の向上欲、それに伴った実践を待つしかないのである。
そこを勘違いしてはいけない。
「自分が子供を進歩させた」
と考えてしまっては、すぐに脱線する。
ところが、子供が進歩したのを見て、すぐにその功績は全て自分にある、と考えてしまう「教育者」がほとんどだというのが現実なのである。そういう彼らの尺度で測ると、我々の方法に対して「強制」「暴力」「自主性無視」「画一的」といった批判が出てくることになるのだ。
「治療」も「教育」も、実現するのは常に当の本人の能力である。医者やセラピスト、教育者といった脇役たちは、単に補助的役割を果たすだけなのだ。仏教ではこの正しい教育法、治癒法を「因縁果報」とたった4文字で解明している。そして、本人の自然治癒力、向上欲という本能的な指向性は、いずれも「脳幹」に発していることに注目したいと思う。
たとえば、登校拒否の子がいるとする。明らかに情緒障害児である。こういう精神的に「ゼロ」の状態にまで達していない子供に、無理にゼロからプラスヘ向けた「教育」をしようとすると、どうなるか?その結果が、いま全国を襲っている"教育荒廃"の嵐である。
子供はマイナスの状態にいる。なのにプラスを押しつけても、その間にあるべき「ゼロ」の状態がポッカリと抜けているのだから、うまくいくはずがない。第一、学校に来ない子を学校で「教育」することは不可能なのである。学校という教育機関は、基本的に「ゼロ」の状態に立った子供をプラスヘ向ける「教育」を施す場所なのである。
だが、現実には、学校へ登校してくる子供たちの中にも情緒障害の予備軍が大勢いる。学校の教師たちの仕事は、そういう子供たちを、まず「ゼロ」の状態に引っ張り上げる「治療」をせねばならない、ということになる。つまり、現代においては、一昔前なら考えもつかなかった「治療」までが、教育者の肩にのしかかっている、ということが言えるのだ。
しかるに、実際の学校教育の現場はどうなっているか。受験戦争の激化、その参戦者の低年齢化が進み、学校はどこでも入試テクニックの詰め込みに汲々(きゅうきゅう)としている。マイナス状態の子供をまずは「ゼロ」へと引き上げ、そこからプラスヘ向けるといったプロセスを踏んでいる余裕がないし、「教育」の前段階としての「治療」のノウハウを持っていない、というのが実状である。
このままでは"教育荒廃"はなくならない。誰もが想像する通り、それは消えうせてしまうどころか、逆にどんどん増殖し、猛威を振るい続けるに違いないのだ。
こうした絶望的状況を好転させ、何よりもそのドロ沼から子供たちを救い上げるために必要なことは、単に制度上の"教育改革"などではなく、病気の状況に追い込まれている子供たちのマイナスから「ゼロ」へ、そしてやがてはプラスヘと向かう本能(自然治癒力、向上心)を効果的にトレーニングしてやることだと思うのだ。このために脳幹トレーニングを行うのである。
病気の原因は何か?それは本来、人間ならば誰もが備えているはずの本能的な向上能力を衰弱させている、「脳幹」の不用性萎縮症状であると私は考えている。私がヨットを使い、スクールでやってきたことは、この「脳幹」の働きを活発化し、正常な状態、つまり「ゼロ」の状態に戻すためのトレーニングである。ハードウエアの完成が「治癒」で、ソフトウエアの育成が「教育」である。
したがって、最初の疑問に今ここで答えるとするなら、我々の活動は「治療」の分野に属したものだったと言うことができよう。
が、忘れて欲しくないのは、それは外的な、一方的な施術によって病源を払拭(ふっしょく)しようとする外科的な治療ではない、ということだ。前述したように、本来的治療とは、あくまで患者本人の自然治癒力にまたなけれぱならないものなのである。我々の施した「治療」は、どこまでいっても補助的なものに過ぎないという点。
そして、子供たちが「ゼロ」の状態に立ち戻った時、同時にプラスヘ向けての「教育」がスタートすることも見逃してはいけない。我々は「教育」を施す立場でもなければ、そうした事実もない。が、我々のやってきた活動は、子供たちが正常に「教育」を受けられるような状態になるまでの、補佐をするということでもあったから、「教育」と無縁だったと言うつもりもまた、ない。昔の子供は、社会的要因のために「治癒」が不要であったに過ぎない。そして昔から、「治癒」と「教育」は入り混じって同時進行していたのだ。
子供たちの進歩は、病気から回復、向上に向かって連続したものである。その補助をする「治療」と「教育」もまた、当然、連続したもの、入り混じったものなのである。我々が教育の現状を知れば知るほど、「ゼロ」地点に立ち戻った子供たちを、自信を持って荒廃した学校へと送り込む気になれないのも、分かってもらえると思う。
情緒障害児の問題は、ただ単に、当の子供1人の問題ではない。彼らを生み出した学校、家庭、そしてそれらを呑み込んだ現代社会そのものに関わる問題である。
私1人が、私とコーチたちで活動してきた「戸塚ヨットスクール」だけが、このあまりにも巨(おお)きな問題に決着をつけようとしても無理なことだ。我々にやれることは、預けられた情緒障害児たちの「脳幹」トレーニングを促し、彼らが弾き出されてきた荒涼とした社会に対してもう1度、立ち向かっていく能力を回復できるよう、力づけてやることしかない。
我々のやってきたことは何か?と問われれば、とりあえずは「治療」に類することだと答えるほかはない。ややこしいことだが、現代社会では治療も教育の一部になってしまっている。しかし、我々が毎日直面していた現場は、ただヨット訓練をしているというだけのものだ。それは「治療」の現場というよりは、そこに携わっている私やコーチたちの、情緒障害という"難関"と闘っている子供たちの将来に対する、「祈り」の現場と言った方が適していると思うのである。
60年5月1日
朝…夕クワン、ミソ汁(ネギ、トウフ)
昼…豆入りトマトシチュー、エビ玉、ナッパ塩漬け
夕…カツ丼、キュウリ漬物、甘夏柑1個、漬物
願い事…面会用メモ携行願い、宅下げ願い(洗濯物)、領置願い(手紙1通)、更新願い(春日一幸氏質問趣意書コピー、訴訟用書類)
AM9:35…面会(幸子)
PM1:05…運動(徒歩3000歩、松本先生に教わった腰椎運動)
PM2:30…差し入れ(切手、中部読売新聞家庭版=健康と食品に関する特集記事、便箋)
PM4:45…差し入れ(法務委員会議事録13号、新聞コピー)
* * *
甘夏柑など見るのも嫌だった私が、拘置所に入ってからというもの、自分で「うまい」と思って食べることに驚いている。肉体がそういう食物を要求しているのだろう。同じように閉じ込められている可児コーチが「甘いものが好きになった」と書いてきたが、まったく、食べる物の嗜好まで変わってしまうのだから、大変なことである。
陽に当たる時間が極端に少なく、ほとんど身動きもできず、運動時間はわずかしかないときた上、入浴も厳しく制限されているのだから、体質が変わらないわけがない。よりにもよって、我々は毎日海に出て、一日中陽に当たって過ごしてきた人種なのだから。
面会に来た幸子に、資料として「白壁新聞」を飛鳥新社へ送るように言っておいた。この「白壁新聞」というのは、拘置所にいるコーチたちのための新聞で(拘置所の所在地が白壁である)、山口コーチの奥さんが苦心して編集、発行しているものだ。他に、我々を支援してくれている「戸塚ヨットスクール後援会」の発行する「かざぐるま通信」という会報もある。これも送っておくように伝えておいた。
さて、今日読んだ新聞には、実に興味深い記事が載っていた(新聞は前日の夕刊とその日の朝刊が、拘置所当局の手で"好ましくない"個所を抹消された上で、昼前から夕方にかけて配られる)。
"のぞきに逆転無罪"というのが、その記事の大見出しである。
56年夏、A子さんが入浴中の風呂場を誰かがノゾいていたのに気づき、A子さんはすぐに110番。目黒署員が駆けつけ、現場から250m先の路上を歩いていたBさんを連行、A子さんが「犯人」と証言したのでBさんは「現行犯逮捕」された、という事件があった。
Bさんは警察の取り調べに対しては犯行を否認したが、検察の調べで「自白」、そのため住居侵入罪で起訴された。一審では有罪、罰金1万円、執行猶予2年。
が、二審の東京高裁で、この日、小野慶二裁判長はBさんに対して一転「無罪」を言い渡したと、新聞に報じられていたのだ。記事によると、小野裁判長の無罪判決の理由は次のようなものだった。
「被害者の女性(A子さん)は110番しただけで犯人を追跡していない。一方、通報を受けた警察官は被害者に聞かされた犯人の人相、服装に合致する男を現場から250m離れた場所で見つけただけ。これではBさんをノゾキの男と同一人物とする連続性がなく、Bさんを現行犯逮捕したのは違法。また、被害者は近視であり、Bさんを犯人とした証言の信憑(しんぴょう)性は薄い。違法逮捕されたBさんを拘置したのは当然、違法であり、違法拘置中のBさんの自白には全く証拠能力はない」
こう言われてみると、無罪判決はごく当たり前のように聞こえる。しかし、こうしたごく当たり前の判決が、ごくごく珍しいから、新聞ダネになっているというのは事実である。
この記事を読み、私はヘンリー・デンカーの小説『復讐法廷』(文春文庫)を思い出した。裁判官の仕事は、被告が罪を犯したかどうかを明らかにすることではなく、検察の主張と手続きが、一点の非の打ちどころもなく正しいかどうか、をチェックすることなのだ。日本人には馴染みにくいことかも知れないが、判事の役割は江戸時代の町奉行とは根本的に違っている。裁判官は罪人を裁く機能を持っているのではなく、検事側と弁護側の主張をそれぞれ吟味し、いずれに妥当性があるかを裁定する役割を負っているのである。
民主主義と三権分立は不可分のものだ。司法、行政、立法がお互いをチェックし合うという構図は、一つ司法の中にも生きているのだ。裁判において検察、弁護士、判事はそれぞれ独自の立場を貫かねばならない。
ところが、日本では"民主主義"そのものが借り物であるために、こうした構造が理解されず、裁判といえば裁判官が被告を"裁くもの"と決めてかかっているのである。
ノゾキが無罪になったのは"現行犯逮捕"できないはずのBさんを、不当に逮捕拘置してしまったという警察による"手続きミス"が理由だった。これは『復讐法廷』という小説の内容と非常に似ているのだ。
保釈中の黒人が強姦事件を起こす。そしてその件で保釈になった男が、今度は強姦・強盗殺人を犯す。彼は路上を通行中にパトロール警官に現行犯逮捕され、犯行を自供。さらに現場に付着していた血液、精液が合致、持っていた盗品の証拠も揃い、検察は有罪を確信して起訴したのだ。
が、黒人は予審の段階で無罪判決を受ける。捜査にあたった警察が重大な"手続きミス"を2つ犯していたからである。
第一に、犯人とその黒人を結ぶ連続性がなく、現場付近を歩いていただけの黒人を現行犯逮捕する根拠がない。不当逮捕である。
第二に、保釈中の被疑者を取り調べる時は、現在進行中の裁判の弁護士が立ち会うことなしにはできない、という規定がある。警察当局はこれを無視してしまったのだ。
この2つの"手続きミス"が重なった上でのいかなる自白、証拠も"不当"なものとなる。裁判官は、この黒人が犯人であることを確信しながら、彼を無罪にせざるを得なかったのだ。常識では信じられないことと思う。しかし、これが、我々が民主主義を享受する上で支払わねばならぬ代価なのだ。
被害者の母親は失意のあまり死んでしまい、父親は"復讐"を誓う。あまりにも常習犯罪者に対して有利な裁判制度に、"復讐"を誓うのだった。
彼の復讐は、自分が犯罪を犯し、有罪になることで遂行されるはずだった。つまり、同じように犯罪を犯し、常習犯は無罪になるのに、善良でつつましやかに生きてきた男がひとたび罪を犯すと有罪になる。この不公平な対比を世に問い、広く一般に現行の裁判制度の矛盾を訴えて"復讐"しようとしたわけだ。
父親はピストルを買い、犯人の黒人を射殺し、その足で警察に自首する。警察はすぐに検事を呼び、取り調べの模様を全てビデオに録画して完璧に行われる。なぜそこまでしなければならないのかと言うと、もし被告が裁判中に「弁護士を呼んでくれなかった」とか「取り調べ中に脅された」と主張した時、そんな事実がなかったことを証明できるようにするためである。
自首して警察に検挙された際、父親は「弁護士は要らない」と言う。すると警察は一切取り調べをしようとせず、検事がやって来るまでは男に何もしゃべらせず、自分たちもしゃべらないように気をつける。ここまで徹底して神経を遣うのである。
自白によると、父親の犯意は明確、凶器に使われたピストル、目撃者の証言、死体の状況が全て出揃い、完全な殺人罪が成立した。
しかし、裁判は意外な方向へと展開していくのだ。
判事、弁護人、そして検事までもが、殺人者の父親を、何とか「殺人罪」から「過失致死」にしようとするのだった。
殺人なら刑は懲役15年以上、過失致死であれば1年以下である。だが"復讐"に燃える父親は殺人犯となって目的を達成するために、頑強に「殺人」を主張する。
審理が進むにつれ、父親の殺人罪有罪確定は間違いないように思われてくる。その時、陪審員は「犯意」の有無が被告の「自供」でしか証明されない点に着目する。「犯意」がない「殺人」はあり得ない。そして被告の「自供」を証拠として認めるかどうかは陪審員の権利であることを利用し、自白を証拠として採用しないことによって被告には「犯意」があったかどうかを立証できない、と裁定を下すのだった。
娘を強姦され殺された父親の、強姦魔殺人は"無罪"になる。
この小説の主人公は2つある。1つは"法の公正な手続き"、もう1つは"犯意"だ。
捜査や取り調べの過程に1つでも手続きミスがあれば、それの結果得られたどんな証拠も無効になり、裁判が成立し得なくなる、ということだ。民主的な裁判はそうだ、とこの小説は物語っている。
日本はどうだろうか。警察も検察も、我々が弁護士と連絡をとるのを妨害したし、取り調べ中の脅し、すかし、だましは日常茶飯事、さらに「犯意」など証明のしようもない監禁致死事件には死体がない。もう1件の傷害致死事件は2年も前に捜査を完了して放置してあったものだ。つまり、事件にできなかった。このように致死事件としては1番肝腎なところが抜けているのに、検察は無理矢理事件にでっちあげてしまう。民主主義国の裁判としては考えられないことなのだ。
しかしもっと悪質なのは裁判官である。「法の公正な手続き」に平気で目をつぶる。検察の言うことは何でも正しい、信用する、被告は当然有罪として被告に君臨する。「無罪の推定を受ける権利」など日本には存在しない。裁判官によって、この民主的裁判の大原則は木端微塵に打ちくだかれてしまっている。日本においては法の番人のはずの裁判官が実は法の盗人なのだ。このようなわけで我々は2年以上も不当に監禁されている。そしてここでは被告に認められているはずの権利は、拘置所の「所内規則」というシロモノに無視されている。それが我が国の現状である。
犯意の問題も軽視されている。この小説は、犯意がなければ殺人という犯罪を構成しないというトリックを使って、犯意のある殺人犯を無罪にしてしまったわけであるが、日本では事情は全く逆である。とても犯意があるとは思えない被告に、無理に犯意があったとして犯罪を押しつけてくるのだ。我々に冠せられた罪名は、「傷害致死」である。目的(犯意)を持って被害者を傷つけていた、とうそぶくのである。こんないいがかりを受け入れるわけにはいかない。
"犯意"とは、何らかの利益を得るために持つものであろう。他人の持っている価値を奪うか、自分の価値を守るため。我々が子供を傷つけて何の利益があるというのだ。我々の目的は、子供を直すことであり、傷つけて利益を得ようとすることなど、どう考えてもあり得るはずもないことである。そのような"商売"はこの自由経済の国では成り立たない。
このようなゴリ押しは、百歩譲って検察の本質なのかも知れないとしよう。しかし、承服できないのは、検察側の言い分に裁判所が全く同調する、ということだ。我々の裁判を"暗黒裁判"にしているのは、裁判官なのである。
横田コーチが手紙をくれた。その中に、次のようなくだりが出てきた。
「これは裁判なんてものじゃない。判事、検事、マスコミの野合による刑言い渡しの儀式だ」
まさに、言い得て妙、と言える。
判事・検事をチェックするものは2つある。1つは国会の弾劾裁判、検察官適格審査会であり、もう1つはマスコミだ。このマスコミが、弱者である国民(被告)の立場に立って両者をチェックするどころか、逆に強者たる判事・検事の立場に立って被告の攻撃に憂き身をやつす。日本のマスコミは、刑事裁判に関しては国民の立場に立って権力に立ち向かうものではなくなってしまっている。
ロッキード裁判のコーチャン、クラッターの免責は、角栄憎しの念が本来チェックし合うべき、裁判所、検察、マスコミに加えて、あろうことか国会までが「協力」して憲法違反をやってのけるというファッショぶりである。第1〜第4権力全てが協力すれば、そりゃ怖いものなしだろう。しかし、それでは太平洋戦争まっしぐらだった戦前の悲惨な状況と、何ら違いがないだろう。世界の恥さらしであろう。マスコミが一枚加わっているところが何とも情けない。
検察、裁判所、マスコミの"談合"による裁判の最もよい例が、全日空の雫石事件ではないだろうか。
あの事件は、航路をはずれた全日空機が航路に戻ろうとして、速度の遅い自衛隊機に追突した事件のはずである。
「自衛隊が悪いに決まっている」というマスコミの思い込みが、被害者と加害者を逆転させ、いったんそれが"真実"となってしまうと、"世論"なるものにずるずると引っ張られ、訂正する勇気もなく、弱い者に罪をかぶせて、知らぬ顔の半兵衛を決め込む。検察も裁判所も、当然それを知っているはずなのに、被害者を被告にし、有罪にしてしまう。これでマスコミと検察の顔が立つし、裁判所もどこからも文句を言われないですむのだ。被告がわめいたところで誰にも聞こえやしない。マスコミは没にしてしまうのだから。
我々の裁判を報道する新聞記事も、検察の意向に沿って編集されているようだ。いつだったか、吉川幸嗣君の死因についての記事についても、そうだった。
ヨットスクールで死亡した少年の死因を鑑定した医師は「出血性肺炎」を主張していたのだが、検事は鑑定医に、
「その鑑定は100パーセント確実か、絶対にそうか」
と迫った。鑑定医の答えは、
「この世の中に"絶対"などということはあり得ません」
そして、翌日の新聞には次のような見出しが躍ったのだ。
「鑑定医、外傷性ショック死を否定せず」
その通りだろう。しかし、それならぱ鑑定医は、殺人も自殺も餓死もまた否定していないことになる。これが"世論操作"でなくて何だろうか。
記事の見出しを見た読者は誰でも、
「やっぱり検察側の言う通り、青年は外傷性ショック死で死亡したのか」
と思うほかはない。99パーセントの確実性を無視し、残りの1パーセントをデフォルメ、クローズアップして、自分たちの作り上げた話を押し通そうというのだ。
石原慎太郎氏が、アメリカ人記者と話している時に、日本の刑事裁判での有罪確定率が99.8%にものぼるという話題になった。米人記者は、
「恐ろしい。君たち日本人はそれで不安を感じないのか?」
と訊いたという。
被告の人権を守るために設けられた刑事訴訟法という法律がある限り、これを正当に機能させていれぱ、有罪確定率が100%近くになることなど考えられないことである。
『復讐法廷』の中で検事がこう言う場面が出てくる。明らかに犯人である黒人を無罪にせざるを得なくなった後――
「10人の犯罪者が無罪になるかも知れない。しかしそれは、1人の無実の人間が有罪になるのを防ぐためには、仕方がないことなのだ」
アメリカでの刑事裁判有罪確定率は30%ほどだという。『復讐法廷』の検事がうめくように吐いたセリフは、我々が民主主義に対して払う"代価"の大きさを言い表している。そして、この言葉は、決して日本の検察が口にできない言葉なのである。