資料T 意見陳述書 (U)


第二 適正手続の原則を踏みはずした強権的捜査批判
     (その2)

 本件被告事件が、現代の極めて重大な社会問題を背景としている点については、被告人らの意見の通りであって、その詳細は、ここで繰り返さないが、本件被告事件の裁判は、後世に残るものとして、裁判所におかれては被告弁護側に充分防禦の機会を与えられ、捜査の適法性に充分な検討を加えられ、公正且つ慎重な裁判を望む。

 本件被告事件の性格について、検察官の見方は、これを従前の被告人らの身柄事件における検察官の意見等からしてみるに、被告人らのヨットスクールについて、その存在意義や社会的背景には、これを直視せず、無目的、無差別ないじめの暴力集団と決めつけ、私設少年院、私設刑務所とまでに表現している有様で、全く偏見に満ちたものである。

 一部マスコミもこれに類した報道に偏したため被告人らは極端な偏見にさらされているのが現状である。

 例えば、同スクールに、入校する生徒を連れて来ることについても、検察官は、これを逮捕・監禁として許し難い、悪質な犯行と言うのであるが、生徒をスクールに連行する際、親や出迎えた被告人らの手に負えない場合、現職の警察官が駆けつけて、生徒の体を車に押し込むなどして、連行に協力した例が幾多もある。被告人らの行為が悪質な犯行であれば、現職の警察官がこれに協力するなど、およそありえないのに、これが幾多もあるのは、少なくとも被告人の所為の違法性が極めて微妙であることを窺わせるに充分である。逮捕・監禁事件について、被害者とされる生徒の家族の対応をみても、ある生徒の場合、スクールのコーチらが逮捕されたことに驚いて、直ちに検察官宛に嘆願書を書いて、被告人らのスクールに対し恩義こそ感じても、コーチらの処罰を求めるなど思いもよらないと言っている。生徒の身の上と将来を、最も深刻に案ずる家族がこのように考えている例のあることを以てしても、検察官が先のように言うのは全く悪感情に基づく偏見と言わなければならない。

 捜査機関の内にも、必ずしも、前記検察官の言うようには考えない見方もある。例えば、愛知県警本部長は、被告人らの所為について、親の委託がある限り、必ずしも犯罪と言えない旨述べたことがあり、スクールについては、将来立派な施設として立ち直って欲しい旨の希望を述べたこともある。本件捜査に当たった検察官の中にも、自分が司法試験に合格していなかったら、戸塚ヨットスクールのコーチになっていた旨述べた者もいる。これらを見れば、捜査関係者の中で要職にある者ですら、被告人らのスクールの存在意義を認める者がいるのに対し、名古屋地検は、これと異なって、境野コーチまで逮捕・勾留して、同スクールを抹殺する挙にまで突き進んでしまった。境野コーチの被疑事実は、昭和55年11月始頃の吉川幸嗣という生徒の死亡事故であったが、事故後約3年経過し、しかも、その間スクール側も任意捜査に協力して、捜査は支障なく進んで鑑定書も病死とされたことから、名古屋地検は一旦は、不起訴処分に固まったものであった。従って、境野コーチを逮捕・勾留することの理由・必要は、如何にも乏しいところ、戸塚校長以下主要なコーチが逮捕・勾留されて、残る主要なコーチであった境野コーチを逮捕すれば、スクール潰滅ということが分かっていても、同コーチの逮捕に踏み切ったのであって、所謂スクール潰しと言う他なく、前記県警本部長のコメントとは異なって、捜査の上で冷静を失ったものであった。

 マスコミにおいても、新聞社系が、同スクールの批判を続けたのに対し、雑誌社系はスクールを擁護する分裂振りである。

 現実に児童・生徒の教育に立つ教師の中にも同スクールの方法を支持する者も少なくないのである。

 同スクールに対する評価について、時期的にみると、かつては、マスコミはこぞって同スクールを評価し、各地の教育委員会は、戸塚校長に講演を依頼し、裁判所においてすら、同校長の提出した身柄引受書を評価して、寛大な処分をなした位であった。このように、極めて短期間のうちに評価が180度異なるのは、本件被告事件の複雑性・困難性を物語るものである。

 検察官は、被告人らが、子供達を無差別にいじめる暴力集団と酷評し、検察官は、これらの生徒の人権を守るかの如く言うが、検察官において、真に子供達の実のある将来を考えた上ではなく、被告人らこそ、生徒の家族と共に子供達の将来のため奮闘したのであること、次の一例で分かるはずである。

 即ち、本件の主任検事は、他の捜査員を引き連れて、スクールに捜査に赴いた際、ある生徒から助けを求められ、これを救出すると称して、当時の校長代理に、その生徒をスクールから連れ出すことについて、同意を求めたところ、同校長代理が、親の同意を得ることと、その生徒を精神病院にだけは入れないことを求めて、その生徒を同検事が連れて行くことに同意した。同検事は司法警察員に父親を説得させた上、その生徒が、精神病院に行くなら、ここ、スクールにいると言ったのに、強引にスクールから連れ出させた。結局、その生徒は、半田署員の指導により精神病院に入れられたが、検査の結果、その生徒は精神病ではないことが分かった。しかし、その生徒は、薬づけにされ、何度も嘔吐し、薬がきいている間はおとなしいが、薬がきれると、又家庭内暴力が繰り返されているとのことである。これに対し、スクールにおいて、本人は、不自由であり、叩かれたこともあったが、徐々に立ち直りの意欲を見せ始め、自分が身体障害者であってもヨットの操縦の上では、他の生徒と対等に扱われ、操縦に進歩があれば、ほめられて、自信を回復しつつあった。これらを比較するに、先の検察官や司法警察員において、この生徒に対して、教育的配慮を加えたことは微塵も窺えない。捜査側は、この子が将来一人立ちして、実社会で生き抜くことについて、どのような思いやりを寄せたのであろうか。精神病院に放り込んで、事足れりとする姿勢は、それも、当該生徒と校長代理の反対を押し切ってまでした対応に、どのような人間味があるというのか。

 上記検察官らとスクールのコーチらと比較して、どちらがヒューマンであるか問われるべきである。

 もう1つ例をあげると、九州出身のある生徒の場合、両親がなく、祖母と成人の女性のいとこが保護者になっていたが、捜査員は、入院中の祖母の病床にまで押しかけて、祖母といとこの異議を押し切って、この生徒をスクールから退校させ、九州の自宅まで連れて行ったが、自宅には、誰も住んでおらず、捜査員は、この誰一人いない建物の前にこの少年1人を残して立ち去った。この生徒は、その後、結局1人で地堕落な生活を送ることとなって、保護者らは、検察庁に抗議するとまで言い出した。

 ここにも、捜査側が、生徒を救出してあたかも正義を実現した、そして、被告人らの行為が、生徒の人権蹂躙であるかの如く言うが、生徒の将来などどうなるか全く配慮していないのである。

 この例は、捜査官がヨットスクールの生徒を連れ出し、自己の保護下に置いた際に、図らずも、生徒と生徒の家族が抱えている問題に突き当たり、何らかの対応に迫られた場面であった。このような例は、他にいくつもあるが、捜査官の対応は適切な施設を紹介するなどの手だてを講ずるでなく、精神病院に入れるか、さもなくば捨て去るかであって、些かも人間としての暖かみが見られない。捜査機関であるので、多くを求めるのは無理だというのであれば、せめて、この生徒らの抱えている問題の困難性を理解し、被告人らがこれに取り組んだことへの評価が幾何かでもあって然るべきである。黙るに、前述の通り、検察官は、被告人らを口を極めて批難するのみである。

 検察官以下捜査員は、権力の行使に当たって求められる謙抑性を忘れ、ひたすら、被告人らを刑事事件において、抹殺せんとして、黙秘権を侵害して、自白を強要し、被告人の弁護を受ける権利を侵害した捜査を続けたものである。

 捜査側は、被告人らに対し、本年5月以来半年以上の長期勾留の期間中、或は、脅迫し、或は、虚偽の事実を告げて、弁護人らと切り離すべく工作を繰り返し、被告人を孤立化させ、絶望させて、捜査官の意のままに供述させようとしたものである。その内容については、被告人東秀一らが意見陳述で詳細に述べた通りであるが、戸塚校長や他のコーチの誹謗中傷のみならず、弁護人らが、被告人らを食い物にするとか、別事件で黙秘を勧めて失敗し、裁判長に対し、泣いて謝ったなど、全く事実無根の事実を告げるに至っては、これぞ許し難い所為と言わなくてはならない。捜査員は、遂には、裁判所まで引き合いに出し、争えば重罰になるなどと申し向けて、まさしく脅したり、すかしたり、およそ正義を担うべき捜査機関にあるまじき所為である。これらは、刑事手続に暗い被告人らを不安の極致に陥れて、自白を迫ったものであり、古くから虚偽の自白を誘発する危険が多く、その違法・不当な点が強調され、それ故にこそ、黙秘権が憲法上の権利として認められたにも拘わらず、捜査員らは、これらの点を全く無視したものと言わざるを得ない。

 捜査側の違法・不当な捜査は、少年事件にも及び、かつてあったスクール内での生徒間の暴力事件を把まえて、コーチらに協力した4名の少年を逮捕した主任検事は、この4名について、観護措置を請求したが、内2名については、請求を裁判所で却下され、残る2名のうち1名については、観護措置の決定は準抗告により取り消された(残り1名についてのみ、本人の資質・家族環境に鑑み、観護措置のまま家裁に送られた)。

 この検察官の請求については、裁判所でも、事件に子供を巻き込むものとして首をかしげた位であった。

 少年らの保護者が、子供の身の上を憂慮して、北海道・大阪・広島等から駆けつけて、検察官にひたすら寛大な処分を願い出たのに対し、検察官はこれら保護者に子供の将来について親身になって適切な助言をするでなく、又共に考えるでなく、一様にヨットスクールとの絶縁を求めた。我が子可愛さと、何ら抗すべき手だてもないことから、親達は、これに従容として従う他なかったのであった。検察官の意図は、少年事件それも、通常は看過されるような暴行事件までことさら立件し、少年らに供述を迫って、スクールの体質について意のままに調書を作成したものである。これは、一方で少年保護事件を悪用して、コーチらと生徒を分断し、スクールに関する偏見に満ちた証拠(供述調書)を作り上げたものであって、その合法性については、格別の検討を要するものである。

 他の少年事件や成人の刑事事件でも、捜査側が、取調べの対象者に対し、スクールとの絶縁を執拗に求めており、この意図は、少年事件にも及んだものである。少年の保護者が、子供の将来への悪影響を憂慮して、取調べに応じなかったケースはいくつもあるが、これに対し、捜査員は家裁に送るとか、少年院に入れるとか、などと脅して強引に取調べに応じさせ、しかも、保護者の立ち会いもなしに一方的に調書を作成した例も又多くある。

 これら少年に対する捜査側の対応には、少年法の精神、即ち当該少年の健全な育成など眼中になく、唯、被告人らの組織を解体・潰滅させ被告人らを処罰せんとするもので、厳しい弾劾を免れないものである。

 捜査側は、被告人らの後援会の関係者に対し、何ら犯罪事実もなく本件捜査とも何ら関係のないのにその身辺調査を行っている事実がある。これらは、上記関係者のプライバシーを侵害するものであって、その違法・不当なことは明らかであり、今後このようなことのないよう強く求めるものである。


第三 検察官の嫌疑の実体形成過程における問題
     (本文省略)



第四 本件公判における検察官の姿勢について
 裁判所・検察官および弁護人の三者間において、本件についての公判前の第1回打合せが開催されたのは、本年7月13日である。それ以後、この公判前の打合せは本年10月31日の第1回公判期日に至るまで5回開催され、その後も本年11月21日には第6回目が開催されている。そして弁護人らは、これら合計6回の公判前の打合せおよび前回の公判期日を通じ、証拠の事前開示を再三、再四、要求してきた。しかるに、検察官は、被告人ら全員が公判廷において起訴状に記載された訴因についてこれを全部自白した上、自己が有罪であることを認める旨あらかじめ約束しない限り、弁護人らの要求する証拠の事前開示には応じられない、つまり被告人ら全員が公判廷において有罪の陳述をすることをあらかじめ約束するか、あるいは現実に公判廷で有罪の陳述をなすことが証拠開示を許可する前提条件であると主張し、依然として証拠を開示されようとしない。

 しかしながら、検察者のこの主張は、証拠開示の必要性を無意味にするものであるぱかりか、被告人および弁護人の証拠開示の要求を逆手にとって、被告人に自白を迫るものである。更に、検察官は被告人らが公判廷での自白に応じない場合には、証拠を不意打ち的に使用し、訴因の不明確さと相まって被告人および弁護人が防御の対象を把握してこれに対する防御活動を充分に行い得ない間に有罪判決にもち込もうとしていることが窺われる。公益の代表者として、公正かつ適正であるべき検察官の態度としては、誠に遺憾と言わざるを得ない。

二 罪状認否と証拠開示
 証拠の不開示が、誤判と審理の長期化の最大原因であり、またそれは国際的規準からも立ち遅れたものであることは、第1回公判期日において述べた通りである。

 ところで、刑事訴訟法317条は「事実の認定は証拠による」として証拠裁判主義を表明し、犯罪事実を認定するには証拠能力を有しかつ法定の方式による証拠調べを経た証拠によった「厳格な証明」が必要であると定めている。そして自白については、憲法38条第3項で「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない」と定め、これを受けた刑事訴訟法319条第2項および同条第3項が「被告人は、公判廷における自白であると否とを問わず、その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪とされない。この自白には、起訴された犯罪について有罪であることを自認する場合を含む」と規定して、自白のみで被告人を有罪とすることができないこと、すなわち、自白には補強証拠が必要であって補強証拠がなければ被告人を有罪にすることができない旨定めている。そこで、検察官の起訴状朗読後、被告人および弁護人がなす被告事件についての意見陳述において、被告人が有罪もしくは無罪の陳述――罪状認否――を行うためには、あらかじめ検察官の手持ち証拠の閲覧謄写が許可されていて、弁護人がこれを充分検討して公判に臨むことが必要である。なぜならば、検察官の手持ち証拠を検討した結果、有罪を裏付ける証拠として自白のみしか存在しないと考えられる場合には、弁護人は前記の憲法および刑事訴訟法の規定に従い、被告人の無罪を主張すべき責務があるからである。これに反し、事前開示がなされていない場合には、弁護人としてはこれを判断すべき資料を持たない。だからといって、被告人に有罪の陳述を不用意に勧めることは、弁護権の放棄である。そればかりか、本件のように共同被告人が存在する場合には、弁護人の被告人に対する重大な義務違反となる恐れさえある。すなわち、共同被告人の公判廷における供述は、他の共同被告人に対しても証拠能力があるとの見解が存する。そこでこの見解に従って、例えば共同被告人甲および共同被告人乙が捜査段階では自白しているものの、補強証拠が存在しない場合を想定してみる。するとこの場合は、前記の憲法および刑事訴訟法の規定により、被告人甲・乙はいずれも無罪となる。しかるに偶々、甲・乙が公判廷で不用意に自白をしたとすれば、被告人甲のなした公判廷における自白は、共同被告人乙に対する関係では乙の自白についての補強証拠となり、逆に被告人乙のなした公判廷における自白は、共同被告人甲に対する関係では甲の自白についての補強証拠となるため、結局のところ、共同被告人甲・乙はいずれも有罪となってしまうのである。単独犯の場合には、捜査段階で自白をした甲が、公判廷で再び自白をしたとしてもこれらの自白は機会を異にしてなされただけであって、いずれも被告人甲本人の供述であることには変わりがないのであるから、この場合、公判廷での甲の自白または捜査段階での自白のどちらかをもう一方の自白の補強証拠とすることはできないと考えられている。このことから明らかなように、単独犯の場合に比較し、本件のように複数の被告人が共犯関係にあるとして起訴され、同一の訴訟手続において同時に審判されている場合には、弁護人は、より慎重に罪状認否を行わなければならない。そして、このように適切な罪状認否を行うために証拠開示が不可欠なものであることは、前回に述べた通り、平場安治教授も指摘されているのである。

   検察官は前述の通り、被告人らが公判廷で有罪の陳述を行うか、あるいは少なくとも有罪の陳述をなすことを約束しなければ、証拠の開示に応じないとしているが、既に述べたところから明らかな通り、本件の場合、仮に被告人ら全員が検察官の要求を受入れて有罪の陳述を行うとすれば、もはやその後に証拠開示を要求する理由は無くなってしまうのである。なぜならば、それによって本件は単純ないわゆる自白事件となり、共同被告人の公判廷における自白が、他の共同被告人の自白の補強証拠となるため、捜査段階における補強証拠の有無は、もはや本件公判の争点たり得なくなるからである。

 このように考えてくると、検察官の言い分は、被告人・弁護人の証拠開示の要求を条件付きで承諾するかのように見えながら、その実は、これを逆手にとって被告人に自白を求めることにあると言わざるを得ない。これは、被告人・弁護人としては到底受け入れることができない。

三 不意打ち防止と証拠開示
 およそ証拠は時間の経過と共に散逸しやすいものである。特に捜査機関のように証拠を強制的に収集する権限を有しない被告人および弁護人としては、ただでさえ証拠収集は困難である。そのため、一刻も早く反証のための証拠を収集する行動に出る必要がある。しかるに、訴因が不明確の上、証拠も開示されていない場合には、どの点について反証を収集すればよいのか容易に判断することができない。弁護人が検察官申請の証人に対し、適切な反対尋問を行うためには、当該証人の捜査機関に対する供述調書の事前開示が必要であることは異存のないところであろう。しかし実はそれのみでは不充分であり、より適切な反対尋問を行うためには当該証人の捜査機関に対する供述調書に加えて関係証人の供述調書の開示も必要である。弁護人は、これら関係証拠を充分比較検討することによって、初めて適切な反対尋問が可能となるのである。

 また、開示の時期について、これを最も遅くとる立場からは、当該証人の主尋問終了後、反対尋問が開始されるまでに供述調書を開示すれば被告人および弁護人の防御権に影響はないとする見解が主張されているが、これは誤りである。なぜならば、例えば検察官が主尋問の途中で捜査機関に対する供述調書に基づいて誘導尋問あるいは弾劾尋問を始めたとする。この場合、弁護人はそれが誤導尋問に渡らないかをチェックしなければならないが、そのためには当該証人の捜査機関に対する供述調書を事前に閲覧しておく必要がある。こうして証拠の不開示は、弁護人の反対尋問権ないし防御権に著しい悪影響を与えるものであるが、本件における検察官の姿勢は、まさにこれを狙っているとしか思いようがない。しかし、被告人および弁護人が充分に防御を尽くすことができてこそ、かえって実体的真実が明らかになるものである。

 前回も述べた通り、いわゆる松川事件・青梅事件においては、当該被告人らが長期間・冤罪に苦しんだが、その原因の1つは証拠不開示にあったこと、このため被告人・弁護人が充分に防御を尽くせなかったことにある。このことを思えば、被告人・弁護人が充分に防御を尽くすことができないような審理においては、実体的真実の発見もまた不可能であると言っても過言ではない。

四 自白偏重主義
 先にも述べた通り、本件において検察官は罪となるべき事実を不明確にしたまま、証拠をも秘匿し、このような状態で被告人らから有罪の陳述を得ようとしていると考えざるを得ないが、このような検察官の姿勢は、自己の起訴についての自信の無さを、はしなくも露呈させたものと言えなくもない。今回の戸塚ヨットスクール事件における捜査は、先程の相弁護人が述べた通り、まことに強引かつ高姿勢であった。しかるに公判に入るや、証拠の開示を拒否し、公訴事実についても共謀の日時・場所、方法や実行行為者が誰であるかさえもあいまいにしたまま、いわば貝が口を閉ざしたように沈黙し、ひたすら被告人らを自白に追い込もうとしている。捜査での積極性と公判での消極性。この際立った相違をどのように理解したらよいのか。そこには捜査の無理ないしは違法性を、公判廷における被告人らの自白によって帳消しにしようとする意図が秘められているような気がする。いわゆる証拠の弱い事件ほど、訴追側は自白の獲得に全力を挙げるとはよく言われる言葉である。去年から今年にかけて、無罪判決が言い渡しないし支持された、いわゆる大森勧銀強盗殺人事件(最高決昭57年3月16日)、総監公舎爆破未遂事件(東京地判昭58年3月9日)、免田栄事件の再審事件(熊本地八代支判昭58年7月15日)等の経過を見てみても、証拠の薄弱性を補うため、自白獲得に訴追側の精力が注がれたことがよく分かる。しかし、このような訴追側の姿勢こそ、誤判の原因となっていることを厳粛に受け止めるべきである。検察官におかれては、証拠に自信があると言われるのであれば手持証拠を全て開示し、弁護人および被告人の充分なる批判に晒すことを恐れられる理由はないはずである。また、そのような批判に耐え抜いた証拠に基づいて裁判が行われることこそ実体的真実発見への唯一の近道であると考える。


第五 本件公判審理のあり方について
 弁護人は、検察官が起訴した一連の戸塚ヨットスクール事件について、従来からのマスコミ報道の本件裁判に対する影響について、若千意見を申し述べたいと考えます。

(1) 裁判は、証拠に基づいて判断されるべきであって、新聞報道に基づいて裁判がなされてならないことは言うまでもありません。しかしながら、裁判所も御承知の通り、本件一連の戸塚ヨットスクール事件については、強制捜査が開始される以前から、大新聞を中心として、「戸塚ヨットスクールの批判キャンペーン」が再三に渡って繰り返されました。この傾向は現在も続いております。弁護人らは、その全部ではないにしてもかなりの記事を読んでおり、また、テレビで放映された番組も見ております。また、有識者若しくは評論家と称される人たちの批判的な発言も耳にしております。他方、少数意見ではありますが、出版社系の週刊誌の中に、戸塚擁護的な記事が存することも事実であります。

 そして、裁判所におかれましても人の子でありますから、これらの報道に接して、一連の戸塚ヨットスクール事件について一定のイメージ――それが戸塚を批判的に見るか好意的に見るかは別として――を抱かれているであろうことは容易に想像し得るところであります。