資料T 意見陳述書 (T)


≪資料T≫

意 見 陳 述 書

被告人    戸 塚 宏 外八名

 上記の者らに対する御庁昭和58年(わ)第1018号傷害致死等被告事件に関する弁護人らの意見は、次のとおりである

昭和58年12月23日

弁護人   青 木 俊 二
          伊 神 喜 弘
          今 井 安 榮
          加 藤   豊
          服 部   優
          細 井 土 夫
          山 本 秀 師

名古屋地方裁判所刑事第四部   御 中


被告事件に関する弁護人の意見

目次
はじめに 戸塚ヨットスクール刑事事件をめぐる総括的問題点
 第一 適正手続の原則を踏みはずした強権的捜査批判
    ――(その1)――
 第二 同上――(その2)――
 第三 検察官の嫌疑の実体形成過程における問題
 第四 本件公判における検察官の姿勢について
    ――証拠開示の問題点など――
 第五 本件公判審理の在り方について
    ――マスコミ報道との関連も含めて――
 第六 本件の社会的性質とその背景
 第七 おわりに

被告事件に関する弁護人の意見

はじめに
 昭和58年5月26日、戸塚ヨットスクールの可児コーチ外5名が、暴走族に対する傷害不法逮捕罪等で愛知県警察本部の指揮のもと半田警察署に逮捕された。この時をもって嵐とも言うべき一連の捜査が始まった。

 警察からの弁護人への連絡を受け、弁護活動を開始し、戸塚ヨットスクール河和合宿所へ駈けつけた弁護人の見たものは、合宿所の周囲を包囲している驚くほどの多数の報道陣であり、入口を閉め、屋外には生徒もコーチも1人も見られない合宿所の姿であった。中に入ると、黙々と現場検証を続けている県警鑑識課の警察官や逮捕されなかったコーチらが思い思いに動いている一方、あ たりの状況とは無関係に何かを思いつめたようにうつむいて椅子に座っている2人の母親の存在が異様であった。合宿所1階フロアーを見据え、血痕反応を調べている鑑識係員の姿は、あたかも殺人事件の現場検証のようであり、周辺は立入禁止の札が立てられ警察官以外は排除され、緊張した雰囲気に包まれている様子を想像させるものである。しかるに、コーチらが移動している中で、じっとして動かず時々何やらコーチに事情でも説明していると思われる母親の姿を見ると、弁護人は、少し前に可児コーチらが逮捕されたという事実は何もなかったかのようであり、いつものように戸塚ヨットスクールが活動を続けているかのごとき錯覚にとらわれた。

 親は、自分の子供を戸塚ヨットスクールへ入校させようと依頼に来て交渉しているところであったのである。コーチらが6名も逮捕され、機能停止となり、少し前には機動隊や警察車が合宿所をとりまき、報道陣でごった返していたであろう戸塚ヨットスクールの合宿所において、いちはやく我が子を合宿所から連れて帰るというのではなく、その反対になお子供を入校させようとしている母親の姿は、今日の情緒障害児と呼ばれる子供たちを取り巻く深刻な状況を象徴しているかのようであった。

 マスコミは、コーチらの逮捕以前からの報道に一層の拍車をかけ「暴走族をリンチ」とセンセーショナルに報道をはじめ、新聞紙面からは戸塚ヨットスクールの字が見られない日がない程連日、警察の捜査姿勢とあたかも軌を一にして戸塚ヨットスクール批判をし続けたのであった。

 警察は、延べ1万3千人にのぼる捜査員を動員し、捜査範囲も33都道府県に広げ、事情聴取した参考人や被害者は合計約300人に達し、証拠物件など570点、供述調書や捜査報告書を積みあげると約7mの高さになるほどの大捜査を行ない、最終段階で検察庁は境野コーチを逮捕し、戸塚ヨットスクールを壊滅させ、警察において同年11月14日、検察庁において12月14日、約半年に渡った一連の戸塚ヨットスクール関係事件の捜査を終えた。暑い夏を経て捜査の嵐は去った。

 検察・警察の捜査により、一体何が解決したであろうか。可児コーチらが逮捕されたあの日、肩を丸めうつむきながら何度も何度も頭を下げながら話をしていた2人の母親の子供たちはどうなったであろうか。母親と子供のいる、あの家庭はどうなったであろうか。閉鎖を余儀なくさせられた戸塚ヨットスクールの後に残った訓練生たちは、その後情緒障害から立ち直れたのであろうか。戸塚ヨットスクールの一連の捜査を契機として、全国の情緒障害の子供たちに救済の手はさしのべられたであろうか。県や市の情緒障害児の問題に取り組む公共機関などは、果して有効な方策を見い出し情緒障害児問題に回答を出したであろうか。

 警察・検察の強制捜査による治安的解決は、情緒障害児をめぐる根本問題に何らの解決を生み出すことはなく、かえって問題の解決を複雑にしてしまった。そればかりか戸塚被告人らを刑事被告人の座に無理やり据えつける新たな事態をもたらしたのであった。

 戸塚ヨットスクールは、登校拒否などの情緒障害児を対象としたヨット訓練を行ない多くの成果をあげてきた。その間、見学裕次君、吉川幸嗣君など訓練生が死亡する不幸な出来事も生じた。そして、戸塚ヨットスクールの情緒障害児へのヨット訓練をめぐり評価が大きく2つに分かれた。批判がある一方で警察において、コーチらが子供たちを家庭に迎えに行った際には、パトカーで警察官が出向き子供を戸塚ヨットスクールへ連れていく手助けを何度もしたり、親が警察に子供のことを相談すると戸塚ヨットスクールを紹介したり、県や市の教育委員会その他公共機関からの戸塚宏氏に対する講演依頼が数多くあったり、裁判所の刑事事件でも被告人が戸塚ヨットスクールで訓練を受けることをもって有利な結論を出したりしたことがあるなど、戸塚ヨットスクールへの評価が見られる多くの例があった。

 このように、戸塚ヨットスクールに対する世間の評価が二分しているような状況のもとで、戸塚宏氏らを刑事被告人として、即ち、法に触れた犯罪者として断じてしまったことに完全な正当性を見出しえるであろうか。延べ1万3千人にのぼる捜査員によって収集した証拠物牛など570点、約7mに及ぶ供述調書等は、果して万人を納得せしめる適格性を有しているであろうか。そのためには、あらゆる人々の批判にさらされ投げかけられた批判に耐える証拠があって、はじめて戸塚宏氏らを断罪しうることは言うまでもないことである。

 そうでなければ、刑事被告人の座に戸塚宏氏らを据えたこと自身も批難されなけれぱならないことになる。もしそうなれば、警察・検察が行なった長期の大捜査がいったい何のためだったのか逆に問われなければならないであろう。

 戸塚ヨットスクールをめぐる一連の刑事被告事件は稀に見る特異性を有している。

 第1に、警察・検察は捜査の過程において戸塚ヨットスクールという個人の私的集団を暴力的体質、犯罪的存在と決めつけ、その社会的存在を抹殺してしまったこと。

 第2に、公判において、警察・検察の大捜査の中で収集された膨大な量の証拠資料について戸塚被告人らに有利な証拠はもちろんのこと全証拠について、被告弁護側は捜査の適法性に充分な検討を加える機会が検察官によって奪われていること、ひいては防禦権の行使ができないことである。即ち、裁判所・検察庁・弁護士会の法曹三者による、第一審強化方策地方協議会での合意事項である、遅くとも公判期日の1週間前位を目処に弁護人が証拠書類を閲覧・謄写をなしうるように書類の整理に努力する旨、および全証拠が弁護人に事前に開示されている現在の刑事裁判の形態を無視し、被皆人調書、参考人調書など有罪立証に欠かせない重要書類を検察官は開示しようとせず、刑事裁判における当事者間における武器対等の原則を尊重しようとしないため被告弁護人らは、捜査段階と同様、なす術がないことである。

 そして第3に、検察官の公判における方針は、被告人ら全員を有罪判決に持ち込むことを至上命題とし、そのために被告弁護側に防禦の機会を与えず不意打ち的な立証を狙っていること、即ち起訴状記載の特定を欠くことにより争点を不明確にし漠然とさせた上で立証活動を行ない、被告弁護側には意識的な防禦をさせる機会を奪って実体形成を行ない有罪を獲得しようと考えられることである。

 第1の点については、捜査の過程で私的集団の社会的存在を抹殺することは捜査権限を逸脱したものと言わざるを得ない。とりわけコーチらの逮捕は何段階かに分けて徐々に逮捕の必要性理由を欠くコーチをも逮捕し、最終的に全コーチを逮捕してしまったことである。戸塚被告人らを逮捕した段階以降、加藤忠志コーチらは大きく制約はされたものの通常のヨット訓練活動を続けていたものであり、他方警察・検察の捜査活動にも何らの支障を生じさせることはしなかったにもかかわらず、警察・検察は順次コーチらの逮捕を続けた。加藤忠志コーチ以降の逮捕では、コーチらの逮捕によりただちに戸塚ヨットスクールの存続が困難となり、しかも多くの訓練生が合宿所で共同生活を送ることができず混乱状態になることが前から問題とされていたはずである。戸塚ヨットスクールつぶしを狙った逮捕が続けられたと言わざるを得ず、特に加藤、小杉コーチらが起訴後保釈になっている事実は、そもそも逮捕しなくとも任意の取調べで充分たりることを物語っていると思われる。このように個人の私的集団に対し暴力体質・犯罪的存在などという一定の反社会性を示すレッテルを貼りつけ、捜査の名目でその存在を抹殺することは、異端の排除・抹殺という社会防衛論を実行するものであって、もはや犯罪捜査という警察・検察の権能には認められない、許されないものである。また被告人らの関係で言えば、自らのよってたつ社会的活動の場を完全に奪われたという心理的重圧感は、はかりしれないものがある。こうした、重圧感のもとでの被疑者取調、公判活動は大きな問題である。

 第2、第3については、後に改めて詳論するところであるのでここでは、このように検察の証拠開示を固く拒む態度は突然の検察官の証人申請、それに対する被告弁護側の反論準備などどうしてもある程度時間を要することになり訴訟の遅延をもたらすものであって、一方で検察官が公判審理を月3回全日開廷と求めている態度と矛盾するばかりか、証拠不開示によりえん罪の危険性も感じられるのであり、そもそも公益の代表者という検察官の存在理念そのものと相容れないものであることを付言するにとどめる。

 何よりも本件は、現代社会の複雑化、荒廃化の中で、ここ近年急激に急増した登校拒否、校内暴力、家庭内暴力などの問題を持った悩める子供たちに、立ち向った一私的グループが一方的に犯罪者と断罪されようとしている事件である。被告人の数、公訴事実の数、内容における複雑さと相まって、大規模な事件でもある。

 被告人らの刑事責任を問うことは同時に社会構造の在り方を問うことにもなる二面性、立体性を有している大事件であると言うべきである。

 今、ここに、全国民の注視する中で近代刑法理論の基本原則、刑事訴訟法の原則に削った審理を通じ、後世における批判に耐える刑事司法における正義が実現されなければならないと考える。

 以下、戸塚ヨットスクール刑事事件の捜査における証拠収集活動全般に関することから述べることとする。


第一 適正手続の原則を踏みはずした強権的捜査批判
     (その1)

一 捜査における適正手続とは何か
 刑事訴訟法における捜査は、任意捜査が原則である。それは憲法上の原則でもあり、身柄の拘束は最少限に止められなければならないのである。身柄を拘束された場合は、ただちにその理由が告げられ、弁護人の選任が保障されなければならない。  身柄の拘束場所は、裁判所の勾留裁判があった以降は拘置所に勾留されることが原則であって、警察留置場に勾留されることはない。  被疑者と弁護人との接見は十分に行なわれるべきことは言うまでもなく、その上で捜査官は、被疑者の弁解を充分に聞きながら取調べを行なうのであって、自白の獲得が自己目的化されるべきではない。証拠収集は、自白よりも科学的物的証拠によるべきである。


1 「いわゆる暴走族事件」における逮捕の問題点

 「いわゆる暴走族事件」について可児コーチら6名が半田警察署に傷害罪等で逮捕された。同時に、暴走族の少年も3名が兇器準備集合罪で逮捕され、表面的には喧嘩両成敗的な強制捜査であったが、捜査の主力は戸塚ヨットスクールのコーチらにあったのは言うまでもなく、その後も事態はコーチらの連続逮捕へと連なっていっている。翻って考えるに、そもそも可児コーチらの逮捕が必要であったか疑問である。当時すでに小川真人君の事件では捜査が始まっており、事件の重大性から言えば、いわゆる暴走族事件の比ではない。小川真人君事件は、コーチらへの任意出頭が求められ、すでにコーチの中には半田警察署へ出頭した者もあり、また訓練生に対する事情聴取についても取調べは進行していた状況であった。この事件も戸塚ヨットスクール内の、しかも常に複数の人々の存在する中での事件であるから法律的には共謀が当然に問題となるのである。

 この事件が任意捜査で進行していたのは、戸塚宏ら全関係者に罪証隠滅、逃亡などのおそれなどなかったからである。しかるに事件発生後1ヶ月程経過していきなりより軽微である「いわゆる暴走族事件」で強制捜査に踏みきる理由はどこにもないのである。任意捜査で充分たりたはずである。

 あえて強制逮捕に踏み切ったのは「いわゆる暴走族事件」へのマスコミの攻撃と相まって、一挙に小川真人君事件を刑事事件として固めようとする警察・検察の姿勢の転換があったと言わざるを得ない。実質的には、小川真人君事件を警察的に処理するための別件的逮捕であったと言うぺきである。ここに警察的には解決すべきでない問題をあえて警察的に対応しようとした誤まりがある。後の小川真人君事件は、案の定、勾留期間が切れない間に引き続いて逮捕し、同時に戸塚被告人らにも及んだのである。小川真人君事件の取調べは、法律上容認されている期間の2倍の身柄拘束時間で心理的に追い込まれている被告人らに自白を求めたもので問題であろう。

2 その後の戸塚宏氏らの逮捕の問題点
(1)
 昭和58年6月13日、戸塚宏氏が東京で逮捕された。「いわゆる暴走族事件」で可児コーチらがすでに逮捕された以降、戸塚宏氏は訓練生への指導を行なう一方、多くの講演依頼を受けて全国各地で講演をしたりなど、以前と変わらぬ行動を続けていたところ、東京でいきなり逮捕され手錠をかけられ新幹線で護送され半田警察署へ引致された。戸塚被告人は、公衆の中を複数の捜査員に取り囲まれて連行されたが、あたかも全国指名手配された強盗殺人犯人の逮捕劇と似ているものがあった。

 逮捕の前に戸塚被告人が半田署からの呼び出しを受けたことはなかった。もし、半田警察署が任意出頭の方法を講じたならぱ戸塚被告人は、講演などで合宿所や自宅を離れることなく出頭に応じていたことは間違いないことである。実際、これまで見学裕次君事件、吉川幸嗣君事件では自ら警察・検察庁へ何度も出頭し、取調べを受け終了していたのであった。

 捜査機関も、全関係者に対し任意捜査に終始していたのであった。小川真人君事件についても同様であろう。任意捜査に徹することに支障はなかったはずである。しかるに一片の呼び出しもなく、かつ逃亡中でもないのにわざわざ東京で逮捕したのは必要性を欠くものであって不当である。仮りに逮捕するにしても自宅や合宿所にいる時に可能であったはずである。連行の方法も工夫できたはずである。

 加藤忠志コーチの時は手錠なしに連行されていたのであった。

 このように、さらしものにして大捕物劇を演じるかのような強制捜査はプライバシーを著しく踏みにじったものであり、かつ任意捜査の原則からはずれたもので、実質上違法性を帯びるものである。

(2) 境野コーチは、吉川幸嗣君事件のみで逮捕された。しかも、同コーチの逮捕をもって全コーチが逮捕されることとなり、戸塚ヨットスクールが存続不可能となる時になされたのである。

 境野コーチは、すでに吉川幸嗣君事件については警察・検察の取調べを受け終了していたのである。しかも見学裕次・吉川幸嗣君の両事件の終局処分について検察官会同では前者を不起訴処分とし、後者を結論保留とした。そして、吉川幸嗣君事件についてはその後2年間余、コーチや訓練生に対する捜査を引き続き継続した様子は見られず、実質上は空白期間が経過していたのである。しかるに、いわゆる暴走族事件・小川真人君事件などによるコーチらの逮捕に伴ない刑事事件として立件できるものは逮捕するかのようにして逮捕されたのが境野コーチであった。逮捕の理由も必要もない逮捕である。実際、境野コーチが黙秘権を行使していても、既に以前から供述調書ができあがっていたから逮捕による被疑者の自己防衛として認められている唯一の黙秘権が何の意味も持ちえない逮捕であった。

 境野コーチの逮捕は当初から供述を得る必要性がないもので身柄を拘束するだけの意味しかなく、その結果戸塚ヨットスクールの機能停止を意図としたものであることが却って明白となっている。しかも空白期間を2年おいた後、急遽、証拠を新たに作り公判請求を行なったことは公正な捜査を経ずしてなしたもので公訴権の濫用にあたるものであろう。

3 分散留置による取調べ
 いわゆる暴走族事件の逮捕と共にコーチらは半田署を中心に分散留置された。碧南署、東海署、常滑署、そして県警本部、遠くなると刈谷署などに留置された。更に、加藤忠志コーチらが逮捕されると江南警察署にまで留置された。  起訴後は、戸塚被告人を除く全コーチが中村警察署、北、熱田、西、南署など代用監獄に留置され、しかも起訴後は再び留置場所を警察署から別の警察署へ移監させるなどされた。

 このように、愛知県の広範囲に渡って分散留置された結果として、弁護人の捜査弁護活動は著しく制約された。名古屋を中心として仕事をしている弁護人らにとっては、1人の被疑者に接見するのにも大変な労力を費すのに、このように広域に渡る分散留置のため実質上は弁護活動が著しく困難とならざるを得なかった。

 警察・検察にとってもわざわざ江南署や常滑署まで大量の証拠書類や証拠物を運搬し取調べを行なう必要はないのであった。それにもかかわらず分散留置を行なった目的は、コーチらを分散留置させ、弁護人との接見を著しく困難とさせた上、心理的に孤立状態に追い込み自白を求めようとしたところにあると言える。現実に取調べ警察から孤立状態のもとでいかに自白を求められようとしたかは被告人らが口々に訴えたところである。

4 長期勾留に対する被疑者の人権
 戸塚被告人外のコーチは、逮捕後約150日間余に及ぶ身柄の拘束を受け、中には3度に渡って逮捕されている被告人も多い。

 裁判所は、検察官の勾留請求および勾留延長所請求の時に身柄の拘束について司法官憲として憲法・刑事訴訟法に則してチェックする立場にある。法律上の厳密な運用によって身柄が拘束されるのは例外とする憲法上の原則を貫き人権保障機能を果たしうるところである。

 しかるに、戸塚被告人外の勾留は安易に認め、警察・検察の捜査活動をそのまま容認してしまったきらいがないではない。

 現実には、一連の死亡事件についてはこれまで任意捜査が続けてこられ、それで充分に捜査がなし得てきたこと、また戸塚ヨットスクールのコーチらの行なっている活動の社会性を正確に把握すれば、ただちに強制捜査とするには距離があったはずである。逮捕に伴なってただちに犯罪者扱いされるという人権配慮の極めて乏しい現状と、我が国のみがいたずらに長期間の身柄拘束を認めた法の運用がなされている刑事司法の面での後進性とを配慮すれば、逮捕・勾留に対する裁判所による抑制の必要性は高かったと言うべきであるが、果たして裁判所が人権擁護にふさわしい機能を果たしえたか強く疑問が残ると言わざるを得ない。

 証拠物の捜索・差押にしても捜査の必要性を安易に追認し、事件との関連性の解釈を拡大して無制約的に押収物を警察が獲得するのを肯定した点も疑問である。今後、厳密に証拠能力の検討を要するところである。

5 検察官による弁護人と被疑者との接見交通権の妨害
 昭和58年6月13日戸塚・竹村被告人の逮捕により、弁護人のそれまでの弁護活動が一変した。即ち、戸塚被告人が取調べに対し黙秘権を行使するのと勾留開始と機を同じくして検察官は、憲法・刑事訴訟法によって保障されている弁護人の接見交通権を一般的に禁止する暴挙を行なった。以後、全被勾留者に対し弁護人の接見を禁止し、検察官が日時、時間を指定する具体的指定書を持参しない限り接見をさせないというものであった。このため警察署に接見に行った弁護人らは、その場で接見をすることができなくなり、検察官の接見禁止の裁判所による取消を得て、現実に接見を実現するため準抗告を裁判所へ申立てることを余儀なくされた。検察官の強行姿勢は、1人の被疑者の接見禁止が裁判所によって取消されたからといって、他の被疑者について裁判所の決定を尊重して変更するなどということはなかったので、弁護人は接見が不可能とされた毎ごとに準抗告を申立てざるを得なかった。

 また更に、検察官の接見禁止によって弁護人の接見交通権が別の意味でも侵害されたのは、コーチらが被疑者であるのみならず、公判請求された被告人の身分をも有しているので、弁護人が起訴状の内容など公判の打ち合わせを行なうため接見をしようとしても依然として接見が禁止されたことである。被告人として弁護人の弁護を受けるのは刑事訴訟のかなめであって憲法上の原則である。検察官はそれをも禁止したため相当長期間、弁護人と裁判所との公判の打ち合わせが出来ないという深刻な事態が生じたことは特記されるべきことである。

 検察官の弁護人の接見禁止は執拗をきわめ、裁判所の接見禁止取消決定を持参して、弁護人がコーチに接見に警察に赴いてもなお接見を禁止し続け「具体的指定書を持参しない限り接見はさせない。準抗告をして下さい」というものであった。検察官は刑事裁判における裁判所の判断を執行する立場にあり、被告人に対する有罪判決の執行などは、国家の威信にかけて行なうにもかかわらず、自らに向けられた裁判所の判断即ち接見禁止を取消しする決定には従わないばかりか、完全に黙殺したのであった。法に挑戦する者を絶対に許さない検察官が、裁判所の示した具体的な法に自ら挑戦したのであった。

 裁判所は、遂に、検察官の接見妨害を取消した上で、自ら接見を認める日時まで指定する異例の決定を行ない、弁護人の接見交通を現実に可能とさせ、検察官の法の無視から救済しさえもしたのであった。また、それでも接見禁止の取消を求め相次ぐ準抗告に対し、裁判所の上席裁判官が深刻な接見妨害の事態を憂慮し、名古屋地方検察庁の刑事部長検事に弁護人の接見交通権の保障のため異例の勧告を行なうに至った。これは検察官の捜査の在り方に対する厳しい批判が裁判所によってなされたものとみなければならない。

 その結果、弁護人はコーチらとの接見が可能とはなった。しかし、24時間の身柄を確保し、長時間の取調べを連日続けている警察・検察官に比べ、3日に1回20分程度のコーチらとの接見は弁護に値することをなしうるには程遠いものであった。既に述べたように代用監獄に分散留置されているコーチらに、弁護人は多くの時間をかけて接見に行き短時間の接見をして、更に次の遠く離れた警察留置場へとかけずり回らざるを得ず、実質上の弁護活動を行なうことは著しく困難であった。

 このように検察官は、裁判所の決定まで無視し、弁護人の弁護活動ができない状態のもとで、その間コーチらへの取調べを続けたのであった。身柄の拘束を受けた者が唯一外部から助けられる弁護人との接見が著しく妨害されたことを、弁護人は看過するつもりはない。

 また証拠法上も、弁護人の接見交通権が違法に否定された間に得られた自白については多くの問題があり、のみならず検察官が今なお証拠を開示しようとしていない状況のもとで、大捜査によって得られた証拠の持つ危険性を決して軽視するのでなく、大いなる警戒心を抱き続けなければならない。

6 代用監獄を勾留場所としての捜査について
 警察署の留置場は、監獄法で正式には代用監獄と呼ばれるもので、制度的には法務省施設である拘置所での身柄拘束に先立って逮捕に伴なう72時間の身柄拘束を警察署の留置場を使用するものである。しかるに現実には、この警察留置場が長期間捜査のため利用され、そこで実質上の捜査が完了すると拘置所へ移監するというような状態になっている。捜査機関が24時間被疑者を手中に置くことができるため、日弁連は以前から虚偽の自白を生み、誤判の温床となっているとして代用監獄の弊害を指摘し、その廃止を訴えていることは多くの国民に知られていることである。免田栄、財田川、大森勧銀事件、土田邸爆破事件など、ウソの自白が警察留置場での勾留によってもたらされる例が多く挙げられている。

 戸塚ヨットスクールの一連の被疑事件のうち、裁判所が、戸塚、竹村他の被告人らについて勾留場所を名古屋拘置所としたのは、黙秘する者、事実を争っている者は警察施設におくぺきではないとする日弁連の主張を正しく理解したもので、極めて正しいものであった。

 しかるに、検察官の準抗告により裁判所は、再び警察留置場を勾留場所としてしまったことは、裁判所の刑事被疑者の人権についての遅れた意識を露呈させたもので、遺憾であると言わざるを得ない。捜査の必要性を理由とするが、警察官が江南警察署や常滑警察署など広範囲に及んで証拠書類や証拠物を運びコーチらに示したりするなどの煩雑さの方が、かえって名古屋拘置所に一斉に勾留して取調べをする場合より、はるかに大きいはずである。検察官による境野コーチの逮捕は、ただちに名古屋拘置所に勾留することになったが、一体捜査の必要性がもともとなかったから名古屋拘置所へ勾留したということであろうか。

 コーチらが被告人となってからは弁護人は、移監の申立を行ない拘置所への身柄移動を強く求めたが、検察官の反対に会い、なかなか身柄の移監は実現されなかった。検察官がこれほどまでに警察留置場での勾留に固執したのは、かえって、横田被告人のように東海警察署からなお一層名古屋から遠方の常滑警察署に移監された例などから明らかなように、公判請求後も弁護人が公判打ち合わせなど防禦権の行使の準備のために接見することを妨害し、また前述の通り分散留置によるコーチらの孤立により自白獲得を得る目的があったからと言わざるを得ない。こうした代用監獄での取調べによる自白の証拠法上の問題は、今後問題とされるであろう。