(H12.8.28 「広島・全日空ホテル」にて)

「報道のあり方を考える」講演会
――歪められる真実――

「マスコミが作った教育荒廃(前)」  戸塚 宏


 私は現場の人間です。現場には、あまりしゃべることはありません。「○○が○○して○○になった」でおしまいですから。
 マスコミでペラペラしゃべっている人、あれはみんな嘘ですよ(笑)。私は20年近く今のヨットスクールをやって、2時間ぐらいしゃべるのが精一杯です。
 ところが、政治も経済も教育も外交も、何でもペラペラしゃべる人がいます。これらは、一切自分では体験していないことのはずです。そこが彼らの弱さであり、欠点です。自分達の話していることは、いったい何を基にしているのか…。決して自分の体験を基にして話してはいませんね。つまり、誰かが話したこと、書いたことを、何の検証もせずに、そのまま正しいとしてしゃべっているに過ぎないわけです。特にマスコミ関係の人というのは、自分では何もしていないはずですよね。何もしていない人が「判断」をしてはいけません。

生の情報を伝えるのがマスコミの仕事

 今、我々が得ることのできる情報、新聞、テレビニュース、NHKでさえも、残念ながらマスコミの意見が混ざっています。情報には2種類あって、「生の情報」と「処理された情報」です。「生の情報」が「インテリジェンス」、「処理された情報」は「インフォメーション」。
 近頃は、ケーブルテレビもあるし、衛星放送もありますから、CNNやBBCといった海外のニュース番組も入ってきます。
 BBCやCNNを見ると、「これこれこういうことがあった」という事実をしゃべっているだけです。日本のニュース番組のように、訳のわからないチンピラ女が出てきて、「困ったもんですね」などと言ったりはしません。あれはいったい何なんでしょう。
 彼女達の人間性はどこにあるでしょう…。ありはしませんね。それは、会ってしゃべってみればわかります。何か訳のわからないことで威張ってみたり、人を馬鹿にしてみたり…。「あなた達はいったい何さまなんだ」と言いたくなります。実際にそう言ってやるとびっくりする。「私がけなされるとは夢にも思いませんでした」と。そんな世界に生きてきた人間に、人間性ができるでしょうか。

間違いの出発点は『世界人権宣言』

 人権思想が云々と言いますが、日本の人権思想は『世界人権宣言』を基にしてできていると思われます。戦前はなくて、戦後、急に入ってきた思想ですから。
 では、テレビや新聞で「人権、人権」と騒ぐ連中は、『世界人権宣言』をきちんと熟読し、それを理解した上で「人権、人権」と言っているでしょうか…。読んでいるはずがありません。それは、ピントはずれなことをいっているから分かります。
 『世界人権宣言』の第1条、「人間は生まれながらにして自由であり、権利と尊厳について平等である。理性と良心とを授けられており、同胞の精神でもって行動しなければならない」――これは間違いですよ。
 赤ん坊が「自由」だと思いますか。そして、その「自由」という言葉が、英文では「フリー」と「リバティ」の2つに使い分けられているのを知っていますか。これは、意味が違うから使い分けているのであって、両方ともただの「自由」と訳すのは間違いです。
 以前、法務省に電話して、「『世界人権宣言』について勉強したいから資料を送って欲しい」とお願いしたことがあります。すると、パンフレットをどっと送ってきました。なんと300部です。「そんなにたくさんいりませんから、お返しします」というと、「いえ結構です。誰も読みませんから」という返事でした。パンフレットが余ってしょうがないんですね…(笑)。

日教組の行いは『世界人権宣言』に反する

 そのような『世界人権宣言』を、これまたまともに読みもせず、偉そうな事を言ってくる人がいます。「イジメはいけない」「男女差別をしてはいけない」「子供の人権」…。
 しかし、『世界人権宣言』には、「男女を云々」なんていうことは出てきません。「女」という文字は、わずか2つです。1つは、「結婚は男女の合意のみに基づき…」という項。もう1つは母親について、「母子は特別の保護を受ける権利がある」。この2つしかないんです。どこに「男女同権」と書いてあるのか。そんなことは書かれていません。ですから、それを言う人は『世界人権宣言』を読んでいない人です。
 さらに、「自分の子供に与える教育(初等教育)、これを選ぶ権利は親にある」とはっきり書いてあります。それならば、親は日教組に対し、「私はこういう教育を求める」と、はっきり言わないといけません。「あの学校に入りなさい。この先生です」という押しつけに、甘んじる義務はないわけです。
 私の子供はもう大きくなりましたが、もし以前から『世界人権宣言』のこの規約を知っていれば、「日教組は嫌です」とはっきり言ったでしょう。「だから日教組の先生はやめて下さい」と、言ったでしょう。しかし、今、実際に日教組がやっていることは、この『世界人権宣言』に反する行為じゃないですか。
 日教組の連中が分かっていないのは、「人間論」です。「人間とは何なのか」が全く分かっていません。彼らの体質は、マスコミと一緒です。自分達の言っていることが果たして正しいのかどうか、それを自分達自身が分かっていないんです。だからムチャクチャなことを平気で言います。さらに悪いのは、自分達の言っていることと違うことを言う人を弾圧することです。

成果が出ないのに「正しい」と言い張る人達

 ここに用意したのは、これからカウンセラーとして教育問題に携わろうとしている女子大生が、うちに送ってきたメールです。これがまさにマスコミ論調なんです。ちょっと参考までに読んでみます。
 「はじめまして。私は大学2年生になります。たまたま私が読む本が、いじめ、体罰に関してのものが多いため、戸塚ヨットスクールさんという名前をたまに見かけます。そこには2〜3行で"とてもひどい"ということが記されていました。ですから、私もそういう先入観を持って、インターネットで検索しました。その前にも色々な人に聞いてみましたが、みんな興味を持っていないようで、よく知らないようでした。先入観を持ってしまったことをお詫びします。
 質問ですが、戸塚先生方は、幼児虐待、虐待の連鎖についてどうお考えでしょうか。私は本やホームページを読み、戸塚ヨットスクールの卒業生は自分の子供に虐待をするのでは、と感じてしまった部分があります。実際は分かりません。ただ、殴る蹴るという肉体的な罰を聞いて、虐待と結びついたのです。…」
 こういうことがズラッと書いてあります。要するに、「否定するわけじゃない」といいながら、ヨットスクール否定をずうっとやっていくんです。私は、こんなことはもう聞き飽きました。こんな意見なら、新聞にいくらでも載っています。

 まさにこの考え方、「子供を自由に」「不快感を与えてはいけない」、それから、体罰と虐待を一緒にして、「体罰反対」。この考え方が、こういう子供達を作っているんです。
 私がなぜ、こういう考え方が間違いだと言えるかというと、この人達が言っていることと全く反対のことをやって、問題児を直しているからです。実際に直るんです。だったら彼らが間違いであって、我々が正しいということになります。しかし、彼らにそれを言うとまた怒るんです、「成果が出たから何なんだ」と言って。「成果が出ない方が何なんだ」でしょう(笑)。
 「オタクは確かに成果が出ている。私の所は出ていない。だけど自分が正しい」などと、こんなことを言う輩が子供をいじくり回せば、今のような状態になることは目に見えています。
 しかし、そういうことにいちいち反発しても、こういう人達は納得しません。自分達が先に植えつけられた、先入観で一杯だからです。

「戦略」と「戦術」をごっちゃにするな

 私の返事です。「あなたは、人間の精神は科学的でなければならないと思いますか、それとも科学的であってはならないと思いますか」――これが肝心なところですね。
 私は、「子供を○○したら、○○になりますよ」という言い方をよくします。これは、実際にそうなったから言えることです。すると、それに反対する人が、「『○○したら、○○になった』というのは、自分の敷いたレールの上に子供を乗せて個性を無視しようとする考え方である」というようなことを言ってきます。ですが、よく考えてみて下さい。
 私はこういう人に、「あなたはいったい何をしているのか」と聞きます。「子供をちゃんとしようとしている、教育しようとしている」という答えが返ってくれば、「何に基づいて教育しようとしているのか」と聞いてやります。「○○すると、○○になります」ということ、つまり法則や理論、それがなければ子供を教育できないじゃないですか。
 それから、「そういうやり方をすると子供に個性がなくなる」という言い方、これだって「○○すると、○○になる」と言っているのと同じじゃありませんか。彼らは自分の言っていることが分かっていないので、ましてやその根本など分かるはずありません。これがまさに、マスコミ論調なんです。戦略と戦術をどうしようもなく混同します。

 以前、神戸で、朝8時に学校へ飛び込んで来た女の子が、鉄の扉に頭を挟まれて死亡するという事件がありました。その時、先生は、校則に従って扉を閉めたんです。ここで、「出るぞ、出るぞ、マスコミは必ずこう言うに決まっている」と思ってみていたら、案の定、朝日新聞に出ました。「だから校則がいけないんだ」という記事が。
 これは、戦略と戦術の混同です。校則というのは、その目的の中において、女の子を殺すことなど入っていません。女の子を殺すために校則があるのではないんです。この問題は、「校則」が悪いのではなく、「校則の運用の仕方」が悪かったんです。「戦略」の問題ではなく、「戦術」の問題です。ですから、事故が起こったということが、校則の否定につながるはずもありません。ところが、往々にしてそういう論調ばかりになります。

日教組に加勢したマスコミ

 さて、「正義は必ず勝つ」とはどういうことでしょう。これは、「人間は、法則通りにしかならない」ということです。どんなに法則を曲げても、それが正しいと言い張っても、結果は出てきます。これが「正義は必ず勝つ」ということです。
 では、今の教育の現状を見て下さい。これが正常な状態ですか。そうではありませんよね。それなら、日教組が行った教育は間違っていたということです。あれは「正義」ではなく、「不義」だったんです。
 今、このような結果が出たんですから、彼らには根本的に方針を改めてもらうか、引っ込んでもらうか、どちらかにしてもらわないといけません。それなのに、未だに時々文句を言ってきます。落城しているのにまだ文句を言えるとは、いったい彼らは何なんでしょう。どうして反省しないんでしょう。

 それからマスコミ。マスコミがいたから日教組は活躍できたんでしょう。教研集会を、毎年のように持ち上げて報道したじゃないですか。いじめが起これば、「先生が悪い」の、「親が悪い」のと、散々言ったじゃないですか。しかし、彼らの言う通りにしても、いじめはなくなりませんでした。だいたい、彼らにいじめの定義ができるんでしょうか。人間の行動には必ず目的があり、いじめにも目的があります。それを理解せずに、いじめについて語ってはいけません。「民主主義」の定義ができない人が、「民主主義」を語ってはいけないし、「人権」の定義ができない人が、「人権」を語ってはいけません。

自由も理性も「創る」もの

 いわゆる"ヨットスクール事件"の当時、うちが責められながらも盛んに言ったのは、「人権とはあるものなのか、創るものなのか」ということです。  『世界人権宣言』の第1条に、「理性と良心とを授けられており」とあります。誰が「授けた」と思いますか。それは「神」、「エホバ」です。なぜなら、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言の中に、これと全く同じ文章が出てきて、その文章の後には「バイ・ゼア・クリエーター」と書いてあるからです。つまり、「創造主により」です。「神により与えられた」とはっきり書いてあるんです。その「バイ・ゼア・クリエーター」という部分だけを取り去り、同じ言葉が書かれているのが『世界人権宣言』なんです。
 これはキリスト教の思想ですね。キリスト教の思想が成り立つためには、神との契約がなければいけません。しかし、我々は、エホバと契約した覚えがありませんから、あの思想は成り立たないんです。

 『世界人権宣言』で、全て「ある」ものとされている「自由」「権利」「尊厳」「平等」「理性」「良心」。これらはみんな「創る」ものです。もとから「ある」ものではありません。そして、これらを「創る」ことを「教育」といいます。だから、子供は先生の言うことを聞かないといけないし、自由にしてはいけないんです。教育期間というのは、自由を創らせている最中なんですから。
 さらに、『世界人権宣言』をよく読むと、「自由」という言葉が31出てきます。本当に「人間は自由」だと思っているなら、たった1つ「自由」と書けばいいはずです。それが、31も書かれているのはなぜか。これはつまり、その31の「自由」という言葉により、「自由の制限」をしているんです。それ以外の自由はないんだと。もしもそれ以外の自由が欲しければ、自分で「創れ」ということです。これが、『世界人権宣言』の「自由」の意味です。
 「人権」についても同様で、「これだけの人権を認めてあげよう」と言っています。それはつまり、「基本的人権」のことです。「人権」と「基本的人権」は使い分けないといけません。

「精神とは何か」が分かていないカウンセラー

 『力は正義なり』――この意味が分かりますか。「正義」のものを「力」と言います。「正しい」ものが「力」です。間違ったものは「力」とは言いません。それは「暴力」になります。
 「体罰」は「力」、「いじめ」も「力」です。これが分からないといけません。いじめを禁止するととんでもない事になります。今のような子供ができあがるんです。「いじめ方がいい、悪い」というならいいですが、「いじめがいい、悪い」と言ってはいけません。
 先程のメールの女子大生が書いていることをよく読むと、「力」と「暴力」の区別が全くついていません。つまり、彼女は、自分の習ったことを正しいとまともに信じ、先入観にとらわれ、一切の批判精神がない非常に非科学的な人なんです。こういう人達がカウンセラーになるんです。
 私がカウンセラーに、「カウンセラーとは、人間の精神を扱う仕事になりますね」と聞くと、「そうです」という答えが返ってきます。続いて、「では、その精神をちゃんとしようというんですか、治そうというんですか」と聞くと、「治すというとちょっと語弊がありますから、ちゃんとしようということですね」と答えてきます。次に、「それを、本人にやらせようとしているのか、他人にやらせようとしているのか、どちらですか」と聞くと、どうもよくわからなくなってくるようで、答えられません。「あなたは、自分のやってることが分かっているんですか」―「よく分かりません」―「じゃあ、(カウンセラーという)商売やめたらどうですか」―「商売でしょうか」―「商売に決まっているじゃないですか、いったい何さまだと思ってるんです。それで飯を食ってるんでしょう。そもそもあなた方は、"精神"の定義ができるんですか。精神の定義ができない人間が、精神を扱ってもいいんですか」。こうやって聞いていくと、彼らはすぐに混乱しますね。やはり、自分達のやっていることが、自分達で分かっていないからです。