第十五回 東京セミナー

〜ローレンツの動物行動学に学ぶ〜



[福祉なんていらない]

 NHKの番組で、「子供と教育電話相談室」というのがあります。
マスコミの中でも新聞やテレビの論調はあまりにも感覚的で、ひたすら人からよく思われようとするもので、子供の問題だとすぐに「愛」とか「自主性」などという言葉が出てきます。しかし、決して「愛」ということを分かっているわけではないし、「自主性」の意味が分かっているわけでもありません。そういう言葉をただ言っていれば反対はされないという前提の下に、色々な論調が成り立っているのです。


 これが老人の場合だと「福祉」です。
私も後30年もすれば80歳ですが、「福祉」なんかして欲しくありません。それよりも、今と同じ状態で生きていけるのが最良のはずです。仕事もできて、面倒を見てもらわなくても日常のことができる、そういう老人にしていくことが本当の老人対策だと思います。


 昔よく、うちで非行少女を扱うと、学校の先生が1番のお得意様でした。
親が学校の先生、おばあさんおじいさんも学校の先生、その子供をうちで預かる。2〜3カ月して帰すと見事に直っています。
しかし、子供を帰して2〜3カ月した後に、そのおじいさんおばあさんが亡くなるということが続いて起きました。
最初のうち、どうしてなのかよく分かりませんでしたが、これは「生きがい」をなくしたためだと思われます。そういうダメな子供が心配で、死ぬに死ねないという状態がずっと続いていて、それだけが「生きがい」だったわけです。その「生きがい」がふっとなくなってしまったもので、本人は生きる価値を見いだすことができなくなったわけです。


 このようなことをそのまま老人問題に当てはめなければいけません。要するに、生きる価値を本人がはっきりと見い出せるようにしてやらなければいけないのです。その時に2つの方法があります。
1つは、本能的な生きる価値を見い出させること。もう1つは、技術をつくることです。本能的な生きる価値、これが1番大切です。


 ここからは動物行動学になります。
人間は人間である前に動物です。男を動物として考えると、その役割は3つあります。
1つは、女と一緒になって子供をつくる、種族保存のために子孫を残すことで、これが1番大切なことです。2つ目が、女・子供を敵から守るということ。3つ目は、餌を採ってくるということ。この3つが、雄としての基本的な仕事です。これがあるうちは生きる価値があるということです。


 そうすると、性欲・金銭的な力・肉体的な強さ、この3つが満足されれば生きる価値が出てきます。自分のことは自分ででき、さらに余裕があるからこそ女・子供が守れるんですから。


 ウィンドサーフィンというのは非常にバランスのいるスポーツです。そういう若者でも難しいスポーツを年寄りにもできる状態にもっていくつもりです。それができるようになれば、おそらく先の3つ(性欲・金銭的な力・肉体的な強さ)も満足させられるでしょう。ここまでやっていかないことには、老人問題は解決しないのです。


 我々のスクールは1年中やっていますから、冬のさなかにでも80歳の老人が海に入ります。とんでもないと言われていましたが、もう二冬を越して今年は三冬目です。これは無理なことではなく、きちんとできることなのです。それを「年寄りの冷や水」といって止めていただけです。老人の性質を、みんな本当には理解していない。



[「自由にさせろ」は責任放棄]

 これと同じように、子供の問題を考えるときにも、ラジオの相談室などでしゃべっている人は子供の本質をとらえていないということが言えます。
例えばモラトリアムの期間がどうしてあるのかとか、子供そのものを人間として考えるとなかなかつかめないことですが、1度動物として考えてみるのです。すると非常に簡単に答えが出てきます。


 と言いますのが、その時の相談が「中学生の女の子が非行になって学校を休む。試験の時に電話をしてみたら学校に行っていない。どうしていたかと聞くとさぼっていたと平気で答える。男もできた。夜になるとカラオケを歌いに行って真夜中まで帰ってこない。それをどうしたらいいでしょう」というものでした。
それにオマケがあって、「以前そうなりかけた時にきちんと相談所に行って相談をした。そこで『自由にやらせろ』と言われたので自由にやらせていたらだんだんひどくなった。いったいどこまで自由にしたらいいのか」と聞いているんです。
これに対する答えが「子供に向かって良い悪いということ自体が悪いんだ」というものなんです。
誰が見たって悪いものは悪いのに、その状態を良い悪いと親が判断すること自体が悪いんだという、とんでもない答えが返ってきます。カラオケに行きたいなら行かせなさいなどと、まだ自由にしろと言っているんです。


 これは飛び跳ねるタイプの子供だからまだいいとして、逆に沈み込む子供だったらと考えてみてください。望みをなくして死のうとしている時、屋上から飛び降りようとしている時、自由にさせたらどうなりますか。


 彼ら評論家の1番の欠点は、フロイトの思想に根ざしていることです。もう1つはパブロフの行動心理学。あれは大間違いです。その2つを絶対のものとして未だに信じてやっている。


 我々も元は教育には素人でした。
私は工学部ですが、工学部から考えてもフロイトとパブロフは間違っていると分かります。


 先日、うちに入校したいと言ってやってきた親が同じことを言いました。
「子供が親をだまして金を持ちゲームセンターに行く。親をだませなくなったら盗む。心配になって児童相談所に行くと『自由にさせなさい』と言われる。『どこまで自由にさせたらいいんでしょう』と聞くと『そういうことを考えるのが悪い』と言われる。そうしているうちに、中学生が100万というお金を使ってしまった。『どうしたらいいのでしょう』と言うと『おたくは100万ぐらいでつぶれたりしないでしょう』と言われ、『会社がつぶれるまでお金を与えろと言うのですか』と言ってケンカをして帰ってきた。」
こんな助言だったら誰にでもできます。何もしなければいいのですから。こういうバカなことを今、NHKでも堂々と言っている。



[人間が生まれながらにして平等なんてありえない]

  ローレンツの『動物行動学』というのが、我々のやっていることを非常にうまく説明してくれています。
1番最初に読むのが『ソロモンの指輪』という本です。それから『攻撃』という本を読めば大体分かります。これは、我々が日頃何となくスッキリしなかったことを見事に解明してくれました。


 例えば、パブロフから始まった行動心理学、あれからいくと“みんな平等”ということになります。
「人間は生まれながらにして平等である、その後条件づけによって差が出るだけだ」という、まるっきり日本の教育方針と同じです。ところが人間は生まれつき違います、頭のいいやつは頭がいいし、顔がいいやつは顔がいい。


 専門家とよくけんかをするのですが、生まれつき平等だなんてどこに証拠があるというのか。本当に平等であるならば、あなたの娘をエリザベステーラーにしてみなさいと言うのです。平等ということから無限の可能性があるということが出てくる。これは嘘です。
どんなに勉強したって「相対性理論」は作れません。あれは天才だけができることであって普通の人間にはできない。生まれもった能力以上にはなれません。
だけれども、それを最大限に発揮することはできます。最大限まで発揮できるようにしてやることが「教育」です。


 「順位性」というのがあります。1つの群れにオスが50匹いると、bP〜50まで、決して水平にはならず、必ず上下関係ができるということです。
ならば、家庭においても1、2と順番ができるわけです、オスならオスだけで。
お父さんが1になって、子供は明らかに下にいる。長男が2ならば、次男が3というように。
もし親と子が水平になってしまったら、確実に困ることが起きる。これは我々のところでも確かめられます。



[『情緒障害』って何?]

 うちに来る子供達の中で、非行少女というのは目が吊り上っています。その吊り上った目を下げるには、どうしたらいいか。
まず写真を1枚撮ります。次に目を下げるためのある方法をこうじる。これは1分もかかりません。その後もう1枚写真を撮る。目の端と端を物差しで結んで比べてみると下がっていることがはっきり分かります。
どうしてそういうことができたかというと、目が吊り上っている原因を取り除いてやったからです。その真の原因とは何か、それを探ってやればいいわけです。


 今はあまり言われなくなりましたが、当時、うちに来る登校拒否とか非行の子供達のことを『情緒障害児』と呼びました。
うちでああいう事故が起きてテレビに引っ張り出された時に、例えば小中陽太郎のような男が「けしからん」と言うわけです。「そもそもああいう子供達が君達のようなやり方で治るわけがないではないか」と言う。
「我々が扱っていたのは情緒障害です。情緒障害とは何なのかあなたは言えるのですか?」と聞くとそれが言えない。情緒障害の定義ができない人が、どうすれは情緒障害が治って、どうしたら治らないかということがどうして言えるのか。


 そういうことがあったものですから、裁判中でも検事や評論家、証人になる児童相談所の人に聞いてみるんです。教育学部の教授などに「情緒障害とは何だ」と。誰も答えられません。
もとがないのに、我々のやってきたことが間違っているなどとどうして言えるのか。判断基準が何もないのに間違っているとみんな主張しているのです。こういうとんでもない矛盾を抱えながら、我々の裁判が進行しているのと同様に、現代の教育も進行しているのです。


 「情緒障害」というのは、「情緒」=「エモーション」、「障害」=「ディスターブメント」の和訳です。
「エモーション」とは本能のランクにおける感情のことですから、「情緒障害」という言葉は本能が狂っているということを意味しています。
脳の中には「下意識」があって、その上に「本能」があり、その上に「理性」があります。その本能のランクが狂っているのです。


 ここではっきり言えることは、理性ではないのだから言っても分からないということ。
うちが盛んに攻撃された「言えば分かる」というのはウソです。「言えば分かる」ならば「情緒障害」ではない。理性が狂っているならば言えば分かりますが、本能が狂っているのだから言っても分からないのです。


 例えば、吊り上った目を下げてみせるということ、「目が吊り上っていておかしいから下げろ」と言って下がるのであれば、それは理性の問題です。だけど言ったって下がりはしません、理性の問題ではないんですから。



[吊り上った目を下げる方法]

 ここで我々が考えなければいけないのが「順位性」ということです。
非行少女にも目が吊り上がる人と吊り上らない人と両方います。全員調べてみましたが本人には共通項はありません。しかしその背景に共通項があります。
吊り上る人は、父親が弱くて学校の先生が弱い、この2つが揃っています。
これが何を意味するかというと、非行少女というのは、彼女が所属する群れ、家庭と学校、その中で1番強い存在だということです。自分の言うことは何でも通る。彼女の意見は何でも通用するから彼女がbPなんです。自分の父親も学校の先生も自分より下。彼女が所属する学校と家庭という群れの中で、彼女は女王様なわけです。


 何でも言うこと聞いてくれるということは、理性的にはとても嬉しいことです。ところが本能がそれを許さない。
結局女・子供ですから、男より弱いものです。男より弱いのに、自分が所属する群れの中では自分より強い男が誰もいない。すると、理性的には感じなくても本能的に「もし敵に襲われたらどうしよう」と考えるのです。
敵に襲われた場合、自分を守ってくれるものは誰もいない。そうなると理性的には良くても、本能的にいつも生命の危険におびえることになります。最も基本的なところで安心感が持てないわけです。そこで目が吊り上ってくる。


 ですから逆に、これを直すには、心配いらないということを教えてやればいいわけです。それも、口で言っても分からないのだから体得させます。


 彼女がヨットスクールという新しい群れに所属した時、その群れは彼女にとって非常に嫌な存在ですが、男が非常に強いということを彼女に教えてやればいいのです。
1番強いということを教えられる方法が体罰です。彼女を呼んで前に座らせ2、3発竹刀で殴る。たったそれだけのことで目が下がります。


 その女の子は今まで誰の言うことも聞かなかった。
ところがヨットスクールに来ると、彼女にとっては異様な雰囲気です、今までの所とは全く違う。何が違うかはなかなか分からない。しかし「座れ」と言うとすっと座る。言うことを聞かざるを得ないような雰囲気がある。ここでは男が強い、強いから強い者の言うことを聞く。
そして竹刀で肩の1番肉の厚いところを殴ります。そんな目に遭いながら身動きできないのです、腰が抜けたようになってしまって。
ここで、相手がいかに強いかということを体得したわけです。体で分かるからこそ本能が発達する、だから目が下がる、こういうことです。


 これを「愛だ、愛だ」と言っている人がやったらいつまでたっても直りません。逆に目が吊り上がるばっかりです。



[子供の言うことをきかないのが愛]

   「順位のない集団の中の子供は実に不自然な状態に置かれている。
つまり子供が高い順位を望もうとする本能的に組み込まれた固有の衝動を抑えることができず、抵抗もしない両親に対して思うがままに振舞える時、彼は自分にとっては何のいいこともない集団のリーダーの役割を演じさせられていることを悟るのである。自分より強い支配者がいないので、彼は自分が完全に実権を握った世界の中で無防備であると感じている。
フラストレーションなしに育った子供はいかなる意味においても愛されていないからである。」
   ここが重要なところです。
所詮、子供の言うことなど最初からまともに聞けるものではない。聞いてやらなければ子供はフラストレーションがたまる。その方が子供を愛しているということになるんです。


 自立できないから子供、だから我々が守ってやる。
それなのに守ってやるべき人間が弱い、弱ければ守ってくれない。これは理屈ではありません、本能です。
はっきりとした父親の権威。これはそんなに甘いものではないし、子供がベタベタできるような代物でもない。
うち(ヨットスクール)でも、母親とベタベタくっついてしゃべっているのが、私が帰っていくと少しづつ離れていって最後には2階に上がってしまう。
これがごく当たり前だと思います。


 それを、残念ながら今は我々父親の方が寂しがってしまって、わざわざ子供と同じレベルに降りてまで子供の中に入れてもらおうとしている。結局子供は本当に寂しくなってしまう。
父親の権威さえ基本的に示しておけば、たいした問題は起きない、子供はきちんと自分の能力を発揮する。



[登校拒否を直す儀式]

 以前登校拒否を直していたときに、うちが満員で待ってもらわなければ入校できないような状況がありました。色々な理由でどうしても待てないという場合に、今の方法を利用します。


 登校拒否の場合、家庭の中の父親像の不足というのがよくあります。
このタイプの家庭の場合、父親像を確立させると子供が学校に行き出します。登校拒否という症状は消えます。
ただし、症状が消えただけで中身は変わっていません。ですから、どうしても症状だけを消さないといけないという時にはこの方法を使います。
父親が持つべき3つの安定感、子供をつくらせる能力、敵から守る能力、餌を採ってくる能力、これを子供にはっきりと体得させるのです。


 その方法として、子供をつくる能力というのはその子供自身という存在があるからいいとします。
餌を採ってくる能力を示すには、父親が給料を稼いでいるということをはっきり子供に教えてやればよいのです。自動振り込みになってから登校拒否が増えています。これは、誰が餌を採ってくれているのかが分からないからです。すると子供は不安になる。


 ここで、給料日に昔と同じようなことをやってやるのです。いわゆる儀式みたいなものです。
まず給料日には父親がちゃんと帰ってくる、それをみんなで出迎え、食事の際には父親を上座に据えて「お父さん、今月もありがとう」と頭を下げる。


 次に、父親が強いものであるということ、敵から守る能力があるということを示してやらなければなりません。
これは実際にけんかをするわけにもいかないので、群れのナンバーワンというのは政治を行うという鉄則がありますから、家庭という1つの群れを、父親が取り仕切っているという芝居をするのです。
お母さんが「今日の夕食はカレーライスでよろしいですか」と問う、ここで父親が「よし」と言ってからカレーライスが出れば、父親に主導権があることが分かります。
万事につけて、母親は父親の許可を取っているという芝居をすればよいのです。これだけで自分のところの父親は母親よりも強いということが分かります。


 ところが今は、母親の方が強いから子供が不安定になってしまいます。母親と父親の違いをはっきりさせること、たったそれだけのことで登校拒否は治ります。