第二十二回 東京セミナー

〜脳死について〜



[気功は脳に作用する]

 昨日テレビに出まして、その時のテーマが「脳死・安楽死、臨死体験」というものでした。これはまず分けて考えないといけませんね、脳死・安楽死というので1つ、臨死体験というので1つ。臨死体験というのはちょっと難しすぎるのでまたにしましょう。


 今朝も、私は気功の先生の所に行って来ました。私は昔から、そういう多少オカルト的なものが好きで、そういう人がいると聞くとわざわざ会いに行ったりしていたんです。あちこち回ってみましたが、確かに気功ができる人は大勢いるんだけれども力のある人は少ない。
よく講演会なんかに行って、「お疲れでしょうから治して差し上げましょう」と言って横でやってくれる人がいるんですけれども、ほとんど利きませんね。確かにちょっと温かくなるなぁ、という程度なんです。
ところが今行っている所は、今まで会った気功の先生の中でとりわけ優れています。非常に強いです。


 気功というのは、実際見ていると脳に直接作用しているようなので、そこで起こることはうちでも起こるに違いないと考えます。ただし、うちと気功の違いは、我々の所はトレーニングであって、能力を高めようとするのがうちのやり方です。気功というのは、その能力を100%出そうとするものです。それを気功師が手伝ってくれるのです。
医者に言わせるとこれは単に、遠赤外線だと言う。確かに温かくなりますから、遠赤外線だという部分もあるんですが、非常に不思議なことがあります。
例えば、我々はウインドサーフィンばかりやるから筋肉痛が起こります。おととい丸一日乗って、かなり肩が痛くなっていました。それを今日治してもらったんですが、ずっとやっているとそこが強烈に痛くなってきます。そのうちに痛みがとれて、すると今まで温かかった所が冷たくなって来るんです。もし遠赤外線だったらずっと温かいままのはずなのに冷たくなる。そして治る。


 我々は週に2日は海に出ます。そして丸一日ウィンドサーフィンに乗っている。日によって風の強さが違うので、時にはガタガタにくたびれてしまうことがあります。くたびれるとそれを回復しないといけないから、回復するためにエネルギーをとられてしまいます。すると、どこか自分の1番弱い部分に、十分にエネルギーが行き渡らなくなってきます。年齢的にも、もう50を過ぎていますから、若者と違って簡単に治せるというわけにはいきません。
昔から言われていますが、うちの家系というのは気管支が弱い。気をつけろとよく言われていましたが、何にも気にしていませんでした。ところがこの頃それを感じるようになったんです。ガタガタにくたびれると咳が出るようになりました。咳が出たら、「もうやめておけ」というサインです。その咳が出るのが止まったら、全体も治っています。これは気功をかけてもらう時の非常によい指針にもなります。


 今私が非常に感心しているのは、1つはアルツハイマー、ボケですね、それが気功によってかなり良くなるということ。これは目の前で見れます。もちろん完全には良くなりません、脳が部分的に死んでしまっているんですから。
もう1つが、視野の狭窄(キョウサク)、瞳孔がきゅうっと縮まってしまう病気ですが、これが治っている。この病気になると、視野が狭いので階段が降りれません。最後にはものが見えなくなってしまいます。その患者さんをかれこれ半年近く見ているんですが、だんだん瞳孔が広がってきました。非常に外が明るく感じられるようになって、しかも視野が広がっているんです。
こういうことが実際に起こるということになると、明らかに脳神経系に気功、気という正体不明のものが作用している。



[脳死は人間の証がダメになった状態]

 うちは脳幹部を重要視しています。ただし、人間性どうこうは新皮質の問題であって、脳幹の問題でもなければ辺縁系の問題でもありません。脳死については、医者が臓器移植したくてたまらないので、脳死が死であると早く認めて欲しいということがあるにしても、やはり新皮質がダメになってしまったら人間としての価値はないと思います。


 うちに来る子供達の中に、その新皮質の機能が少し劣っただけという子供がいます。そういう子供達を見ていると、非常に人間性に欠けるものを感じます。
1つは、男なんかの場合はどうしても独立できないといけません。独立すると、まず自分を十分に養えるようになって、その上で結婚して、子供を産んで、妻子を養います。これが2番目。3番目が、自分が所属する群れ、それを守る力がないといけません。それだけのことができなければ男の価値はないですね。
しかし、その子供達にはこれができない。これができない人というのは、もう保護の対象になると思います。


 これらは、新皮質という理性の座が、多少機能低下した時に起こるんですが、さらにそれが完全に死んでしまったという状態、脳死の場合にはさらにもう1つ下の辺縁系も死んでいる。脳幹だけで辛うじて生きている、あるいは、それもほとんど死にかけているという状態になって、まだ人間だと言い張るのは無理だと思う。これは単なるロマンチシズムに過ぎないと思います。他人事として考えずに、自分の事として考えてみたらいい。


 今うちが九州でやっている82歳のおじいさんでも、パーキンソンシ病になって私が初めて会った時に、「まだ手が丈夫なうちに腹を切って死にたい」と言いましたね。「これは男だなあ」と思いました。将来パーキンソンシ病が進行して、人の世話になって、最終的にはおむつまで取り替えてもらうような「そんな老醜はさらしたくない」と言った、確かにそうだと思う。


 あるいは、老人問題を語る時に「福祉」なんかやって欲しくない。死ぬ前日まで、自分で生きていきたい。これが人間じゃないでしょうか。人間が、頭の良さとかそういうものを人間の証とするならば、その部分がなくなったらもう人間ではないでしょう。「人の世話はするけれども世話にはならない」、これが男の気概です。


 もう何度も言いましたが、本能のランクで言う男の価値とは、1つは女を手に入れて子供を作るというセックスの面。もう1つは、餌を採ってくるという金銭的な面。もう1つは、自分の仲間、あるいは自分の妻子、そういう非常に重要なものを敵から守るということ。その3つが男としての証でしょう。
その証拠に、そのうちの1つでもなくなった時、例えばインポになった時、破産した時、ボケが起きた時、たった1つでもなくなると完全に自信がなくなってしまう。そういう状態になったら、後は周りの情にすがって生かしてもらうしかない。これはいいでしょう、だけどももうそれは男としての価値はないということ。
だったらば、それも失って、理性の座も失う、本能の座も失う、その場合に人間だと言うのは無理でしょう。
色んな人が、国民感情として、ということを前提にしてそれを言うけれども、誰が国民なのか、そこがちょっと不明ですね。非常に有名な先生方は国民ではない。国民の1人です。有名な先生達はキレイ事しか言えない。
我々の所でひしひしと感じるのは、うちのやり方がいいの悪いのと言う前に、とんでもなく困っている人がそこにいるということ、彼らも人間として生きる権利がある、その人達は一体どうすればいいのかということを考えて欲しい。



[キレイ事ではなく、現実的に考えること]

 つい先日、ご相談に来られた方もそうです。もう24、5歳になって、家庭内暴力が激しい。中学校から始まった登校拒否がもとでそういうことになってしまったが、当時、相談に行くと「放っておきなさい、子供にも自主性がある、自由がある、基本的人権がある」ということでそのまま放っておいた。20歳を過ぎた今となってはどうしようもない。訪ねて来られたのはお父さんの方で、「後は死ぬしかない」と言っている。「だから何とかして欲しい」。
しかし我々は何もできません。その子供を、もう大人ですが、本人の意思に反して無理矢理に連れて来ると「逮捕監禁罪」と言われてしまう。


 肉体的欠陥のある人、例えば足がもう動かない人が車いすに乗って来る、その人に、「正常な人間と同じように振る舞え」と言ったらそれは無理な話でしょう。「階段を登れ」と言ったって、無理だとみんな怒るでしょう。
それだったら、精神的に不自由な人、我々が言う人間的な判断力を完全に持ち合わせない人、神経症というのはそうですよ、神経症というのは本能と理性がかい離してしまうんだから、理性でいくら考えても本能が反対するんだから、そういう人達に「理性的な判断をしてそれに従って行動しろ」と言っても無理です。足の悪い人と一緒なんです。
そこは、理性が正常になるまで何とか手助けをしてやらないといけない。その手助けをさせないと言うわけです。「子供の人権を守らないといけないから」というたった1つの名目だけで。


 これと同じような理論を、脳死の時に強く感じます。皆非常にかっこいいことを言っていますが、その裏でどれだけの人が泣いているのか、我々はそう考えてしまいます。
以前大阪かどこかで、臓器を提供するという意思を示した人が死んだ場合でも、それを認めなかったでしょう。本当なら、あれでどれほど助かっていたかということです。
ものは現実的でなければいけないと思います。とかく日本の論調は抽象的です。皆がすくんで、皆が何もできない状態になっています。おそらく、男が弱いからでしょう。100%ということはあり得ない、それを100%を求めるという、現場の人間ではとても考えられないようなことを平気で言います。そういう問題を脳死というのは抱えています。