第五回 東京セミナー
〜幸福のつくりかた〜
[まずは定義をつくること]
うちは1つの仮説を持っています、「教育荒廃」という言葉自体がおかしいという。うちは教育問題から入ったのですが、やけに矛盾点が目立つ。
私は工学部出身ですから、論を進めるという考え方をします。論を進める上でまず重要なのは「定義」です。定義を学び、それを実際のものに当てはめてみて、さらには未知のものに当てはめる、「演繹法」ですね。これが「弁証法」であり、定義が正しいという前提の基に成り立ちます。これが我々の考え方であり、実際問題の扱い方になります。
「教育荒廃」という言葉を見てみると、私は教育学はやっていませんが、1番不思議に思うのが、定義が全くできていないということです。
例えば、以前うちがテレビで盛んに攻められていた時に、奥様番組に出たことも悪かったのですが、うちを攻める側の人間を見ると見栄えのが良いのが多い。お上品なおじいさんであるとか、ハンサムな男とか。名のある評論家はそこがいいんでしょうが、内容が全くないんです。
小中陽太郎が、朝日か何かの番組でうちをいろいろ攻撃してきた際、「戸塚君、教育は愛なんだよ」と言いました。そうすると、彼はこの言葉で私を攻めているわけだから、まずこの言葉の定義をしてもらわないと困るわけです。
まず教育の定義、「教育とは何ですか」と聞いてみると「ええー?」と言い出す。結局分からないわけです。教育の定義もできずに、教育問題を語っている。愛の定義を聞くと、考え込んで「愛は愛だ」と言う。教育の定義もできない、愛の定義もできない人間が、「教育は愛です」などと言って人を責めるなと言いたいわけ。
定義のはっきりしないもの2つを組み合わせることができるんだったら、「カラスは魚です」という言葉が正しくなってしまう。「カラスは魚です」が間違っているのは、カラスと魚の定義がはっきりしているからです。だから、教育と愛の定義がはっきりしていなければ、「教育は愛です」という言葉が正しいか間違っているか、それがまず分からないんです。だからそれぞれの定義をはっきりしろと言う。そういう要求も、工学部なら当然だったわけです。
彼らはそういうことを全く無視して、ふわぁっとしたことでかすかな解釈を作り、子供を指導するというとんでもないことを行っている。
しかも、テレビだから何百万人もの人が見ているわけです。その多くの人に影響を与えるという、大それたことを平気でやっている。そういう人達だということがよく分かりました。
[“教育荒廃”は教育の問題だけではない]
非行少年の多発とか、登校拒否の多発というのが、本当に教育の問題なのだろうかということをまず考えないといけません。
ここで矛盾が出てきます。それは、いわゆる“教育荒廃”という、問題行動の多発という行動が現れるのが、日本・アメリカ・ヨーロッパだけであるということ。文明国ばかりです。教育の良い国ですよ。教育の良い国が「教育荒廃」を起こして、後進国で、学校もろくに行けないようなところには起こらないとなると、教育問題ではないのではないか、こう考えるのも当然でしょう。
だから、“教育荒廃”という言葉自体がもうおかしい。
次に、教育問題というのはどうもおかしな行動がたくさん出てくるということに着目します。
例えば、自殺をする、登校拒否になる、あるいは非行になるという子供がいたとしても、それがいきなりそういうふうになるのではない。その前段階があって、その次に心身症が起こる。これは、実に多彩で、自立神経失調症とか、血液中の白血球がやけに多いとか、血小板が非常に少ないとか、再生不良性貧血が続いたり。
あるいは免疫の病気が出てきますよ。アレルギー性鼻炎、アトピー性皮膚炎、小児ぜんそく、若年性糖尿病というのもやけに多い。それらが起こって、それから問題行動を起こすようになるんです。
もちろん、心身症の段階で止まっているのもいる。それがひどくなると、問題行動を起こすようになって、さらにひどくなると神経症になる。
すると、心身症と問題行動が“教育荒廃”を導き、“教育荒廃”と神経症というのは同じ原因でランクが違うだけという事になるんです。ならば、問題行動を直す方法、“教育荒廃”を直す方法というのは、神経症と心身症を直す方法ということになります。
これは医学の問題と普通は考えますね。 教育の問題ではなくなってしまう。これをどうするかなんです。
日本のマスコミというのは、どう考えてもバカです。そういう問題が起こると目をつぶるんです。自分達に都合の悪いことには目をつぶってしまう。自分達の論に都合の良い時だけ、どんどん出してくる。あたかも、そういう肉体的問題、精神的問題がないがごとくに、問題行動と切り離して考えているんです。
では、そういうことがどうして起こりうるのか。
心身症・神経症・問題行動の共通項として、“教育荒廃”の共通項として、日本を見れば分かるように、「いい世の中になったから起こった」ということが言えます。
日本の経済成長とともに病気が増えてくる、犯罪が増えてくる。エイズやがん、あるいはアトピー性皮膚炎、これはどうもウイルス性ではないかと言われていますが、そういったものがどうして増えてくるのか。
犯罪の増加と病気の増加を比べてみると、病気の増加の後を追うように問題行動の増加があります。その間3〜4年の誤差で、見事に同じようなカーブを描くんです。それを見ても、先ほどの心身症、問題行動、神経症という定義は割とあてはまるんではないかと思うんです。ただ、神経症の方の絶対数は計りようがないですね、医者に行かないのが多いから。しかし、きちんと調べれば、心身症・問題行動・神経症というのは何年かの間隔をおいて、非常によく似たカーブを描いて上がっていくのではないかと思います。
こういう現象を、全てうまく説明する方法を考え出さないとダメなんです。教育問題だけが独立してあるのならいいんですが、そうではなく、さまざまな現象が同時に起こっている。どう考えても、神経症も心身症も教育問題も、並行しているように見える、あるいは順番を追って出てくる。となると、そこをうまく説明する方法でなければ、本質をついたとは言えないわけです。こういうことが前提にあります。
[実例を基にして立てた仮説]
うち(ヨットスクール)は、何も登校拒否を直そうと思って作ったわけではないんです。ただ、勝手に直ってしまった。
子供のヨットスクールをやっていたら、何か妙な子供、目つきの悪い子供がやってきた。本来健康な子供が技術を磨くスポーツクラブだったのに、ヨットもろくにできない、肉体的にもダメ、精神的にも何か甘えん坊でわがままな子供が来るようになった。
我々としては、そういう子供たちは邪魔になるものです。他の子供の足を引っ張るから、追い返そうということになるんです。
まず最初に、親が会費を払うというのを払わせません。払ってもらったらやらないといけないので、まだ後でいいからと言って。その子供が日曜日に来る。日曜日に、他の子供も我々コーチも一緒になって、しごきまくるわけです。すると次の週にはもう来ない。ああやっぱり、と思っていると、何のことはない、学校に行っていた。そういうことが何度も何度も起こったんです。
最初にそうやって直った親が、会合などでうちの子はヨットスクールで直ったと話すもので、何かおかしなのがどんどんどんどん入り始めた。
彼らが、長くても2〜3カ月、短くて1週間、平均して1カ月程度のいわば厳しいトレーニングを受け、登校拒否がどんどん直っていった。こういう実績が先にできてしまったわけです。
そして、ここには何かあるんだということになった。その時に、朝日新聞だったか何かがそういう話を聞きつけてきて、記事を出したんです。その新聞に載ってからは大変で、わあーっと押し寄せてきた。
それぐらい、みんな困っていたわけです。
ともかく、実例がどんどん出てくるのだから、その中から共通項を探して方程式、定義を作ります。
そしてだいたい分わかりかけていた頃に、逮捕された。拘置所に入って、時間がたっぷりあるものだからそれをまとめてみた。
その結果、結論として、「登校拒否も、がんも、非行も、ヒステリーなどの神経症も、みんな同じ理由で生じるのであり、それらは脳が虚弱化するから起こるのである」という仮説を立てたわけです。
今度はそれをもとに、色々な現象に当てはめてみると、見事にあてはまる。すると、ヨットスクールは弱った脳を正常にしていたのに違いないということになるわけです。
そのメカニズムをばらばらに分解してみると、どの部分が効いたかが分かる。今度は逆に、それならばヨットに乗らなくてもこういう方法でできるはずであるという、別の方法を考え出した。それを実際にやってみたらちゃんと効いたという、そういう順番になっているわけです。
今は、実際どこまでどういうものにそれが応用できるかという実験、テストを繰り返している最中なんです。
[「色情狂」のメカニズムを探る]
そういうことを前提として、今日のテーマを「生きがい」としています。
こんな問題が起こってきているときに、まず最初にやらなければいけないことは、「生きがい」ということの定義なんですね。それは、文学的ではダメ、哲学でもダメ、科学でやらないといけないわけです。
ニュートンが、アインシュタインが、ああいう天才たちが多くの定義・公式・理論を作り上げてきたんですが、その作り方は「帰納法」によります。運動に関する方程式を作ろうと思えば、運動という現象を、百でも千でも1万でも集めて、そこに共通項を見つける、最大公約数を見つけるわけです。その最大公約数が、公式になり、定義になり、理論になるわけです。
ただ天才というのは、その時に係数を使うんですね。ニュートン力学ならαでしょう、加速度。加速度という概念の発見によって、すべての運動を3つの方程式にまとめてしまった。だから彼らは天才なんです。そうすると、我々もその例にならって、「生きがい」ということを定義づけないといけないんです。
その定義づけにあたっては、「生きがい」の実例が必要になりますが、通常「生きがい」というものは何となく感じてはいるけれど、顕著な例があまりないんです。
ところが我々は、そういう子供を何百人か扱ったという実績があり、顕著な変化をたくさん見ているから実例が先に出ている。よってものが考えやすいという大変有利な立場にあります。
こういう生徒がいました。17歳の女の子で、「色情狂」、男が2百人もいるという。
お父さんは大学教授のような感じの人で、「何とも恥ずかしい、恥ずかしいからなんとかしたい、何とかしたいけれど今まで何をやっても成功しなかった」と言うわけです。
そのやり方というのが、カウンセリングのような調子でやったり、あるいは倫理でもってやったり、あるいは無理矢理抑えつけたり。
ここで考えてやらないといけないのは、男が1人2人ならまだしも、2百人となると異常だということ。異常というのは病気なんです。だから、それは1つの病気というふうに考えてやらないといけない。精神的な病気です。
病気だったらば、言ったって治らないから、何らかの形で治療のようなことをしてやらないといけない。そして、その方法を考え出さなければいけない。
その時に、我々理科系の人間はまず最初に、色情狂なら色情狂のメカニズムを解明するというところから入っていくわけです。どういうメカニズムでそういう行動をとるのか。
そうすると、それは精神と行動の間の大原則、「快を求め不快を避ける」からきていると分かります。
不快が生じたらその不快を避けるように行動する。将来快感があることが分かっていたら、その快感を求めるような行動をする、あるいは快感を高めるような行動をする。
男に抱かれるということは、快感を求める行動だから、これを一生懸命追い求めている、と考えるところが間違っているんです。それは正常な場合であって、異常になった場合には、そこから少し離れたところがあるということ。
女が男に抱かれたいと考える、これは、それがなくなると種族が滅びるもので、必ずそう思うようになっています。
[不快感あってこその快感]
ここからが脳生理学になります。
快感というのは、脳幹から出てくるドーパミンというホルモンが、辺縁系に達したときに生じるものです。不快感というのは、やはり脳幹部から出てくるアドレナリン、ノルアドレナリンという2つのホルモンが辺縁系に達したときに生じます。アドレナリンは恐怖と驚愕を作り、ノルアドレナリンは怒りを作ります。
人間の行動というのは、基本的には不快感によって起こります。不快である、だからその不快を取り除こうする、取り除く方法は行動しかない、だから行動をする。行動した結果目的を達成する、目的を達成したら不快感が消えて快感が湧く。
つまり、不快感、意志、行動、快感、この順番になっています。その間には必ず行動が入る。
逆に、不快感というのは行動を起こさせるためにあります。ですから、「色情狂」、「ニンフォマニア」という、男を求めるという行動を起こさせるのは、まず不快感がそうさせていると考える方が妥当です。快感が発生すると、そこで行動はストップします。
女が男に抱かれる、するとまず肉体的な快感が発生して、同時に精神的な快感が発生します。その精神的な快感が持続するわけですが、3日とか1週間とか10日とかたったときに、それがだんだん減っていく。そうすると、今度は不快感の方が優越するようになります。快感より不快感の方が高くなったときに、行動が起こり始める、男が欲しいと。だから、次の男を求める。そういう順番になります。
男が家族の中にいると、快感が発生する、安心する、家族だんらんという状態になる。だから男はその中にいようとする。あるいは、自分に快感を発生させてくれる家族を守ろうとする。あるいは養おうとする。
ところが餌を取りに行かないといけないので、必ず男は朝、外へ出ていきます。会社へ行きます。
すると、今まで家族と一緒にいたときは、家族と一緒にいるという刺激、視覚、聴覚、そういう情報により、脳幹が分泌したドーパミンによって快感が発生していたのが、家族というところから急に切り離されるもので、その刺激がなくなってしまい、それ以上のドーパミンはもう分泌しないようになる。
そうすると、ドーパミンがどんどんどんどん切れてくるもので、だんだん家族と一緒にいるという快感がなくなってしまう。それが、夕方ごろになると完全に切れてしまって、不快感の方が優越するようになる。
家族に対する不快感、心配、不安、それらがアドレナリンによって発生する。その不安という不快を避けるためには、もう1度家族の顔を見るより仕方がないもので、家族の顔を見るために家に帰る。
「快を求め不快を避ける」という行動原理によって、夕方男は必ず家族のもとへ帰ってくる。そういうメカニズムになっています。
そのおかげで、家族がうまくまとまって、種族保存がはかれる。それが「家族愛」というもののメカニズムなんです。
「ニンフォマニア」の場合、男に抱かれる、快感が発生する、その快感が日を追うごとに切れてくる、切れてくると次の男が欲しくなる、また快感が発生する、この繰り返しですね。
ところが、これは正常な姿であって、もし快感が発生しなかったら、ドーパミンの分泌が異常に少なかったら、あるいは、ドーパミンは発生されたらどんどん分解されて行きますが、その分解する酵素がやけに強かったら、せっかく発生した快感がすぐに切れてしまって、今度は不快感の方がたちまち優越します。そうすると、不快を避けるために男が必要になる。
だから、普通の女だったら3日に1回とか、1週間に1回とか、そんな頻度でいいのが1度抱かれて終わればすぐ次が欲しくなるという、そういう状況になります。これが「色情狂」のメカニズム。
ですから、これを直そうと思ったらドーパミンがたくさん出るようにしてやる。これが1つの方法。
もう1つの方法は、ドーパミンを分解する酵素を正常にしてやること、正常な状態で分解するようにしてやること。これは分解されなかったら大変なんですね、いつまでも快感を感じてしまうから何もしなくなってしまう。丁度覚せい剤を打った状態と同じです。
[情緒障害児には表情がない]
その時の17歳の女の子には、1つ、表情がないという特徴がありました。それは、うちに来る「情緒障害児」すべての1つの特徴です。
「無気力、無感動、無表情」とよく言いますね。
表情がないということがどういうことを意味するかというと、表情自体は、脳幹から分泌されるドーパミンが辺縁系の腺状帯というところに来た時に現れますから、ドーパミンが非常に少ないということを意味します。ドーパミンが少なければ快感が少ない。だからこの女の子の場合は、ドーパミンが分泌しないことによる「色情狂」だと言えます。ですからこれは治せるということです。ドーパミンをたくさん分泌できるようにしてやればいいのだから。
ドーパミンを分泌する能力は脳の力、つまり脳のトレーニングをしてやればよいということになります。
その女の子に、ヨットのトレーニングをどんどん繰り返します。1カ月もたつと、非常にいい表情になります。もともと顔立ちもいい、スタイルもいい、魅力ある女だからたくさんの男を手に入ることができるのだから、元がいいわけです。非常にかわいい子ができあがってくる。
そこで1度家へ返してやります。つまり男のところへ行って抱かれて来いということです。そしてその結果を聞きます。
そうすると、感想として、うちのトレーニングを受けた後は、とんでもなく快感が高まったと言うわけです。それは肉体的にも、精神的にも。
肉体的にまず強烈な快感があり、精神的快感として非常に満足するという。ヨットスクールに来る前のセックスは一体何だったのかというほど、圧倒的に違うわけです。
それは当然のことで、そういう快感というのは、肉体的にも精神的にも両方とも、ドーパミンというホルモンが起こすから、それがたくさん分泌するようになれば快感は高まります。これが特徴の1つ。
[教育は相手を良い方に変化させること]
もう1つ、本人達ははっきりとは言えないのだけれども、何となく「人生に目的ができたような気がする」とか、「生きることがどういうことか何となく分かった」とか、そういう哲学的な難しいことを言い始めます。共通してみんな言うんですよ。ここに大きなヒントがあります。
教育をする、あるいはしつけをするということは、自分より下の者を変化させようとしているわけです。
教育やしつけの変化の仕方というのは、良い方に向かって変化させること。悪い方に変化させるのは教育ではないから。
どこか良い方に向かって、子供なり自分より下の者なりをずっと引っ張っていく、あるいは後ろから押してやる、変化させる、これが教育あるいはしつけになります。
そうすると、教育をする人というのはその目的地が分かっていないといけないわけです。いったいどこに向かって子供を変化させようとしているのかという。
それはつまり、人生の目的に向かって子供を変化させようという、あるいは目下の者を変えていこうということ。
では人生の目的とは一体何なのかということになります。
生きるということは何なのか。さっき言った女の子、女の子達はなんとなく実感したわけですね、人生の目的というものを。
はっきりとは分わからないのだけれども、なんとなく分わかったという結果がたくさん出ています。男もおそらくそうだと思いますが。
[幸福は自分の脳の能力次第]
そこで人生の定義を作らなければいけない。
定義の作り方は「帰納法」です。人生の目的と言われているものをたくさん集めるわけです、百でも千でも万でも。そしてそれらに共通する項を探せばよい。その最大公約数、これが人生の目的の定義になるわけです。
「オリンピックで優勝する」、「金持ちになる」、「いいお嫁さんをもらう」、「いいだんな様をもらう」、「東大に入る」、「良い会社に入る」、「社長になる」、抽象的には「幸福になる」、「喜びの多い人生を送る」とか、それらのことに完全に共通する項が浮かび上がってきます。
全てが精神的快感であるということ。だから、いかに大きな精神的快感を得るかということが人生の目的です。
ノーベル賞をもらうのも、オリンピックで優勝するのも、いい女を手に入れるのも、いい男を手に入れるのも、そのための手段にすぎない。
オリンピックで優勝したという情報が入ってくると、パッと快感が発生します。いい男に抱かれた、いい男と結婚したという情報が入ってくると、ワアッと快感が湧いてくる。
だから、通常我々が人生の目的と言っているものは手段であって、それによって精神的快感が発生する。その精神的快感というのは、脳幹から分泌されるドーパミンの量によって決まります。
すなわち、同じ情報が入ってきても、脳幹の能力によって大きい快感が発生する人と、たいしたことのない人の両方に分かれます。
いかに幸福になれるかというのは、自分の脳の能力であると言えます。情報が一緒でも、その処理の仕方が違うのだから。
我々がまず考えるべきことは、人生の目的と言われている幸福とか、喜びとか、そういうものは自分の能力に応じて得られるということです。
金持ちの娘と貧乏人の娘がいる。アイスクリームを1つ買ってもらって、貧乏人の娘はものすごくうれしい、車1台買ってもらっても金持ちの娘はあまり嬉しくない、となると、どちらがいいのかということ。
人生の目的の定義とは、大きな精神的快感を得ることです。
哲学とか文学、教育学というのはその最大公約数というところをつかんでいないわけです。係数を知らない。ニュートンの言うαが分からない。
だけれども、脳生理学から行くととそれはすぐに出てくる。これが係数なんです。それに合うような行動をすればよい、情報処理をすればよい、情報を得ればよい。教育をするときは子供をそちらの方向に押しやっていけばよい、あるいは引っ張っていけばよい。
そうすると、学歴社会ということがアホらしくなってくるわけです。
どういうメカニズムで幸福を得られるかということをはっきり把握すれば、別に学歴によって得られるわけではないと分かる。これをみんなが完全に体得した時に、初めて学歴社会はなくなるんです。
だけど、今はみんないい大学に入って、いいところに就職して、ある程度のお金をもらって、できたら出世して、そういうのが幸福になることだと思っている。だから、一斉にそれを目がけて競争が激しくなるわけです。しかし、実際はそうではないんだということになれば、そんな無駄な競争、無駄な時間を使う必要はないということになります。
[ストレスが脳を鍛える]
今言ったのは戦略論、ハードウエア論です。これからはソフトウエア論になります。
どうすればそういう1番大きな情報を手に入れられるか。ここでは能力ということが1番重要になってきます。
ここでトレーニングの理論が必要になります。能力を高めるというのはトレーニングですから。裏返せば、トレーニングをしなければ能力は低下する。使わないものはやせる。もともとトレーニングというのは、「使わないものはやせる」ということを逆に利用したにすぎません。
基本的には、エネルギー消費をいかに減らすかということが問題なんだから。外からかかってくる負荷に応じた機能を持つように、細胞が委縮していくわけです。機能が低下していくわけです。これが本来の姿であって、エネルギー節約のためです。
それを逆に利用して、負荷をどんどんどんどん高めていってやると、機能がどんどん増加していく。もちろん限界はありますが。こういうふうにしたのがトレーニングです。
人間を、肉体と精神の2つに分けます。肉体のトレーニングをするためには、肉体的な負荷を与える。ならば、精神のトレーニングをするためには精神的な負荷を与えればよい。
では精神的負荷とは何なのだろうか。これは何かよく分からないけれども、通常負荷と言われているものをずっとたどってみると分わかる。全てが不快感であるということ。
不快感を発生させるような状況、これこそが精神的負荷である。
さらに、不快感を発生させ続けるというような状態。例えば、社長にいじめられて、「あの野郎」と思い続けている。すると不快感が発生し続けます。不快感が発生し続けている状態が、ストレス。
ストレスというのはもともと工学用語です。鉄骨を作る、その鉄骨にストレスがかかっているというのは、力がかかり続けている状態です。エネルギーが加えられ続ける、発生し続けるという状態がストレスです。これを間違えてはいけません。
人間の場合は頭がいいから、考え続けることによってストレスが発生できる。豚などの家畜の場合は、やかましい音が続けばストレスを発生するけれども、なくなれば止まる。
心理学者の人などが間違っているのは、豚も現代社会ではストレスが発生するということ。人間と同じように、というところが間違っています。
人間は特別頭がいいから、どんなことでも長く考え続けることができる。女の子に振られたとか、社長にいじめられたとか、先生にしかられたとか、そういうことを長く考え続けられる。だからストレスが発生するのです。
家畜にしろ動物にしろそういうことは起こらない、それほど頭が良くないから。外の状況により、情報が続く場合だけ動物はストレスが発生します。
昔はストレスを取り去れというのが主流でしたが、今は明らかに違っています。適当なストレスは必要であるということで。
ストレスがなくなれば負荷がなくなる。負荷がなくなれば脳の機能が低下する。脳の機能を維持しようと思えば、負荷は必ずなくてはいけない。それによって、その負荷に応じた機能を脳が持つもので、だから機能を維持し続けることができる。そういう順番なんです。
[最も質の高い不快感を与えよ]
次に、一体われわれの脳はどれくらいの負荷を目論んで作られているのか、その問題を解決しておかなければなりません。
最初に言ったように、精神というのは情報処理である。情報処理の仕方は、外から五感によって感覚という形で情報が入ってくる、それを脳が情報処理して行動をさせる、行動した結果、不快感が消えて快感が湧いてくる、という順番で、情報処理と行動が、肉体と精神がつながっています。
1番質の高い情報、1番質の高い不快感というのは、1番大きな、迅速な行動をしなければいけないときですね。これは、生きるか死ぬかという時に決まっています。だから、もしかしたら死ぬかもしれないという情報を与えてやれば、脳は1番大きな不快感を発生して、1番すばやい、大きな行動をとろうとする。
では、生きるか死ぬかの状態を、いかに安全に作るか。しかも、行動でもってその状態から逃れるという状況。
これさえ作ってやれば、脳が盛んに情報処理をして、それが負荷となって脳のトレーニングができ、さらに脳が予定されていた状態になります。
2万年前に今の我々はできましたから、その時の社会状況に合わせて脳が設計されているわけですね。その最大負荷まで与えてやると、正常な状態になります。
だから、生きるか死ぬかという状態をつくってやって、その状態から人間の行動でもって生きる方向へ向かわせれば、脳はトレーニングできます。
これが人間の行動を抜きにするとトレーニングできません。
ジェットコースターに乗っても、ホラー映画を観てもダメ。あれは、時間がくるとその状態がなくなってしまうから。自分の行動を抜きに、その不快感を取り去ることができてしまうから。そうするとトレーニングはできない。それがどうしてかはまだよく分わからないが、不思議なことにできない。
さらに、情報処理の仕方に注目します。
精神は知・情・意の3つに分かれますから、外から情報が入ってくるとまず不快感が発生する、不快感は嫌だからそれを取り去ろうとする、この取り去ろうとすることが意志です。
その取り去る方法は行動だから、意志が行動をさせる。
行動の目的は、目的を達成すること、適用行動をすること。だから行動すれば適用行動をするわけ。
その結果、目的を達成したら不快感が消えて快感が湧く。
この順番ですから、いかに大きな不快感が湧くかということが、いかに大きな意志が発生するかということである。それが、いかに大きな行動をするかということであり、いかに大きな目的を達成するかということであり、いかに大きな快感が発生するかということになります。
つまり、最初のいかに大きな不快感を発生させることができるかという能力が、いかに大きな快感を発生させることができるかという能力につながります。
現代社会を見てみると、普通、教育というのは男が戦略をやって、女が戦術をやります。
戦略というのは、能力そのものを高めようということ。戦術というのは、その能力を発揮する技術を高めようとすること。
例えば、ニンジンの嫌いな子にどうやってニンジンを食べさせるか。
[ニンジンを好きにさせる方法]
ある日お母さんが、子供を連れてやってくる。「いったい何事ですか?」と聞くと「子供がニンジンを食べなくて困ります。何とか食べるようにして下さい」と言う。「そんなことはうちでやることではないから帰りなさい」と言うと、「PTAで、担任の先生から、お宅のお子さんはニンジンを食べないので困りますと言われ、何とかしないといけないのです」と答える。
この先生というのは卑怯ですよ。そんなものは子供に直接「食べろ」と言えばいいのに、子供には何も言わずにおいてお母さんに言うんですね。
しかもです、陰でこっそり言えばいいのにみんなの前で言う。そういうことによって、責任を親に押し付けようとしているわけです。そしてお母さんが恥をかく。恥をかきたくないから、子供にニンジンを食べさせて欲しいというわけ。
そうすると、これはもう教育ではないですね。子供のためにやるのではない、大人のためにやるのだから。
そこで、「うちは教育をするところですからそんなことは引き受けません」と言ったんです。すると「お金はいくらでも払います」と言うんですね。「これはちょっとお高くなりますが」と言うと「結構です」、「百万払ってください」、「よろしい」と言うんです。「持って来て下さい」というと持って来るんですね。「それならやりましょう」ということで始めます。
PTAなんかの集まりで、よくお母さん方が多勢集まります。
この前長崎の私立幼稚園の、先生・理事長・主任とかいう偉い人の集まりの時に講演をしました。ほとんどが女の人です。
そこでこの質問を出しました、「ニンジンの嫌いな子にどうやってニンジンを食べさせるか」。
するとお母さんの答えは決まっています、「おいしくして食べさせます」と。
そんなことをやっているからダメなんです。そんなものは戦術にすぎないということ。
食べる能力を持った子供なら、美味しいものをよりおいしく食べることができますが、まず食べる能力、これがあるかどうかが問題なんです。それがないから子供が食べないんです。
だったらばその能力を作ってやればよい。するとニンジンを食べる能力とは一体何か、ということになりますね。
やり方としては昔のやり方です。2日間断食させます。厳重に監視をして一切何も食べさせません。そして2日目にニンジンを食べさせる。腹がペコペコになって、何がなんでも何かを食べたいという状態にしておいてニンジンを食べさせる、塩ゆでにして味をつけて。そうして、横で見ていて「美味いか」と聞くと「美味い、美味い」と言って食べる。
ここで初めて、子供はニンジンが美味いということを体得するわけです。
ニンジンというのは美味いからこそ、いまだに人間が食べているんですよ。
子供は、子供にとって嫌な味とかにおいがあるものは、美味いところまで行き着く前に吐き出してしまうんです。だったら、ニンジンが美味いものであるということを体得させてやる。体得すると、「ニンジンは美味い、だから食べる」。
ニンジンを食べる能力というのは、ニンジンが本人にとって美味いものでなければできない。これが必然性であり能力である。これが戦略です。
ニンジンが美味いということが分かったら、後はできるだけおいしくして食べさせてやればよい。これが女のやること、戦術です。
最初の厳しい部分は男がやる、つまり戦略。その2つに分けてやらないといけないんです。
[脳幹は子供のうちに鍛えるもの]
人生の目的というものにしても、幸福にしてやるというふうに男は考えてはいけない。
女は、子供を幸福にしてやるというふうに考えます。
男は、幸福になる能力を与えてやる、トレーニングをしてやると考えたらよいのです。
そういう、男と女の教育の仕方の違い、役割分担の違い、それが元としてあるのに、戦後民主主義は女の立場だけを正しいとした。そのため、男のやることはみんな悪いということになってしまった、うちが逮捕されたように。
そして、子供から精神的負荷を取り除いていった、不快感を発生させないようにしていったのです。危ない遊びをさせない、いい子はここで遊ばない、と。
その結果、子供には精神的負荷が、それも非常に質の高い精神的負荷がなくなってしまった。
質の高い精神的負荷がなくなったから、脳の質が低下した。
その部分だけが低下するだけなら良いが、他の色んな部分、脳の機能全体までが低下してしまったため、免疫に異常が起こったり、病気の治りが遅くなったり、ウイルスがウイルスをやっつける力を失ってしまったりした。細菌は薬でやっつけられるけれども、ウイルスは薬ではやっつけられないんですね。ウイルス単体だったらやっつけられるけれども、ウイルスが遺伝子の中に入り込んだ場合、その遺伝子の中、DNAの中からウイルスを取り除く方法はないわけです。免疫だけがそれができる。
だから、脳を正常にすれば、免疫は脳が支配しているから、免疫も正常になる。免疫が正常になれば、ウイルスをやっつけることができる。すると、ウイルス性の病気が治る。
今は脳が弱くなったからウイルスをやっつけることができない。それで、この頃やけにウイルス性の病気が多くなったわけです。色んな治らない病気というのがたくさんあって、それをよく調べてみると、やっぱりウイルスが原因だったと、そういうことがたくさんあります。それが現状です。
こういったことが、うちの言う人生の定義であり、目的です。
戦略のミスは戦術では補えない。戦術のミスは戦略で補える。これは鉄則です。ですから、人生を考えるときには、まず戦略の面から考えていかないといけません。幸福になる戦略。
ここで注意すべこことは、それぞれ体には成長期があるように、脳にも成長期があるということ。
個体発生は系統発生を繰り返すという原則がありますから、原始的な部分から成長していく。逆に、原始的な部分から成長が早く止まる。
そこで今、我々が1番問題にしているのが、脳の中で最も原始的な部分、脳幹部です。その脳幹部の成長というのは、非常に小さな内、おそらく小学校いっぱいで止まるはずです。だから一刻も早く、子供に対して、その脳幹部が発達するような、能力を増大させるような方法をこうじてやらないと、何のために生きているかわからない、というような状態になりかねません。
しかし、今うちが開発した方法を子供にやらせれば、割と簡単にできるのではないかと期待できます。これは、教育、あるいは人生そのものの戦略になります。このメカニズムを、我々は、今の日本全体は、失ってしまっているのです。