T章 体罰はタブーか


他人を平気で攻撃する。非行にはつねに他人に対する甘えがある


 私は、この本の中で事実だけを語ろうと思う。
 今、私の周囲にはあまりにも事実とかけ離れた情報が渦巻いています。非難、中傷、嫉妬の数々。戸塚ヨットスクールは暴力の巣窟であるといい、そこでは日々、子供達に対するリンチが行なわれているという、そういった情報が洪水のように流されているのを見て、私は暗い気持ちにならざるをえません。人間には"事実"を見る力がないのか?そんなはずはないと思いつつも、あまりに的外れな情報が多いことに気づくとき、世の中いったい、どうなっているのかと思ってしまうのです。
 私がしていることは、複雑なことではありません。
 私は、1977年にヨットスクールを開校しました。学校法人ではありません。「株式会社戸塚ヨットスクール」です。なぜ、学校法人ではないのか?申請しても認められないからではありません。認められるにしても私は学校法人にしようとは思いません。学校法人となることによって、あまりにも問題の多い教育基本法の制約を受けざるをえなくなるし、また、あまりにも問題の多い文部省の管轄に入らざるをえないからです。
 私は、それを拒否します。子供達にとって何が本当に必要なのか、真剣に考えれば考えるほど拒否せざるをえなくなります。私には、ニセモノであることを知って、子供達に虚妄の教育を押しつけることができません。
 開校以後、現在までに約700人の子供達を戸塚ヨットスクールに迎えて来ました。いずれも、どこかに問題を抱えている子供達です。おおよその内訳を言えば、初期の頃は非行45%、登校拒否・家庭内暴力45%、そして無気力症が10%です。最近は無気力症の子供が増え、全体の40%近くを占めています。そして非行、登校拒否・家庭内暴力がそれぞれ30%ぐらいです。もちろん、以上の3つの分類は厳密な区別ではなく、非行タイプでも無気力の傾向を合わせ持つ子供がいたり、非行と家庭内暴力が一緒だったりというのが現状です。
 そして、私は彼ら、エモーショナル・トラブルド・チルドレン(エモーショナル・ディスターブド・チルドレンとも言う。日本語では、一般に情緒障害児と訳されている)を直し、社会に送り返してきました。
 それが、基本的な事実です。
 一人一人がどういうケースだったのか、そしてどこに問題があり、どういうプロセスを通じてヨットスクールを卒業していったのか、その詳細は後に書きます。
 ここでは、ヨット訓練を通じて子供達に、"何か"をつかませたのだ、とだけ言っておけばいいでしょう。

 なぜ、ヨットなのか?
 陸上に生きる人間にとって、海に出ることはそれだけで危険を意味します。その危険に自らの意志で立ち向かおうとしなければ、即、それは死につながってしまいます。しかし、ヨット自体は危険な乗り物ではありません。小さなヨットが太平洋に乗り出し台風に巻きこまれたにしても転覆することはありません。人間が海に放り出されるか、船体に穴が開き水が入らない限り、転覆しない構造になっているのです。
 それでも、小さなヨットで海に出ることには本能的な恐怖がつきまといます。体力がなければ海、そして風と格闘することはできないでしょう。また、闘おうとする意志がなければ、死が迫ってきます。甘えは許されない世界なのです。言い訳も通用しません。海で生き抜くためには技術と、意志が要求されます。
 そういう状況の中で、私は子供達に"何か"をつかませてきたのです。
 わがままを言い、他人を他人と思わず平気で攻撃していく。それが非行の典型です。非行には常に他人に対する甘えがあります。
 学校に行かず家に閉じこもり、その中で暴れる。家庭内暴力には、どこかで断ち切らなければならないもう1つのヘソの緒が見え隠れしています。
 何もできず、生ける屍のように呆然と日々をかろうじて生きている。無気力タイプの子供達は、心をスパークさせる糸口を探しあぐねて迷路に入り込んでしまっているのです。
 そういった子供達に、生きることの本当の意味を教えるのがヨットであったと、私は考えています。彼らはヨットを通じて実存状況と対時するのです。
 そのために、私は容赦なく子供達を鍛えあげます。
 海では、体力がなければ生きていかれません。普通の人間の何倍もの体力を要求しているわけではありません。ごく普通の子供達が持っているべき体力、そして機敏性です。それを養うために、ハードなトレーニングを積みます。それを過酷と言う人もいるでしょう。しかし、必要なのです。生きるために。生きるきっかけと意志力をつかむために。体罰は、当然、伴います。



無気力症の子供は生存欲が希薄であり、生きる土台ができてない


 私は子供に対する体罰を否定しません。必要不可欠なものだと思っています。それは私が、独善的に考えているのではありません。人間の経験の中から導き出されてきたものなのです。
 わかりやすい話を1つ、書きましょう。
 私達大人がクルマを運転している時、制限速度以内で走ろうとします。時速50qと定められていれば、その速度を嫌でも守ろうとします。ホントはもっと速く走りたいと思うのですが、それを越えて走っている時パトロールカーに見つかれば、スピード違反で罰金をとられてしまうからです。そういうリスク、ペナルティーが用意されているから、スピードを守ろうとする。法律にはペナルティーがついている。大人ですら、それなしには決まりを守りきれないからです。ならば、なぜ、子供に罰が不必要なのか?
 単に叱るだけでいいではないかと、言う人もいるでしょう。
 叱ることと、体罰はまるで違います。
 叱ることによって「しつけ」はできます。家庭内の、あるいは社会の約束事を守らせることはできるでしょう。しかし、それ以上の効果はあげられません。
 人間にはいくつかの本能があります。食欲(生存欲)、そして性欲。その他に第3の本能として、向上欲とでも言うべきものがあります。より以上の存在になろう、もっと上の何者かになろうという欲求です。進歩欲と言ってもいいでしょう。それに目覚めさせることは大切なことです。そして、その第3の本能に目覚めようとしない子供達がいることも確かなのです。目覚める回路を塞がれている子供達と言うこともできます。そういう子供達が、戸塚ヨットスクールには入って来ます。
 その子供達に第3の本能に目覚めさせるには、強い刺激が必要です。過酷なこと、つらいことを子供達が引き受けて、それを乗り越える。乗り越えた時、初めて彼らは自分達にも第3の本能があることに気づくのです。
 ぬくぬくと甘やかされて育った子供は、第3の本能どころか、より根底にある第1の本能(生存欲)さえ未発達なのです。わかりやすくいえば生命力が弱いのです。無気力症の子供達は生存欲そのものが希薄であり、人間として生きる上での土台ができていない。それを直すには、リスクいっぱいの状況に放り出して、生存欲に火をつけてやる必要がある。つまり、強烈な外的ショックこそ子供達を生かす1番有効な方法であり、体罰はその一手段にほかなりません。
 あえて、私達は子供に過酷な状況を強いているのです。誰もそれを取り除いてはくれない、自分で這い上がり解決するほかないのだと気づくまで、その状況は変わりません。
 殴ります。蹴ることもします。それは事実です。
 子供にとっては、つらい状況でしょう。しかし、それは自分で克服するほかないのです。誰かのせいにして、そこから逃れることができるでしょうか?自分の足で立ち上がり、前へ進むほかないのです。体を動かし、困難な状況に立ち向かう。それによって初めて、第1の本能が活性化し、さらに第3の本能に目覚め、進歩し始めるのです。
 今、情緒障害児にとって最も問題なのは、いかにしてこの生存欲求と進歩欲求を引き出していくか、なのです。叱る。怒る――それだけでは、子供の1番根っ子のところは動きません。体罰が必要なのです。もちろん、何がなんでも殴ればいいというのではありません。体罰を加えるには、統一性が必要です。
 例えば、子供が言葉遣いで親をバカにしたようなことを言ったとしましょう。その時に親が怒る。あるいは体罰を加える。ところが次に同じようなことを言った時、今度は親が怒らない、体罰を加えないとしましょう。体罰が不統一だと、子供は返って不安になってしまいます。
 その統一性は大人の側がきっちりとつかんでいなければなりません。そしてもう1つ大切なのは、体罰を加える場合、その場でただちに行なうことです。後になって思い出したように行なうことは絶対に避けなければなりません。また、体罰を加える時、していいところ、部位に気をつけなければならないこと、言うまでもありません。
 腕、尻、あるいは大腿部などがその場所です。私達は、そういう原則の中で子供達に体罰を加えています。

 戸塚ヨットスクールから脱走する子供達がいるではないか、という非難も耳にします。そして、その後には必ず、そんなにひどいことをしているのだと言うのです。
 事実を書きましょう。
 逃げる子供はいます。逃げたがる子供は、たくさんいるでしょう。なぜなら、私達は子供につらいことを強いているのですから。過酷な状況を与えているのですから。できれば、そこから逃れたいと思うのは当然です。
 しかし、そこで逃げてしまったらおしまいだと感じ、その過酷な状況を克服しようとしている子供達もいるのです。それもまた、事実です。
 今ここで逃げてしまったら、一生、自分の人生から逃げることになるのだぞと、そういう言い方をしてわかるのは大人か、それなりに理解力のある子供でしょう。言葉で言うだけでは、無力です。それゆえ、私達は強制します。逃げないように。逃げずに、克服するように。それが戸塚ヨットスクールのやり方なのです。
 笑い話を、1つ書きましょう。
 そんな方法でやられたら、ますます海が怖くなってしまう、と言う人がいるのです。泳げない子供を無理やり海に放り込んだら、海に対する恐怖心が増すばかりだ、と。
 真剣にそういうことを言う人がいます。これはお笑いぐさです。泳げるところまでやらずに、中途半端で終わらせるから、ますます怖くなるのです。最終的に泳げるようになるまで繰り返し、繰り返しトライさせることによって初めて人は怖さを克服するのです。克服とは、そういうことを言うのです。
 私は、子供達に克服することを教えてきました。現に、この手で、400人以上の子供達、しかも、世間では情緒障害児と呼ばれている子供達を、社会に送り返してきました。ハンパなことはしてこなかった。その点には誇りを持っています。
 以上が、戸塚ヨットスクールの、現にしていることのアウトラインです。細かくは次章以下で詳述します。その中から、当たり前に強い子供を育てるにはどうしたちいいのかという問いに対する答えが、自ずと導き出されてくるはずです。



それらしい"論"を並べても、ひとりの登校拒否児を救えはしない


 その前に、もう1つ、言っておかなければならないことがあります。
 矛先を、マスコミをはじめとする"大人社会"に向けてみましょう。
 先に私は、人間には"事実"を見る力はないのか?と疑問を呈しておきました。
 例えば、こういうことです。
 1りのコーチが子供を殴っている。その瞬間だけを切りとってきて、これは虐待だと言いたて、騒ぎたてる。それが、果たして限りなく真実に近い事実だろうか。ヨットスクールを逃げ出した子供を捕まえて、殴られた、蹴られたという言葉だけを吐かせる。それを前面に押し出して、戸塚ヨットスクールがあたかもリンチの魔窟の如く言う。スクールのコーチは血に飢えた残忍な暴力魔の如く言う。それが、ジャーナリストの見つめるべき真実ですか?
 断じて、否です。私は、そう思います。
 現実の人間社会が抱えている病根、問題点を鋭くえぐり出して、解決への突破口を開く。それがジャーナリズムの本来、あるべき姿ではないか。せん越とは思うが、私はそう考えています。とするならば、非行、登校拒否、家庭内暴力、そして無気力シンドロームにとりつかれた子供達の背後に何があるのか、そしてその解決のために今、何が必要なのかを探ることが、基本に据えられるべきだと思います。
 にもかかわらず、現実はさながら"魔女狩り"の如しです。
 マスコミは、戸塚ヨットスクールの背後に見えているはずの社会の現実を知らずに、おびただしい誤った情報を流し続けているのか。だとすれば、その罪は大きい。情報を流す側にとって無知は許されるはずもないからです。
 しかし、私はそう考えていません。
 皆、わかっているのです。非行、校内暴力、覚醒剤、登校拒否・家庭内暴力、無気力症……。ありとあらゆる病巣が子供達の世界を覆いつくしていることを知っているのだと思います。
 そして、彼らは無力だった。
 マスコミも、教育者も、教育評論家も、インテリ達も、文部省の役人達も、父親も、そして母親も……。皆、手をこまねくばかりでそれらの問題に対して有効な手を打つことができなかった。
 彼らがしてきたことは、実に限られています。まず、問題が起きる。そこで彼らは会議を開くのです。いいでしょう。しかし、その結果、何が行なわれるのか?せいぜい、実態調査を進め、文部省は各学校長に通達を出し、マスコミは出来事をセンセーショナルに取り上げて、ヒステリックにわめきたて、評論家達は社会の欠陥を指摘し、親達は口ごもりながら困ったもんだとつぷやく。そうして、誰も、何もしようとしないのです。
 あるいは、こんな風に言います。子供達は愛に飢えているんだ、と。温かい目で見守っていきましょう、と。
 そう言っていれば、何かが解決すると、本当に思っているのですか?アホらしい。
 私に言わせれば、それらは、自分が何もしないことに対する言い訳にすぎない。いくつもの"論"を並べたて、分析し、テレビカメラに向かって評論家でございと、しごくもっともな言葉をまき散らしていれば、1人の登校拒否児を救えると言うのですか?答えは"ノー"です。もはや、語ることによって、この問題は解決しません。
 私は、万語を費やすよりも、自分の方法で実行しようとしました。
 そして、実績をあげた。これからも、同じ方法で続けていこうとしています。
 それに対して、なぜ"魔女狩り"が行なわれるのか?
 おそらく、私がタブーに触れたからでしょう。子供に対する体罰というタブーに、です。
 歴史を思い出して下さい。
 例えば、かつてダーウィンは『種の起源』を著して当時の西欧社会から猛反撃をくいました。人は神の子であると、キリスト教は規定していたのです。地球が神によって創造されたのは紀元前4004年10月23日の日曜日午前9時と、計算までして、人類の起源を説いた。それが聖書の世界です。ところが、ダーウィンは、ビーグル号で南米へ行きアンデス山脈に登った時に山のてっぺんで貝の化石を発見する。あのアンデス山脈が、かつて海底にあり、海底の隆起によってできあがったものであることがわかるわけです。
 となれば、紀元前4004年に地球が誕生したという聖書の説など、真っ赤な偽りだということになります。
 やがてダーウィンは、人類が獣形類から進化したものであることを証明します。恐竜が誕生するちょっと前にこの地球上にいた"類"です。そこから進化し始め、サルにいきつき、その後で人類が誕生した。
 しかし、ダーウィンの説は、当時の西欧社会のタブーに触れたのです。人は神の子であるというタブーです。それを否定するものは何人たりとも許さない。それがタブーに触れた者に対する社会の態度です。
 子供に対する体罰はいけない。戦後、そういうルールができました。その上に、戦後の教育は築き上げられてきました。教育者も、その掟に縛られてきました。考えてみれば、それは実にラクな掟です。ある一線以上、教師は子供の世界に介入しないですむわけですから。子供達に、本当に必要なものが何なのかを教えなくてもいいのですから。サラリーマン教師でも十分に務まります。
 また、評論家もそうです。子供に対する愛情の問題だと、最後にはそれを言っていればよかった。歯の浮くような論をひねりだし、原稿用紙に書きつけていればよかった。
 しかし、よく考えてみて下さい。
 それで何事も起こらずにすむわけがありません。言葉をまき散らすだけで問題解決を先へ先へと延ばせば、最後にはそのツケがまわってきます。
 そのツケが、今、山ほどたまっているではありませんか。子供達の荒廃という形のツケが、ほかならぬ私達の前につきつけられているのです。
 それでもまだ、彼らは自分の手で何もしようとはしないのです。
 そして逆に、私達の足を引っぱろうとしている。私の目から見れば、それは"嫉妬"と見えます。自分達が長年かけてなしえなかったことを、教育の門外漢が解決しようとしているらしい。その時彼らは、まず、否定するのです。そんなことができるはずがない、と。次に実例を示されると、今度はアラ探しをするのです。
 嫉妬の感情を克服する方法を教えましょう。
 1つは、相手を自分のレベルに引きずり下ろすことです。相手をこきおろし、否定し、それによって安心しようとするわけです。最低の方法です。
 もう1つ、方法があります。自分が努力して相手のレベルに到達する。自分に足りないものがあるんだという認識から出発し、謙虚に学ぶのです。そして同じレベルに達した時、嫉妬心はあとかたもなく消えています。
 おわかりでしょうか。
 ヒステリックにわめきたてることは、前者の方法です。それは日本という社会の中での"家庭内暴力"のようなものではありませんか。外に出ていくことができず、日本列島という平和な、安住空間の中で暴論を吐き、責任を転嫁し、自分は何もせずふんぞりかえっているのです。



すべてを責任転嫁し、親が悪いといいつづけて自分は何もしない


 そういう人達が日本の中での家庭内暴力だということがわかりにくければ、1つ、具体的なケースを示してみましょう。
 A君のケースです。
 A君が戸塚ヨットスクールに来たのは、中学を卒業した後です。中学時代から、学校に行かず、家に閉じこもっていました。そして、例によって家族に暴力をふるうのです。その方法は、バットを持って母親を追いかけまわし、物を壊し、憑かれたように親をののしり続けるのです。
 私達が、両親の要請があってA君を迎えに行った時は、包丁を持ち出してきました。
 「食事をさせる時も恐ろしくて、そっとあの子の部屋を開けて食事を置くと、もう逃げ出すように戻ってくるんです」――母親はそう言っていました。
 そのA君をヨットスクールに入学させた初日、私達はとにかくA君の話を聞こうとしました。とにかく、よくしゃべるのです。記録が残っています。A君は次のようなことを、早口でまくしたてるのです。
■A君の話――「ぽくのこと、話すんですか。昭和43年4月1日生まれ。子供の教育について。子供というのはある例を出してみると、父親と母親が数学の塾の先生をやっており、父親も母親もすごく数学ができて、そこに女の子が生まれた。これ、実際にあった例で、それでその女の子が、両親を見て数学に興味を持ち始めたわけ。父親も母親も、その興味ある時に、どんどん教え込んだらたった4歳にして高校1年生の数学の問題もスラスラ解けてしまったとか、それからテレビでそういう専門家がゆってたけど、女の人が母体が妊娠中にお酒を飲むと子供に悪影響が起きて悪い子供ができると。それから子供がいるところでタバコを吸うと、タバコの煙が子供の鼻や口から入って、10本吸うごとに子供は1本吸ったのと同じ状態になり……(君自身のことを聞きたいんだけどな――質問)。あ、ぼくが悪くなった理由ですか。小さい時から教えなかった(注・教えてもらえなかった)のと、それから、ぼくがなんやかんやと。あ、そうか、まだ例があるんですけど、その父親が息子を殺したという例があるんですけど、その男の子が本当はものすごく成績がよかったのに……(君自身のことを話してくれよ)。あ、そうか。それでぽくの場合は、父親と母親がもめてばかりいたので、それから3歳から6歳、または生まれてすぐ勉強を教えてくれればよくなれたのにそれを(親が)怠ったし……(つまり、家庭内がもめていたから成績が急激に下がったということかな?)。ぽくですか?ぽくは元々親がお酒飲んで、男の人がお酒飲んで、そういうことしたから、それで悪影響が出たわけであり、プログラムするのは父親であり、母親であり……」
 適当なところでカットしましょう。
 A君は、今のような話を繰り返し、繰り返しするわけです。自分が登校拒否になって家の中で暴力をふるうのは、そもそもは親が酒を飲んだ時にできた子供だからだと。それを毎日のように親に言いながら、いらだち、母親に暴力をふるっていたわけです。
 家庭という中で、全てを責任転嫁し、自分が悪いのではない、悪いのは親なのだと言い続けて自分は何もしないわけです。何もできないのです。
 このケースと、先ほど書いた何もせずにごたくばかり並べている大人達(マスコミ、「文化人」達)を全く同一視するわけではありません。
 しかし、その基本構造は実によく似ています。
 自分では行動しないこと。他を非難し、足をひっぱろうとすること。一人前に論を並べたてること。そして、いらだっていること。
 それゆえ、私は、彼らを日本列島という中で家庭内暴力をふるっているようなものだと書いたわけです。
 ところで、その後、A君がどうなったか、ここに書いておきましょう。
 A君は5か月間、戸塚ヨットスクールにいました。他の生徒達と全く同じ訓練を受けました。コーチは、A君が何を言おうと、強圧的な態度で臨みました。何でも人のせいにするクセはすぐに消えるわけではありません。体操でしごかれ、ヨット訓練で海に落とされ、泣いてもわめいても、自分の力で這いあがることを強いていったわけです。A君は実に涙もろい少年でした。ことあるごとに泣くのです。それもまた1つのプロセスです。言葉が受け入れられなくなると、涙を流すわけです。そして、5か月。A君はヨットスクールを卒業して、今は高校に通うようになっています。登校拒否は、していません。



次の時代を担う子供たちが、まやかしの論理のなかで腐敗していく


 話をもとに戻しましょう。  既に体罰はタブーではありません。私はそう考えています。体罰を否定したために、むしろ人間のあるべき基本から外れて全体が崩壊しかかっている。タブー視するほどの価値は、体罰にはありません。にもかかわらず、体罰はいけないことだという虚妄にとりつかれているのが現状です。そして、その虚妄にがんじがらめにされていることに気づかず、言葉、論理だけで砂上の楼閣を築いているのです。
 そのインチキ性に目覚める時がきています。
 誤解を恐れずにあえて言いましょう。"愛"で問題児達は救えません。なぜなら、愛は、どこまでいってもまやかし以外のなにものでもないからです。あいまいな、ふわふわしたもので救えるほど、現状はやわではないのです。
 日本人は、ことあるごとに"精神"という言葉を持ち出してきます。これもまた、虚妄です。私は体罰を主張し、スパルタを復活させようとしているからといって、日本の古い考え方を持ち出そうとしているのではありません。私の中には復古趣味など、ケほどもありません。そんなもので現状を救うことができるなどとは、現場を見るにつけ、思えないのです。
 "精神"は、権威を維持するために権力者が利用するレトリックです。例えば、日本では茶の湯が茶道になり、剣術が剣道になり、弓術は弓道になる。術を道と言い替えることによって、継ぐべきものは技術ではなく精神だということになるわけです。そうすることによって、権威を世襲しようとする。精神は世襲できます。目に見えないからです。ところが、技術は世襲できない。目に見えるからです。わかりやすくいえば、剣術の達人を父に持って生まれた場合、技術が伴わなくても継ぐべきものが精神であり、道であるならば、何の不思議もなく世襲できるのです。
 そういうあやふやなものが、精神です。愛と同様、実に心もとないものではありませんか。
 ヨットマンの世界には"シーマンシップ"という言葉があります。
 この言葉は日本では"船乗り魂"と訳されています。海の男の魂なんだと。何となくわかるようで、実はよくわからない。オレは海の男なんだと、心の中に満ちあふれてくる内なる叫びがあれば、それが海の男の魂のような気がしますが、果たしてそれがシーマンシップか。
 私は、そういう考え方に常に疑問を抱くタイプの人間です。
 改めて英英辞典で調べたことがあります。シーマンシップの"シップ"とはこの場合、何を指しているのか。"テクニック"であると、出てくるのです。船をA地点からB地点まで安全に航行させるためのテクニック、それがシーマンシップであるというのです。
 目からうろこが落ちる思いでした。
 シーマンシップを身につけるためには、それゆえ気象を知らなければいけない。無線もできなければならない。当然、操船のテクニックを覚え、エンジンの整備を学び、ロープの使い方を体に覚えこませなければいけない……。それらのテクニックを自分のものにして初めてシーマンシップが身につくわけです。実にわかりやすい、科学的な説明です。船乗り魂という和訳をそのまま受け入れていたら、いつまでたってもある種の虚妄にとりつかれ続けていたでしょう。
 私は、虚妄を取り除くところから、全てが始まると考える人間です。人文科学の徒であるよりも自然科学の徒であることを選ぶ人間です。タブーに縛られていることはできません。砂上の楼閣をもてあそぶわけにはいきません。敢然と、実行するのみです。
 私の手がけている仕事は、"第零次産業"です。農業、漁業などの第一次産業、製造業を中心とする第二次産業、そして情報・サービス業の第三次産業という分類があります。現代は、その先の第四次産業論がさかんに言われていますが、その論議は何の役にも立たない学者、評論家がしていればいい。私は、人間の基本に立ち帰る"第零次産業"を担っていきます。社会に出ていく人間そのものをつくるのです。
 そして第三次産業に従事している人達は、第零次産業の、数少ない担い手である私達に対して向う岸から石を投げようとしているのです。
 私達とて、独善に走る気は毛頭ありません。独善はそれ自体がまた1つの虚妄を生み出します。
 精神=Shipとは、実は生きるためのテクニックであることを、私は知っています。非科学的な根性論をふりかざして子供達に体罰を加えているわけではないのです。
 私は、文明に対する責任感を負っています。この仕事を続ける限り、負い続けていこうと考えています。
 なぜなら、次の時代を担う子供達が、まやかしの論理の中で腐敗していくのを見るのに忍びないからです。それゆえ私は、自分の方法で問題児と対時しようとしたのです。このままでは、日本は内側から腐っていってしまう。それを本来の、あるべき姿に戻すことが、今の時代に生きる大人の責任なのではないか。私はそう考えています。
 さて――
 本論に入りましょう。戸塚ヨットスクールが、1977年の開校以来、何をしてきたのか。そこから何が見えたのか。私は無責任な評論家ではありませんから、壮大な論は展開しません。具体的な事実を挙げながら、語っていきましょう。