Y章 私のヨット体験


私は、自分の生だけを必死に支えることができるだけの人間だった


 ここで私自身のヨット体験について書いておきたいと思います。
 私がヨットから何を学んだのか、そして、なぜ今、戸塚ヨットスクールという形で情緒障害児達を立ち直らせようとしているのか、わかって頂けると思います。

 私は昭和15年生まれです。
 小さい時からヨットに憧れていたわけではありません。ヨットのことが頭の中で一定の位置を占めるようになったのは、中学時代だったと思います。単純な憧れです。青い海に青い空。白い帆に風を一杯に受けて海を疾走する。あの姿を見て、いいなあと思わない人は少ないでしょう。1枚のヨットの写真を見て、私はヨットに憧れるようになったわけです。しかし、すぐにヨットに乗れるわけではありません。今のように各地にジュニア・ヨットスクールがあったわけではないし、ヨットはあくまで一部の人達のスポーツであり、レジャーだったのです。
 私はどちらかといえば、社交的な性格の持ち主ではなかったと思う。外へ出て、同じ年頃の子供達と遊ぶより、家にこもって本を読んだり機械いじりをしている方が好きでした。1日中、部屋にこもって出て来ないなんていう日もありました。幸いにして、勉強をすることは嫌いではなかった。多少、引っ込み思案のタイプではありましたが、自分なりの目標を立てることは知っていました。
 名古屋で高校時代を過ごしました。大学は当然、名古屋大学へ進むものと決めていたような気がします。中京地区にある国立大学といえば、真っ先に出てくるのが名大であり、迷うことなくそこにターゲットを絞ったわけです。その頃の私は、スポーツなどやらず、むしろ勉強さえできればいいのだと考えていた方だと思います。世間で「秀才」と言われている人達に何の疑問も抱いていなかったし、それなりに勉強していれば、自分もそう言われることができるのではないかと、漠然と考えていたわけです。つまり、アウトドアでたくましく陽焼けするのではなく、青白い顔をして勉強していたわけです。
 それが大学に入って、ガラリと変わりました。一浪して名古屋大学工学部機械科に入学すると、ヨット部に入りました。あの時点で言えば、必ずしもヨットでなくてもよかったのかもしれない。何か、夢中になれるものを心の底から求めていたわけです。名大にヨット部があることを知ると、中学時代に、ヨットに憧れたことがまざまざと思い出されて、たまらなくなって入部したわけです。
 思った通り、夢中になりました。ヨットに夢中になり過ぎて卒業に心要な単位を取り損ねるほど、ヨット、ヨットの毎日だったのです。季節は問いません。夏はもちろん、真冬であろうと平気でトレーニングに出ました。寒いとは全く思わない。真冬でも、私はかなり薄着で過ごしていられたのです。高校時代とは、まるで逆です。
 ヨットを始めてほんの数か月で、自分の顔がまるっきり変わったことに気づきました。あの頃の写真を見ると如実にわかります。どちらかといえば"ネクラ"青年だった自分が、ヨットと一緒に写っている写真を見ると実に明るい顔で笑っているのです。1つのことをやり始めると、トコトンやらないと気が済まないという性格は小さい時からのものですが、表面に表れる明るさは、やはりヨットを始めて以後のことです。
 海に出て初めて、現実を知ったような気がします。それまでの自分は頭で考え、自分の考えは正しいと思い込むタイプの人間だったと思います。それが海に出て自然と対時する。どうあがいてみても、人間なんてちっぽけなものです。また、レースに出れば容易に勝てない。負ける。負けたという現実に直面せざるをえない。その現実の前では、言い訳は通用しない。そういうことを、まず学ぶわけです。
 本格的なヨットレースに出たのは、1965(昭40)年の「トランス・パック・レース」が最初です。ロサンゼルス―ホノルル間で争われる国際ヨットレース。第1回目は名大OBを含めて3人で参加しました。ヨットの名前は「チタU世」号。これは失敗でした。途中でマストが痛んでしまったのです。
 帰国すると、そのまま就職せずにアルバイトを始めました。その金を持ってハワイヘ向かいます。
 ハワイでヨットのレースに出るチャンスをつかもうと考えたわけです。しかし、どうにもならず帰国。今度は就職しました。サラリーマン生活は、2年半続きました。その間お金を貯め、それを全てヨットに注ぎ込みました。「チタV世」号です。そのヨットで再度、トランス・パック・レースに挑戦。69年のことです。その後南太平洋を回り、オーストラリアヘ。北上して香港。そこで香港―マニラ間のレースに出場。再び北上して日本に戻ってきました。帰国後は、小さなヨットスクールを作りました。
 それなりに充実したヨット体験でしたが、本当の意味でのヨット体験は、むしろその後でやってきます。
 ある出来事のことを思い出す時、私は、一篇の詩を口ずさみます。"光"というタイトルのついた石原慎太郎氏の作品です。ちょっと引用してみます。
 ある晴れ上った小春日和の午後、ようやくシーズンの終ったマリーナのテラスの陽だまりで私は生還者から奇蹟のすべてを聞いた。

 巨きな三角波が頭上から崩れ落ち、船室まで浸水したヨットは、水に投げこまれた石のようにあっ気なく沈んだという。その渦に巻きこまれようやく水面まで浮き上った時、彼らはたった一つの救命胴衣を手にしただけだった。
 接近する台風の風浪をのり切って岬をかわすことがついに出来ず、放り出された二人が今漂うところは、深夜の遠州灘のはるけき一点だった。岸に向って打ち寄せるこの浪に乗ってなんとか数理を岸まで泳ぎつこうと彼は思った。
 そして、一つの胴衣に二人がつかまって彼らは泳ぎ出したのだ。
 大きく崩れる波頭が、実は水とも空気ともつかぬ気泡の故に浮力が動かず、いかに苦しく悔しい罠であるかを初めて知った。崩れる波に乗ろうとする時、皮肉にもその度彼らは水に潜らなくてはならなかった。
 僚友は脱出の時すでに水を呑んでい、波に乗る度さらに水を呑んだ。そして、十何度目かの大波に乗った時、胴衣にくくりつけたその手を自ら断ち切るようにして沈んでいった。
 彼はそれを確かめ、残された胴衣を身につけ直し、さらに泳いだ。生れて初めて実際に使う胴衣は効果が薄く、やがて彼はそれを背にではなし胸の下に抱き敷いて泳ぐことが最も効き目あるのを発見した。
 どれほど泳ぎ漂ってか、辺りの波が前以上に高まり逆巻き出したのを見て陸が近いと悟った。数分後、彼の体は激しく逆巻く波頭に巻きこまれ弄ばれ、間違いなく陸地に叩きつけられた。が次の瞬間、引く波が彼をさらって水中に連れ戻した。
 陸を目の前にしながら、一層酷薄な崩れる水の壁の中で、彼はきりなく弄ばれ、幻覚に似た着地を味わってはまた引き戻され、溺れかけた。
 最後の一瞬、彼はまた自分を持ち上げゆすり上げる波の巨きさに賭け、渾身の力で波に乗って水を掻いた。そして、叩きつけられた大地に両の手肢でしがみつき、自分を連れ去ろうとする水の流れに抗がい、両手の指をくさびに代えて砂の中に打ちこんだ。
 水は退き、体は残った。
 それを覚った時、彼は手と足で地を掻きさらに一尺、さらに二尺を獲ち得て停った。次に打ち上げた波が膝にまでしかとどかなかった時、彼は突然、すぐ眼の前に小さな光の玉を見、気を喪った。
 やがて寒さで気がつき、真っ暗な砂浜をともかくも波を背にして真っ直ぐに歩いた。足元の砂地が小石に変り、やがて草となった。その時、遠くにさっき見たと同じ小さな光を見た。ためらわず、それに向って彼は歩いた。
 暗黒の海を数理、孤りで泳ぎ切った彼がやがてついに見た光の色を私は知らない。彼も知らなかった。
 ただ、
「なんというんでしょう、それは本当の光でした。何よりも光らしい光でした」
 と生還者はいった。
 1972年のことです。9月16日――。
 その頃私はヨットスクールを開くかたわら、友人が設立したヨットの製造販売会社のセールスの仕事も手伝っていました。小型のクルーザーが売れ、そのクルーザーを知多半島の衣浦から三浦半島へ回航する手はずになっていたのです。乗り組んだのは私と、クルーの田代孜。ヨット仲間の1人でした。
 9月16日、台風20号が接近していました。それでも、我々は出発しました。台風を乗り切るテクニックは持っていたからです。どんな荒波の中でも、間違ったセイリングをしない限り、ヨットが安全であることは知っていました。ヨットは、いかなる低気圧の中でも転覆しない構造になっています。我々には、台風を乗り切る自信がありました。むしろ、心地良い緊張感で知多半島沖を南に下り、東に転じて遠州灘を進みました。
 風雨が強まってきました。これはまずいと思ったのは、ヨットに水が入り始めた時です。そんなはずはないと思い、しかし同時にその艇が試作艇であることに気づいたわけです。同じ設計で何艇も作られ外洋航海のテストをまだ経ていない。
 設計ミスがあったのかもしれないという疑念が頭をもたげてきました。
 風雨はますます強まります。水はどんどん入ってくる。そして、浮力の少なくなったヨットは、大波1つで簡単に転覆して、沈み始めました。我々は船を脱出し、台風の夜の海を泳ぎ始めました。真っ暗闇の、海です。
 それから8時間、私は泳ぎ続けました。
 クルーの田代とは一緒でした。1つの救命具に2人でつかまり、励まし合いながら泳いでいるわけです。先に体が弱ってきたのは田代の方です。彼はそれほど泳ぎが得意ではなかった。また、海水を飲んでいたために、体力も消耗していた。私はキャプテンとして彼を助けなければならない。彼が力尽き、諦めて波に飲まれようとするのを必死で支えなければならない。
 その時、こういうことを考えました。自分が生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされている時、人は他の人を助けられるだろうか。助けなければいけない、当然のことだ――と、そういう経験をしたことのないヒューマニストは言うでしょう。
 彼は死に直面していた。
 私も死に直面していた。
 一瞬の油断が、死に直結します。自分のすぐそば、紙一重のところで、死が大きな口を開けて待ち構えているのです。
 私は自分だけは生き延びたいと、思いました。それが正直な思いです。今、波に飲み込まれようとしているクルーのことを考える前に、自分が生き延びなければならない。何がなんでも彼を助けようという気持ちは、私の中にはありませんでした。彼は彼自身の力で生き延びなければならない。本当の極限状態とは、恐らくそういうものだと、私は思います。オレは何がなんでも助かる、死が近づいてきても絶対に自分だけは生き抜く。どこを泳いでいるのか皆目、見当はつきません。島影は見えない。陸も見えない。この先、何時間泳いていれば助かるのかわからない。あるいは何日も何日も泳ぎ続けなければ助からないかもしれない。そのあげく、力尽きて死んでしまうかもしれない。それでも助かりたい。とするならば、ムダな力は一切使えない。そのために衰弱しているクルーは死ぬかもしれない。それでもかまわない。自分で自分の"生"を支えるほかない……。
 私はその時、32歳でした。
 生きたいと思った。そのために自分で自分を励まし、泳いだ。自分がもし、特別な能力を持った人間なら、共に泳いでいる人間を助けることができたかもしれない。自分が神ならば、できたでしょう。しかし、私にはできなかった。私は何でもない、ごく当たり前の、自分の生だけを必死に支えることができるだけの人間だと思ったのです。
 夜が明けてきました。
 遠くに山が見えました。私は1人で泳いでいました。その時のことを覚えているのは、ライフ・ジャケットを着ていると泳ぎにくいということです。
 波に流され、漂わされながら、段々、段々と陸が近づいてきます。くっきりと野や山が見え、緑が目に入り、砂浜が見えてくる。その砂浜に打ち上げられるように、辿り着きました。民家が1軒、ポツンと見えます。とにかくあそこまで辿り着かなければいけない。這いずるようにして、私は民家に辿り着き、戸を叩いたのです。



「精神」「根性」は観念ではない。言葉では絶対に教えられない


 私にとって"精神力"とは目に見えない力ではない。
 観念でもありません。死に直面して、そこから脱出してきた自分の肉体の力が、精神力の源泉だと考えています。
 目に見える力でしか、人は生き延びることはできません。死んでいった仲間に、観念的な意味での精神力がなかったとは思いません。彼にしても、自分だけは生き延びたいと思ったはずです。しかし、彼は生き延びることができなかった。私は生きた。そして私は彼を助けることができなかった。自分が生きることが先だと、考えた。
 そういう体験がありました。
 人間の何たるかを、いやおうなしに見てしまった気がします。自分の何たるかも見てしまいました。
 だから私は、きれい事を言おうとは思いません。美しい言葉だけを並べたてて人に語ろうとは思いません。自分は人を助けるよりも先に、自分の生に執着した人間であることを思えば、ヒューマニズムを説くことで人を救えるとは、とてもじゃないが、思えない。
 子供の話に戻せば、私は"やさしさ"だけで、彼らを救えるとは思えないのです。絶体絶命のピンチを迎えて、誰も助けてはくれないのです。それを知った時、そのピンチを克服する力がないことに気づいた子供はどうなるでしょう。真っ先に、脱落していきます。死んでいきます。
 それを教えたい。死にたくなかったら、自分で生きろ!
 もう1つ、私には忘れられないヨット体験があります。
 遠州灘沖の"遭難"から生きて帰っても、私のヨットに対する情熱は少しも衰えませんでした。
 3年後の昭和50年、沖縄海洋博を記念するサンフランシスコ―沖縄間の太平洋単独横断ヨットレースが行なわれました。私はこのレースにターゲットを絞っていました。
 狙いはレースに勝つこと、優勝することです。そのために何が必要かは、わかっていました。ヨットレースに勝つためには、乗り組む人間の能力も問題ですが、それ以上にヨットの性能が大きくものをいいます。
 まず、軽くなければいけない。しかし、軽過ぎれば、あまりに強い風が吹いた時、破壊されてしまう。その限界に限りなく近いヨットを作らせようと、私は考えました。ヤマハの協力を得てできあがったヨットは、極めて軽いものでした。これで太平洋を横断するのは危険だとも言われました。
「わかっている。35m/秒以上の風が吹いたらヤバイでしょう。でも、これでいい。35m以上の風が吹いたら、オレはニッコリ笑って死んでみせるよ」
 大見得を切ったのです。
 ヨットレース、特にシングルハンド(単独)レースでは、寝過ぎる人、豪華なメシを食う人間は絶対に勝てない。これは間違いない。ゆっくり食事の仕度をすれば楽しいでしょう。しかし、その間、自動操舵に切り替えなければならない。オートマチックで走っていると、手動で走っているヨットには絶対勝てません。優れたヨットマンのテクニックの方が、自動装置を上回っているからてす。
 ヨットは帆を微調整することによって真っすぐ進むようにできています。帆を一定にしてそのままにしておくと、同じ方向の風を受けながら、どんどん曲がっていく。大きな円を描くように進んでしまう。帆が片側にしか出ていないわけですから、当然、そういうことになります。それをいかに抑え、調整しながら進めていくか、がポイントになります。
 帆をそのままにして舵を使いながら調整することもできます。しかし、舵を曲げると水の抵抗を受けて渦を巻く。それもスピードを抑える要素になります。舵は5度以上は曲げないようにして、あくまでセールのバランスで走る。それが最も優れた乗り方になるわけです。  そのためには、しかし、集中力が要求されます。しょっちゅう舵をとりながら帆のバランスを見ていなければならない。何十本ものロープをさばきながら、目は帆の前方をぐーっと見つめています。
 その内に涙が出てきます。熱帯の光が強烈に照りつけている。帆は真っ白です。それをじーっと見つめていると、まず涙の筋が瞳の中に現われる。どうにも目を開けていられない状態です。
 そこまでいくと、目を閉じる。自動操舵に切り替えて、1〜2分、目を閉じます。そして開けると、目は元の状態に戻っている。またじっと帆の先を見つめる。約20〜30分見つめ続ける。そうしながら、ロープをたぐり、帆の角度を調整する。数十本あるロープは、いちいち見ないでも指の先でどれがどれとわかるようになっています。また、そこまで体に覚え込ませておかないと、レースでは勝負にならない。そういうものです。サンフランシスコ―沖縄間を、そうやって最短コースをとりながら乗り切るわけです。それが単独横断レースです。ちなみに、サンフランシスコで規定量積み込んだ水は、太平洋に出ると半分程捨てます。なるべく軽くして走ったほうが有利だからです。
 海洋博記念レースでは、私はトップで沖縄に近づいていました。2位以下をかなり離したわけです。私の予定では南大東島と北大東島の間を突っ切って、まっすぐゴールインするつもりでした。それが最短距離だったからです。
 ところが、そこで台風に巻き込まれるおそれがでてきた。現在地とヨットの進むスピード、それに台風情報をつき合あわせると、大東島周辺が台風の影響をもろに受ける頃、ヨットは北大東島、南大東島の間を通過することになる。これは危険です。それでなくとも秒速35m以上の風が吹いたら危ないというヨットに乗っている。島と島の間を通っている時強風にあおられたら、どこへ持っていかれるかわからない。座礁のおそれも出てくる。
 方向を転換しました。北へ向けて、一時、回航しようとしたわけです。しかし、それでも台風に巻き込まれることには変わりないのですが。低気圧に巻き込まれた時、ヨットは川を流される1枚の木の葉のようにもまれます。高さ5m、8mという波が押し寄せ、ヨットもろとも運んでいくわけです。そのきりもみ状態の中で、ヨットからふり落とされないようきっちり体をロープで縛りつけておきます。それだけでは、まだ不十分です。
 空気の混じった白波がもろに衝突すると、ヨットは浮き上がらず、波の衝撃だけを受け、ヨットはポーンと空中にはねられ、そのまま海に落下します。それを繰り返すと、ヨットはひとたまりもない。まして、極端に軽く作ってあるヨットですから、1度、波頭とぶつかったらオワリです。
 昼間はいいとして、夜の海は闇に閉ざされています。波の昔だけが聞こえてくる。ザザザーッ。その音が聞こえた瞬間、ヨットをスーッと横へ逃がしていく。台風の間中、それを続けていかなければならない。
 沖縄を目前にして、約50時間、私は波と格闘していました。
 眠り込んだら、危険です。ヨットは空中に放り出されそのまま落下していく。
 それを避けるためには、その波が収まるまで緊張し続けていなければならない。しかし、そんなことは不可能です。目を覚ましていると本人は思っていても、一瞬、意識が消えている。ハッと気がつくと、波の音が近づいてくる。舵を握ったまま、ほんのわずかな時間、眠っているわけです。緊張に耐えられなくなって頭を下げる。目を閉じる。その瞬間、眠っている。ほんの1秒〜10秒。そうして、約50時間波と闘ったのです。
 この体験も、私にとっては貴重なものでした。
 この時も私は、死を意識しました。いや、死を意識したのは、闘っている最中ではありません。風が収まり、波がうそのように静かになった時、恐ろしいほど、死を意識したのです。夢中になって闘っている時は、死に対して怯える余裕はありません。とにかく生きるためにあらゆることをやっているのですから。その努力をやめた時、死は現実のものとなって、心の中に入り込んでくるのです。波と、風と、つまり自然と闘っている時、死はかなたにあり、それが去った時、自分は死に直面していたのだと思うのです。
 「精神」「根性」……それらは実体のない、観念ではありません。教室の中で、先生がいかに多くの例を挙げ、古今東西の名著から引用し、言葉巧みに教えても教えられるものではないのです。それが私の実感です。
 言葉で意識の中に入り込んだものは、言葉としてしか出てこない。哀しいかな、それが人間の限界です。
 学校の試験で「精神とは何か」「根性とは何か」という設問が出されれば、気の利いた子供は、それらしい説明をするでしょう。しかし、それは空疎です。人に説明できるからといってどれほどの意味を持つか?ゼロです。
 観念はあくまで観念であり、実体ではない。
 私が、言葉によって子供達に何かを教えようとしないのは、そこに根ざしています。
 ヨットを始める前、そして2度の重大な体験を経る前であったなら、私は「精神とは?」と問われれば、誰よりも早く言葉を並べたて説明しようとしたでしょう。
 今は、それを説こうとは思いません。
 ただ言えることは、私は生きたいと思い、闘うべき時に全力を出しきって闘い、克服すべきものを克服し、そして今、生き続けているということです。
 それが、私のヨット体験なのです。



スクールの子供たちは、私の体験のミニチュア版をくりかえす


 子供達の話に戻りましょう。
 ヨットスクールにやって来る子供達は、大なり小なり、こんな風に考えています。
「オレが悪いんじゃない。自分がこんな所に来なければならなくなったのは自分のせいじゃない。オレを生んだ親が悪いんだ。オレに何も教えなかった先生が悪いんだ」
 つまり、人のせいにするわけです。
 非行タイプの人間には他人に対する甘えがあると、先に書きました。自分のすることは何でも許される、という甘えです。その自分を抑えることのできる奴なんていやしないんだという、これもまた甘えです。どこからどこまでが許される行為で、どこから先が許されない行為なのか、彼らはわからなくなっています。そのラインをあいまいにしている限り、彼らの社会に対する甘えは収まらないでしょう。
 登校拒否から家庭内暴力へとエスカレートしていく子供達にも、また甘えと、不安があります。この種のタイプの中で、妙に考える能力のある子供は、自分の現実を親や社会のせいにします。小さい時に、きちっとしつけをしてくれなかったからこうなったんだ、甘やかした親がいけないんだ……。そう言いながら、そうしている自分にいらだち不安になっているのです。
 彼らの感情はアメーバ状に、不規則に広がり、観念は空転しています。
 確かに、親が悪い。それは間違いのない事実です。どういう親が、情緒障害児を作り出すかは、既に書いたから、ここでは繰り返しません。親に問題はあります。
 しかし、だからといって、子供が親のせいにしているのを放置しておくわけにはいきません。その鎖を断ち切らなければ、子供達はいつまでたっても、そのエクスキューズを心の中に持ち続けるでしょう。自分が問題に直面して、避けて通った時、彼らは、自分が悪いんじゃないと大人になっても思い続けるのです。
 親から離す。その中で初めてヨットスクールのトレーニングをスタートさせるのはそのためです。
 そして、そこに"海"がある。
 海は、あらゆることを教えてくれます。人類の"母"なる海ではなく、あらゆる状況を作り出して激しさの中で試練を与えてくれる海が、むしろ"父"的存在として、私達に教えてくれるものがあるのです。
 海の上での体験が、私の心に大きなくさびを打ちこんでくれました。そのくさびは、抜けないでしょう。いかなる場合でも、私の心を支えてくれます。
 同じことを、どれほど偉大な文学も、哲学も私に教えてはくれませんでした。
 そういうことだったら、何かの本で読んで知っていますよ――と言う人もいるでしょう。言いたいことはわかります。あなたは、意識の部分でそれを理解しているのです。それと私の言っていることは、全然、別個のものです。私の意識が、それを知っているのではない。体が知っているわけです。
 ヨットスクールの子供達は、私のヨット体験のミニチュア版を、毎日繰り返しているのです。海と体でコミュニケートしながら闘っているのです。
 さて――
 子供達のヨット訓練が進んでいきます。
 今まで例に挙げてきたように、すんなりと情緒障害が解決するケースばかりではありません。そこでは、様々な問題が派生してきます。子供達の脱走も、その1つです。また、途中で親が介入してくる場合もあります。
 私達の仕事は、まだ先があるわけです。