第一章
教育荒廃、情緒障害児多発の社会的背景
「厳しい自然としての人間」
氏の座右の銘である。氏は人間が人間として生きていくための強さを持つことを目標としている。従って、そこで行われてきたトレーニングは、その教育理念に基づいたものであった。つまり、鉄拳一つを取っても確固たる論理的根拠が存在する信念の一撃だったはずなのである。
しかるに、定義付けのなされた体罰と暴力とは同一線上に置いて考えるべきものではなく、区別されなければならないものであろう。
問題は根本から直すことが必要
第二次世界大戦後、日本は目覚ましいばかりの高度成長期を迎え、国民総生産は世界のトップクラスの座を不動のものとしました。その結果、人々の暮らし向きは飛躍的に向上し、まさに、今巷で話題となっているバブル経済の崩壊というところまで一気に駆け上がってきました。
しかしながら、その繁栄ぶりとは裏腹に、社会的には至る所に歪を生じさせることとなったのです。政治の腐敗、そして不信、教育問題、環境汚染問題、福祉低レベル問題など、どれをとっても、決して一朝一夕では解決できない難問ばかりです。とりわけ、教育問題は非行、登校拒否、落ちこぼれなどといった様々な形でその歪を呈し、教育現場の荒廃ぶりを露見させる形となっています。
これらは、ひいては家庭内暴力、犯罪行為などを誘発する引き金となっており、単なる教育問題という域を越えて社会的にも大きな波紋を投げかけているのです。
なるほど、教育関係の識者、あるいは評論家たちも、ただ手をごまねいてもいられないとばかりに、教育現場の充実や教育制度の見直し云々を声高に侃侃諤諤と議論を戦わせ、多額の費用を運用してその見直しを図っているようです。
しかし、登校拒否、非行、無気力症など、いわゆる情緒障害児と呼ばれる子供たちの減少の様子は一向に見えません。むしろ逆に登校拒否児などは増加の一途を辿っているようです。こうした問題児を抱えている当事者やその保護者にとっては重大な問題であることはいうまでもないことでしょう。
事実、私のヨットスクールに訪ねてくる親たちは子供を殺して、自分も死にたいといったところまで追いつめられているケースが多いのです。
しかし、公的教育機関やそれに類する教育の場に、その解決方法があるのかというと確たる策や方法は未だ持っていない状態です。世の専門家はお茶を濁すばかりで、有効的な手立てさえ持ち得ていません。
たとえば、登校拒否まではいかないにしろ、教室では勉強できないが保健室には積極的に足を運ぶ子供たちに、保健室での勉強を許可しようという意見や風潮があります。確かに、これだと子供たちに勉強をさせることにはなりますが、そんな小手先のことだけでは、根本的な解決には程遠いといえるのではないでしょうか。いわば、急場しのぎの苦災としかいいようがないわけです。
では、何を直すのか。それは子供自らが自分を直すしかないのです。
とくに本能を司る「脳幹」をトレーニングにより元の真っ直ぐな状態に戻す、つまり直すことによって、強い子供に生まれ変わります。
この脳幹の働きについては後で詳しく述べるとして、まずは、何故、このように教育荒廃、とくに情緒障害児が多発するようになったのか、その社会背景の問題点から触れることにします。
教育荒廃は70年代から始まった
登校拒否や非行などの問題はいつから始まったのでしょうか。問題の底辺を考える場合には、まず、その現象が現れ始めた背景に焦点を合わせるのが常套策。そうすることによって、問題の発生や原点を浮き彫りにして、問題に対処していくのが、何よりの問題解決への道なのです。
不思議なことにこの登校拒否や非行などといった教育荒廃は、先進国でしか起こっていません。すなわち、発展途上国と呼ばれる国々では、まず見られない現象なのです。もちろん、ストリートチルドレンなどのように、あまりにも貧しく学校にも行けなくて路上で生活する、貧しさゆえの罪を犯すケースはまた別問題。これらと、日本に見られる非行、登校拒否、家庭内暴力を同列に並べて論議するには環境があまりにも違い過ぎます。
裕福で生活にも困らない、学校に行く環境が揃っているにもかかわらず、学校に行かない、家庭内暴力を起こす、非行に走るなどの異常な行動を起こす子供たちの存在は先進国特有のものなのです。
このことから、これらの現象をひとつの"文明病"といっても差し支えないでしょう。
この文明病は奇しくも、日本が先進国の仲間入りをした1970年代に表面化しはじめました。それまでは不良(非行と不良の違いは後述する)はいましたが、登校拒否、家庭内暴力、非行はなかった。ところが70年代に入って多発しはじめたのです。このことは、日本の戦後の成長と何らかの因果関係があるのは火を見るより明らかな事象といっていいでしょう。
次の項ではこのことについて言及していきます。
戦後民主主義の間違いが教育荒廃を生んだ
ヨットスクールで何百人という情緒障害児を引き受けてきましたが、その子たちの両親は、昭和10年代以降に生まれた人たちばかりでした。斯くいう私もその世代に属しますが、この世代は戦後民主主義教育を受けた最初の人たちでもあります。敗戦によって戦前の軍国主義は崩壊し、アメリカから民主主義が与えられたわけですが、この民主主義の日本的使い方(戦後民主主義)に重大な盲点というか間違いがあったのです。しかし、アメリカから「自由なイデオロギーを与えられた日本人は、その盲点に気づかず、喜色満面の体で取り入れたわけです。
やがて、自然の成り行きとして、その戦後民主主義の教育を受けた人たちが親になり、子供を育てるようになりました。その結果、前述したように情緒障害児(登校拒否・家庭内暴力、非行すべてが情緒障害児に含まれる。その関係は後述する)が多発するようになったわけです。これは単なる偶然ではありません。キチンとした因果関係があるのです。
その因果関係を説明する前に、まず、民主主義の定義、歴史から振り返ってみたいと思います。
民主主義はデモクラシーを翻訳した言葉ですが、これが適切かという疑問があります。デモクラシーは古代ギリシャ、つまり都市国家時代のポリスに登場した制度です。しかし、時が経つに連れて判明したのは、この制度では到底専制君主制度の大国には太刀打ちできないということです。もっと事実に即していえばデモクラシーでは国家としての求心力がないわけです。だから、自然にその国家体制が専制君主制度や封建制に変貌してしまうわけです。
いうまでもなく、専制君主制の国家というのは権力者が勝手なことを簡単にできてしまいます。それに対抗するために民衆は革命を起こさざるを得ません。しかし、革命を起こしていては国は弱体化し生活レベルは下がり、近隣国から侵略されます。そこで、それではいけないということで以前あった民主主義という制度をもう1度見直すことになったわけです。権力というのは長年その位置を占めていると腐ってくるという特質がありますが、この制度なら腐った権力は取り換えることが可能になるわけです。
つまり、民主主義というのは権力が必要であることを認めたうえで存在しているということができるわけです。民主主義とは権力の交代制を意味しています。民主主義という和訳がまずいので、その本質が歪められているのでしょう。
ところが日本の戦後民主主義というのは、この権力を否定している。そもそも権力がないと国家は成り立たないのに、なぜか権力は悪いという固定的なイメージを国民が抱くような教育がなされてますし、民主主義もまた、人間が作った制度であるにもかかわらず、初めからあったもののように語る風潮があります。
他の国からまったく違った考え方や制度を導入する場合、必ずといっていいほど起こるのが「掘り起こし現象」です。これは昔からあったものをその新しい概念に置き換えたり結び付ける作業、現象のことをいいます。この作業によって、新しいものが自分の風土に合いやすくなるわけです。日本の場合はアメリカから民主主義を受けてから、それに似たものとして平等主義をくっつけたわけです。つまり、日本の戦後民主主義というのは、日本古来の平等主義をミックスしたものなのです。
その名残がいろいろなところで見受けられます。たとえば、日本企業の社長はアメリカと比べてそれほど高い給料を取りません。クライスラーのアイアコッカは何億円という給与を取りながら、社員のクビを平気で切るわけです。だけど、日本の場合は社長と平社員でもそれほどの差はない。これが平等主義の端的な例です。
こうして平等主義と民主主義がミックスして戦後民主主義の制度が始まったわけですが、問題は子供まで平等だと言いはじめたところにあります。これはじつに歪んだ平等観としか言いようがありません。
大人と子供が平等というのは空体語だと私は思います。しかし、みんな心では大人と子供は平等ではないと思っていながら、決して口に出して言わないし、言わそうともしない。言ってもいけない。
それで世間では基本的人権とか子供の自主性という言葉を持ち出して平等に扱おうとするわけです。
ここにひとつ疑問が生まれます。ホントに平等に扱うなら、何故、選挙権を与えないのか。結婚の権利を与えないのか。不純異性交遊や非行少年という言葉も生まれないでしょう。これは極論を言っているのではありません。平等と子供の自主性と矛盾点を明らかにしているだけのことです。さらに言うならば、ホントに子供の自主性を認めているのであれば、学校は成り立たないわけです。初めから自分の自主性で学校に行かずに、自分の自主性で学べばいいわけです。
この子供の自主性ということには、ひとつ大事なことが欠落しているのです。自主性というのは子供が初めから持っているものではなく、教育の過程で作り上げていくものです。あるものでなく、つくるものです。そこを考えていないと大きな間違いが起こります。いや、すでに現実化しているのです。この自主性の問題は平和を考えるのと同じで、日本のように一見、平和に見える国では平和は初めからあるものと思われがちですが、決してそうではないのです。平和もいろいろな方法を用いながら勝ち取られているわけです。
自主性の尊重によって躾ができなくなった
平等観、あるいは自主性とかいった問題による弊害は、やはり戦後民主主義に起因していると考えていいと思います。さらに、やっかいなことにその戦後民主主義の平等意識を子供の教育にも適応することによって、いろいろ問題が起きているわけです。子供たちの自主性を尊重する。一見もっともで正論のように聞こえる考え方を実践した結果、教育荒廃に至ったのは周知の通りです。
安易に子供の自主性を信じてしまった故の落とし穴ともいえるでしょう。
では、何が必要なのか。まず、もう1度スタート地点に戻って「教育」を考えなければいけません。つまり、教育とは何かを考えることから始めなければいけません。
たとえば、「躾」という言葉があります。情緒障害児が多発する前、つまり戦後民主主義が浸透する以前の家庭では、この躾がきちんとできていました。親は、子供が悪いことをしたら感情のままに怒っていたわけです。つまり、自分の本能で子供を育てていました。ところが「子供を感情のまま叱ってはいけない」「子供を理性的に育てろ」「子供の自主性を尊重しろ」という専門家の言葉を信じるようになって、何を怒って、何を褒めるのかがわからなくなってしまったのです。従って、子供が同じような行為をしてもあるときは怒り、あるときは褒める。これでは子供は何を基準にしていいのかわからなくなって当然です。つまり、善いことと悪いことの基準判定があいまいになったということです。本能、感情のままに躾をしていたときには統一性があったのが、自主性の尊重などというきれいごとの理性で考えるようになった時点でわからなくなってしまったのです。
躾は感情のままに行う
躾は感情のままに行うことが必要です。子供がテストで100点を取れば親としてうれしい。当然のことです。だから褒める。反対に子供が万引きをしたら、不快感が発生します。だから、怒る。自分が快感を感じたら「賞」、反対に不快感を感じたら「罰」を与えればいいのです。じつに簡単なことだと思いませんか。これが、また、親と子の絆を確かなものにしていくのです。
ところが、「感情のままに躾をする」といえば、次元の低い親と批判する人がいます。人間が他の動物と比べて優れているのは理性があるからだ、その理性を軽んじるとは何事だと。たしかにもっともらしい意見に聞こえます。しかし、少し待っていただきたい。
その考え方は理性に対する過剰な期待としか言いようがありません。たとえば、下世話な例えで申し訳ありませんが、70歳を過ぎたおじいさんが、いわゆる風俗店というところで女遊びをする。本能としての生殖機能はすでに役に立たない。しかし、理性がムチ打ってそこに足を運ぶわけです。「本能という荒馬を理性という騎士が乗りこなす」という言葉がありますが、実際は逆の場合も多いのです。この例では死にかけた本能に理性がむち打ち、何とか生かそうとしているわけです。このように間違った理性が問題となることは仏教で説明されていますので、後で詳しく説明します。
親が自分の本能、感情を信用せずに外部から与えられた理性、それも間違った理性、つまりきれいごとで子供を教育する。それによって大きな問題が子供の上に起こるわけです。その問題の核がいわゆる子供の自主性の尊重という不思議な言葉です。
愛では子供を救えない
子供の自主性の尊重ということは元をたどれば戦後民主主義の考え方に行き当たるのですが、これを教育の場に持ち込んだのは教育者と呼ばれる専門家や評論家の人たちです。そして、そういう人たちの意見や学説を母親たちが何の疑いもなく素直に受け入れて実践してしまっているのです。
さらに、この自主性と同じように、専門家の皆さんがよく使われる言葉に「教育は愛だ」というのがあります。私も何度か言われたことがありました。「戸塚君、教育は愛だよ」と。しかし、現実を見渡してみると、自分の子供に愛を持たない親がいるでしょうか。ヨットスクールに来た情緒障害児も親の愛を一身に受けている子供たちでした。それでも、異常行動を起こすのです。愛情表現をすればするほど悪い方に向かう例はいくらでもあります。はっきり言わせてていただくなら「愛では問題は解決しない」ことはもちろん、教育の根本は愛ではありません。
この「教育は愛」はあくまでも建前論なのです。本音ではない。これを流布したのは先にも述べたように専門家たち評論家で、それを信じ込んだのが女性たちなのです。
何故、女性が信じて実践したのか。
答えは簡単です。それは、女性は第一に権威(と呼ばれるもの)に盲従する傾向があること。第二に愛が何よりも好きなこと。第三に本音よりも建前が生理的にフィットしているからです。自分を飾りたがる特質は、その生理を顕著に表しているいい例でしょう。お化粧して、ファッションに気を使い、髪をセットアップして、自分を美しく見せようとします。もちろん、これは悪いことではありません、いいことでしょう。自分を美しく見せることで、より優れた男性を引き付けることができるわけですから、この行為自体が本能なのです。しかし、これは、ある意味では世の中を円滑にする効力がありますが、度が過ぎると弊害になります。
つまり、飾るのが肉体的なことや見かけのものであればよいのですが、精神も着飾るようになってしまうのです。自分がどれだけ素晴らしい精神を持っているかを強調しようとする。他人にいい人と思われようとする。そうすることによって、建前論つまりきれいごとになってしまうのです。
教育に関する建前論があまりにも世の中に多過ぎる。これが問題なのです。その元凶を作った専門家、評論家諸氏、そして女性に取り入って経済的利益を計るマスコミの責任は重いといえるのではないでしようか。ヨットスクール批判をやったのはまさに、これらの本当に責任をとらねばならぬ者たちでした。
教育には男と女の論理が必要
我々が存在する本来の目的は種族保存です。これは他の生物となんら変わるものではありません。頭の良い人間は何とかして、自分白身のために自分が存在することを立証しようとしますが、こればかりは何ともなりません。従って、我々の精神活動もその目的は種族保存です。
教育してやろう、教育せねばならぬ、と大人は考えるわけですが、子供を見て、思わずそう考えてしまうのも種族保存に基づく精神活動ということになります。
ですから、もし教育や躾に関して男の精神と女の精神で違うところがあるなら、それは種族保存に必要だからそうなっているのです。このことは男女間の肉体的な違いを考えればすぐにわかります。
ところが、今の日本は男の精神を即座に否定するという乱暴な国だから困るのです。教育というものの根幹をもう1度考えてみましょう。人間を動物としてみれば良くわかるように、教育というのは一人前でない者を一人前にすることです。男の場合なら、一人前の男とは、女に子供を産ませる、女・子供・群れを敵から守る、餌を取ってくる、という基本的な3つの仕事が出来るような男のことです。これらの能力に1つでも欠ければ女は自分を選んではくれません。
だから男は、この能力が1つでも欠けると、とたんに自信をなくしてしまいます。インポになった時、大病や大怪我をして闘う能力がなくなった時、破産したり会社を首になった時、つまり、肉体的にも、精神的にも、社会的にも人間的にも、しっかりトレーニングをして強くなっておかなければ、本当の自信等あるはずがないのです。勉強だけできてもだめで、デブでもだめ、ピーターパンでもだめ、甘えん坊もだめ。彼らには本当の自信も自尊心もできません。あるのは強がり、虚栄心です。知育偏重で学校の成績だけが良くても、それは餌を取る能力にプラスになるだけですから、本当の自信とはなりません。学校の成績や大学だけで本人の価値を決められれば、本人はうれしいにしても本当の男の価値とは程遠いのだから、戸惑い困ってしまうのも本人です。逆に知育偏重は、成績の良い子に過大な価値を与えてしまうので、本当の男になるためのトレーニングの機会を奪ってしまうのです。そして、世の中に沢山いる、ただ頭がいいだけのいやな男、いない方がいい男に成り下がってしまいます。
元々、男は子弟の教育にあたって、その戦略的な部分を受け持ちます。男の基本的能力をトレーニングし、家庭と社会に役立つ男にしようとします。子供の10〜20年先のことを考えてしごきます。その為に子供に精神的負担を与え、大きな不快感を発生させ、それにより子供が行動、すなわちトレーニングをするように仕向けます。
一方、女はトレーニングやしごきに疲れた子供を優しく迎え、食事をさせ、清潔な衣服を与え、風呂に入れ、肉体的にも精神的にも明日のトレーニングのための活力をつけます。つまり、男がちゃんと子供の教育に責任を持ってくれれば、あれやこれやと口出しする必要はないのです。今の日本の社会のように、男が子供と接するチャンスをなくしてしまったところでは、どうしても本当の教育は時間的に無理です。「子は父親の後ろ姿を見て育つ」とうそぶいても、後ろ姿が物理的に見えません。父親は子供をしごくどころか、たまに会った子供とうまくやりたいがために逆に機嫌をとってしまいます。子供に不快感を発生させようとせずに快感を発生させようとします。そして、このようにその場だけをうまくやろうとするのは責任ある父親の態度ではなく、無責任なよそのおじさんの態度なのです。父親は子供の将来をうまくやろうとし、母親は今をうまくやろうとする。この2つが重なって子供の教育ができるのであって、どちらがより重要ということはありません。肉体の違いと同じように精神の違いは、必要だからあるのです。もし、男女の役割にメインとサブがあるのなら、それも必要だからあるのです。
このように、男女の違いを分け、その分け方が何となく女性に不利に見えたり、女性の方が社会的に低く見える時、必ず進んだ女性からの反発があります。男女の違いはあるものであって、創るものではありません。その進んだ女性が、体罰反対を叫びヨットスクールの糾弾をわめくなら、彼女はまさに女性そのものなのです。自分は(女は)体罰を決して認めない、だからお前も(男も)体罰をしてはならないというのは、女の性器は正しいが男の性器は間違いというに等しい言い分なのです。たまの週日の休みがあったとします。お父さんは久しぶりに普通の日のテレビ番組を見てびっくりします。モーニングショーです。あのスターとスターがくっついたの離れたの、あの先生が子供にくってかかって怪我をさせたの、そして結論は決まっています。「弱い者が正しい!」お父さんはアホらしくなって、衛星チャンネルに替え、アフガン、フィリピン、CIS、ユーゴの情報を得ようとします。お母さんはすぐにチャンネルを元に戻します。
女性が自分の立場だけが正しく、男は間違っていると言うなら、それは「天道説」に他なりません。自分の寄って立つところが確固たるものであり、動かないと信じ切っているのです。現代日本においては、男が子供たちの教育を物理的にしろ、精神的にしろ放棄してしまいました。しかたなく女が教育の主導権を握らざるを得なくなったわけですが、やはり、それ故の欠陥が出てしまいました。男と女の本能的な違いの部分を理性では完全に解決できないからです。まず、女が子供の今を大事にするという本能が裏めに出て、トレーニングの否定をしてしまいました。みんな仲良く、危ない遊びはやめなさい、いい子はここで遊ばない、子供を殴るとは何事だ、子供の自主性尊重、子供は天使、子供の心は真っ白、叱るより褒めろ、体罰絶対反対……等々の教育や躾におけるたわ言の大量生産となってしまいました。男の弱々しい本能的な反対も、マスコミの経済事情により後押しをされた「愛」という印篭をふりかざされれば、平伏せざるを得ません。女性が愛をお好きなのは当然のことです。それは女性に大きなプラスとして働きます。それに愛は快感ですので、時には愛の押し売りもします。だけど、決して「愛が全て」ではありません。
もう1つは、守るのが男の本能なら、守られるのは女の本能です。弱い者は自分を守ってくれない、不安だからできるだけ強い者の傘の下に入ろうとします。まして自分より弱い子供は大きな傘の下に入れておいてやらねばならないのです。だから大企業に入社させたい、そのためには一流大学に入れねばならぬと考えます。その結果、知育偏重になるのです。そこでは、男が本能的に持っている自分の実力で一歩一歩成り上がっていきたい、という願いは一顧だにされません。逆に権力の下に入ろうとする者は成り上がり者が嫌いなのです。せっかく手に入れた権力の傘を壊そうとする敵だからです。
このように、意図的にしろ、成り行きにしろ、男の怠慢が教育荒廃を招いたのです。元に戻すのには困難が伴いますが、原因さえわかればその原因を取り除く方法は必ず見つかります。
家庭で役割分担をすることも必要
さて、教育には男と女の役割があるといいましたが、これを子供の前できっちりと見せなければいけません。つまり、父親の強さ、そして母親の優しさを子供が身体で知ることが大事なのです。
こうした役割ができていないと、子供が情緒障害に陥りやすくなります。ヨットスクールに来る子供の家庭は、その8割以上が相対的な天性の弱さ、つまり、父親が男らしくない人か、母親が強すぎるか、母子家庭であるかなのです。とくに父親が弱いということは、子供は自分を守ってくれるはずの存在が信用できないということです。外から敵が来た場合に、守るはずの父親があてにならないとなると、自分で自分のことを守るしかない。すると、自分が弱い存在であることを本能的に知っている子供は、大変な不安になります。それが、情緒障害を起こしやすい精神状態をつくります。
そうした見地からも、家庭では父親は強くなければいけない。少なくとも子供の本能には強く見えなければならない。
ここで、私は、子供の"本能に"という言葉を使いました。そう、理性にではなく本能になのです。理屈と鳥もちはどこにでもくっつく。理性はどんなにでも都合良く変えることができますが、本能はまことに頑固で自分の都合に合わせて変えることは不可能です。
「系統発生的に生じた行動のプログラム」これが本能の定義です。本能は地球の生物の歴史、45億年の歴史が刻まれているのです。それをわずか40数年の歴史しか持たない戦後民主主義で否定しようとしても、どだい無理な話です。45億年の試練に耐えたものをちゃちな頭で考えた、ちゃちな理想、いや夢想でもって否定しようなどと大それたことを考えてはいけません。赤ん坊と小錦よりはるかに大きな差があるのです。テレビや新聞で聞いたふうなことを嘘ぶいて金と名誉を得ている連中は、仏様の手のひらの上の孫悟空、エコロジーを唱えながら地球の歴史の中の自分の立場など全くわかっていない脳天気、だから問題児のことに首を突っ込むのは大歓迎しますが、己の持つまことにちゃちなソフトウェアで、問題を情報処理し、それこそ正義だなどというなら、それはとても本人ではつぐないきれない罪を犯していることになるのです。
本能はその歴史の重さ故に、自分の力で変えることはできません。しかし、その情報処理の仕方が理性ほど精密でないが故に"だます"ことはできます。ヨットスクールでは、この方法を使って、脳のトレーニングを行っているのです。
1つ例を挙げてみましょう。
赤熱したストーブでやけどをしたネズミは、赤くペンキを塗ったストーブにも近づかなくなる。熱い物に触らないのは本能です。この例では人間がいたずらをして、熱い=赤い、とネズミの本能をだましたわけです。
父親は強くなければならないと要求されても「任せておけ」と言える男がどれほどいるでしょう。昔なら8割はいたでしょう。今は、1割もいるかどうか、。これもご時世です。でも考えてみれば昔の男が、今の男に比べて本当に数段強かったのもやはりご時世、中には弱いのに強く見えた父親もいたことでしょう。この方法は現代でも使えそうです。
要は子供の本能が、父親は強いと誤解すればいいのです。理性に比べ、精密な情報処理の苦手な本能は、それ故にだまされやすいという部分があります。ネズミの例のようにすれば良いでしょう。それに子供の本能は自分の父親は男らしい、と思いたがっているに違いありません。
では、男らしさとはいったいどういうことをいうのでしょうか。
男らしさとは、基本的な3つの男の仕事をちゃんとこなせることです。セックス、金、力の3つです。セックスは、その能力の結果、子供の自分が存在するのだから今はどうあれ、その能力は子供には問題にならないでしょう。奥さんにとって問題になるかどうかはまた、別の問題です。
次の金(餌)を取ってくる能力はどうでしょう。銀行振り込みが定着し、給料日の行事がなくなってしまったことにより、子供には誰が餌を取ってきているのかが大変わかりにくくなってしまったのです。ここは、お母さんが一日中機嫌が良く、お父さんご苦労様を繰り返し、酒を1本余分につけるという昔のあの儀礼を復活させれば、子供に充分理解させることができるでしょう。
最後は力ですが、これは難しい。弱いはずの女(母親)にガミガミ言われておそれいっている父親に、子供が力を感じるわけがありません。といって、母親をぶん殴るわけにもいきません。ましてや自分の機嫌を取り、顔色ばかりをうかがっている父親が強いはずがありません。そこで何とか、その点を解決するために昔の方法の中に解決策のメカニズムを探ってみるわけです。昔の父親だって、本当に強かったのは5割程度でしょう。それなのにほとんどの父親が強く見えたのは、家族や親戚、社会までが父親をたて、強く見せたからでしょう。今日そんなことをしなさいといえば、時代錯誤のアナグロと総攻撃を受けることでしょう。しかし、せめてそのメカニズムを使うだけなら、お許しいただけるのではないでしょうか。
群れを動かしていくのは、その群れの中で1番優位の者です。つまり、本当に強い者が政治を行います。逆に、政治を行う者は強い男と本能が思ってしまうのです。家庭の方針を決定したり、許可を出したりする父親は、子供の本能にとって、頼りになる強い父親なのです。
「お父さん、今日の夕食何にします」「そうだね」「魚でいいですか」「それでいいよ」たったこれだけのこと。どうせお母さんが全てを決定するにしても、子供の前でのこの一見単純にも見える芝居が子供を安定させてしまうのです。「うちのお父さんは、お母さんより強いぞ。きっと、いざという時、僕を守ってくれる。だから心配しなくていいんだ。安心だ」
それを具体的に行動しようとすれば、当然、母親の協力も必要になります。つまり、父親の権威を上げるために一芝居打つことも必要になるわけです。たとえば、かつては一家の大黒柱として家族が生きていくため働き、お金を稼いでくる父親の姿が具体的に見えました。給料日には必ず給料袋を持って帰っていた。ところが、銀行振り込みになってからというもの、その姿が見えにくくなっています。だから、給料日には父親を上座にすえて感謝の気持ちを家族で表すようにすることが必要になるのです。
それから、これは難しいことかも知れませんが、家庭の決定権を父親が持っているところを子供に見せつける。これも子供に対して非常にいい効果を与えることになります。どうしてこういったことを述べるかというと、元来、政治とは1番強い者が取りしきるものなのです。そこで家庭内でも何事も父親が決定をする場面を見せつけるわけです。もちろん、買い物や料理の献立などはすべて母親の決定で行われるわけですから、大方の家庭でのホントの決定権は母親が持っています。
ところが、お芝居でもいいから、母親が父親にお伺いをたてるという形で、「今日のおかずは焼き魚でいいですか」と一言でいいから言うと大きく違ってくるはずです。当然、それで、父親はすでに母親が決めていることだから、そこで「いいよ」と言うだけでいいわけです。
これぐらいのことは簡単にできるのではないでしょうか。初めは照れ臭くてもすぐ慣れることです。もちろん、これだけで子供はずいぶんと違ってきます。軽い登校拒否児ならば直ります。事実、そういったアドバイスをして実行された方のお子さんは簡単に直ってしまいました。
情緒障害の根っこは全て同じ
我々は登校拒否や非行などといった子供の行動異常ばかりに目が行き、それを問題にします。それらは目につきやすいし、"子供の道"に反しているからでしょう。ヨットスクールでも最初はそうでした。しかし、多くのこれらの子供たちと接しているうちに、他にもいろいろな"欠陥"があることがわかってきました。
量初に気がついたのは、トレーニング前に生徒の健康診断をするようになった時です。それまでは入校前に各自健康診断をしてもらっていたのですが、医者が十二指腸に穴が開いていたのを見抜けず、トレーニング中にその子が腹膜炎で死亡するという事故があったので、スクール側で検査をすることになったのです。
すると出るわ出るわ、情緒障害児は病気の巣窟でした。肝機能障害、肝炎、腎炎、不整脈、白血球過多、白血球不足、慢性の頭痛、瞳孔反射異常、メニエル氏病と思われる耳鳴り、蓄膿症、アレルギー性鼻炎、扁桃腺肥大、膝蓋腱反射異常、血色素過少、胃・十二指腸潰瘍、潰瘍性大腸炎、関節リュウマチ、若年糖尿病、小児喘息、アトピー性皮膚炎、ネフローゼ、パーキンソン氏病等々、難病を含め、ありとあらゆる病気が出てきました。それもほとんどの子供から出てくるのです、さらにびっくりしたのは、それらがトレーニング中に直ってしまうことです。この事実は、非行や登校拒否の原因とこれらの病気(いわゆる心身症であろう)の原因は同じものであり、ヨットトレーニングはその原因を取り除くと考えてもさしつかえないと思われるのです。
小児科医の立場から、問題児(情緒障害児)を扱った某医師は、これらの子供たちは
心身症→問題行動→神経症
の経過をたどると発表していますが、その通りでしょう。非行や登校拒否は心身症や神経症と同類と考えれば良いのです。心理や教育畑の人と我々とが噛み合わないのも、ここに原因があるのです。もっとも、神経科ともうまくいかないが、それは神経症の原因に対する、あるいは神経症の定義に対する考え方の違いでしょう。
ヨットスクールには神経症まで進んだ子供も大勢来ました。不安神経症、強迫神経症、恐怖症など。そして、それらは全てヨットトレーニングで"直って"いるのです。
ヨットスクールで実際に起こった事実から、私は「脳幹論」という仮説をつくりました。
それは
「文明病の原因は脳幹の虚弱である」
という簡単なものです。実際は脳幹のみでなく脳神経系すべてが含まれるのですが、脳幹にスポットを当てるのが1番わかりやすいでしょう。
教育荒廃や難病の多発、おかしな事件。昔はなかったこれらのものは現代病、文明病として何となくまとめられていますが、それらが同じ原因で生じるといってもにわかには信じられないことでしょう。癌と非行は同じ原因だといわれても、すぐに「同意する」と言ってくれる人はいません。
しかし、脳幹論を使うとそれら全てが実にうまく説明できます。癌は脳幹の虚弱、膠原病は脳幹の狂い、非行は脳幹と辺縁系の虚弱、登校拒否は脳幹と辺縁系の狂いというふうに考えれば辻褄が合います。そして"狂い"というのは、調節機能の低下と同じことなのだから、全てが「脳神経系の機能低下」で説明可能になるわけです。
神経症とは本能の狂いである
我々はあまりにも精神、特に理性を高く考えすぎているようです。それが問題児の本質を見えにくくしています。人間は、他の人より上になりたいという気持ちが非常に強いものです。だからこそ、これほどの進歩もしたのでしょう。ましてや、他の動物よりはるかにすぐれた上等なもの、と自分を考えます。その理由は人間の精神、特に理性にあるのです。理性は素晴らしいもの、神聖にして冒し難いものとなってしまう。
しかし、家庭内暴力や非行少年が言い訳に遣うへ理屈も理性なのです。理性には正しいものも間違ったものもあります。それがわからないから、非行少年の"へ"のような理屈をまじめに検討分析し、揚げ句の果て、訳がわからなくなってしまうのです。本能は嘘をつかない。しかし理性はしょっちゅう嘘をつきます。
登校拒否や非行少年を情緒障害児と呼んだ時期がありましたが、これはまことに当を得た言葉です。今、それがあまり使われなくなったのは、この問題の権威にとって、うまく使えない言葉だからでしょう。ましてや、この子供たちを逆に自分たちの勢力拡大に利用しようとする日教組は「『管理社会』や『体罰』が非行や登校拒否を生んだ」と原因と結果を本気で逆転させ、それを朝日型マスコミやおばさんにうけることに血道をあげるテレビのキャスターたちが訳もわからないままに"正しい事"としゃべりまくる。何という馬鹿さかげんでしよう。
情緒とは、英語のエモーションの和訳です。エモーションは情動のこと。つまり本能のランクにおける感情のことです。情緒という日本語が何となく"高級な感情"というイメージがあるのでわかりにくくなっていますが、"情緒が障害された"ということは、本能が低下したとか、本能が狂った、とかいう意味にとれば良いと考えられます。
我々人間は、その頭の良さ故に、本能と違った理性をつくり上げることができます。たとえば、サラリーマンが見るからに憎たらしい上司の子供に「いいおぼっちゃんですね」とぬけぬけと言ったり、自分を大人物に見せるためには、怒り狂っている時に、にっこり笑って見せたりすることがあります。あるいは、もうその役目を終えたおじいちゃんがソープランドで何とか己を奮い立たせようともします。本能と基本的には同じはずの理性を自分に都合の良い理性に変えてしまう。これが建前論であり、へ理屈ということです。本能と理性の乖離ですが、人間はこれを意図的に行います。
情緒障害や神経症にも同じことが起こっているようですが、これらの場合は、建前論とは逆に、本来狂うはずのない本能の方が狂ったために同じ結果(理性と本能の乖離)が生じているようです。種族保存を目的とする情報処理本能が狂ってしまっては、それが危うくなるのはしようがないことです。
神経症とは本能が狂った状態ではないかと私が思い始めたのは、34歳の「仕事が長続きしない」と訴える男をトレーニングした時でした。彼は不安神経症の診断を受けていましたが、本人も常に不安であるという症状を訴えていましたし、会社を何度も辞めてしまうのも「人が自分の悪口ばかり言う」「上司が怖い」等の理由だから、妄想もあり恐怖症もあったのでしょう。
彼は海に入るのを極端に怖がりました。背の立つ所、腰の深さまで入れと言っても駄目で、膝まででいいからと言ってもそれすらできません。そこで我々は彼の父親としての本能にすがることにしたのです。6歳になる彼の長男も既におかしくなっており、普通の子供なら波打ち際で波と戯れるはずなのに、その子は5メートル位離れた所から座ったまま、波が押し寄せたり引いたりするのをただじっと見ているだけという状態でした。私は、ある方法を使って1時間ほどでその子を海に入れ、泳げるように、そして少しなら潜れるようにしました。背の立たない所でうれしそうに泳ぐ自分の子供を見て、さすがの父親も発奮し、海に入ろうとしましたが、やはり波打ち際は越せませんでした。
結局、この父親は我々の強制によりトレーニングを開始し、症状は完全に克服され、今は自分で事業をしているようです。
現代は残念ながら自主性尊重ということで必要があっても強制力が使えず、なかなかうまくいきません。神経症の人の自主性とは、いったいいかなるものなのか。神経症の人に自主性を要求するのは「車イスで階段を昇りなさい」というのと同じことではないでしょうか。不安神経症は理由がなくても不安なもので、ましてや、何か理由があれば不安どころか恐怖を感じてしまうというものなのです。
海は誰でも怖いものです。もし、怖くなかったら人は平気で海に入って行き、死んでしまいます。しかし、浅い背の立つ所、しかも腰の深さ程度ならそれほど怖くはありません。それが波打ち際を越えられないほど怖いということになれば、それは脳による情報処理が狂っているのです。そうした症状がヨットトレーニングで消えたのですから、ヨットにより脳のトレーニングが行われ機能が正常に戻ったのでしょう。つまり、直ったのです。トレーニングにより直ったのだから、トレーニング前は弱かったと言わざるを得ません。
「弱い者は逃げる」これは真理です。街中でそのスジの人が前からやってきたら、本能的に目を伏せ、目が合わないようにします。金が何より好きな女をめぐって金持ちの男と張り合うようなことは初めからしません。弱い者は逃げるよりほか方法がないのです。逃げたくなければ強くなるしかないのです。
登校拒否、非行、家庭内暴力、問題児、情緒障害児等と呼ばれる子供たちをよく見ると、彼らに完全に共通しているのは「逃げ」です。甘えも逃げ、ピーターパン・シンドロームも逃げ、オタクも逃げ。逃げの反対は攻撃、つまり、立ち向かうことです。ですから、彼らが本来の目的に向かって立ち向かっているかどうかを考えてみるといいでしょう。一見攻撃的に見える非行や家庭内暴力もその本質は逃げであることがすぐわかるはずです。そして、我々は、ミクロの世界で起きている癌も免疫系の逃げということで説明可能とみています。つまり、文明病と呼ばれているものは、全て「逃げ」が共通項なのです。逃げ方の種類が様々にあるだけで根本はなんら変りません。
危機感の中でのトレーニングが必要不可欠
情緒障害もこれらのことを前提として考え直してみるといいでしょう。その本質が理解できるはずです。すなわち、非行や登校拒否を脳の機能低下から説明すればいいのです。まず、非行から考えてみましょう。
昔は不良と言っていたのに近頃は非行と言います。不良と非行は同じものなのか違うのか。結論から言えば非行と不良は違います。どちらも反社会的行為をしますから一見同じように見えますが、その目的が明らかに違います。我々は少年たちが平然と反社会的行為をするという現実に目を奪われ恐怖すら感じます。しかし、行動には必ず目的があります。彼らが大人の犯罪と同じ目的で反社会的行為をやっているとしたら、それは大変なことです。将来、日本は犯罪者ばかりになってしまうでしょう。
非行の例として、集団万引き、暴走族、噴水族をみてみましょう。噴水族というのは名古屋でアベック殺しをした連中のことです。公園の噴水の周りでシンナーを吸うので、この名前がつけられましたが、この3つは非行です。これらの非行に共通するのは
1、集団を組む
2、悪いことをわざとわかるようにする
の2つです。が、これは彼らの反社会的行為が犯罪とは言えないことを示します。
不良は利益を目的として罪を犯します。力や知恵を使うことにより、金、物、女、名誉を非合法的に得る、あるいは奪います。そして、それによる損失は防ごうとします。利益が目的ですから、捕まってしまっては元も子もありません。つまり、行動と利益の収支を取ろうとします。従って不良の犯罪は理性的な行為なのです。
それに比べて非行は、この収支が合いません。集団万引きはつまらないものを盗みます。もし、見つかったら社全的に受ける制裁の方がはるかに大きいのです。とてもボールペン1本盗んだくらいでは引き合わないというしかありません。それにどうして集団を組むのでしょうか。銀行強盗をするわけではないのですから、大人数は必要ありません。犯罪はできるだけ少人数で、こっそりとやるものでしょう。ボールペン1本なら1人でいいのに集団でやるからすぐに見つかるわけです。もしかしたら彼らは内心で見つかることを期待しているのではないでしょうか。
暴走族に至ってはもっとわかりません。彼らのあのけたたましさは一体何なのでしょう。馬鹿まるだしのあの姿は。嫌われ者になることを内心望んでいるとしか思えません。人に迷惑をかけることを喜んでいるわけではないでしょう。迷惑をかけても大した利益は得られません。いったい彼らのあの訳のわからない行動と目的は何なのでしょうか。
噴水族のアベック殺しは非行がエスカレートして、ついに殺人にまで至ってしまった例です。本来、非行は反社会的行為による利益が目的ではないのだから、強盗や殺人等、大それたことをする必要はありません。しかし、反社会的行為もだんだん慣れてしまいエスカレートしてしまいます。また、非行と不良は同居しているので、不良性の高い非行や不良の少年がリーダーになると、とんでもないことをしでかしてしまいます。その点、マスコミと問題児は非常によく似ています。マスコミの中に非行と不良のミックスを見つけ出すのは簡単なことでしょう。
噴水族は本来、噴水の周りでシンナーを吸う族です。これもまた不思議です。シンナーを吸うのが目的であれば、何故、家の中でこっそりと吸わないのでしょうか。何故、人前でわざとわかるように反社会的行為を集団でするのでしょうか。ここに非行の特殊性と解決法があるのです。
非行は理性的ではありません。それなら、本能の中にその理由を探せばいいのです。これまで見てきたように非行とは反社全的行為を群れをなして行うという特徴があります。反社全的行為の方に原因が見つからないのなら「群れ」の方に焦点を合わせればいいわけです。10代の子供たちに必要な群れは、本能的には2つあります。1つはもちろん家庭です。そこにいれば守ってもらえ、エネルギーさえ与えてもらえ、教育もしてくれます。この方は満足されています。しかし、もう1つの方が問題です。
少年は社会の一員となるためにトレーニングをしなければいけません。そのためには社会に出ていかなければいけません。家庭から社会に出ていくということは親の保護からも出ていくということを意味します。エネルギーはまた家に帰ったときに補充できますが、他の脅威から守ってくれる親はいないのだから自衛するしか方法がありません。しかし、少年は動物的には幼体ですから成獣にはとてもかないません。つまり、そのために少年は危険の中で大人になるためのトレーニングをしなければなりません。この解決策として、本能は親友のメカニズムを生み出しているのです。1人ではとてもかなわないから、弱い者が群れをつくり、強い者に対抗します。親友というのはただの友達ではありません。お互いに命まで守り合う重要な群れなのです。ところが、今の少年たちには友人はたくさんいるのに、この親友がいないのです。これは本能が弱いから本能的につくれる親友をつくる能力がないことから生じています。
少年は大人になるために社会でトレーニングを受けなければなりません。だから、本能的に社会に出ようとします。社会に出るためには親友が不可欠なのにそれがつくれない。親友がいないと生命の危機すら感じる不安が付きまといます。この不安感から何とか逃れたいと思い、ここで人間お得意の手段と目的の逆転が行われるのです。不安という不快感は親友をつくるための手段なのに、不快をなくすことが目的になってしまうのです。
物分かりが悪くとも強い大人を欲している
社会に出ると必ず敵が存在します。だから幼体は結束して敵に当たるのです。数十年前なら敵ははっきりとその正体を露にしてきましたから、結束もしやすかったのですが、現代社会においては敵のくせに味方のふりをする大人や弱くて敵たり得ない大人ばかりです。そのことも親友をつくりにくくしている大きな原因です。そこで非行少年は、まず自分たちが反社会分子、社会の敵であることを装います。集団万引きをし、暴走を繰り返し、公然とシンナーを吸う。こうして自分たちを1億2千万人の敵とすることにより、やっと自分たちも敵を目の当たりにすることができるのです。だから、自分たちは親友にならざるを得ない。これで、親友のいない不安感から開放されるわけです。
これら異常行動の多発の背景には、子供に対して物分かりが良いのをいいことと思ったり、あるいは叱るより褒めるのが「いい大人」という女性化社会に問題があります。そういった社会が子供を非行に走らせているのです。また、朝日型マスコミ論調、日教組的教育が子供をして反社会的行動を取らざる得ないように仕向けているともいえます。彼らが非行少年に理解を示すのは、少年たちが自分たちの哲学の成果であることを内心知っているからに違いないのです。
ここでついでに異常な殺人にまで至った例について述べておきます。幼女連続殺人事件、噴水族によるアベック殺し、女子高生殺害コンクリート詰め事件。新聞によれば、これらの「凶悪犯」に共通しているのは"罪の意識のなさ"です。あれほど大それたことをしながら罪の意識がないとは、何とふてぶてしい奴だ、けしからん、と言いたいでしょうが、そうではありません。罪の意識という本能は、まさにこのようなことを防ぐためにあるのです。強い者が弱い者を殺そうとした時、相手の苦しむ顔や声により強烈な罪の意識が湧いてきます。
この罪の意識という不快感から逃げるためには、その行為を中断するより方法はありません。だから、弱い者を殺さずにすむわけです。彼らがあのような「凶行」を犯すことができたのは、その罪の意識が希薄だからに他ならないのです。このように非行は本能が虚弱だから発生するのであり、その解決法はトレーニングにより脳を強化すればいいのです。登校拒否も同じように考えればいいのです。我々が登校拒否として問題にするのは神経症型のタイプです。何故か学校に行くのが怖くて行けない。無理に行かせようとすると狂ったように泣きわめいたり、冷や汗でびっしょりになったり、身体がガタガタ震えたり、時には失神してしまうケースもあります。本来、怖いよりは楽しいはずの学校がそれほど怖くなるのです。これは学校恐怖症という神経症です。先に例を挙げた不安神経症の男と同じことなのであり、いずれも脳の情報処理の狂いから生じています。朝日新聞のいうような「間違った教育環境からの勇気ある逃避」などでは決してありません。