第二章
人間のメカニズムを探る
さて、1章では情緒障害児の多発する社会背景とその特性に触れていただいたが、この章では、人間が持っているメカニズムを具体的に取り上げていただく。これを明らかにすることによって、今までにわからなかった人間の行動の問題点が浮かび上がるはずである。
不快と快感のメカニズム
我々にとって何ともいやな不快感という感情があります。その反対の快感は何とも素晴らしいもので、不快感が消え快感ばかりになればどんなにいいだろうと考え、そうなるように努力します。「戦争反対平和賛成」「愛が全て」「幸福幸福」「恋愛至上」「美味礼賛」など世間ではいろいろ気持ちよさそうなアドバルーンを揚げています。しかし、本当にそんなことばかりでやっていていいのでしょうか。我々は45億年かかって進化してきました。もし不用なものなら、その間になくなってしまうはずなのに、不快感は未だに厳然と存在します。きっと必要だからあるのでしょう。
そういった背景を考えて次のように仮定してみましょう。人間の声が非常に小さくて、1人の人間にしか自分の意志を伝えられないとします。そこで、2人の人間が歩いていて、次の角を右に曲がろうと伝達するのに10秒かかるとします。そうすると10人で歩いていたら40秒もかかってしまいます。千人で歩いていたら一斉に曲がることは不可能です。この場合は大きなスピーカーを使えば一斉に曲がれるでしょう。百万人になったらスピーカーでも駄目です。ならば、各自にトランシーバーを持たせればいいでしょう。生物が単細胞から多細胞になった時も同じことが起こったことでしょう。それぞれの仕事をしている何十億もの脳細胞を一斉に1つの目的に向かわせるためのトランシーバーとして、不快感が進化したに違いないのです。実にうまい解決方法ではありませんか。快は善い、不快は悪い、と我々の脳が判断するようにしておけば、DNAあるいは脳幹が行ったもっとも基本的な判断を脳全体が一斉に一瞬にして知ることができるので、その基本方針がはずれることはありません。悪ければ何とかしなくてはいけませんので、そのために行動する。
「不快を避ける」が行動原理になり、同様に「快感を求める」も行動原理になります。この方法は45億年もの試練を経てきているものであり、我々の脳もそれに基づいて進化してきたのですから、今後とも別の方法に変わることはありません。人間が存続する限り、快を求め不快を避けて行動するわけです。
第三章の仏教のところでも説明していますが、このような決まっている法則に従わないとろくなことになりません。今の教育というより社会全体がそうなっているのです。45億年の歴史より今の自分の方が大事と考えるからです。
もはや抽象論では語れない
「神とは何だろうか」というところから検証してみたいと思います。精神という言葉ほど、よく使われていながら、その実体がはっきりせず、これほど抽象的に語られているものはありません。また、この精神という言葉は見えないものだけに便利に使うことができます。
前述した「教育は愛だ」というのもその1つでしょう。教育やその受け皿とされる精神の定義もせずに、ただ、愛で片付けてしまう気楽さが感じられます。根拠のないいかがわしい精神教のありがたいお題目と、同じレベルのものといって差し支えないでしょう。
そのような抽象論で解決した社会問題は未だありません。問題を解決するには、抽象論ではなく、より具体的な方法論をもって対処しなければなりません。そのためには人間の存在には欠かせない、そして教育の根本である精神がいかなるものなのかを確認しなくては、どんなにりっぱな抽象論を展開しても砂上の楼閣となります。
幸運なことに最近の脳生理学は精神までも物質のレベルで、ある程度説明できるところまで進化してきました。私のように工学部出身の人間にとっては、実体のないもの、科学的でないものは苦手です。それだけに脳生理学ほど興味深い分野はありません。もちろん、中には精神まで物質に置き換えて説明したら、「人間としての価値がなくなり、ロボットと変わらないじゃないか」との批判もきっとあることでしょう。さらに、「精神のメカニズムを知ってしまったら、感動したり、喜んだり、悲しむといった人間が持っている情緒を味わうこともなくなるのではないか」と危惧する人もいました。
しかし、人間というのは不思議なもので、アポロによって月の石を持ち帰り、古来から文学的な要素のなかで想像していた月が、単なる石ころだらけの荒野だとわかっても、相変わらず美しい月を見上げて感傷に浸ったりするではないですか。それと同じように、我々、人間の精神のメカニズムがわかっても、人間が変わったりすることはありません。ただ、今まで抽象論をもっともなことのように利用してお茶を濁していた人たちが困るだけのことです。
精神とは情報処理をすることである
当然のことですが、人間は地球から生まれた生物です。地球が誕生して、単細胞が生まれてから、45億年の進化の結果として人間は現代に存在しています。すなわち単細胞生物から人間のような生物へと発展してきたのです。それは単に肉体的な進化だけでなく、精神も発展してきたのです。
つまり、単細胞にも精神の元になるようなものが当然あったのです。もちろん、我々のような精神ではなくて、もっと原始的な精神の雛形というべきものでしょう。単細胞が、ふらふらと浮遊しているときに何かとぶつかる。その情報(刺激)が体内に伝わり、その中にある情報処理器官で情報処理をした結果、「これはエサだから食え」という命令が発せられる。そこで、肉体は行動を起こし、そのエサを食べるわけです。いわゆる、適応行動をするのです。
これを図で表すと次のようになります。
情報→情報処理→行動
これは次のように置き換えられます。
感覚→精神→行動
つまり、精神とは感覚という形で得た情報を処理して肉体に指令を出し、適応行動させるものなのです。
生物の目的は種族保存にある
それでは適応行動とは何を目的としたものなのでしょう。これは、その生物の「種族保存」のためなのです。ただし、何のための種族保存なのかはわかりません。ただ、45億年かかって生物が進化して、現在、人間という進化した生き物が社会をつくっている状況証拠があるだけです。まさに、そこから先は「神のみぞ知る」ということではないでしょうか。
さて、その種族保存のために適応行動をしていますが、なかでも通常1番強いのが「自己保存の欲求」といわれています。これは自己を保存することが種族を保存することにつながるからです。しかし、時には「群のために生命を捨てる」という行動も起こるのです。
我々は通常、自己保存の本能は種族保存の本能より強いと信じています。誰もが日本のことより自分のことを大事にするのは当たり前といえるでしょう。とくに人間はその傾向が強いようです。このように人間が自己保存が1番と考えるのは本能ではなく理性がなさしめるものなのでしょう。人間の理性はまた大変ずるいものなのです。本能は単純に快を求め、不快を避けますが、理性ときたら不快を毛嫌いして何とかして発生させまいとするし、快は無限に求めようとします。このように快と不快のバランスを取ろうとしないのが文明病や自然破壊の元凶です。そして、我々は本能的には自己を種の犠牲にすることがあるのを知っているため、理性では何とかそれを否定しようとします。「お国のために」や「ノブレス オブリジェ」はアナクロニズムと一蹴されてしまいます。国家や国旗さえ罪悪と言いくるめようとします。
種族のために「自らを犠牲にする」というと、戦前を思い浮かべて民族主義、軍国主義の復活といったことを連想され、反発する向きもあるでしょう。
反対に、自己や私利私欲を捨てて平和のためにつくすといえば、大部分の人が賛美を贈ります。しかし、それはきれいごとです。心の中では自分こそすべてだと思っています。ですから、同じようにお国のために命を捨てるなどと極端なことをいえば、当然、反発するのです。
ところが、わが子が火事や水難で死にそうになり、わが身を振り返らず救い出し、自分は死んでしまった母親の話などには心の底から共感します。
何故かというと心の底から共感できるのは、自分も同じ本能を持っているからです。さらに例えが想像できる現実の範囲だから理解しやすい。しかし、お国のためにも子供のためにも犠牲になれるということの根本は同じです。
その本能の存在を実証しているのがローレンツの名著「攻撃」です。彼は我々に本能を分かりやすく説明してくれます。その一部分を要約して紹介しましょう。
「人間が英雄的な行動をしようとする時、背筋をピンと伸ばし、あごをほんの少し上げ、肘を外に張り出す。これは英雄の顔といわれ、映画で見るナチスの将校の姿である。同時にせすじと腕の外側に聖なるおののきが走る。我が身を犠牲にして国を守ろうとする、この人間の最も崇高な姿を、チンパンジーもするといったら怒るに違いない。
チンパンジーの群れが危険な敵に出会ったとき、群れを守ろうとする牡はまさに同じことをする。牡は立ち上がり、背筋を伸ばし、あごをほんの少し上げる。これで目の高さを最大にする。視線の高さは、動物の強さを表す。さらに毛を逆立てることで横幅を大きく見せようとするが、チンパンジーの腕の毛は後ろにしか立たないために、肘を横にまわす。これで横幅が最大になる。聖なるおののきとは、背中と腕の毛を逆立てるために神経が働いているから生じる」
つまり、人間に近い動物であるチンパンジーと同じ本能を我々は持っているのです。オリンピックなどで国民の期待を一身に集めて、大試合に臨むとき、選手たちは武者ぶるいをするというのがありますが、これも同じメカニズムなのでしょう。
ローレンツはこれを「熱狂」という本能であるとし、これには並外れて大きな快感が発生するために、権力者に利用されやすいから用心しろと警告しています。そして、さらに自分が熱狂するメカニズムをちゃんと知っておけば、今湧き上がってくる快感が、どのような目的であるかがわかるので、その心配も少なくなると付け加えています。
このように我々が最強の本能と信じている自己保存の本能も、ただ種族保存のためにあるに過ぎないのです。
情報処理の元はDNAである
先ほど述べたように単細胞生物も肉体の中で情報処理活動をする。では肉体のどこでするのかというと、遺伝子と呼ばれるDNAでなのです。そのことは、単細胞生物からDNAを取り除いてしまうと適応行動ができなくなることで証明できます。
右図を見てください。
単細胞生物を2つに切るとDNAは片方にしかありませんが、2つとも元の形に再生します。これは肉体が壊れたら、すぐに元に戻ろうとする情報処理する物質がDNAから発生し、常に肉体を駆けめぐっているからです。
次に今切ったものを、もう1度2つに切ります。
そうすると、DNAのある方は何度でも再生できるのです。
ところが、DNAのない方はもうもとの姿には戻れません。これは1度は元の形になれますが、悲しいことに情報処理ができなくなっており、餌と毒の区別もつかない、栄養の摂取と排出もうまくいかず、水分も一定に保つことができなくなるのです。もちろん、壊れたところを自ら修復する力もなくなる。つまり、自己保存ができなくて死んでしまうのです。
このことから、
「DNAが種の保存のための情報処理をして、適応行動をさせている」
ということがご理解いただけると思います。
このことは人間も同じです。人間は何十兆という膨大な数の細胞から出来上がっていますが、細胞1個1個が栄養、水分、酸素の吸収、老廃物の排除、細胞の修復、他細胞との調和、細菌との戦いといった自己保存のための適応行動を常に行っています。
また、細胞1個1個は、そして全体としても自分を正しい状態に保とうとしており、これをホメオスタシス(恒常性)と呼んでいます。しかし、人間のように何十兆もの細胞が集まっている動物は、細胞だけ並列していたのでは機能できません。ですから、セントラルコンピュータともいうべき脳幹部がまとめて情報処理をし、各細胞が正しい状態で正しい位置にあり、正しい行動をするように調節しています。従って、セントラルコンピュータというべき脳幹の機能が狂うとホメオスタシスもくるってくるのです。病気を細胞レベルで考えると、細胞が細菌に破壊されたり、炎症を起こす、あるいは酸素や水分が不足などで機能低下を起こしているということになります。その異常をきたした細胞を全ての細胞の統合調節器官である脳幹部が元の状態に戻すように指令を出せば直るわけです。つまり、これも精神です。もちろん、この場合は理性とか本能のようなものではなく、さらにその下のレベルにある情報処理のことです。
『他細胞との調和』『全体としての正しい状態』ということについても少し述べておきましょう。たとえば人間の1つの細胞が「自分のことだけを考えて」勝手に増殖したら、胃だけが巨大になったり、腸が2本になったり、鼻の右側だけが大きくなったり、皮膚がでこぼこになったり、指が6本になったり、とたいへんなことになってしまいます。各細胞が全体の中の一員としてその機能を完全に果たし、かつ必要以上にはならないように、DNAの中に組み込まれ、あるいは細胞が司令を出しています。己の分際をわきまえず、全体のことを考えず、調和を乱し、己だけの利益を考える細胞が現れると全体は無茶苦茶になってしまいます。そして、その細胞は増殖しようとするでしょう。このため、他の細胞はその機能を侵され栄養や水分酸素を取られ、ついには死んでしまいます。それが限度を越えると人間そのものが死んでしまいます。当然のごとく人間の一員である手前勝手な細胞も死んでしまいます。その細胞を生かしていたのは全体なのですから。これが"癌"です。どうです、地球全体における人間、全世界における日本、社会全体における非行やオタク、家庭における家庭内暴力児にそっくりでしょう。非行、癌、エコロジー等は、このように共通項があるのです。登校拒否や非行を直す方法で癌を直すということが、なんとなく納得できませんか。
DNAが細胞に出すホルモンの働き
ともあれ、単細胞生物が進化して多細胞生物が生まれました。しかし1つ困った事態が発生しました。
先ほどの単細胞生物だと1つの細胞しかありませんから、DNAが指令を出せば適応行動が起こせるのですが、仮に2つの細胞で成り立つ生物が誕生したとします。一方の細胞が餌にぶつかり、その細胞のDNAが情報処理をして食べるように指令を出し、行動をしますが、もう一方の細胞は何も知らないから動こうとしません。しかし、そんなことをやっていたのでは当然エサは逃げてしまい、その生物は死んでしまうことになります。そうならないためにはどうするのか。2つの細胞が共同行動を起こすために、一方が処理した情報を他方に伝えることがどうしても必要になります。
そこで、その指令をある物質が行うようになるのです。その物質がDNAで作った蛋白質で、皆さんがよく耳にする「ホルモン」なのです。
つまり、
「ホルモンとはDNAが細胞に出す行動指令」
なのです。
DNAがアドレナリンというホルモンを出せば、その指令を受けた細胞は逃走し、逆にノルアドレナリンを受ければ攻撃をします(攻撃的な性格の人はこのノルアドレナリンの分泌が盛んなのです)。
2つの細胞が共同行動をするために、一方のDNAが情報処理して細胞膜を通してホルモンをもう一方の細胞に送り込めばいいのです。これで、多細胞生物でも共同行動を取り、目的を達成することができるのです。
しかし、もっと多くの細胞で形成している動物はどうでしょうか。ホルモンのおかげで共同行動はとれるようになったものの、この方式では伝達時間に時間がかかり、細胞の数が多くなるほど効率は悪くなるばかりです。細胞が多くなれば大きく、かつ強くなりますが、動きが鈍くては力も何の役にも立たず、その結果種族は滅んでしまいます。
ところが、生物というのはよくできたもので、進化段階の中で多くの細胞が集まるようになると、 1つ1つが自給自足をする必要がないわけですから、各々がすべて同じ行動をするのもムダになり、もっと効率的な生命体が登場するようになります。細胞も、人間がたくさん集まったときと同じように分業化が進むわけです。
情報処理に関しては「情報収集」専門の細胞と、「情報処理と指令」専門の細胞が出来上がります。前者が後には目、鼻、耳といった感覚器官に進化し、後者が神経細胞であり、それらがあつまって脳へと進化するのです。
そして感覚細胞で集めた情報を神経細胞で情報処理をして、各細胞にホルモンで指令を送り共同行動させるメカニズムになったのです。
生物の情報処理能力を高めた脳
細胞の分業化となった生物体は、次の段階へと進んでいきます。コンピュータに例えると、ICが増えるほど性能が向上するように、神経細胞もたくさん集まるに従って、情報処理能力がどんどん向上します。
動物が進化し、多細胞化していくと、DNAの情報処理ではとても間に合わないので、ICを増やして情報処理能力を高めたのが脳なのです。つまり、脳は神経細胞の進化した形といえます。
しかし、脳と一口に言っても、その進化の過程により分類されるのです。まず、1番最初にできたのが脳幹です(ただし、神経節は省く)。この脳幹によって、各細胞のバランスを保つようにし、大きくなった身体をうまく行動に結びつけるようにしたのです。また、脳幹部の働きで、外部の状況に対してもより細かく対処できるように進化しました。
さらに進化すると脳幹の情報処理だけでは対応ができなくなり、大脳辺縁系ができ、それでも対処できなくなると大脳新皮質が進化したのです。
これを整理すると、人間の精神はまず、DNAから基本方針が出て、それを脳幹で精密に情報処理し、さらに辺縁系で細分化する。その上に、また新皮質でもっと精密に情報処理するのです。まさしく、念には念を入れるとはこのことです(ただし、理性とはこの説明ではまだ単純過ぎるので、後で詳しく説明します)。
これらをまとめて図にすると次のようになります。
DNA→脳幹→辺縁系→新皮質
(下意識) (本能) (理性)
これが情報処理のシステムで、精神の構造でもあります。本能と理性は通常「知」「情」「意」の3つに分けられ、その精神の所在を自分で自覚することができます。もっとも、精神を精神として感じることが出来るのは辺縁系から先の段階で、脳幹部では精神を感じることはできません。
脳幹には五感を通さぬ情報も身体の内部から入ってきます。その情報を処理して血液の成分を一定にしたり、免疫機能を正常に保ったり、さらには内臓を正常に活動させたりする働きがあります。
先に述べたホメオスタシス(恒常性)も、この脳幹に支配されています。病気が直るのも実はホメオスタシスですから、自然治癒力や病気に対する抵抗力は脳幹の機能によるものです。
このように、脳幹は内部行動と外部行動両方の情報処理をしています。言い換えるならば、肉体、精神の両方を支配する重要な役割をしている器官であり、肉体と精神の接点でもあります。つまり、心身症、問題行動、神経症すべてに関係する部分でもあることがわかります。
「人間の行動」という場合の「行動」は外部行動のことで、この行動も筋肉細胞1つ1つの行動を総合したものなのですが、その筋肉細胞は脳の命令で動く。つまり、精神が行動を起こさせるのです。
教育荒廃の原因は大脳新皮質か脳幹部か
さて、こうして脳や精神を理解した上で、今騒がれている教育の荒廃ぶりを分析してみると、そのメカニズムもおのずと知れてきます。まず、この教育荒廃はどんな状態をいっているのでしょうか。それは問題行動を起こす子供たちの多発と定義づけられると思います。これまで述べてきたように行動は精神によって起こるのですから、問題行動は問題精神によって生じます。
では、その問題精神は何故できたのでしょうか。
先ほど示したようにDNA、脳幹部、辺縁系、新皮質といった順番で情報処理のグレードを上げてきています。ということは、より原始的な情報処理をする前段階からの信号を受けているということです。理性を作る新皮質でも、DNAからずっとつながっていないと理性を作ることは不可能です。DNA、脳幹、辺縁系すべてが人間の理性に影響を与えているのです。
DNAの影響についておもしろい例があります。「超男性」と呼ばれるDNAに異常を持つ人が、乱暴でよく犯罪を起こすと言われています。DNAによって理性に悪い影響を与えているのです。つまり、DNAの性格は、そのまま人の性格につながるのです。しかし、教育というのは新皮質のトレーニングです。問題の教育荒廃が教育の悪さによってもたらされているとすれば、その原因は新皮質にあるといえるでしょう。ところが、心身症、神経症、無気力、無感動、無表情といった症状や登校拒否、非行、家庭内暴力のような異常行動は、とても新皮質だけでは説明できません。もっと本能に近いものですから、脳幹部に問題があると考えるのが妥当でしょう。
本能という一般的なイメージでは何故か理性に反するものと捉えられがちになっています。もっといえば、悪いもの、低俗なもののように感じている人も多いのではないでしょうか。しかし、この考え方は「神が人を創った」創造論で進化をまったく無視した考え方です。
これまでにも説明してきたように、脳生理学の見地からはDNA、脳幹部、辺縁系、新皮質というように情報が移動しているのは明らかです。新皮質でいきなり理性が発現しているのではありません。脳幹も辺縁系も45億年の進化の結果、新皮質が発達しても残っているのですから、人間にとっては「必要」なものなのです。このことは本能についても同じことがいえます。
因縁果報の法則
さて、ここで仏教の因縁果報(因果律)について論じてみたいと思います。というのも、この因縁果報で人間の精神と教育が説明できるからです。
因…(内因)〔因があるから〕
縁…(外縁)〔外からの作用により〕
果…(結果)〔結果が生じ〕
報…(報)〔習慣力が残る〕
これを教育や精神に置き換えると次のようになります。
因…本能を
縁…教育して、学習して、トレーニングして
果…理性にし、理解し、
報…感性、ソフトウェア、精神的技術にまで高める
報はソフトウェア、精神的技術のことです。正しい報ができた場合が「技術」、間違った報が出た場合は「くせ」になります。つまり、教育の目的は報(ソフトウェア)を創ることにありますが、知育偏重と呼ばれる現在の教育では「果」までで良としているのが現状です。
因果律を教育に当てはめると、「開示悟入」になります。
開(因)…教育をされようと心を開く
示(縁)…教を示す
悟(果)…それを理解する
入(報)…繰り返しトレーニングし、ソフトウェア、感性とする
「教育されようと心を開く」のは本能であり、これがあるから、教育が成り立ちます。これは学習意欲のことです。これがなければ学校に行くこともしないし、学習することはありません。つまり、脳幹の機能低下が起これば、本能も低下し、学習意欲は劣ることになり、当然教育を受けることが困難になるのです。「言えばわかる」理性のレベルでは、何の効果もないのです。
人間の理性の中には「空」と「我」がある
本能をより細かく情報処理したのが理性である、と言いましたが、理性にも2つの側面があります。本能を素直に理性にしたものが「空」で、本能をねじ曲げて理性にしたものが、「我」です。人間がこの地球上で唯一、不合理な存在といわれているのは、理性の中に我があるからなのです。
この情報処理の仕方を図にしてみます。
情報→情報処理→行動
別の形で書くと、
感覚→精神→行動
となります。
この精神の部分を具体的にすると、
(感覚)−→感情発生−→意志発生−→(行動)
↑ ↑ ↑
知 知 知
精神の三要素「知」「情」「意」はこのような形で情報処理をします。
日常性のある例で説明すると次のようになります。
◆「試験でライバルが自分よりはるかにいい点を取った」…目や耳などで外部から入ってきた情報。
◆「それを知って猛烈な嫉妬が起きる」…これが感情発生です。嫉妬は本能の怒りをさらに精密にした不快感です。
◆「その嫉妬で、やる気を起こさせる」…つまり、意志です。
◆「猛勉強をするようになる」…行動。
◆次の試験でライバルをしのぎ、嫉妬が消え幸福になる…目的達成。
つまり、嫉妬という不快感の目的は進歩だったのです。
このように「知」は全ての段階に関わり、その判断によって正しい感情を発生させ、正しい行動を起こさせるのです。しかし、この「知」は時として「我」を作る場合があるのです。このことは後で詳しく述べます。
不快感が小さくなると快感も小さくなる
仕事をやり遂げた、スポーツで優勝した、昇進したなど、そのケースは様々ですが、何かを成し遂げた、目的を達成した時には、必ず、うれしさや誇らしさなど精神的な快感が湧いてきます。そこに至るまでの過程が困難であればあるほど、その達成後の快感は大きいといえるでしょう。甲子園で優勝した、またはオリンピックで金メダルをとった若者たちの感極まって泣き喜ぶ姿を見れば理解できると思います。もちろん、自分の経験を振り返っても思い当たる節があるに違いありません。
そこで、情報処理にこのことを付け加えると、
感覚→不快感発生→意志発生→行動→目的達成→快感発生
となります。
不快感はもちろん誰も嫌なものですから、取り除こうとします。このことから、意志は不快感を取り除こうとする力といった見方もできるでしょう。従って、不快感の大きさに比例した意志が発生し、その意志に比例した行動を起こし、その行動に比例した目的を達成する。そうすれば、その目的に比例した快感が発生するのです。
このことから、
『快感の大きさは、最初発生する不快感の大きさに比例する』
という定義が成り立ちます。
この不快感はなくてはならないものです。生きていくためには必ず発生します。しかし、好き嫌いと善い悪いの区別ができずに、「不快感は嫌い、だから悪い」ときめつける人たちがいます。挙げ句の果てには「そんな悪いものを子供に発生させるのは可哀想」とまでエスカレートしてしまう。そして、愛で教育は成り立つと思い込んでしまい、子供は不快感から隔離されてしまうのです。
するとどうなるか。「使わないものは機能が低下する」ことになってしまうのです。つまり、不快感はどんどん小さくなってしまいます。ということは、先ほどの定義を当てはめると、「不快感が小さくなれば快感も小さくなってしまう」のです。不快感は快感の側面であり、不快感なくして快感はあり得ないのです。子供を守り過ぎると子供の幸福がなくなってしまうのです。
本能が不快感の発現を求めている
さて、不快感についてですが、不思議なことに人間は不快感を求めているとしか思えない行動をとる時があります。ジェットコースターやホラー映画など、何故、お金まで払って怖い思いをしたがるのでしょうか。
かつての子供の遊びにも、これと同じようなことがいろいろありました。たとえば、夏になると子供が集まってやった肝試しがあります。夜、墓場の近くに何人かが集まって、ある場所に置いてあるタオルとかメンコを取って来るという遊びは、どこの地域でも見かけられたものです。また、男の子だと、川に架かっている丸太の橋を渡るという遊び。これも1つの肝試し、度胸試しで不快感がつきものです。そして、その丸太を渡った者は英雄視され、渡れなかった者は度胸なしとバカにされるわけです。
いわば、自発的に不快感を求めている遊びとしかいいようがありません。しかし、そんな時代も遠くなり、ちょっと危険な場所があると、大人、とくに女親が危険だから取り壊す、あるいは改善せよと自治体などに文句を言う。何も危険なことを奨励しているのではありませんが、かつては、そういった遊びを子供たちは本能的に求めていたのです。
もちろん、こうした行為にはちゃんとしたそれなりの行動理由があります。子供の場合は危ない遊びをすることによって、肉体のみならず脳のトレーニングをするという重要な理由があるのです。
大人の場合は、本能が不快感の発現を求めているのではないかと考えられることです。
「使わないと機能が低下する」という原則は、むろん脳にも当てはまることですから、それを防ごうとして脳がそういった事態を要求しているのではないでしょうか。たとえば、老人のボケという症状がありますが、その過程をみると、孫ができて安心した途端とか、心配ごとがなくなってから急速にボケが始まるといわれています。つまり、不快感の発生が小さくなったからでしょう。トレーニングされた脳も、その機能を維持するためには不快感の発生が必要なのです。
愛と徳は本能か、それとも理性か
ここで「愛」と、「徳」についても触れておきましょう。愛や徳は人間だけが持つ理性の素晴らしい特性だと考える方が大部分と思われますが、これも本能に属するのです。
先ほどの因縁の法則を用いると次のようになります。
因…本能としての徳があるから
縁…道徳教育により
果…道徳を理解し
報…道徳的になる
これを具体的に置き換えると、
「きれいに片付けたおもちや箱をゴチャゴチャにしてしまう子供を叱ると、一時的にはやめますが、しばらくするとまた同じことをする。そこでまた叱る。それを繰り返しているうちに、子供は整理したものを乱すのは悪いことだと知るようになり、過ちを犯さないようになります。そればかりか、整理整頓を自ら心がけるようになります」
となります。報は身につけてしまうと考えれば良いでしょう。
これは子供に因(本能としての徳)があった結果です。因がなければ、いくら縁(トレーニング、道徳教育)を与えたところで、果も報もできません。言い換えれば、本能に反する道徳教育は成り立ちません。これは、人間はどんなにトレーニングしても水の中では生きられないし、空も飛べません。つまり、因であるエラや羽根がないからなのです。
同様に因果律から次のことも言えます。徳が小さければ大して道徳的な人間にはなれません。本能としての徳が小さければ、同じ道徳教育を受けても、その目的たる道徳的な人間にはなれないのです。近頃の若者の図々しさはここが原因でしょう。だから、彼らの本能をトレーニングで強化し、道徳教育をちゃんとしてやれば、見事に道徳的になれるのです。日教組のように道徳教育が悪いことなどとたわ事を言う人たちがいるのだから、縁の方にも問題があるようです。
次に愛ですが、我々人間は愛という素晴らしい感情を持っています。愛を悪く言う人はいないし、至高なものと考えています。何故なのか。答えは簡単です。愛は快感だからです。
好き…快感を発生させるもの
嫌い…不快感を発生させるもの
しかし、人間に好いてもらおうとして愛という本能が発生したわけではありません。
動物の進化とは、より良く種族保存を図ることが目的になっています。しかし、進化の過程で新たな本能が加わり、それが今すでにある本能とトラブルを起こすような時は、そのトラブルを防ぐため新しい本能をさらに作り上げなければ種族滅亡となります。おそらく新しい本能を得たがために滅亡した種族もあったことでしょう。
たとえば、鳥が卵を巣の中に産み、雛を育てるようになった時も、このような矛盾が生まれたのです。動物には縄張りを守るという本能が別にあります。この縄張りは自分と自分の家族が生きていくためになくてはならないものです。つまり、縄張りの消滅イコール死ということになります。その証拠に、縄張りを荒らすものに対して強い怒りが発生し、攻撃的になります。その怒りは縄張りの中心に近づけば近づくほど激しくなるのです。
しかし、卵を巣でかえすようになると難しい矛盾が生じるのです。巣で雛がかえったということは見知らぬものが縄張りの中心に突然現れたということです。今までの縄張りを守るという本能にのっとれば、その雛はただちに食い殺されます。ところが、それだと仲間の殺し合いですから、種族は滅亡します。内部抗争は群れを滅ぼす1番の近道です。
そこで、快を求める動物の原理行動を利用して、別の本能を進化させ子殺しを防ぐようにするのです。その本能とは、雛の声を聞いた途端に快感が起こるような本能です。この新たな本能の出現によって、雛を殺すことは快感を失ってしまうことになり、快を求める限り、そのような行為はしないのです。つまり、愛の誕生です。
このことから愛も他の本能と同じように種族保存が目的であり、それが快感によって実現されるのです。さらにいえば、強いものが弱いものを殺さないようにするためであります。
愛と怒りの関係とは
さて、愛が発生する場合は特定少数の相手だけであり、その強さは攻撃のための怒りの強さとぴったりと一致するはずです。攻撃欲が強ければ相手を殺し、愛の方が強ければ自分が殺されてしまうでしょう。それは女性が好きな「愛のためなら死ねる」ということや、「殺したいほど愛している」という表現もあるぐらいですから、たぶん等価だと思います。つまり、愛と攻撃欲はコインの表裏みたいなもので切り離すことができませんから、優しさのみを求めるというのには無理があります。また、先ほど家族のまとまり方を述べたように、愛は特定少数のものにのみ感じるものでなければ不都合が起こります。
たとえば、きれいごとでいわれる「万人を平等に愛する」ことが、もしできるとしたら、家族、恋人、親友など特定少数の関係はすべて崩壊するでしょう。特別な関係がいっさいなくなり、自分の位置すら確認することができなくなるのです。
愛という快感は子供を見たときや恋人を見たときにいきなり発生すると、我々には感じられますが、果たしてそうでしょうか。先ほどの縄張りを守ることと子供を巣で産むことの論理を当てはめれば、攻撃欲と愛は一致しなければいけません。それ以外だと不都合が生じてしまう。つまり、何らかの方法で今、発生している危険な怒りがフィードバックし、愛の発生に関与しているはずなのです。怒りがなければ愛は不必要になります。
これに対して「徳」の方は不快感を避けるメカニズムで種族保存を図ります。
たとえば目の前にいる子供の首を手で絞めたとします。当然、子供は苦しみ悶える。それを見ると瞬時に自分の行為に対する恐怖感、あるいは自分に対する怒りが発生します。この不快感は、その行為をしている限り続き、子供の苦しみが大きくなればなるほど大きくなります。この不快感を避けるには、行為をやめるしかない。こうして子供は殺されずにすむわけです。
これが本能としての徳であり、愛やその他の本能と同じように種族保存を目的としているのです。徳は本来、愛と同じく強いものが弱いものを殺さないようにするメカニズムであり、愛との相違点は、それを不快感で行うことと、相手が不特定多数という点です。また、この徳には愛と同じように、攻撃性の強さと同じだけの強さがあるはずです。これらを総合して考えると、本能の段階では愛も徳も男らしいほど強いことになります。
男にある3つの基本的な役割
「優しさ」という概念があります。一見優しさとは強さと何の関わりもないように考えられがちです。しかし、優しさとは怒りがもたらす強さが裏付けとなった愛なのです。ところが世間一般でいわれる「優しさ」とは、恐怖がもたらす弱さが裏付けとなった「逃げ」の場合が多いのです。
女性が結婚を対象とした男に、まず優しさを求めます。これは本能的で自然なことなのですが、今言ったように2つの優しさがあることを知っておくことが必要でしょう。その上で男を見極めるようにしなければ、2つの優しさを同列に扱う危険性があります。
まず、男が男であることの役割には3つの基本的な仕事があります。
1、女に子供を産ませること
2、エサを取ってくること
3、家族、群を敵から守ること
前述したように、行動は精神が起こさせるものですから、これらの「男性的行動」は「男性的精神」の強さに比例して行われます。また、これらの行動を起こさせるもとになる不快感は怒りなのですから、怒りの裏返しである優しさを女性が結婚相手に求めるのは、本能に忠実な行動であるといえるでしょう。前に述べた3つの仕事を立派に果たす男は、その優しさを持っているわけですから、そういう男に快感を発生させるのはごく当たり前のことです。
その本能を理性的に置き換えると、金持ちで、地位があって、強くてハンサムで、セックスがうまいということになります。だから、そうした男に魅せられるのは女として当然です。
しかし、金持ちでセックスがうまければ強い男かといえば、決してそうとは言えません。また、地位、顔の善し悪しが男の魅力のすべてともいえないでしょう。
仮に弱い男が強さを装っていたとします。そうすると最初はその男女はうまくいくでしょうが、そのうちに偽装がばれてしまい長続きするものではありません。ただ、弱さ故の優しさなのか、強いから優しいのかはなかなか判断しづらいものです。それは優しさの表現行動が強くても弱くても、それほど大差ないからです。
では、どこで見分けるのでしょうか。それは男の強さの方で見分ければいいのです。もし、強さだけで優しさのない男がいるとすれば、性格異常で犯罪者になるでしょう。強い男のほとんどは、それに見合うだけの優しさを持ち合わせているのです。最近は強さを装う男もいますが、こちらの方は何か事があるときにすぐばれてしまいますのであまりだまされることはないと思います。
男らしい精神を持っていれば、結婚後は家族を最終的には守ってくれるはずです。この最終的というのは、男性的な精神が強いことは「英雄色を好む」の例え通り、他にも女を求めるからです。つまり、攻撃欲の強い男は他に女を求めることになるのです。
しかし、そういった男でも安楽の場所は、やはり家庭ですから、最終的には妻や子供のいる場所に戻ってきて、守ってくれるわけです。こういってしまえば女性にとっては勝手な論理と思われがちですが、歴史上の英雄たちや動物の世界を例に取ると、すでに実証済みになっている事実なのです。