
戸塚 宏の"にんげん"教育学 @
「まずは体罰」
戸塚ヨットスクールの名前を聞いて、まず頭に浮かぶのは「体罰」でしょう。当時のマスコミは体罰否定論のオンパレード。小中陽太郎氏のような、戦後民主主義の権化が我々のおかげで大活躍をしました。
「戸塚君、体罰をしたら大人の負けなんだよ」「力では何も解決しないよ」「体罰は子供の心に一生癒せない傷を残す」としたり顔で言われものです。
この、アメリカ渡来のエセヒューマニズムが子供をダメにし、ついに学級崩壊という事態にまで至りました。
「体罰」とは何か
「小中さん、教育とは何ですか?」「教育は教育じゃないか。だいたいそんなことだから君は…」
エセヒューマニストは天動説を人に押し付けるため、科学的議論を何よりも嫌います。
「教育は愛、体罰は悪」「子供には無限の可能性」「自主性尊重」「話せば分かる」「子供は自由」「子供にも権利を」「子供にも理性」「人間は皆平等」「先生と生徒は友達」…。
戦後民主主義教育で正しいと言われたこれらの言葉は、全て天動説、非科学的なことです。
体罰の定義のできない人が体罰反対を叫んでも、それは何の意味も持ちません。民主主義の意味の分からないマスコミが「民主主義を守れ」とわめくのと同じこと。
体罰と暴行は見かけは同じですが中身が全く違います。『有形力を行使することによって子供を進歩させることを目的とする』のが体罰、『自分の利益を目的とする』のが暴行。体罰にはどこにも犯罪性はなく、教育そのものなのです。
スクールでの経験からして、体罰を加えると子供は精神的に安定し、表情が穏やかになります。これは大人が本気で自分を進歩させようとしている、と体感するからです。
更には「この人は自分より強い。だから、いざという時に守ってくれる」ということも分かります。父親や先生が力のある人間だという確認が子供を安定させるのです。自分と同等の力しか持たない"友達"では、自分を守ってはくれません。
子供が人をにらみつけたり、バカにした顔をしたり、上目遣いをしたり、目が吊り上っていたり、暗い顔だったりするのは、彼らが本能的に生命の危機におびえているからです。彼らは本能で、自分が弱い人間であり、その自分を守ってくれる大人がいないことを感じているのです。
男の基本的な仕事の1つは、弱い女子供を守ること。その男が弱ければ、子供が不安になるのは当然のことです。ましてや母親が「うちのお父さんはダメだ」と、その弱さの確認を手伝ったりすれば、子供の目が吊り上るのも当たり前です。
本能に素直になること
『快を求め不快を避ける』が人間の行動原理です。
子供が勉強すべき時に、サボっていたり、しゃべっていたりすれば当然怒りが湧いてきます。この時の感情(怒り)は本能から出てきたもので、子供に対して何らかの攻撃行動をとることを命じています。だから我々は子供を叱ったり、体罰を加えたりします。
こうした感情に素直になるべきです。これは本能的に子供の進歩を願っての行為です。溺れる子供を見て、思わず飛び込んでしまう。遊んでいる幼児を見て、思わず微笑んでしまう。これらと全く同じ目的を持った本能的な行動です。
体罰反対を心の底から信じているとすれば、それは子供の幸せを願わない、命を助けようともしない、可愛いとも思わない、進歩も願わない弱い男だということです。
本能は我々の中にあります。それは必要だからあるわけで、いい悪いという次元の問題ではありません。ましてや好き嫌いで本能を否定するのは神をも恐れぬ行為です。
本能は30数億年の歴史の試練に耐えて、今我々の中にあり、まだ50年の歴史しか持たない戦後民主主義など比べものにもなりません。
体罰反対論者は、自分の中にあるもの、自分自身よりも、アメリカの言うことの方が正しいと信じている、弱い男、ダメな男です。こんな男がイニシアチブをとるから国が滅びるのです。
「力」は群れのためにあり、力あるものがリーダーとなり、群れをリードしていくのは当然のことです。力を否定する者が他を指導することなどできはしません。
『君子は本(もと)を務む、本(もと)立ちて道生ず』
もっと本質を踏まえた、"科学"的な議論をすべきです。