戸塚 宏の"にんげん"教育学  I

『進歩に見放された子供達』


 「進歩」は人間の宿命です。人間は進歩しなければなりません。その進歩は「学習」によって行われますが、学習とは、いわゆるお勉強ではなく、行動が伴わなくてはなりません。
 『学びて時にこれを習う』(論語)
「習う」の解釈のできない人が多いのには驚かされます。
 『逝(ゆ)く者は斯(かく)の如きか。昼夜を舎(や)めず』(論語)
 『苟(まこと)に日に新たに、日々に新たに、又日に新たなり』(大学)
 『諸行無常』(仏教)
 我々の精神論は、「全てが変化する」という真理から始まっています。「絶え間なき造化(創造変化)」です。正しく変化することが進歩であり、創造ですから、「生まれながらにして理性がある」は、東洋流精神論にはあり得ないことです。
 「子供に理性があるか、ないかの論議など、ちゃんちゃらおかしい」と、孔子様もお釈迦様も一笑に付されることでしょう。
 『学びて時にこれを習う』(論語)
 『民を新たにする』(大学)
 『道を修むる、これを教えという』(中庸)
これらが、論語・大学・中庸の最初の言葉であるのは偶然ではありません。仏教でも、最初のお経(転法輪経)では「八正道」(進歩の仕方)について書かれています。

学習障害児は虚栄心の固まり

 学習障害児は進歩しようとしません。つまり、人間としてあらねばならない姿を拒否しているわけですから、人間であることを拒否しているのと同じです。野生の動物なら、こんな子供はすぐに死んでしまいますから、彼らは動物にもなれません。彼らが目指しているのはペットなのです。親の方も、自分の子供を人間としてではなく、ペットとして扱ったのではないでしょうか。
 専門家は、学習障害児を脳障害であるかのようにいいます。しかし、現場でそうした子供達に接している我々には、信じられません。なぜなら、そのような子供もスクールで直るし、軽度から重度の事例を見れば、悪くなる過程も分かるからです。学習障害児は最初から障害児なのではなく、そうなっていく時間的経過があるのです。
 学習障害児に共通するのは「弱さ」です。わがまま、我の強さ、虚栄心。そういう弱さゆえのよろいを、彼らは着ています。ですから、当然人の言うことを聞こうとしません。それがだんだん癖になり、人の言うことが聞けなくなり、更には反射的に拒否するようになっています。我々は、そんなダメ子供の言うことなど聞きません。そんな奴の言うことは間違いに決まっているし、我々のプライドが許さないからです。子供の言うことを大人が是認してしまったら、それは子供の方が大人より偉いということになり、先生が子供にとって「ダメな奴」になってしまいます。「叱るより褒めろ」で育てられた子供は、実力がつかないのでプライドはできず、代わりに虚栄心ができます。当然、先生の言うことを聞く気がなくなるし、聞けなくなります。

アメリカかぶれの戦後教育が原因

 『恥を知るは勇に近し』(中庸)
「勇」とは進歩のための意志のことですから、恥を知らない子供、恥を恥とも思わない子供は、進歩から見放された子供です。褒める教育、平等主義、自主性尊重、フリースクール等、戦後もてはやされた教育法は、このような進歩に見放された子供達を大量生産してしまいました。だいたい、マスコミが口を揃えて言い出すことは、まず嘘だと思った方が無難です。
 「進歩したい」というのも人間の本能です。この本能から「敬」や「恥」という理性が生じ、人間に進歩のための行動をさせます。
 『開・示・悟・入』
これは仏教にある、教育における因縁の法則です。この「開」が子供の教育を受けようとする本能、心を開くという本能です。学習障害児は、明らかにこの部分がおかしいのであって、本能が低下しているか、あるいは狂っているのです。その本能をもとにして理性を創るというのに、それを間違った方法で創るのですから、もう子供の理性はめちゃめちゃです。
 学習障害児は、戦後精神論の当然の帰結です。これは、理性をあるものとし、本能を悪者としたキリスト教思想を、我々異教徒が、そのまま受け入れてしまったことが原因です。あれは、真のキリスト教徒でなければ正しく使うことのできない思想だったんです。ですから我々は、分からない部分を無視するか、どうしても使いたかったら、真のキリスト教徒に教えを請うべきだったのです。
 我々は『独を慎む』(大学)『浩然の気を養う』(孟子)といった先賢の教えを、充分理解していなかったに違いありません。もし理解していたなら、戦後のアメリカかぶれに充分なる反撃ができたはずです。