戸塚 宏の"にんげん"教育学  K

科学的な"精神論"を創ろう』


 教育崩壊が起こったのは、我々男の責任です。男が自分の責任を再認識し、義務を果たせば、教育は正常化し、日本は救われます。日教組、教育委員会、文部省、マスコミも大学教授も、カウンセラーも精神科医も、教育には無力であると分かったはずです。もう頼むに足る権力者は存在しません。
 権威に従うのは日本人の美徳です。これによって日本人は共通の意志を持ち、日本を進歩させてきました。
 自己を全体の下に置くことができるのは、男が強いからです。弱い男は自分のことしか考えられませんから、周りや国、まして国の将来のことなど思いも及びません。
 弱い男は、本来美徳であるはずのこの本能から、正しい理性を創ることができず、権威に盲目的に従うだけの人間になり下がります。だからマスコミは、今のような力を持つようになりました。
 しかし、これは当然、日本が強くならないことを願う外国勢力に利用されます。
 あるいは、この美徳が逆になって現れます。自由だ、権利だ、自主性だ、個性だと、権威に従わないことを正当化する理由を創り出すのです。

「考える」ことは精神的行動

 強い男は行動的です。精神とは、肉体と精神を行動させるためにあるのだから当然です。
 精神が精神を行動させる、と言うと奇妙に聞こえるかもしれませんが、仏教や儒教で言われるとおり、精神的行動とは「考える」ことです。そして、人間のみが精神的行動を行うことができます。
 「覚える」ことを目的とした今の教育は、とても「人間的」な教育とは呼べません。
 いわゆる知識というものは、考えるための手段の1つに過ぎません。ですから、知識を詰め込んだだけの秀才に、考える力などあるはずもないのです。そのような秀才が有名大学に入り、日本のリーダーとなる。リーダーに考える力がないというところに、日本的な諸問題が生ずるのです。
 彼らには戦略論がなく、ことごとく現場を軽視します。どんなに素晴らしい戦略といえども、それを実現するのは現場です。現場に暗い人間は、戦略家たり得ないのです。
 今の教育が知育偏重になってしまったのは、大学の入試問題の質が悪いからです。本当は、「覚える」力ではなく「考える」力のテストをしなければなりません。大学入試が「考える」力を問うようになれば、小学校からの教育は変わるでしょう。それだけでも、教育は随分と正常化するはずです。
 大学教授が、日本の教育を悪くしている。彼らは戦略論がないために、逆のことをやってしまっているのです。

"科学"で教育を立て直す

 文化を自分達で創らず、外国から輸入し、それを日本的に改良して本国より優れたものにしてしまう。これは日本の伝統です。飛鳥の昔、いやもっと前からそうでした。
 それはそれで素晴らしいことですが、インテリや権力者には問題が生じます。外国の文化をより多く知っている人が「偉い」ということになり、いわゆる知識人がイニシアチブをとってしまうからです。
 『儒弱、国を誤る』の言葉通り、弱いインテリに権力者の資格はありません。しかし残念なことに、日本のインテリは(多くの場合)、精神的に弱い。自国をバカにし、外国かぶれになってしまうのを見ればわかります。思い起こせば、戦後、パリ祭を銀座で祝った、バカな文化人がいたではないですか。
 日本が戦前までうまくやってこられたのは、輸入した精神論である儒教や仏教が、"科学"だったからです。"科学"であればこそ、猿まねをしても大過ありません。
 しかし、戦後に輸入された精神論は違います。世界人権宣言の第1条を読んでみてください。あれは天動説です。全く非科学的な、キリスト教思想の押しつけです。あの第1条を使いこなせるのは、神と契約をし、聖書をきちんと読むキリスト教徒だけであり、我々異教徒には無理なのです。
 戦後教育には、外国は全て正しいとし、自分で物を考えようとしない、日本的インテリの欠点がまともに出てしまいました。外国かぶれで日本をバカにし、現場の意見を聞こうともしません。
 「教育改革国民会議」のメンバーを見て下さい。教育には素人の、文化人の集まりです。彼らに戦略論などできるはずありません。政府がダメだから人選ができないのです。
 何が正しくて、何が間違っているかは理論が決めます。好き嫌いで決めてもダメ。「嫌なものは嫌」は非科学的なのです。
 我々が今なすべきことは、科学的な「精神論」を創ることです。難しいことではありません。すでに2,500年も前に、儒教や仏教という"科学"が完成しているからです。後は、それを日本的にアレンジすればいいだけです。