戸塚 宏の"にんげん"教育学  B

儒教は"科学"U


 マスコミは教育を科学的なものにしたいのか、それとも科学的であってはいけないと思っているのか。
  「精神は崇高なもの」「愛がすべて」「叱るより褒めろ」「子供には無限の可能性」「子供の自主性尊重」「差別はダメ」「いじめをなくせ」「個性を伸ばす教育」等々のマスコミの論調は全て非科学的です。

教育を非科学的にするもの

 日本人は権威を尊重する民族です。これは素晴らしいことですし、それ故日本が一等国になったと言っても過言ではありません。ただし、その権威が正しいことが必要で、間違っていれば国を滅ぼすことにもなります。
 先日、NHK・BS放送の「地球法廷」という、インターネットによる討論番組に「お受験の危険性」というテーマで投稿しました。内容は、「お受験は戦略をないがしろにし、戦術のみを目指している。つまり、人間性を完成させずに社会的勝者を目指しているからダメなのだ。解決法は『文武両道』である。文は"知"を、武は"情"と"意"と肉体をトレーニングする」というものです。
 ここで驚いたのは、反論がたったの3通しか来なかったこと。その少ない反論も、重箱の隅的なものが2つ、まさにマスコミに毒されたと言うべきものが1つ。最後の1つを簡単に書くと、『「〜をしないと〜になる」「〜だから〜になった」という教育は間違っている。人間は、色々な要素が絡まりあって1つの人格が完成していく。私はあなたに、自分の理想像を子供に求める親を見た。そして、1つの型にはめていく教育を。教育は個性を大切にするということが大事。教育に黄金律はない』というもの。まるでマスコミ論調そのままの天動説・非科学性です。具体的なことは何一つなく全くの抽象論。教育が科学なら、「〜をしないと〜になる」「〜だから〜になった」という、実績に裏付けられた法則・理論に基づくのが当然です。それを否定したら教育もしつけも成り立たないし、学校も先生も存在し得ません。
   彼は「押し付けはいけない」と言いたいんでしょうが、「押し付けはいけない」という仮説を人に押しつけ、「型にはめてはいけない」という型に人をはめ込もうとしていることに気付いていません。私の言わんとしているのは戦略論であって、型とは戦術論のことなのですが、彼には難しすぎて分からないのでしょう。自分が何を言っているのかさえ分かっていないのですから。教育とは何かも分からず、教育の目的も分からず、教育について語っているのです。

恥の必要性

 『知行合一』(王陽明)、『皆実学なり』(中庸・朱熹章句)、『学びて時にこれを習う』(論語)、『身を修める』(大学)、『浩然の気を養う』(孟子)、儒教はこれらの科学性を尊重する言葉で満ち溢れています。そしてこれらの言葉こそ、『文武両道』と同じ意味なのです。
 "科学"とは法則化すること。その法則によって結果を再現すること、つまり再現性こそが"科学"です。現実に起こらないことは科学ではなく、行動で実証されなければ科学ではありません。さらに人間は、行動抜きにはその法則をものにできません。知育だけでは人間性も社会性も進歩せず、前述の者のような、知だけで他人の上に行こうとするハタ迷惑な人間ができあがるのです。日本の教育はこんな人間を大量生産しています。
 『恥を知るは勇に近し』――「恥」は感情、それも不快感。「勇」は進歩しようという意志。恥という不快感が、進歩しようという意思を発生させます。恥が大きければ意志も強くなり、結果、進歩も大きくなります。
 人間は感情が強くなければいけません。進歩は自分の行動によってのみ得られるものです。まず、自分自身が進歩しようと思わなければなりません。
 では、どんな時に人間は進歩しようと思うでしょうか。それは自分がダメだと自覚した時です。他人と比べればすぐに分かることですが、子供の場合は大人が評価してやったほうが有効です。叱ればいいし、体罰を与えればいいのです。「叱るより褒めろ」は子供の進歩を願わない大人の言うことです。
 子供は自分自身を知った時に進歩しようとします。大人と同等にされたら、もう進歩する必要はありません。『快を求め不快を避ける』が人間の行動原理ですから、子供に「大恥をかける」能力をつけてやるのが我々のなすべきことなのです。
 恥を知る者は「自主的」に進歩します。