戸塚 宏の"にんげん"教育学  C

仏教も"科学"T


 ヨットスクールの生徒に「儒教や仏教といった東洋的な精神はまことに科学的なのに、欧米のキリスト教的精神論は天動説で、非科学的だ」と説明すると、みんな怪訝な顔をします。「げに恐ろしき因縁かな」「親の因果が子に報い」「業の強い人だ」「過去生・現生・来生」「地獄極楽」など、とても科学とは程遠い言葉が並んでいるからでしょう。このような解釈ができたのは、仏教がいつのまにか宗教に変化してしまったからです。仏教を宗教として説明しなければならないお坊さんは、様々な矛盾に悩んでいるはずです。

『君子は本(もと)を務む、本(もと)立ちて道生ず』

 仏教を本当に理解したければ、原始仏教を読まねばなりません。それも、できればサンスクリット語かパーリー語で。漢字のお経は漢訳ですから既に他人の哲学が入ってしまっており、「生の情報」ではなくなっています。つまり、インフォメーション(処理された情報)であり、インテリジェンス(生の情報)ではありません。
 有名な『般若心経』も、漢文だと意味がつかめないところが、サンスクリット文を読めば簡単にわかります。例えば『無智亦無得以無所得故菩提薩た(むちやくむとくいむしょとくこぼだいさった)』をどのように区切ったらよいのか、何百年も論争されてきましたが、サンスクリット文では「無智亦無得」「以無所得故、菩提薩た」とはっきり区切ってあります。何百年も論争するような問題ではありません。(※「た」は漢字変換できませんでした)
 あるいは『照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)』の「照見」は原文では「観察した」「法則化した」と2つの部分に分かれており、意味がはっきり分かります。
 だいたい、『般若心経』の説明を聞いて、その意味が理解できるでしょうか。「目もない、耳もない、鼻もない…」などといわれて、素直に「その通り」と納得できますか。
 『不生不滅(ふしょうふめつ)』を「あなたは生まれたわけではないのだから、死ぬこともない。安心しなさい」と訳されればかえって不安になるだけです。
 だいたい『般若の知恵』とは、いったい何のことでしょう。せっかくのありがたい『般若心経』も、解釈をきちんと("科学的"に)してやらなければ、苦をなくすどころか、かえって苦の種となってしまいます。

本(もと)を務めれば『科学』となる

 「君子は本(もと)を務む」です。『転法倫経(てんぽうりんぎょう)』というお釈迦様の最初の説教を読むと、弟子アーナンダはお釈迦様の話を聴いているうちに、「生ずるものは必ず滅する」という[遠塵離垢(おんじんりく)の法眼]を得、突然悟りを開きます。この部分と「不生不滅(ふしょうふめつ)」はどうシュミレートするのでしょう。この矛盾が説明できなければなりません。
 『照見五蘊皆空度一切苦厄(しょうけんごうんかいくうどいっさいくやく)』の「度一切苦厄」は、原文(サンスクリット文)にはありません。訳者の玄奘が勝手に書き加えたものです。なぜそうしたのでしょう。それは「五蘊皆空」を強調したかったからに決まっています。「五蘊皆空」こそが「般若の知恵」なのです。ただし、現在広まっている「五蘊」の解釈は間違っています。仏教は宗教になってしまったがために、次第に意味不明の天動説となり、「ともかく『般若心経』を繰り返し唱えていれば救われる」などということになってしまいました。
 『輪廻転生(りんねてんせい)』――「死んでも生まれ変わる」などということがあるでしょうか。信じろといわれても無理があります。自分が昔なんであったかを、知っている人がいるとも思えません。このあたりも仏教の科学性を疑わしくしています。
 『生老病死』、これは『四苦八苦』の「四苦」にあたりますが、どうして「生まれることが苦」なのでしょうか。「生」を「生きる」と解釈し、「生きることが苦」と解釈している人もいますが、これは間違いです。原文では「生」は「生まれる」ことになっています。しかし、「生まれることが苦だ」といわれても理解できません。
 理解できない、訳が分からない、法則化できないことは、科学ではありません。そこで、もう1度もとに返って解釈をしなおし、法則を理解してみるのです。すると、仏教は見事に"科学"として甦ってきます。