
戸塚 宏の"にんげん"教育学 D
仏教も"科学"U
我々の知っている仏教には、"科学"と呼ぶにふさわしくない意味不明のごたくが多すぎます。そのため、以前は私も「仏教は教育には無用なもの」と敬遠していました。ところが、拘置所に入れられていた時、周りがあまりうるさく勧めるので仕方なく手にとってみて、驚かされました。
結論から言えば、仏教は「宗教」ではありません。なぜなら『諸行無常』をもとにして成り立っているからです。これは、マルクス・ヘーゲルの弁証法「全てが変化する」、あるいは儒教の「まことに日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり」と同じ考え方です。
「変化の法則」は"科学"です。法則を見つける人が科学者。"科学"の定義は「再現性」で、これを法則・理論と呼びます。
「ダルマ」とは法則のことですが、仏教ではこれが大切だというのですから、明らかに"科学"の匂いがします。少なくとも「宗教」ではありません。宗教は神を必要とし、神は絶対不変のものです。『諸行無常』という言葉は、それを否定しています。死ぬのが怖い、不幸になりたくない、つまり、変化するのが嫌だから人間は絶対不変の神にすがりつこうとします。が、仏教は、「死ぬのは当然」と言ってのけているのです。
「本能」は自然なもの
「苦をなくす」ことを目的に、お釈迦様は修行を始めましたが、行き着いた先は大安心の涅槃(ねはん)でした。この経験をもとに、「人間が目的とすべきは涅槃に行くこと」と見極めたお釈迦様は、我々後世の人間に、その方法論を法則化して残してくれました。仏教は、実際に起こったことを法則化したのですから、"科学"であり、唯物論です。
「四法印(しほういん)」「四諦(したい)」「五蘊(ごうん)」「八正道(はっしょうどう)」「十二因縁」「縁起」「因果業報」…すべて、科学的な法則だと思って考え直してみてください。霧が晴れるように、仏教が分かってきます。
儒教と仏教が対立した時、その違いが強調されますが、逆に共通項を探してみます。そうしてみると、これらは、基本も目的も全く同じで、目的に至る方法論が違うだけです。
仏教の目的は「如来」になること。「如」とは、天の声を聞いている巫女の姿です。「如」の心が「恕」。「恕」は「仁」にも「礼」にもかないます。天の声とは自然のままの心、つまり「本能」です。
「天の命ずる。これを性という」(中庸)。理性はとかくインチキをしますが、本能は人間の力では変えようがありません。つまり自然だから信用できるのです。昨今「自然に返れ」などと声高に叫ぶ進歩派がいますが、彼らが否定した儒教こそ、自然であることを理想としているのです。
「如来」とは、サンスクリット語で「タザーガタ」といいます。「ガタ」とは般若心経で有名な「ギャーテーギャーテー」のことで、「到達する」という意味です。儒教でいえば「止」あるいは「得」のこと。「タザー」とは「その如くに」、つまり、「あるがままの姿で」「自然のままで」ということです。
今の世の中は西洋思想が主力になり、本能はいつのまにか悪者になってしまいました。しかし間違えてはいけません。本能こそが正しいのであって、理性は往々にして間違っています。
「理性」があるものとする押し付け
理性は自分で「創る」ものであって、「ある」ものではありません。「正しく・強く・安定した理性をつくること」が"教育"です。しかし、『世界人権宣言』は、「人間は生まれながらにして理性を与えられている」と謳っており、その基本において間違っています。生まれつき理性があるなら、教育は不要です。これはキリスト教の総論であって、それをまともに信用したから教育がダメになったのです。実は、聖書は総論とは相反することを各論部分できちんと述べてあり、それで全体のバランスが補正されるようになっています。
他国の文化を受け入れて、それを日本的に変えていく。この日本の伝統的なやり方は、儒教や仏教のように総論が正しい"科学"の場合はうまくいきました。しかし、キリスト教のようにもとが「宗教」の場合にはうまくいかなかったのです。このことは、我々の思考能力の低さを表しているといえます。