
戸塚 宏の"にんげん"教育学 E
『独を慎む』
『懼(おそ)れしめて、以(も)って独(どく)を験(けん)す』――人間観察法、「六験」の第4です。
教育の目的は「正しく・強く・安定した理性」を創ることです。そのためには、理性の土台である本能をまず確立しなければなりません。理性とは社会性のこと、本能とは人間性のことです。
『独を慎む』(大学)の「独」は確立された人間性、「慎む」は確立のためのトレーニングをすることです。本能を悪者と考え、無視しようとする西洋流精神論は創造論で、「神が理性を与えた」という出発点が決定的に間違っています。一方で、「理性は創るもの」とする儒教や仏教は、自ずと科学的方法論になります。
東洋流の精神論は、理性も本能も、知・情・意の3つに分けます。例えば、仏教の「瞋(しん)・貪(どん)・痴(ち)」はそれぞれ、間違った「情・意・知」を指します。
『所謂身を修むるは其の心を正しくするにあり。身に忿ち(ふんち)する所あれば、すなわちその正を得ず。恐懼(きょうく)する所あれば、すなわちその正を得ず』(大学)――儒教は実学ですから、現実に応用しなければ意味がありません。しかし、現場の人間でなければ完全には理解できないでしょう。ヨットスクールでは、これを使ってトレーニングを行っています。(※「ち」は漢字変換できませんでした)
「怒り」は必要だからある
仏教の「瞋」は、普通「怒り」と訳され、「怒るのは悪いことである」などと説教されるので、人は必死で怒りを抑えようとします。これはとんでもないことです。「怒り」は必要だからあるのであって、怒ることは善なのです。しかし、怒り狂うのは「怒り」がパニックになった状態ですから、これは悪です。「忿ち(ふんち)」や「恐懼(きょうく)」も同じです。
パニックになるのは精神が弱いからです。家庭内暴力や恐怖症は、忿ちしたり、恐懼したりしている状態ですから、トレーニングで精神を強くしてやれば解決します。また、「怒り」や「恐怖」は本能ですから、正しい「怒り」を起こすために、本能のトレーニングをしなければなりません。
このような神経症的パニックの他に、もう1つ、理性的なパニックがあります。ダメな人間は、何でも人のせいにし、自分で解決しようとしません。だから、次第に怒りが増し、忿ち(ふんち)してしまいます。
『快を求め不快を避ける』が人間の行動原理です。怠け者は行動しないので、怒りがたまり、ついには爆発してヒステリー状態になってしまいます。「怒り」も「恐怖」も"自分"が行動するために発生するのですから、人を頼る甘えん坊はパニックになりやすいわけです。これが現代の若者の姿です。
行動的になれ
これらの問題の解決法は、本能を強くする以外にありません。『独を慎む』ことです。「懼れしめ」ても自分で何とか行動し、解決すれば、恐懼(きょうく)にまでは至らず、人間性は一応のレベルに達しているといえるでしょう。
スクールでは、『懼れしめて、その独を験す』を逆に用いてトレーニングをします。「怒り」や「恐怖」、それもできるだけ質の高い不快感を発生させ、それを正しく使うことを繰り返させるのです。人間の脳が予定している最も質の高い不快感とは、「生きるか死ぬか」ですから、「死の恐怖」「生きようとする怒り」で行動させればよいのです。ヨットやウィンドサーフィンはこのメカニズムを持っているため、『独を慎む』効果があります。
「独」とは、簡単にいうと「自分のことは自分でする」「行動的になれ」ということです。自分で行動する人は、何か悪い結果が生じてもそれを自分のせいとしますが、行動しない人は全部人のせいにします。近頃、やたらに都合よくアメリカナイズされ、何でも人のせいにする人間が多いのは、彼らの人間性の欠如を物語っています。さらに「独」とは「正しいことをすること」という意味もあります。すなわち善です。(善悪には簡単に分かる判定基準がありますが、ここでは述べません。)
「孟子」の『不動心』の項に、「独」の創り方が詳しく具体的に述べられています。孟子は『浩然の気を養う』といういい方をしていますが、これは『独を慎む』と同じことです。
マスコミは、自分では何もせず、何でも人のせいにするので、すぐパニックに陥ります。これが日本のマスコミの持つ構造的な欠陥です。これを解決するには、マスコミ人自身が『独を慎む』以外に手はありません。