
戸塚 宏の"にんげん"教育学 F
『力は正義』
「サカキバラ」から「バスジャック」まで、問題を起こす若者には明らかな共通項があります。これについて、識者は「心の闇」などという抽象論を振り回すばかりで、自分達が何も分かっていないことを露呈しています。とかく専門家なるものは、細部にこだわり本質をつかめません。「"サカキバラ"と"てるくはのる"は違う」などと、どうでもいいことを言う。彼らの言うことは「正しくない」。なぜなら、彼らはこの子達を直せない、つまり能力がないからです。戸塚ヨットスクールのように、「サカキバラ」だろうと「バスジャック」だろうと、きちんと直せる者が実力のある専門家です。現実に起こらないことは科学ではなく、理論とは呼べず、「正しくない」のです。
「強く」なければ役に立たない
戦後民主主義を一言でいうなら、「力の否定」です。政治家は悪、文部省は悪、校長も体育会系教師も体罰も競争も管理も校則もみんな悪。権力はすべて悪で、反体制のみを正しいとしています。しかし、この弱者の理論は万年野党にしか通用しません。そして、教職員組合のように、権力者としての実力のない者が与党になってしまうと、大混乱が生じ、今日の教育崩壊を導きました。弱者の都合に合わせた理論は、必ず破たんします。
「登校拒否は体制に反発している姿であり、正しい」何と馬鹿なことをいうのでしょう。彼らは行かないのではなく、行けないのです。強さゆえに体制に反発したのならまだしも、登校拒否児は弱さゆえに体制から弾き飛ばされた者、神経症なのです。
――海で溺れている子供がいて、腕に覚えのある男が飛び込んで助け上げ、一命を取りとめた。――この場合、男は強者の理論で子供を助けたのです。体力があり、技術があったために助けることができた。力があったから、強かったから正義が行えたのです。ところが、弱者はこうはいきません。「誰か泳げる人が助けるべきだ」「堤防に柵がないからいけない」「なぜ『危険』という看板がないのか」「保安庁はどうした」…。全て人のせいにします。弱者の理論は現場では役に立たないのです。役に立たないものを正義とはいいません。
「力は群れの為にある」という基本を押さえずして、力については語れません。強い者は力に余裕があります。だから、その力をまず自分の為に使い、余裕のある分を他の人の為に使うことができるのです。
問題児の共通項は「弱さ」です。教職員組合が育て、女が育て、男が逃げたら、子供は強くなりません。問題児は教職員組合の作品ですが、我々(=男)にも責任があるのです。この問題児を普通児に変える方法は、「強く」する以外にありません。
少年犯罪の主犯はマスコミと教職員組合
ハードウエアとソフトウエアの混同、教職員組合はこれを意図的に行います。
『物に本末あり。事に終始あり』(大学)――「事」には時間の経過があります。行動は「事」なのです。女子高生が校門に頭を挟まれて亡くなったのは、校則のせいではなく、校則をうまく使えなかった先生のせいです。「物」のせいではなく、「事」のせい。それなのに、「物」と「事」をわざとスリ替えて校則反対を叫ぶとは、誠にタチが悪い。同様に、体罰で怪我をしたのは体罰が悪いのではなく、その仕方が悪いのであって、体罰を否定する理由にはなりません。
力は正義ですが暴力はいけません。暴力は間違った力の使い方です。暴力と力を同一に扱うことは、二重の間違いを犯しています。進歩的文化人がよく使う「教育に力は無用」「暴力の反復性」等々の力の否定論は、論理の矛盾なのです。どうも、日本の「インテリ」は、頭の弱い人が多いようです。
人間は進歩すると強くなります。技術力、知力、体力、気力、精神力…、力がついたことを「強い」といいます。また、進歩とは価値が高くなることですから、「力がある」と「価値が高い」とは同じ意味になります。強さの否定、力の否定は、進歩の否定、価値の否定に繋がります。
「平等になる」のであって、「平等である」のではないのです。平等とは自分で創るものです。「強者と弱者が平等である」とは、何という矛盾した論理でしょう!みんなが1位、みんなが優秀などというふざけた教育をしたために、子供は進歩できず、幼児の人間性のまま、弱いままに成長してしまいました。その結果、自分でもよく分からないままに、大それた犯罪を犯してしまうようになったのです。
だから、「サカキバラ」も「てるくはのる」も「5千万円恐喝」も「バスジャック」も、本当の主犯はマスコミと教職員組合です。