戸塚 宏の"にんげん"教育学  H

『理性は創るもの』


 これまで8回に渡って述べてきたことは、「我々日本人には、西洋流の精神論よりも東洋流の精神論の方が合う」ということです。
 『世界人権宣言』に関するところで少し触れたように、戦前の日本では「生まれながらに理性がある」などという戯言は全く通用しなかったし、そんなことは考えてもみませんでした。ところが、敗戦後、急にこの精神論が幅を利かせ、「子供に理性があるのかないのか」といったバカな論争が真剣に行われたりしました。
 「進歩的、民主的、子供の立場に立った」等と自認した戦後民主主義の守護者達は、当然のごとく「理性がある」派でした。しかし、彼らは「理性とは何か」の解明はしませんでした。アメリカで吹き込まれたテープを、そのまま日本で流しただけなのです。それが50年後に、学級崩壊というとんでもない事態を引き起こしました。学級崩壊は、日本崩壊と同じ意味です。放っておけば、30年後には日本は崩壊するでしょう。
 学級崩壊は起こるべくして起こりました。なぜなら、教育とは「正しく(知)・強く(情)・安定した(意)理性を創ること」だからです。もしも理性が「あるもの」なら、初めから教育は不要ですし、成り立ちません。勝手なへ理屈を並べたて、子供の首を切り落としたり、バスジャックをしたり、少女を長い間監禁したりする者は、「知育の失敗」です。すぐにかっときて、ムカツクと先生をナイフで刺す者は、「意育の失敗」です。無表情で、何をしても面白くない者は「情育の失敗」。「サカキバラ」も、「てるくはのる」も、バスジャックも、今話題になる少年犯罪者はこれら全ての要素を持っています。教育の完全なる失敗作です。彼らにも「理性と良心」があるというなら、それはこじつけというものです。彼らは、理性も良心も「創られていない」、「完成していない」のです。

まず人間性(=本能)を築け!

 理性は「創るもの」です。それは理性の素(もと)から創ります。理性の素とは本能のことです。本能が弱ければ、弱い理性ができます。本能が間違っていれば、間違った理性ができます。本能が不安定なら、不安定な理性ができます。
 本能とは、別の言葉でいえば人間性のことです。まず人間性を完成させ、それを素にして理性(社会性)を完成させるのです。教育は、人間性が完成していることを前提に行われるものなのです。「独を慎む」(大学)、「浩然の気を養う」(孟子)は、人間性の完成を目指した言葉なのです。
 例えば「罪の意識」という本能は、他人に危害を加えようとした時、加えた時に発生する不快感のことです。人は『快を求め、不快を避ける』の原則により、罪の意識から逃れるために、その危害を加える行為を中止します。しかし、本能が狂っていれば「罪の意識」はうまく発生しません。無表情の少年は情動(本能レベルでの感情)が弱いから、罪の意識も弱く、十分に機能しないのです。本能レベルで意志が弱ければ、罪の意識が持続しません。少年達は、既に本能の段階でおかしくなっているのです。本能がおかしければ、正しい教育を受けてもなかなか正しい理性ができ上がらないのに、ダメ押しのように間違った教育まで受けているのですから、彼らがああなるのも無理はありません。

教える側の人間性が問われる

 さて、我々の側のことを考えてみましょう。ナイフ少年は意志が弱い、だからすぐにキレる、ナイフを使うのをやめられない、まことにけしからんことです。しかし、彼らを責めるなら、我々は彼らの意志を強くする方法を知っていなくてはなりません。「我慢させろ」ではダメなのです。ヨットスクールでは、コーチに次の自覚を求めます。すなわち、
「教えることができるのは、自分でできるところまでである」 知っていてもダメ、できなくてはダメなのです。ナイフ少年の先生達の「人間性」はどんなものだったのでしょうか。十分な人間性があり、教えることにだけ失敗したのか、それとも、そもそも先生自身がその人間性を創り損なっていたのか、あるいはその両方なのか…。
 教育を正常化しようと思うなら、現状の分析が十分に行えなければなりません。それには現場にいなければ駄目なのです。「教育改革国民会議」のメンバーを見て、疑問が湧いてこないでしょうか。現場を知らない文化人や大学教授に、何がわかるでしょう。そんな彼らに、問題児を1人預けたとして、果たして直すことができるのでしょうか。たった1人を直せない人間が、日本中の子供に影響を与えるようなことをしてはなりません。