●「叱れない親」の罪を今こそ考えよ!

戸塚宏「体罰が子供の理性を正しく鍛える」



ここに戸塚校長のプロフィールがあります

 「しごき教育」で訓練生を死亡させたとして、83年に傷害致死容疑で逮捕された戸塚ヨットスクール事件の被告、戸塚宏氏。
 裁判は1審が執行猶予、2審は一転して実刑判決、現在最高裁で係争中である。戸塚氏は裁判で「体罰は教育」と一貫して訴えている。

 事件後、世間から強い批判を浴びた戸塚氏だが、一方でその方法論を支持する支援者も多い。同氏は86年に保釈されてすぐスクールを再開。ヨットに代えてウインドサーフィンの訓練を通じ、再び不登校、家庭内暴力に悩む子供たちを受け入れて、彼らの更生に取り組んでいる。

 その戸塚氏は、近年相次いで起こる青少年による凶悪犯罪に対して、「当然起こることだと以前から予言」ていた」という。


 戦後日本では、子供をほめなければいかん、叱ってはいかん、ましてや殴ってはいかんという考え方が支配的になっています。実は、この『ほめる教育』こそが、今の子供たちの問題の原点となっているのです。

 ほめる教育はそもそも、日教組が「生徒の自主性だ、自由の尊重だ」と調い上げたところから始まったもの。それに伴い、騒いだり非行を繰り返す生徒を殴る教師を吊るし上げ、排除していきました。文部省はこれを容認し、マスコミも同調した。
 そうした風潮が支配的になった結果、親や教師は子供を殴ることはもちろん、叱ることすらできなくなってしまったのです。かくして体罰は否定され、ほめて指導することが正しいという風潮、『ほめる教育』が定着しました。

 私は今年60歳になりますが、ちょうど戦後教育を受けた最初の世代です。ということは、今や50代以下の日本人はすべて、戦後の『ほめる教育』を受けて育った世代になってしまっているわけです。
 そのため日本中の親が、子供にどう接すればいいか、どうしつけれぱいいかが分からなくなってしまった。親自身、悪いことをしても叱られず、ほめられて育ってきたから、子供を叱るべきときにもどうしたらいいのか分からない。そんな親に子供のしつけなどできるわけがないでしょう。
 50代以下が皆そうなのだから、社会自体が子供をどう導けばいいか分からなくなっているともいえる。そのため、子供は良いことと悪いことの区別すらつかなくなっているというのが現状なのです。

 今回の事件を起こした17歳少年の発言を見ると、2人とも事件を起こして世間から注目されようとしていることが分かります。注目されたいという気持ちは、ほめられたいという気持ちと同じものです。バスジヤック犯の少年は、「世の中を変える」などと自らの行為を正当化している。厳しくしつけられていないから善悪の判断がついていないのです。
 これが、『ほめる教育』を受けてきた親が育てた子供の実態なのです。



体罰が効くのは小学校卒業まで

 では、青少年にどういう教育を施す必要があるか。
 一言でいえば、子供の人間性を強くすることに尽きます。そのためには、罰則を加えなければだめです。少年法改正も必要な手段。もちろん、体罰も必要です。
 ただし、私は体罰を加えるのは、幼稚園から小学校6年生ぐらいまでと考えています。というのも、3歳までは子供らしさを育てるため、ひたすら愛情を与えてあげることが必要です。また、中学校以上になると、体罰の効果は薄くなってしまうのです。

 体罰という行為に対してはいろいろ誤解があるようですが、まず考えなくてはならないことは、人間の基本行動は、
「快を求め、不快を回避する」
ものだということ。だからこそ、悪いことをしたら体罰を与えることが有効な手段となるのです。その経験を一度でもすれぱ、その子供は体罰という『不快』から回避するように自ら行動するようになるはずです。体罰の復活だけでこれだけの変化が出ます。『ほめる教育』だけでは自分を律することを学べません。
 ところが、『ほめる教育』を推進する人たちは、「体罰は暴力だ」と決め付け、否定する。それは間違っている。力は正義、間違って使った場合は暴力になる。暴力は行使する側が利益を得るために使われるものです。カネが欲しい、モノが欲しいという目的で使うのが暴力。体罰は子供に善悪をしつけることが目的です。体罰を受けた子供は、自ら悪いことをしないようになります。さらに、自ら強くなろうともする。こうした子供の進歩を目的としているのが体罰なのです。自らの利益のために行なわれる『暴力』と、子供のために行なわれる『体罰』とはまったく異質のものなのです。

 親や教師から体罰を受けた子供は、親、教師に従うようになります。うちのスクールでは、いうことをきかない子供に対しては、最初に2〜3b吹っ飛ぶくらい強く殴る。殴られた子供は、最初のうちは泣いているが、次第に私に従うようになります。そのうち私に寄り添ってくるんです。力の強い者のそぱにいれぱ大丈夫だと思うのでしょう。子供は弱い者は信頼しない。殴った後に信頼関係が生まれる。体罰が暴力でないことは子供にも分かるのです。
 それは、子供たちが理性で考えた結果ではなく、本能で感じとっているからでしょう。
 中国の孟子は、「理性で分からなければ、本能に聞け」といっています。人間は通常、理性に基づいて行動する。しかし、どう行動するか分からないときには、本能で判断すべきだという意味です。

 罪の意識というのは本能です。罪の意識があれば人殺しはしない。が、本能が弱いと罪の意識も弱くなり、少年による殺人事件も起きる。だから、子供は本能を鍛えなくてはならない。
 子供の本能を鍛えるために必要なのは、今はなくなった『危険な遊び』をさせることです。危険を体験することで子供の本能が鍛えられる。そこで私はウインドサーフィンを通じて『危険な遊ぴ』を体験させているのです。

 では親の役割は何か。体罰で子供の理性を鍛えることです。それは難しいことではない。親も本能に従って行動すれぱいいのです。親自身が不快と感じることを子供がしたら、すぐに罰を与えればいい。そうすれば子供は自然と他人が不快に感じることをしなく、なる。つまり、善悪の区別がつくようになる。

 これまで常識とされきた、子供の主体性、自由尊重という考え方を、今こそ見直すべきなのです。