力の否定は神をも恐れぬ所業
まず第一に、我々は人間(という動物)として、さらに男として生まれてきました。それは自分の意志でそうなったのではなく、何かよく分からない、はるかに大きく、強い意志のもとにそうなったのです。我々はその大きな意志に導かれて、目的を実現する責務を生まれながらに負わされています。この「何かよく分からないもの」を、ある人は神と呼び、ある人は天と呼び、ある人は自然と呼びます。その大いなる意志と目的――それは「種族保存」です。
何のために「種族保存」があるのか、そんなことは誰にも分かりません。分かりませんが、ともかく、それで地球全体のバランスがとれているのは確かです。我々人間の肉体も精神も、両者が結合して現れる「行動」も、すべて種族保存という目的に合致するように創られています。
第二に考えなければならないのは、動物の中で、人間だけがこの大いなる意志に反して自己中心的なシステムを作ろうとすることです。これを「文明」と呼びます。この神をも恐れぬ行動は、「考える力」を武器に種族保存を図って大成功した人間に、宿命的に付与された暗部なのです。
「戦争」という名の争いも、「種族保存」と「文明」という二つの枠組みに照らして考えなければなりません。「戦争は悪」という単純反射の知恵遅れ的発想は、人間精神の暗部から生じる「へ理屈」でしかありません。「正義」などになりうる代物ではないのです。
「体罰は悪」は科学的に正しいか
我々のスクールが日本中のマスコミから攻撃された理由は、「体罰は悪」という風潮の中で体罰を行ったからです。しかし、「体罰は悪」という見解が正しいかどうかを決めるには、二つのことをはっきりさせねばなりません。まず、体罰の定義と目的。次に、善悪の定義と基準です。もしあなたが「体罰反対」論者なら、この二つのハードルをクリアできるはずです。それができないなら、体罰反対は実はあなたの考えではなく、他人の考えをオウム返ししているに過ぎないことになります。あるいは、単なる好き嫌いを言っているだけです。
体罰が好きな人間などいるわけがありません。体罰を行うことに何の利益もないのですから。「あの時あの子に体罰をしてあげてよかった」と思えるのは、ずっとずっと後にその成果が表れたときです。
力の否定が男をダメにした
「争い」には目的があります。それは次のようなものです。
@縄張りを守る。A女を惹きつける。B指導者を選ぶ。
この3つの目的を達成するには、「力の強さ」が必要です。そして、その強さを示す方法が争いなのです。だから男の子は小さい頃から競争して強くなろうとするのです。ところが、何でも平等を唱える戦後教育は、力を否定し、体罰を否定し、いじめを否定し、競争を否定し、当然のように戦争を否定し、男が強くなるチャンスを奪ってしまいました。まさに「神をも恐れぬ所業」です。日教組が行った戦後教育は、人間の悪い側面の行動(=自分本位の身勝手なシステム作り)のそれであり、大いなる自然の意志に反した行動なのです。
「力は正義なり」は正しい言葉です。強くなければ縄張りを守れません。強くなければ女は寄ってきません。強くなければ、指導者、権力者、インテリ、士にはなれないのです。
「戦争」が「平和」を守る
「戦争反対、平和賛成」と言った女性党首がいたことをご記憶でしょうか。彼女は「好き嫌い」と「善い悪い」をごっちゃにしています。「戦争嫌い、平和好き」という個人レベルの、それも守られる側の感情を述べただけ。とてもじゃないが指導者の発言に値しません。平和であるには、まず縄張りが確たるものでなくてはならない。争いはその縄張りを守るため、あるいは広げるために行われます(この広げる行為が行き過ぎると侵略戦争になります。人間の集団には力の差があり過ぎて、相手の国を100%侵略できてしまうから起きる現象です)。
で、縄張り争いの最大のものが「戦争」。だからこそ、戦争という行為の目的は平和なのです。「平和のための戦争なんてたわごと戯言だ」と騒いだマスコミがいましたが、そのマスコミの論説こそ戯言だったわけです。
戦争放棄を謳わされた憲法に、「平和憲法」などと矛盾に満ちたあだ名をつけて喜んでいる連中。あれは一体何でしょう。そういう連中に限って、「皆で共に闘おう」と叫び、「○○闘争勝利!等と言う。「闘い」は小さな戦争じゃあないですか。自分がやるのだから他の人だってやるんではないのですか。
我々現場の人間が人を指導する時、常に心しておかねばならないのは、「教えることができるのは自分ができるところまで」ということです。これは、儒教でいう「近く思う」(何事も自分のこととして考える)の応用の一つです。
教育が第一になすべきことは、子供の人間性を高めることです。ならば、まず先生の人間性が高くなくては。しかし今、先生になる人達は、自身が人間性を高めるメカニズムの欠けた世界で育ってきています。考える力が育っていないと言ってもいい。そういう人達が子供に「戦争」を教えたなら、それは指導部(日教組)の方針に沿った、自分でもよく分からない理念を子供に受け売りしたものにしかなりません。そして教えられる側の子供はもっと考える力がなくて、受け売りの受け売りをやるようになるのです。
進歩させたかったら、子供に恥をかかせろ
もう一つ儒教の言葉を借りましょう。
「恥を知るは勇に近し」。
「勇」は進歩しよう、強くなろう、力をつけようとする意志のことです。進歩は自分の行動でしか達成できませんから、まず進歩しようという意志を持たなければなりません。その意志を創り出すのが「恥」という不快感なのです。
今の子供は恥をかく能力が不足しています。だから進歩しない。恥は差があるから発生します。この差のことを「礼」と言います。そして、差を知るには己が分からなくてはなりません。マスコミが称揚する「ほめて伸ばせ」は己を見失わせます。また、幼児期から受験戦争をさせたら、人間性の差を知ることができません。差がないから人間性が高まらない。
平等思想は「礼」の否定です。日教組が正しい精神論を否定したので、子供は今のようになってしまったのです。彼らには「近く思う」能力が不足していました。もちろんマスコミも同罪です。
ダメな指導者のせいで教育が崩壊した
「力は正義なり」。力にはもともと「正しい」という意味が含まれています。では、「暴力」はどうか。暴力は力の使い方を間違った場合を言います。力をハードウエアとすれば、暴力は誤ったソフトウエアなのです。ですから体罰は暴力ではありません。子供のため、という目的が正しい限りにおいて。戦争も、目的が正しい範囲において暴力ではありません。どちらも、本来の目的を違えたらその時に初めて暴力となるのです。文明も「自分(自我)を中心とした新しいシステム」を作ろうとした時、地球環境のバランスを破壊する暴力になってしまうのです。
「戦争は悪」は戦後民主主義の産物です。そうなるようにアメリカに仕向けられたのは事実でしょうが、指導者さえしっかりしていれば、アメリカには面従腹背しておいて、国民をきちんと強くすることは可能でした。特に平和条約締結後は自由にできたはずです。それが、ダメな指導者達のおかげで延々と精神的支配を受け続け、間違った方向に進み続けてしまいました。そして今、ついに教育崩壊という国家存亡の危機にまで追い込まれても、まだ本気で教育改革に取り組もうとしません。「誰かがやってくれるだろう。そのうち何とかなる。戸塚ヨットスクールにだけはやらせたくない…」などと言ってのほほんとしている!
「戦争は悪」という戯言は、それだけで切り離して取り上げるべきではなく、占領政策と日本指導者のダメさ加減を示す結果の一つ、ととらえるべきです。
――それにしても、日本国憲法にある「交戦権はこれを認めない」というダメ押しのようなあの一文は何なのでしょう。あの中に、当時のアメリカの意図が、全てあるような気がします。
正しい精神論が日本を救う
さて、日本の危機を救う解決法はあります。教育でダメになったのだから教育で解決できるのです。戦後教育が失敗したのは、教育論が間違っていたから。教育論が間違ったのは、その基となる人間論、精神論が間違っていたからです。それは『世界人権宣言』の第一条を読んでみればすぐに分かります。あれはキリスト教思想。科学と呼べるような代物ではありません。キリスト教徒には通用しても、我々には使えないのです。
戦後、「人間は生まれながらにして理性がある」などと言われ、それを信じ込まされて教育論を作り上げてしまいました。それが間違いだったのです。
理性は創り上げるものです。教育とは、「正しく・強く・安定した」理性を創ることです。そして、その基となるのは人間性ですから、まず人間性を強くするところから始めなければなりません。いきなり「理性がある」と言ったら、教育など初めから成り立つはずはないのです。
「科学的精神論を創ること」、これがまずやらねばならないことです。そしてそれは、存外簡単です。我々は、儒教・仏教という古来より伝わる科学的精神論を持っており、「真理とは何か」をことばにならない感性により、既に知っているのですから。
戸塚ヨットスクール 校長 戸塚 宏
