もう野放しにできない 少年犯罪に鉄槌を
理性は「創る」もの
理性は創るものであり、あるものではありません。『世界人権宣言』の第一条には、「人は生まれながらに…理性と良心とを付与されており…」とありますが、これはとんでもない誤りです。さらに、同条にある「自由・権利・尊厳・平等」、これらもすべて創るものであって、あるものではありません。
教育とは、正しく・強く・安定した理性を創ることです。「正しく」とは「知」のこと、「強く」とは「感情」のこと、「安定した」とは「意志」のことです。
人間の精神は「知・情・意」からなり、そのおのおのをしっかりさせなければいけません。知育・徳育・体育なら、知育が「知」、徳育・体育が「情・意」のトレーニングを現します。『文武両道』というのも、バランスのよい理性を創ることです。徳育は否定、体育はいいかげん、武道は戦争の準備だ、などと考えるグループが教育を牛耳っていては、子供が理性的に育つわけがありません。「知・情・意」の、全てがダメな子供ができ上がるだけです。
「力」は正義です。「力がある」あるいは「力が強い」というのは、トレーニングによって進歩し、価値が高くなった状態をいいます。その「力」を「暴力」と混同し、力そのものを否定するからいけないのです。「暴力」とは間違った力の行使のことです。
(正しい)力は群れの為にあり、自分の為にあるのではありません。群れに力が必要だからこそ、民主主義ができ上がったのであり、力そのものを否定したら民主主義の否定になってしまいます。
問題児には共通項がある
最近マスコミを騒がせているいわゆる問題児には、ある共通項があります。
副腎皮質ホルモンの研究で有名な生理学者セリエは、「病気の種類に関係なく、病人には共通する<病人らしさ>がある」と指摘しました。同じように、昨今の問題児にも共通した<問題児らしさ>というものがあることにお気づきでしょうか。
バスジャック、ストーカー、恐喝、登校拒否、神経症、殺人、万引、家庭内暴力…。これらの事件が起こるたびに、専門家と称する人々がマスコミに登場し、その個別性を強調します。「サカキバラ」と「テルクハノル」は違うと力説するのです。そして、《暴力の反復性》などという、アメリカ仕込みの訳のわからない理論を持ち出して、すべての原因にしてしまいます。いじめられた、体罰を受けた、父親に殴られた…みんな他人のせいだというわけです。
しかし、セリエのいう<病人らしさ>も、私のいう<問題児らしさ>も、他人ではなく、本人の中にその主な原因があります。
『因縁果報』とは、仏教の最も重要な法則です。「内因と外縁によって結果が生じ、報が残る」ということですが、「報」とは技術・くせのことであり、理性もこれにあたります。
例えば、強風で波の高い時にウィンドサーフィンに乗り、飛ばされて海に落ちたとします。この結果は、本人の技術が拙劣だったためで、波や風のせいではありません。その証拠に、同じ状況でもウィンドサーフィンを自由自在に操る人間がいます。彼は、技術が高いために「自由」になったのです。そこで彼は、強風でも海に出ることができる「権利」を得ました。さらに、人からうまいと認められることで「尊厳」を得ました。他のうまい人と「平等」になり、自分に余裕もできます。自分に余裕があれば、他人を思いやることができます。これが「良心」です。
このようにウィンドサーフィンの技術というのも、理性の一つであって、自由も権利もすべて、こうやって創っていくものなのです。
技術が高いことを「強い」、「力がある」といい、「価値が高い」といいます。理性とは現実的なものです。決して抽象的なものではなく、絶対的なものでもなく、ましてや始めから崇高なものでもありません。
問題児は精神的に「弱い」
さて、問題児に共通する<問題児らしさ>とは何でしょう。それは弱さです。精神が決定的に弱いのです。この弱さは精神を創らなかったため、トレーニングをしなかったために生じたものです。
戦後、「自主性尊重、個性尊重、自由尊重」の美名により、子供は放任されました。教育してもらえなかったのです。自主性も個性も、自由と同様、あるものではなく創るものなのに、です。戦後民主主義教育を進めた人々は、そのことに思い至らず、無いものを尊重し、他人にもそれを強制しました。トレーニング抜きの進歩などありえないのに、トレーニングを「しごき」と言い換え、否定する愚を犯してしまいました。
今、頻発している青少年の犯罪は、誰が見たって教育の失敗です。だから、この責任は、戦後教育を牛耳ってきた人々にあります。それは、教職員組合であり、マスコミであり、両者に屈服した文部省です。にもかかわらず、彼らが謝り、責任を取る姿を見たことがあるでしょうか。彼らは平気で居直り、とぼけ、責任を転嫁します。彼らに正しい理性などないのです。その彼らに育てられた子供たちに、正しい理性ができるわけもありません。
問題児は弱い。これは幼いということでもあります。今の若者は、やけに幼い顔をしていると思いませんか。マスコミに顔を出すアナウンサーや、タレントもしかり、です。特に秀才が揃うと言われる、NHKや朝日新聞の記者がいい例です。幼かったり、ずるそうだったり、怪しげだったり、いずれにしろ信用ならない顔をしている人が多い。あれは、理性ができていない、あるいは創り損なった顔です。
評論家は(少年の)《心の闇》などという、訳の分からない言葉を作ってごまかしていますが、今の問題児を理解できないのは、彼らに年相応の理性があると思っているからです。
彼らを、「へ理屈をこねる体の大きな幼児」と考えてみればいいのです。ただし、「しつけのできていない幼児」です。彼らは自分中心で、人のことを考える力などありません。欲しい物は大人が与えてくれて当たり前。何ひとつ責任はとれないのに、大人に守られる。食べさせてもらうのも当然のこと。弱い者に武器を与えると、やたらに使います。こんな幼児に、自由・自主性・平等という武器を与えたのですから、それを振り回すのは当然です。
まず「進歩したい」という意志が大切
人間は、進歩することを宿命づけられています。
進歩すれば価値が上がります。自分を、人間的にも社会的にも価値あるものにしたければ、進歩しなければならないのです。進歩するには、自分で行動しなければなりません。これがトレーニングです。そして、トレーニングをするためには、まず「進歩したい」という意志を発生させなければなりません。
『恥を知るは勇に近し』(中庸)――この「勇」は進歩しようとする意志のことです。我々は、どんな時に「恥を知る」でしょうか。自分より優れたことをやってのける人を見た時、他人に人間性の大きさを見せつけられた時、我々の心には尊敬や崇拝、憧れの気持ちが湧いてきます。これが「敬」です。「敬」が恥を知らしめるのです。
「人間は平等ではない」と自覚した時、我々は進歩しようとします。ライバルと平等に、先生と平等になろうとするのです。だから進歩する。まず自分の分際がわからなければ、進歩しようとは思いません。『己を知れ』です。先生も生徒も平等、などという間違った平等主義は、進歩の芽を摘んでしまいます。
他人の知識を信用するな
我々はよく理性と知性とを混同し、つい、いわゆる「インテリ」にあこがれ、尊敬してしまいます。「インテリ」は確かに「知」に優れてはいますが、「情・意」が劣っているため、正しい理性を持ち合わせてはいません。
ウィンドサーフィンの技術も理性ですが、どんなに本を読み、ビデオを観て知識を得ても、乗ることはできません。逆に、知識が全くなくても、感情と意志が強ければ技術はできます。それと同時に知識も出来上がるのです。知識だけでは間違っていることが多く、間違った知識で行動すれば、間違った技術ができてしまいます。
「般若心経」を読んだことがあるでしょうか。随分おかしな解説がしてあります。あんな解説に、納得がいくでしょうか。
『君子は本(もと)を務む。本(もと)立ちて道生ず』(論語)
日本語訳に疑問を持ったなら、その原典となる中国語訳を、さらにはサンスクリット語の原典を読めばいいのです。すると、「般若心経」は、次のような意味を持つことがわかります。
「完璧な理性を創りたければ、他人の知識は信用するな。自分の本能に従って修行すればよい」
原始仏教は、知を信用していません。だから、知を使わずに理性を創り上げるのです。これは欧米流の、理性と知性を同一視する考えの対極をなします。
「インテリ」には思考能力がない
日本の「インテリ」には、ある特徴があります。彼らは神代の昔より、外国の文化を取り入れるだけで、自国の文化を創り出すことをしませんでした。そのため、外国の知識を豊富に持ってはいても、現場には通用しない人間になってしまいました。「外国かぶれ」で「思考能力に欠けた」人間です。
彼らは、外国の文化・知識を、疑うことなく信用します。先に挙げた『世界人権宣言』の第一条は、そのいい例です。「アメリカ様のいうことが間違っているはずはない」と信じているのです。
もう一つ、古い例を挙げておきます。
仏教は人間の「苦」をなくすために始まったものですから、まず「苦」の正体を知ることが必要です。お釈迦様は、それを「四苦八苦」として八つにまとめました。
@生苦A老苦B病苦C死苦D愛別離苦E怨憎会苦F雖復希求而不得苦G略説五取蘊苦の八つとされていますが、@〜Fは非常に具体的なのに、Gだけ総論的でよくわかりません。そこで基本に帰り、お釈迦さまの最初の説法である「転法輪経」を読むと、次のように書いてありました。
「生も苦である。老も苦である。病も苦である。死も苦である。心配・悲泣・苦しみ・憂い・苦悩も苦である。嫌いな者と結ばれるのも苦である。愛する者と結ばれないのも苦である。求めて得られないのも苦である。要するに、五つの固執される集まりは苦である」
つまり、漢訳は五苦目の「心配…」を抜かし、全体のまとめとなる「要するに…」を八苦目にするという誤りを犯していたわけです。たったそれだけのことです。それなのに、大昔の日本の「インテリ」はそれをそのまま信用し、後に続く「インテリ」達も、よく分からないままにずっと正しいとしてきました。これが、千年以上も続いてしまったのです。知識ばかりを求め、現場を軽視してきた日本の「インテリ」の実態です。
非科学的な西洋的精神論
このような「インテリ」が、ずっと日本の指導的な立場にあり、この国の進路を脅(おびや)かしてきたのです。しかし、戦前の日本はまだ、仏教や儒教といった東洋的な精神論を信じており、非常に"科学的"でした。そして、その科学の全体を取り入れたため、例え部分的な間違いや誤解があっても、うまくやってこれたのです。ところが、戦後の日本が受け入れた『世界人権宣言』は、西洋的な精神論であり、その裏には「神」が隠れています。
「全ての人間は生まれながらにして自由であり、尊厳と権利とについて平等である。人間は理性と良心とを授けられており、同胞の精神をもって互いに行動しなければならない」
人権屋といわれる人たちは、これとそっくりの文章をどこかで見たはずです。そう、『アメリカ合衆国独立宣言』と『フランス人権宣言』です。
「全ての人は平等に創造され、生きる権利、自由、幸福の追求などの確固たる、譲ることのできない権利を神に与えられている、ということは自明の理である」(『アメリカ合衆国独立宣言』)
キリスト教徒が、この人権思想のもとできちんとやってこられたのは、聖書の各論を知り、総論を正しく理解できるからです。日本の「インテリ」は、歴史や文化の違いなどを考慮せず、非科学的な一神教の、総論のみを正しいものとして受け入れてしまいました。さらには、その内容さえも正しく理解できていません。
『世界人権宣言』に自由がいくつ出てくるか知っていますか。日本語で「自由」訳されていても、英文ではフリーとリバティがあることを知っていますか。そもそも、『世界人権宣言』を読んだことがありますか。
子供は褒めると進歩しない
本当のインテリとは、「知・情・意」のすべてが人より優れ、特に「知」において抜きん出ている人のことです。しかし、日本の「インテリ」は「情・意」においては人並み以下、「知」は他人の知識の盗み取りです。
かつては日本にもいた本当のインテリは『文武両道』でした。武は「情・意」を強くし、実践において進歩の法則をつかむことができます。「剣聖」とは「剣の聖人」のことではなく、「剣で聖人になった人」のことです。宮本武蔵は、剣で取得した進歩の法則を理性の進歩のために使い、「剣聖」となりました。
戸塚ヨットスクールに入ってくる秀才たちは、まさに「インテリ」です。
へ理屈屋、教えたがり屋、怠け者、くたびれ屋、不満ばかりいう威張りたがり屋。実際には、何の役にも立ちません。その虚栄心の強さは驚くべきものがありますが、本人も家族も、それを自尊心だと思っているのでさらにややこしい。彼らは行動的でないため、真実をつかめません。本当のインテリは考える力を持っていますが、「インテリ」にはありません。考えるということは精神的な行動ですから、行動力のない「インテリ」は当然考える力も弱い。
行動力がないのは、「情・意」が弱いためです。「褒める教育」が、これに拍車をかけます。褒められれば、それで十分と言われたことになりますから、それ以上の進歩をしようとしなくなります。また、褒められないと不安になり、無理をして褒められようとします。サカキバラ的な奇異な行動も、その現れの一つです。さらに、「褒める教育」は虚栄心も強くします。褒められるのは偉いからだということで、自分を人並み以上に優れた人間とし、相対的に他はバカだと思ってしまうのです。
マスコミは、「インテリ」の集団です。力のないいい子ぶりっ子ばかりで、浮ついた教育論を人に押しつけます。それにもまして情けないのは、我々日本の男です。昔の日本の男は、言うべき時は言い、決まったことには従い、大勢に順応しました。これは強さの現れです。
しかし、今の男は教職員組合やマスコミに何も言えず、決まったことには逆らえない。要するに何もしません。これは弱さの現れです。今起こっている教育問題は、すべて我々の責任と考えるべきです。我々は弱くなってしまったため、考える力も行動力もなくなってしまいました。行動する人間は、何かまずいことが起きた時はそれを当然自分のせいとし、行動しない人間は、すべて人のせいです。
「罪の意識」は本能に基づく
ここまでは理性について述べてきました。この後は、さらに重要な本能について述べます。
我々が人を殺したりしないのは、「罪の意識」という本能を持っているからです。
『快を求め、不快を避ける』が人間の行動原理ですから、感情が人に行動をさせます。「罪の意識」という本能は、間違った行動をとめる働きをします。子供を叩いたり首をしめたりすれば、子供は痛がり、苦しそうな声を出します。その情報を目・耳で受け取った時、我々の脳は情報処理をし、「罪の意識」という不快感を発生させます。そして、その不快から逃げるためには、今の行動をやめなければならない。だから子供を殺さずに済むのです。従って、本能の強い人ほど、「罪の意識」も強いといえます。
我々は「罪の意識」という本能から、道徳や倫理という理性を創り上げていきます。まず本能を強くしなければ、道徳的にも倫理的にもなれません。意味もなく人を殺しておきながら、「罪の意識がない」「淡々と話している」「早く家に帰りたい」などと、首をかしげるような少年たちの態度。これは、理性の問題などではなく、本能が希薄になっているからです。そんな彼らの表情には、ある特徴があります。
本能の弱さは表情に現れる
以前、「サカキバラ」の写真が週刊誌に載りましたが、それは予想通り、うちによく入校してくる子供の表情でした。さらに言うなら、その辺にいくらでもいる顔です。その表情の四つの大きな特徴は、@目が吊り上っている、Aあごが上がっている、B口がへの字で突き出ている、C目・口のまわりに表情がない、というものです。
@目が吊り上るのは、生命の危機感によります。父親も学校の先生も弱い男ばかりで、いざという時に自分は守ってもらえない。それを本能的に感じ取り、怯えているのです。ですから、戸塚ヨットスクールのような男が強いところに、無理矢理にでも所属させれば、たちまち目は下がります。
Aあごが上がっているのは、子供の場合、虚勢を張っている姿です。実力以上に自分を高く見せようとする。今の子供は皆、実力以上の評価を受けていますから、どうしても内と外に落差ができてしまいます。しかし、@もAも、子供を強くしてやれば直せます。
B口がへの字なのは、本来、意志の強さを現しますが、「サカキバラ」の場合は、我の強さを現しています。口が尖っているのは、人に文句をいう姿です。うまくいかないことは何でも人のせいにする態度の現れです。これは、先にも述べましたが、自分で進歩のための行動をしなかったことが原因です。特に、本能のトレーニングが不足しています。
C表情がないのは、本能の弱さの一番の証拠です。表情は情動(本能のレベルにおける感情=エモーション)により生じます。表情がないのは、情動が弱いからです。「情」は精神のエネルギーですから、「情」が弱ければ、「知」も「意」も弱くなります。つまり、無表情は、本能が非常に低下していることを現しています。
本能が弱いと「幸福」になれない
理性は本能から創られます。正しい理性は正しい本能からしか創られません。本能がいいかげんなら、理性もいいかげんになります。
母親は子供の幸福を一番に願うものです。だから子供に、東大を、大蔵省を目指させます。これは、女の幸福が、大きな傘の下で安定することにあるからです。しかし、男は少し違う。男は所詮ペールギュントなのです。青い鳥を探しに外へ行ってしまう。変化に幸福を見いだすが故に、七難八苦を求めてしまいます。つまり、創造こそが男に最大の幸福をもたらすということです。ですから、特に男の子の場合、母親の本能で育てると男の幸福を奪うことになりかねません。
人間は、「喜び」という本能から、「幸福」という理性を創り出します。いい服、いい食事、いい家、いい相手、そしてセックス。これらを得れば人は幸せを感じますが、この幸せはより本能的な喜びに近いものです。「幸福」という理性は、進歩した時、何かを創造した時に得られます。
しかし、ここに二つの問題が生じます。
まず、本能的な感情(情動)が小さいと、得られる幸福も小さいということです。本能の強さは、幸福になれる能力の大きさでもあるのです。次に、より大きな行動が、より大きな目的を達成させ、より大きな幸福をもたらすということです。つまり、幸福になるためには、本能のレベルの感情と意志の大きさが重要であり、理性的な知の役割はほんのわずかだということです。
『快を求め、不快を避ける』の原則は消えることはありません。「怒り」は攻撃行動を、「恐怖」は逃避行動を起こします。立ち向かう、という進歩のための行動は、「怒り」という重要な情動が起こさせます。元来、子供は弱いものですから、どうしても「恐怖」がまさり、逃げようとします。この時、大人が「怒り」の補充をしてやる、あるいは逃げることに恐怖を感じさせ、攻撃に転じさせてやればいいのです。このための手段が叱咤であり、体罰なのです。
「精神」の定義を持たない心理学
戸塚ヨットスクールがマスコミの総攻撃を受けていた頃、問題児のことを「情緒障害児(エモーショナリー・ディスターブド・チルドレン)」と呼んでいました。いわゆる専門家はよく分かっていなかったようですが、「情緒」の原語であるエモーションは、「情動」と訳すべきです。「情動」は本能レベルの感情のことですから、「情緒障害児」という言葉自体が、「本能に問題のある子供」ということを意味しています。つまり、本能が狂っている、あるいは機能が低下しているということ。この言葉は、少なくともカウンセラーにとっては非常に都合の悪い言葉でしょう。なぜなら、本能のカウンセリングはできないからです。そのためか、最近ではこの言葉自体があまり使われなくなりました。
カウンセリングの基本となる心理学は、精神に関する学問体系です。私は工学部出身ですが、その私が考えると、最も重要なのは「精神」の定義です。まずこれをはっきりさせなければいけません。そこで私は、心理学辞典で「精神」の項を引いてみました。すると驚いたことに、「精神」という項は存在しないのです。つまり、「精神」の定義がないままに、心理学という「精神」に関する学問体系が出来上がっているのです。
欧米人にとって、「精神」とは「理性」です。そして、「理性」は「神」そのものです。それを定義するなどという恐れ多いことは、彼らにはできなかったのでしょう。
「私は心理学を科学とは認めていない」「フロイトは世界三大うそつきの一人だ」「未だにフロイトを信じている人がいるとは驚きだ」――これらは、私が読んだアメリカの小説に載っていた文章です。
『天の命ずる、それを性という』(中庸)――「性」とは本能のことです。性善説と性悪説、正しいのは性善説です。なぜなら本能(=性)は、種族保存を目的とした情報処理だからです。もしも「性」が悪なら、人間はとっくに滅びています。性悪説というのは論理矛盾なのです。「原罪」などありません。
本能が強ければすべてうまくいく
理性は本能から創られるのですが、人間は賢すぎるため、自分に都合のいいような理性を創ってしまいます。そのため、往々にして間違った理性が創られます。このような理性を、仏教では「我」と呼び、本能どおりに創った理性を「空」と呼びます。「空」を、「存在するものには実体がない」などとバカな解釈をしてはいけません。仏教ははごまかしではなく、"科学"であり、現実的なのです。
目もある、耳もある、鼻もある。『無眼耳鼻舌身意』の「無」は、サンスクリット語では「Na」であり、「ナッシング」ではなく、「ノット」あるいは「ノー」なのです。
『心に得ずとも、気に求むること勿れとは可なり』(孟子)――「求」とは償うということです。ですから、「理性が間違っていても、本能のせいにしてはならぬ、というのは正しい」と訳せます。(本能は正しいが)理性の創り方が間違っているということです。
『志は気の師(すい)なり。…夫(そ)れ志至れば気はこれに次ぐ。故に曰く、其の志を守りて其の気を暴(そこな)うことなかれと』(孟子)――「意志(理性)は本能よりも上位である。(行動は理性が行わせる。)間違った理性で行動すると、本能と目的が違ってしまう」
『気壱なれば即ち志を動かす』(孟子)――「本能が強ければ、目的通りの意志を創ることができる」
つまり、本能が強ければ人殺しなどしないのです。問題児は本能が弱い、あるいは狂っているために、正しい理性ができていません。その間違った理性で行動するため、本能に反した行動をするのです。この解決法は本能を強くすることです。「敵は本能にあり」です。
「愛国心」だって本能
進歩したいという欲求が「敬」する心を生みます。それが目標となり、進歩しようとする意志ができます。教員組合や朝日新聞のように、「日本は悪い国、日本人は悪い、大人は悪い、みんな悪い奴ばかり」と言い続けていては、子供は「敬」すべき対象を失ってしまいます。従って進歩しないのです。「国旗国歌は破棄すべき、親と子供は友達、先生は仰いでも尊くない…」何というバカなことを教えるのでしょう。
しかし、憂いていても、簡単には世の中は変わりません。ならば、我々が子供たちの本能を強くしてやればいいのです。本能さえ強くしておけば、反日教育をする先生に対し、「先生の意見は間違っていませんか」と言うことができます。「愛国心」だって本能です。
非行や登校拒否についても、本能の面から考えてみるといいのです。
親友は、第二次反抗期がきて独立の準備を始め、社会に出始めた時に必要になります。それは、家の外には強い大人が大勢いて、一人では危険だからです。その為に仲間を作り、お互いに守り合います。これが親友です。ところが、今の子供たちは本能が弱いため、うまく親友をつくることができません。そこで、ずるい人間は手段と目的を逆転させます。軽微な犯罪を他人に分かるように行い、自分たちの集団を、反社会分子としてまとまらざるを得なくします。普通は敵に備えて親友を作りますが、非行は敵を先につくり、親友にならざるを得ないようにするのです。
登校拒否は神経症、学校恐怖症です。近頃の神経症は、フロイトのいう神経症とは違います。そのため、精神分析では直りません。登校拒否は、脳の情報処理の狂いにより起こっているのです。怖くないものを怖いと情報処理する。強い先生、嫌な友達、イジメ、給食、体育…全てが怖い。だから学校から逃げます。狂うのは弱いからです。
家庭内暴力は「怒り」がたまって起こります。彼らは妄想によって「怒り」を発生させ続けながら、閉じこもって行動しないため、「怒り」が発散できません。たまった「怒り」は、ちょっとしたことで爆発してしまいます。決して、カウンセラーのいうように「家族が悪い」のではありません。『因縁果報』の法則に従っているだけです。
脳幹トレーニング以外に解決法はない
いずれの問題も、本能さえ強くしてやれば解決します。問題児たちを一人前と考えてはいけません。彼らはトレーニング不足で、社会性(理性)どころか人間性(本能)さえ完成していない幼児なのです。
本能が完成していないという証拠がまだあります。本能は、さらにその下の下意識(脳幹)から創られますが、その機能がすでに低下しているのです。それは、例えば瞳孔反射や膝蓋腱反射などの、脳幹反射と呼ばれる機能の低下などに現れます。あるいは、傷の治りが遅い、病気が治らない、免疫が狂っている、血液成分がムチャクチャ、などという身体機能の低下からも認められます。
私は拘置所に入っている間に、これらを『脳幹論』としてまとめました。それは、一言でいえば、「脳神経系の機能低下がさまざまな現代病を生み出す」ということです。教育崩壊も現代病の一つと考えればいいでしょう。ガンや自己免疫病の多発と同じ、脳幹論シンドロームなのです。そしてそれは、教職員組合とマスコミ、文部省によって起こされたのです。
解決法は、この『脳幹論』の利用しかありません。
進歩する、強くする、力をつける、価値を上げる、皆同じ意味です。これらのことを成し遂げるには、トレーニング以外に方法はありません。トレーニングさせるためには、まずコーチの命令に従わせなければなりませんが、学級崩壊では話にならない。しかし、その学級崩壊の申し子のような子供たちが、戸塚ヨットスクールに来ればたちまち指示に従うようになります。これは、「強いものには従う」という簡単な事実です。
トレーニングは二段階に分けて行われます。まずハードウエアを創り、それからソフトウエアです。ハードウエアとは、能力、実力、基礎体力、戦略、そして精神の場合は基礎精神力、すなわち本能を指します。ソフトウエアとは、(能力・実力の)発揮、技術、戦術、そして精神的技術、すなわち理性を指します。
スポーツがいい例ですが、まず基礎体力をつくり、それから技術をつくります。どんなに素晴らしい技術をつくっても、基礎体力の限界までしか発揮できません。「戦略のミスは戦術では補えない。戦術のミスは戦略で補える」ということです。
正しい理性もトレーニングで創られる
ハードウエアのトレーニングは、肉体も精神も同様のメカニズムでなされます。細胞は、外からかかる負荷に応じた機能を持とうとします。肉体を鍛える場合は、筋肉細胞に負荷をかけ、それを取り除く行動をします。例えばバーべルを持ち上げたり、走ったりすることです。同様に、精神を鍛える場合も、脳細胞に精神的負荷をかけ、それを取り除く行動をすればいいのです。精神的負荷がかかると「不快感」が発生します。その「不快感」で行動し、負荷を取り除くのです。
この時、我々は負荷の質と量を考えなければなりません。それは、我々の脳が予定している、最も質の高い負荷を適量与えてやることです。これは誰にでもわかる、「生きるか死ぬか」の負荷です。それを取り除く行動、つまり、「生きよう」とすればいいのです。
昔の子供は、なぜあれほど危ない遊びをしたのでしょう。細い木の先まで登って行ったり、橋の欄干の上を渡ったり、階段の手すりを滑り降りたり…。親が見たら心臓が止まりそうなこの行動は、本能のトレーニングの為に行われていたのです。
戸塚ヨットスクールでは、ヨットやウインドーサーフィンを使い、人工的にこのメカニズムをつくっています。もちろん、普通の学校でもできる方法はいくらでもあります。
ソフトウエアのトレーニング法は、正しい行動の繰り返しです。正しい行動で創られた正しい理性は、「習いは性となる」で、あたかも本能のごとくに働いてくれます。これが間違って創られると、「自分たちこそが正しく、世の中が間違っている」と主張する問題児になります。そういう人たちが活躍するテレビ番組がありますね。教職員組合、マスコミ、カウンセラーらが、間違った人権思想・精神論を押しつけたため、彼らは間違った「知」を創り上げてしまったのです。
子供の頃自転車に乗れた者が一生乗れるように、ソフトウエア(技術)は一度創れば消えません。間違って創られたものなら、創り直さなければ一生そのままです。それには、彼らの嫌う「型」をつくることから始めなければなりません。さもないと、嫌われ者のまま一生を終えてしまいます。彼らは考える力ができていないため、世の中における自分というものがさっぱり分かっていないのです。
教育再興に名人芸はいらない
我々は最低の問題児を簡単に直します。それは、今の教育に失われているメカニズムを、彼らに与えることができるからです。このメカニズムを普通の学校でも取り入れれば、教育は救われるでしょう。
我々に小学校(できれば中学校も)を任せてもらえれば、ちゃんと教育できる自信があります。ウインドサーフィンなど、特別な道具はいりません。教育は普遍的でなければいけませんから。マスコミは、教育の「名人」を探して持ち上げますが、これは塾の仕事。学校でなされる教育は、名人芸ではいけません。いつでも、どこでも、誰でも、もちろん我々でもできるものでなければ――公設民営の小学校を提案されている町長がいましたが、あれは名案だと思います。
『世界人権宣言』第二十六条に、「子に与える教育を選ぶ権利は親にある」とあります。そこで、石原都知事に提案です。都立の小・中学校を、教職員組合の学校と反教職員組合の学校の二つに分け、どちらかを親に選ばせたらどうでしょう。せっかく親が持つ「教育を選ぶ権利」ですから、有効に使わなければなりません。
最後に一つ、誰か私に公設民営の小中学校を任せて頂けないでしょうか。
戸塚ヨットスクール 校長 戸塚 宏
