情緒障害児問題に寄せて(三)


「ヨット訓練の意味」


横田 建文


     三、情緒障害の治療



(1)ホメオスタシスの強化


 情緒障害は、幼児より過保護で育てられ、過度の安逸に曝されたために耐性を失った子供が、父親不在などの心理的ストレスに直面したときにトリガされる。従って、本質的原因療法としては耐性(すなわち脳幹域のホメオスタティック機能)を強化する以外にはない

 精神分析は無力である。だいたい、大の大人が子供相手に精神分析をする様を想像して本能的な不快感を覚えないであろうか。
子供の神経症の原因を幼児期の不安体験に、幼児の神経症は胎児期の不安体験にとさかのぽって行けば、そのうち「精子期」の不安体験というものが問題になるのであろうか。
幼児期の不安体験が情緒障害と結びつくとしたら、過大な心理ストレスが脳幹のホメオスタティック機能を委縮させるほどに作用し、脳幹域の発達不全を引き起こす場合があるからである。脳に損傷が認められない子供が、自閉症としか思えない行動をするケースがこれにあたる。この種類の子供が精神分析で治ると主張する人がいるだろうか。

 カウンセリングは軽度の情緒障害に対して有効となる場合がある。親の態度や教師の理解が適切に改善され子供に対する心理的ストレスが緩和されるようであれば、それが自然治癒的回復のきっかけとなり得る。
しかし、この方法は、カゼをひいた時に暖くして寝るのと同じで、一時的な回復は望めても長い目でみると、脆弱さを温存して固定化する恐れのある対症療法でしかない。
いずれにせよ、精神分析もカウンセリングも「楽に治そうとしている」点で間違っている。肉体と精神の根源的耐性欠如を原因的に治癒させるには、相応の努力が必要であろう。情緒障害の原因療法は第二の仮説を設けることで提出できる。即ち、


〈仮説U〉脳幹域のホメオスタティック機能は適度な訓練によって(器質的限 界の範囲内で)強化できる。



 この仮説を実践したのが、ヨット訓練によって情緒障害を治療した戸塚ヨットスクールである。

 戸塚ヨットスクールは、1978年から1983年秋までの約50年間に、親も教師も精神科医も見放したほどの重度情緒障害児を500人以上治癒させるのに成功した。この成果は、精神医学史上特筆すベき画期的な意義を持つものである。

 次に、ヨット訓練を受けて回復した情緒障害児の顔の表情の変化を示してみる。

 A-1は家庭内暴力で入校した17歳男子の入校時の表情である。この少年は、自分の部屋に閉じ込もり、自堕落な生活を続け、文字通り白豚のように肥満していた。それが入校後わずか12日目でA-2の表情になった。人間の顔がこれほど短時日のうちに変化するものだろうか。
それも、薬や手術などは一切使わず、ヨット訓練を受けただけである。ホルモン分泌以外にこの現象を説明する方法があるであろうか。
A-3は4カ月半後(卒業時)である。この頃になると、彼の表情の下にある健康と精神力をさほどの困難も感じないで読み取ることができる。



 Bは登校拒否と家庭内暴力で入校した16歳の少年である。うつろな目は、荒廃した精神をうかがわせるもので、正視に耐えないほどである。



 Cはシンナーや覚醒剤を常用していた16歳の少年。彼は入校時、身長174p、体重104sであったが、2カ月後には70sにまで減少した。また、薬物乱用による肝機能障害も治癒している。





 Dは登校拒否児。



 Eは無気力及ぴ登校拒否。



 このように、情緒障害児の顔は、親でさえ見違えるほどに激変する。男子は男性らしいたくましさを身につけ、女子はふくよかで優しい表情となる(これだけでもホルモン分泌の関与をうかがわせるに十分である)。
情緒障害児は、先に示した肉体的、精神的症状に加え(というよりその象徴として)、 @顔が左右非対象、A目が下向き、Bアゴが上向き、C女のような男、D男のような女、E三白眼、F背骨が曲ったりネコ背である、G肌がザラザラ、Hしかめっ面をする、M口もとに表情がない、などの特徴を持っている。
ヨット訓練はこうした醜い表情を一掃させ、姿勢が良く肌につやがあり、視線が真っ直ぐで、豊かな表情を持つ顔をもたらすのである。
家庭内暴力で親殺し寸前まで行った子供が、人もうらやむ親孝行になったり、登校拒否児が生徒会役員になり、非行少年がクラスの優等生になるといった目覚しい成果が何十件もある。
そして、現代医学が苦手とする、気管支喘息、アトピー性皮膚炎、潰瘍、強迫神経症、てんかん、チック、がことごとく治癒し、血糖値が正常になり、不整脈が解消するのである。

 戸塚ヨットスクールのこうした魔法のような成果も、ホルモン分泌能に代表される脳幹域のホメオスタティック機能の強化の結果であると考えれば、至って自然な成果であることが分かる。

 風と波で不規則に揺れ動く洋上のヨット訓練にあっては、筋力、気力、集中力、をフルに活用して命懸けで自然と闘わなければならず、脳幹を最大限に活性化させることになる。
そして、全力を尽して困難を克服し、自分の力でヨットを操るようになったとき、何物にも替えがたい(達成感)を体験する。
この達成感こそ、脳内麻薬物質であるエンドルフィンの分泌で直接的に基礎付けられるものであり、うつや不安や倦怠感を払拭するものである。
また、肉体の力を出しきった後の〈爽快感〉は、ACTH(やアドレナリン類)の分泌と不可分であり、身体的疾患を一掃する自然治癒力の発現に基礎付けられている。



(2)ヨット訓練が持つ意味

 戸塚ヨットスクールの日課は、早朝の体操と終日のヨット訓練だけという至って簡単なものである。
訓練の主眼は「困難を克服することで得られる達成感を体験させ、精神力を養う」というこれまた単純な言葉に要約される。
しかし、この素朴に見える合宿生活には、子供の人格形成に対する深遠な教育的配慮が秘められており、コーチ達の犠牲的努力でそれが支えられているのである。

 ヨットスクールは早朝6時からの体操で始まる。
――現代人のうち何割が、早朝の光のまぶしさとひんやりとした空気の清々しさを体験しているだろうか。熟睡した体に陽光を受けて目覚めて行くときに生命力を実感し、潮風を肺に満して眠けを飛ばし、冷気で頭をすっきりさせる……そうした健康な朝を持つ人がどれほどいるだろうか。百年足らず前までの人間の朝はそうしたものであったはずであるのに。

 情緒障害児にとって早起きはつらい試練である。
毎日、昼過ぎまで寝て、したい放題の自堕落にふけってきた彼等には、朝の六時は最も眠く、最も動きたくない時間のはずである。冬の朝のつらさは、さながら朝の光で灰燈に帰すドラキュラの苦悶に似たものであるかもしれない。

 体操は、ジョギング、柔軟体操、筋力トレーニング、など約1時間続く。早朝の連動は肺と心臓の動きを活発化し血行を良くするので、適度な刺激によって身体を目覚めさせる上で大変健康的である。
ところが、この体操も情緒障害児にとって地獄の苦しみとなる。
幼児期からテレビと室内遊びしかせずに育った子供達には、「走る」ことや「体を曲げる」こともハードな運動である。転ぶときに咄嵯に手をつくこともできないような子供がいくらでもいる(最近、子供の骨折が多いのはこのためである)。
歩いたり走ったりすることも人間的な「技」である。鍛練して作り上げられたオリンピック選手の走りは普通人のそれと全く違うし、剣道の達人の歩き方には近寄りがたいものすらある。
逆に、人間の土台作りに必要な鍛練を一切せずに育てられた子供が、走れなかったり、階段を登れなかったとしても不思議ではない。不思議ではないけれども、現実にそのような子供が増えているということは由々しき事態といわざるを得ない。
心と身体の人間的土台作りに失敗したものが情緒障害である。情緒障害が極限まで悪化すると、人類の歴史上初めて登場するであろう「宇宙人」が出現する。


 〔無気力〕(中学1年)

 少年は体の病気はないが、顔色が青白く生気がない。顔の筋肉がほとんど動かず、「鉄仮面」と呼ばれた。

 『なぜ鉄仮面かというと、まるで表情がないからです。顔の筋肉がほとんど動かない。笑わない。怒らない。悲しそうな表情を浮かべることもない。つまり、喜怒哀楽という人間の感情をどこかに置き忘れてしまったような子供でした。

 おまけに体も動かない。自分からは何ひとつしようとしないわけです。歩けないわけじゃない。立っていることができないわけでもない。青白い顔をしてやせていましたが、体に病気があるわけではない。

 最初に驚いたのは、何を話しかけても無表情だったことですが、そのあと、すぐに別のことで驚かされました。

 ヨットスクールの3階にある男の子たちの場所へ行くように言ったのですが、階段のところで立ち止まってしまう。どうしたんだ早く行けと、背中をどやしつけても、上がっていこうとしない。けしかけるように階段を上げようとすると、手をついて這うようにしている。階段が上がれないわけです。

 翌朝、もうひとつ、驚いた。

 今度は、階段を降りられない。どう言ってもダメ。蹴ってもダメ。そして相変わらずの無表情。いよいよ追いつめられると、倒れる。それも、普通の倒れ方ではありません。無表情のまま体をどこも動かさず、そのままドーンと倒れてしまう。一瞬、意識を失っているわけではありません。ちょうど木が倒れるように、ドーンと倒れてしまうわけです。』



 〔幼児化〕(20歳、男性)

 『クマはすさまじい泣き声をあげる男でした。

 ヨットスクールまで一緒についてきた母親が「じやあ、帰るよ」と席を立ち上がった時が、クマの泣き声を聞いた最初です。

 「ウワーツ」
と叫んだかと思うと、母親にすがりつき、腕をつかんで離さない。そしてウワーン、ウワーンと泣くのです。

 指を一本一本、こじあけるようにして母親から引き離し、何はともあれ帰ってくれと言って母親を引き取らせ、まだ泣いているクマを見ました。一人にされたクマは相変わらず泣き続け、そのうち、その泣き声が少しずつ変わってくるのに気がついたのです。

 お母さんがどうしたこうしたと言いながらしゃくりあげ、それが終わると床にあおむけになって手足を縮め、泣き声は小さくなったのですが、その泣き方はちょうど赤ん坊が泣いているようでした。

 ――・――



 さて困ったと思っていると、しゃくりあげながらこう言うんです。

 「水、お水……お水ちょうだい」

 それが3歳児のような言い方なのです。後から気づいたのですが、それは赤ん坊の状態から少しだけ成長した姿というわけで、水を飲むと顔つきがしっかりしてきて、しぱらくすると一応20代の男の顔になってくる』

(「私が直す!」戸塚宏)


 戸塚ヨットスクールが治癒させた情緒障害児はこれほど重症の子供達ばかりであった。


○早朝体操

 こうした子供を相手にヨット訓練を課すには、コーチ達は精神的及び肉体的に超人的な努力を以って臨まねばならない。
脳幹の機能が衰え、ただでさえ生命力の低下している情緒障害児を訓練し、ヨットを自在に操れるようにまでするには、おそらく脳溢血で倒れた老人のリハビリテーションに付き添う看護人の数十倍の努力と慎重さを要するであろう。

 だが、もちろん、情緒障害児には、これほど犠牲的な努力を払うコーチ達の深遠な優しさなど理解できるはずもなく、ただただ残酷な鬼コーチとしか思えないであろう。
事実、彼等にとって柔軟体操や筋力トレーニングに伴う苦痛は(何度も同じような比喩を使って恐縮だが)地獄の苦しみであり、腕立て伏せや腹筋運動はまさしく拷問であろう。
何とか逃げ出したいと思い「気分が悪い」、「お腹が痛い」、「体が動かない。明日はやるから今日だけは勘弁して欲しい」と、ありとあらゆるウソと口実でその場を逃れようとする。だが、こうした「逃げ」こそ情緒障害を固定化し、悪化させ、取り返しのつかない精神荒廃へと導く元凶なのである(モルヒネ中毒に至る過程を思い起して頂きたい)。
この苦痛には歯をくいしばって耐えねばならない。たかが腕立て伏せで自分を甘やかすことを覚えてしまったら、理不尽と不合理に満ちた現代資本主義社会のストレスに打ち勝つことなどできはしない。

 カンのいい子供は、ヨットスクールに入校して数日を経ずして、とにかく頑張る必要があるのだということを本能的に感じとり、自発的な努力を開始する。
しかし、長い間自堕落な生活を続けた肉体(と脳幹)は思うようにならず、やる意志はあってもやる気が湧いてこない。
――ここでコーチが手助けをしてくれる。「体罰」を与えてくれるのである。
人間、殴られれば痛い。痛いからハッとなり、「嫌だ、嫌だ」という気持ちを一瞬忘れ、潭身の力をふりしぼる。「もうダメ」と思っていた腕立て伏せがあと一回できてしまい、「死にそうだ」と感じていたはずの腹筋が起き上れてしまう。
「やればできるじゃないか」とコーチにいわれるまでもなく「やった!」と息う。この達成感が自信につながり、鍛えられた精神力を土台として向上心が芽生えるのである。
達成感という名の快感は、文字通り自分自身で作り出したもの(エンドルフィン類の分泌)であり、モルヒネやコカインを以ってしても外部から与えることはできない。
「我ながらよくやった」という感慨とともに味わう快感は、誰にも奪われることがない過不足のない喜びとして体得される。

 人はなぜ山に登るのだろうか。険しい山を死力を尽して登り切り、頂上に立ったときのかけがえのない達成感を知った人間は、もっと険しい山、もっと高い山を征服して、更に深い達成感を体験したいと思うからではないだろうか。苦しみが大きければ、それを乗り越えたときの喜びも大きいものなのだ。

 「苦あれば楽あり」である。

   困難を克服して自信を持たせ、より厳しい試練に立ち向かう向上心を芽生えさせる。この「生きるノウハウ」を子供達に掴み取らせることが戸塚ヨットスクールの訓練の主眼である。

   戸塚ヨットスクールの基礎体力作りは、腕立て伏せ100回、腹筋100回、スクワット100回、背筋10分、バランス10分……とかなりきつい。
  しかし、洋上で転覆したヨットを起こし、水中からはい上り、長時間の競走を続けるには、最低限この程度の筋力と持久力が要求される。
  繰り返すようだが、人間の遺伝子は、裸足で野山を駆けまわり、素手で猛獣と闘った時代からほとんど変っていない。人間の肉体は、平均的現代人の数10倍以上の運動量に適応できるようにできており、鍛えれば8千メートルの山にも登ることができる。
  若い頃にスポーツをせずに成人した人にとって、腕立て100回や腹筋100回はとてつもなく厳しい訓練に思えるかもしれないが、発育期の子供なら容易に消化できるようになるものである(ちなみに、15年以上も激しいスポーツから遠ざかっていた私でも、この2カ月ほどで腕立て100回ができるようになった)。
 
   人間は人間である前に動物として完成されていなければならない。真っ直ぐに立ち、歩き、走り、重い物を持ち上げられる能力が、「土台」として必要である。
  情緒障害児は、過保護ママが動物性の完成をないがしろにしたまま成長させてしまった「できそこない」である。泣こうがわめこうが、彼らに基礎体力をつけさせ、健康な動物であるようにしなければ、背骨グニャリ、足がヒョロリ、内臓がブヨブヨのまま大人になってしまう。
  厳しい訓練によって、1日でも早く土台が完成するように手助けしてやることが、彼らに対する真の愛情ではないだろうか。苦しむ時間を短かくするために是非とも「体罰」が必要である。


○朝食

   ――体操の後の朝食はうまいものである。
 
   サラリーマンが起きぬけの胃にパンと牛乳を流し込んで満員電車に飛び乗るというバターンはめずらしくないにせよ、たいへん不健康な生活である。体が完全に目覚めていないから、胃液分泌や消化・吸収作用を調節する自律神経系のリズムを乱すうえ、精神的緊張感も加わって各種の機能変調をひき起しやすい。
  幼児の頃から、似たような生活を続けていたらどうなるか。朝食が儀式にまで転化している家庭が多い。
 
   早朝の体操は単調な生活にリズムを与え、感動の薄まった朝食をみずみずしいものに変える(ためしに朝食前に30分ほどジョギングをしてみることをお勧めする)。
  体を十分動かしていれば腹が空く。腹が空くから食事がうまい。食事がうまけれぱ食べることが楽しい。こんな当り前のことが現代人の日常からどれほど多く失われていることだろう。
  昼の低俗番組をパジャマ姿で見ながら朝食をとるような生活を続けてきた情緒障害児にとって、ヨットスクールの朝食は、おそらく生まれて初めて体験する新鮮な朝食となる。空腹の切実さとそれが満たされることの喜びを同時に味わうのである。


○ヨット訓練

   戸塚ヨットスクールの日課の主要部分は、午前、午後各3〜4時間の洋上ヨット訓練にある(ヨットスクールだからヨット訓練を行うのは当り前なのだが、これまでのマスコミの誤解と偏見に満ちた報道が、戸塚ヨットスクールでは四六時中、子供達に殴る蹴るの暴行を加え、コーチ達はサディストまがいの暴力団であるかのようなイメージを作り上げてきているので、わざわざ明記しなければならない)。
ヨット訓練は一見、医療や教育とはおよそ無縁の存在に見える。そして、情緒障害という未知の病理とヨット訓練による教育(及び治療)という奇妙な取り合わせが、戸塚ヨットスクールの本質を見えにくくする原因でもあった。
しかし「自然との命がけの闘い」として存在するヨット訓練は、情緒障害の治療にとって決定的に重要な役割を果しているし、そこには現代社会にとっても重大な意味が秘められているのである。

 情緒障害児に与えられるヨットはディンギーと呼ばれる小型1人乗り用ヨット(戸塚ヨットスクールでは「かざぐるま」と愛称されている)である。
「かざぐるま」は、戸塚校長が子供用に特別設計したもので、船底に板状の突起があるので転覆したときは起こしやすいが、高遠帆走しやすいようにも設計されていて操作は通常のディンギーより難しい。従って転覆しやすい。
一生懸命にやってうまく操従できれば普通以上に快走するが、少しでも気を抜げば転覆するようになっているわけである。

 子供達は1度だけヨット操縦法の講義を受ける。もちろん、普通以上に操縦が難しいヨットであるから簡単に覚えられるわけはない。まして、登校拒否や家庭内暴力という形で、困難や苦痛からひたすら逃げる習性を見につけてしまった情緒障害児は、人の話に集中して理解するという行為そのものが訓練されていない
走ることさえ満足にできない彼らにとって、講義を受けること自体が至難の技である。(学校で授業を受けるには、50分間静かに座り続ける体力と忍耐力、教師の話を聞く意欲、教師の話に集中できる能力、などが理解力や思考力以前の問題として最低限必要である。
ところが、こうした最低限の能力、すなわち「教育を受ける能力」さえ持たない子供が驚くべき勢いで増えており、その結果として現在の教育荒廃が生まれた。従って、教育荒廃の元凶は過度の安逸を作り出したソフト化社会であり、それを可能にした生産力の増大にあるのである。

 難しい話を聞かされた子供達は、分らないことぱかりであっても質問はしない(質問するだけの意欲があれば地獄のヨットスクールにやってくることはなかったであろう)。
コーチは「分ったな」と念を押す。念を押された子供は多少なりともつらさを感じるが、「もう1度お願いします」という気力はない。
そして、いつものように不快感から逃れるために「分った」とウソをつく(「明日は学校へ行く」、「もうシンナーはやりません」、「俺が悪いんじゃない」……)。
コーチはウソを承知のうえで「確かに分ったな」と言質をとっておく。ウソがどれほど悪いことであるかを、洋上で立往生したときに思い知らせるためである。

 ヘルメットとライフジャケット(冬はウェットスーツ)を着用した子供達は、それぞれ洋上のヨットに置き去りにされる。コーチは救助用モーターボートや海岸から望遠鏡で子供達の行動を見守る。
子供達は為す術を知らず、泣き叫び助けを乞うが、もちろんコーチは何もしてやらない。本人にとって「とてもできない」と思われる状況を自力で克服させることが訓練の真髄だからである。
――やがてヨットは自然に翻弄され始める。沖合に浮ぶ小さなヨットが揺れ動くとき、子供達は本能的な恐怖を感じる。しかし、風や波という言いわけの通じない大自然を相手に、自分の持てる力を最大限に発揮して、自らの意志で立ち向い、克服するしか道はないのである。
バランスをとらなければ海に放り出されてしまうから、全身の筋肉を的確かつ機敏に動かさねばならない。そのためには、船の傾き具合、風の向き、帆の位置を見極め判断し、行動に移る必要がある。一瞬たりとも気を許すことはできず、必死になる。真剣になる。

 人間の肉体には、生命を維持するためのあらゆる機能(本能)が備わっている。道で躓いたときにハッとなって手をつく反射神経、火事場のくそ力、肉体的ストレスに抵抗する自然治癒力、精神的ストレスに対する耐性、などは全て生命体としての人間に本来的に備わったものである。
だが、これらの「力」は、快適・至便で危険のない現代社会にあって発現する機会が全く失われている。そうしたソフト化社会に生まれ育ち、生命維持機能の中枢である脳幹を脆弱化させ、肉体と精神の耐性を失ったのが情緒障害児であった。
ならば、彼らを安全に死の恐怖と直面させ、持てる機能を活性化してやれば、そしてそのような訓練を繰り返してやれば、脳幹の機能は回復、強化されるはずである。
単に恐怖を体験させ、体罰を与えれぱよいのではない。困難と恐怖に自らの意志で立ち向い、全力で闘い、克服させるのである。その過程で、弱気になったり逃げ腰になったときに、叱声や体罰で後押しをしてやるのである。
恐怖と体罰だけで情緒障害が治るなら、お化け屋敷と「自動体罰機」(子供をインプットすると内部で殴る蹴るの暴行を加えてアウトプットする装置)を開発すれぱよいのである。
肉体も精神も、良きにつけ悪しきにつけ「変わる」ものである。人間性の完成は、まず強い肉体(普通の意味での健康)を土台として精神を鍛え、そのことにより肉体と精神の一段高い統一状態を作り上げ、そこを土台としてより高い心身の統一へと移行させることによって為されるものであろう。
情緒障害児は、最初の段階で躓いている。それは必ずしも彼ら自身の責任ではないかもしれないが、今の地獄から抜け出すには彼ら自身の忍耐と努力によって「克服」の意味を体得するしかないのである。
だから、ヨットが転覆してもコーチは手助けをしない。冷たい海からはい上り、自力でヨットを立て直し、真剣に操縦しなければならない。「操縦法が分からない」といっても無駄である。はっきりと「分かったな」と念を押されているから。とにかく克服するしかないのである。


○達成感

 克服すれば全てが変わる。
耐えに耐えた末にヨットが自在に操れるようになったときの喜びは、それまでの苦労を忘れさせるに十分な感動をもたらす。初めて自転車に乗れるようになった喜びや、登山で頂上に立ったときの喜びと同じもの――「達成感」である。
情緒障害児は戸塚ヨットスクールにきて、生まれて初めてこの達成感を経験する。
服のボタンがはめられないのは親のせい、算数ができないのは教師のせい、非行に走ったのは社会のせい、で通してきた彼らは、理不尽、不合理、屈辱に耐え、ひとつの事を成し遂げるということがなかった。力いっぱい闘った後の「やった!」という感動を知らない。達成感こそ自己の努力で勝ち得た自分だけの快感であり、うつや不安感情を一掃する精神の浄化剤である。
苦労したことがなつかしく思い出される状態に達すれば自信がつき、もっと困難な壁に挑戦してやろうという意欲が湧いてくる。自分を翻弄したヨットも習熟してしまえば、水面を自在に疾走する愉快な道具である。波や風は今やその力を利用してヨットを走らせるエネルギー源であり、恐怖の対象であった海は日常生活の息苦しさから解放してくれる安らかな自然へと転化する。
いったい、現代人の何パーセントが太陽の光と潮風に満たされた海原を滑るヨットに匹敵する爽快感を日常的に体験できているだろうか。コンクリート舗道でジョギングをしてスポーツドリンクを飲むぐらいでは、体の底から突き上げてくる肉体の躍動を知ることはできない。人間の体はそういうふうにはできていない。
ソフト化社会の危げない生活の中で薄まった感情しか知らない子供達に、もっと濃い感情を体験させてやる必要があるのである。