
情緒障害児問題に寄せて(五)
「間違った認識」
横田 建文
四、教育、医療、脳幹トレーニング
厚生省の集計によると昭和57年の国民医療費は13兆8千億円で前年より1兆円増、国民総生産に占める割合は5.19%にものぼるという。
昭和30年度以降の国民医療費の推移をみると、昭和45年頃を境にカーブが急上昇していることが分かる。丁度、高度成長経済のもたらした「豊かさ」が国民の間に浸透し始めた頃と一致しているわけである。
あいにく適当な資料を持ち合わせないが、自動車とエアコンの普及、食事内容の高級化、などと筋肉系、呼吸系、循環系、消化系、の各疾患の増加傾向を比較すれば、強い相関を見出すことができるはずである。
全体の高齢化傾向や医者に気軽にかかる風潮が医療費上昇の原因になっていることも否定しないが、真の原因はやはり、楽をし過ぎる現代人の脳幹機能低下に求めるべきであろう。明治人が持つあの頑健さを作り出すメカニズムを現代社会が喪失してしまった点に医療費問題の本質があると思える。
もしそうであるならぱ、脳幹をトレーニングするメカニズムを取り戻すための対策が是非とも必要である。全ての国民が登山やヨットを日常生活に取り入れるようになることが理想であるが、さし迫った現実的課題の解決策としては無理がある。
現実的でかつ最も効果が期待できる(おそらく唯一の)方法は〈教育改革〉である。
18歳までの青少年が1日の大半を過ごす公教育の場において、人間の動物性を考え抜いた教育を施し、体力、感情、意欲、徳、を鍛練することで人間性の土台作りが行われるように現在の初等・中等教育を改革するのである。
子供と大人の世界を毅然と分け、子供だけの世界を与えてやらなければならない。そして一方で、子供は努力して大人になる存在なのだということを明確にする。モノを教えず、モノを考える必然性を与える。忍耐によって到達することの喜びを教える。
――戸塚ヨットスクールの教育ノウハウの一部を採用するだけで現在の教育荒廃は是正できる。考えてもみてほしい。精神病と見紛うばかりの子供が校内で1、2を争う優等生になったり、登校拒否の少年が太平洋横断ヨットレースで上位入賞を果たしたりするのである。
今の子供達の世界に起きている事態を見つめ、戸塚ヨットスクールが行ったことの意味を分析するならば、教育改革すべき内容はおのずから明らかとなるであろう。
臨時教育審議会が現在目指しているという「入試制度の改善」や「国際人の養成」といった目標が、どれほど実態を無視した的はずれの発想に基づくものであるかは改めて論ずるまでもないであろう。学者、文化人、財界人で主要メンバーが構成され、現場の教師は女性の小学校教諭が1人だけ、平均年齢は約60歳で40歳以下は2人しかいない(昭和59年当時)という委員構成がどれほど不都合なものであるか、これまた説明の用がないであろう。
臨教審構想がスタートした時点で、メンツと政治的教義に捕われる余り、意味のない反対姿勢を維持し続けて遂に参加の機会を逸した日教組の犯罪的行為も糾弾されなければならない。
現実の教壇に立つ彼等は、今の子供達に蔓延する病理の何たるかを肌で知っており、対症療法的制度いじりでなく、人間学的見地に立った抜本的改革が必要であることを分っているはずである。日教組はどのような政治的心情も超えて、万難を排して臨教審に参加を申し入れるべきだったのである。にもかかわらず、つまらぬ意地を張り通して千載一遇のチャンスを自ら放棄してしまった。臨教審の教育改革が失敗しても(おそらくそうなるであろうが)、日教組にそれを批判する権利はないと申すべきである。
五、いわゆる「受容的態度」について
戸塚ヨットスクールの医学・教育学的意義は、情緒障害という奇妙な病理の理解の難しさが災いして、甚だ分かりにくいものであった。だから、無知で不勉強な新聞記者が体罰ごときの表面的事象に目を奪われて、誤解に満ちた報道を行ったのも(許しがたいこととはいえ)無理からぬことであった。
しかし、新聞やテレビによって流された情報の量があまりにも膨大であったため、「戸塚スクール=体罰教育」という情緒障害問題とは何の関係もない虚妄の図式を作り上げてしまい、「スパルタは是か非か」などという不毛の議論へと世論を導いてしまった。
自閉症と登校拒否の区別も知らないような新聞記者が戸塚ヨットスクールをひょっこり取材してみたところで、西洋医学を知らない江戸時代の人間がいきなり現代の病院の外科手術に立会うようなものであって、自分の眼前でいったい何が起っているのか分からないのである。戸塚ヨットスクールについて新聞ジャーナリズムが書き立ててきたものは、血まみれの手術用メスだけであって、膿んだ病巣の存在は全く無視されていたのである。
このような新聞情報が大量に流布され、その情報をもとに医者や評論家がしたり顔の議論を続けたのだから、混乱は増すぱかりであった。
たとえば、渡辺位という椿神科の医師は、戸塚ヨットスクールの訓練の成果を分析することもせずに、患者には「受容的態度」で接しなければならないと専門家ズラのお説教を機会あるごとに発言し、戸塚アウシュビッツ論を展開した。
渡辺医師によれば、登校拒否も家庭内暴力も腐りきった学校教育に対する「健康な反応」であるという。だから「学校へ行きたくなげれば行くな。学校より君の方が正しい」と登校拒否児にアドバイスするというのである。そして、『学校に行かないで生きる』などという、もうメチャクチャとしかいいようのない本を出版した。
――だから、登校拒否にみられるさまざまな症状や状態は、とくべつな病気や異常によるものではなくて、子どもが登校できないために、心理的に追いつめられて惹き起こされてくる2次的な反応である。
つまり、登校拒否は、まず、子どもが登校できない状態となる。そこで学校に行けないことと、行けないために生じてくる不安との板挟み状態となって2次的な反応を起こしてくるという2段階の過程を経て、登校拒否一般にみられる状態となるのである。
ところが、子どもが学校に行かないことを家族や教師、そのほか周囲の者が非難したり、叱責したりするので、子どもの板挟み状態はますます強められて、2次的な反応としての症状や状態も、いっそう激しいものになるのである。
そこで、子どもがまるで病気か異常であるかのような症状や状態になるのは理解できたとしても、なぜ学校に行けなくなるのだろうか。
従来から、この点については、家庭の状態、とくに親子関係が重視され、家庭環境から形成される子どもの性格が問題にされている。子どもをもつ一般の家庭が、学歴重視の風潮からなにごとにつけても学歴を保証する学校に頼りすぎ、家族自身で子どもを守り育てる自信や意欲が低下し、そのため家庭における育児機能が失われつつあることは否めない。
こうした、いわゆる学校至上主義的な社会通念が子どもの不登校状態にまったく無関係だとはいえないだろうが、それにしても、学校教育の状況が問題にされなくてもよいのだろうか。
登校拒否は、子どもが″学校に行かれない″という点からして、学校が主舞台でないはずはない。そして、登校拒否のもっとも″中核的な原因″は、学校教育の状況にある、といえる。
登校拒否は子どもが危機を感じている学校状況に対して無意識にとる防衛的な回避反応であり、”健康な反応”であって、異常や病的なものではないと考えてよい。
それはちょうど、腐ったものを気づかずに食べたときに生じる下痢にたとえることができる。このさいの下痢は、誤って食べた腐敗による毒物を、からだのなかに吸収してしまわないうちに一刻も早く体外に排出して、生命を危険から守ろうとする本能的な防衛機能によるものである。つまり、身を守るために腐敗物を拒否しようとして生じてくるこの下痢の症状は、病的なものでなく健康な反応である。
その意味からも、登校拒否は現在の学校状況がどんなに子どもにとって不当であり、危機的な状況となっているかを示すものである。
(略)
すなわち、登校拒否は、子どもが子ども自身であることを奪い去る危機に満ちた学校状況に対する自己防衛的な回避行動であり、校内暴力は、本来の教育の役割を忘れた教師に力で対抗し、反省を求める行動である。
家庭内暴力は、その機能を見失った両親への不満と怒りの爆発であると同時に、保護を求める行動の反動形成による表現であるといえる。
暴走族、少女売春、そのほか非行とされる行動もまた、建設的な方向での自己実現を阻まれた子どもの自己表現であるといえる。
(略)
たとえ子どもが再び学校に行きはじめたとしても、それが子どもにとって真の教育につながるとは限らない。子どもが学校に参加するということは、ただ子どもの体だけが形式的に学校に通うことではなくて、子どもの心が通うことである。心の参加がなくては”人”の教育は成立しない。
要するに、登校拒否への関わりは、再登校や出席日数、学歴など形式にこだわるのではなく、その子どもの本質的な成長・発達を助けるところに目標をおかなくてはならないのである。
それには、家族も教師も教育本来の目的を再認識して、登校拒否の本質(!← 筆者)を理解し、子どもたちとの信頼関係(!)をたもちながら、子どもの現状をあたたかく受け入れ(!?)、子どもが安心して毎日を過ごすことができるように配慮することにつきる(!!!)のである。
子どもは、今ある自分を価値づけ、信じ、尊んでくれる大人の後ろ楯があれば、自尊心を取り戻すことができ、現状から次の一歩を踏みだすようになり、自信も湧いてくるのである。
(「学校に行かないで生きる」渡辺位編著 太郎次郎杜)
登校拒否は、幼児期から過保護に育てられたため耐性を失った子供が家庭や学校での心理的ストレスに曝されたときにひき起される軽度の情緒障害として理解される。
渡辺医師は、「登校拒否は、まず、子どもが登校できない状態となる」ことを明らかに認めておきながら、その身体的原因を全く探ろうとしないぱかりか、「子どもが学校に行かれないという点からして、学校が主舞台でないはずはない」などというこじつげとしかいいようのない論理を展開している。
この論理に従えば、最近激増しているといわれるサラリーマンの出社拒否も「サラリーマンが会社に行かれないという点からして、会社が主舞台でないはずはない」ことになり、社会に出る気力を失った無気力児は「社会が主舞台でないはずはない」ことになる。
しかも、渡辺医師は、こうしたこじつけを行った後で「登校拒否のもっとも中核的な原因は学校教育の状況にある」とし、「腐ったものを食べたときの下痢のように健康な反応」だというのである。つまり、会社や社会が悪いのだから出社拒否も家から一歩も出ない無気力も健康な反応だというのである。
確かに学校も会社も親も社会も悪い所だらけかもしれない。教師がコトナカレで、親がグウタラ、政治家は卑劣で、資本家は金、金、金、世の中は理不尽と不合理で満ちている。
しかし、理不尽と不合理のない社会など人類の歴史上1度たりとも実現したことはない。ダメ教師もいじめっ子もおろかな親も昔からいたのである。
問題なのは、そうした親や教師や社会の中にあって昔の子供は生き抜いてこれたのに、今の子供には生き抜く力が無いのだということだ。
楽をし過ぎることを可能にするほど現代社会の生産力が高まってしまったという点が重要なのである。
子供達に人工的な苦難を適度に与えて、生き抜く力を養うことができるような教育体制を作り上げることが緊急に解決すべき課題である。
渡辺医師が主張する「子どもたちとの信頼関係をたもちながら、子どもの現状をあたたかく受け入れ、子どもが安心して毎日を過ごすことができるように配慮することにつきる」のであれば、人類に未来はないであろう。
六、新聞報道が生み出した誤解と偏見
渡辺医師の場合は、登校拒否児や家庭内暴力児を治さねばならぬ立場にありながら、有効な治療策を見出し得ないために、心理ストレスを一時的に軽減する効果のある「受容的態度」を無原則に拡大したあげく、全ての責任を教育に押し付ける論理を展開せざるを得なくなったと見ることができる。身体性を無視した精神医学の理論に強制された結果といってもよいかもしれない。
新聞報道が与えた悪影響はむしろ、多数の学者や文化人に「戸塚スクール=犯罪集団」という先入観を深く植え付けてしまった点にある。
ともかく三大新聞がそろって戸塚アウシュビッツ論を報道したのだから、メシの種に困っている凡百の評論家にとって格好の批判材料になったのはしかたがないとしても、残念なのは、吉本隆明氏ほどの偉大な思想家までがこの問題をすっかり誤解してしまったことである。
吉本「――戸塚ヨットスクールは退廃的な、病的なふざけはてた存在ですが、ただ1点子どもの死の衝動にたいして死の意識化によって立ち向かえずにくず折れてしまった親たちの代理として、死の意識化をもって立ちはだかることだけはできています。だからこんなのがのさばれるのだと思います。――」
(「教育 学校 思想」吉本隆明、山本哲士 日本エディタースクール出版部)
吉本氏と山本氏のこの対談は、1983年3月以前に数回にわたって行われたものであるから、吉本氏は戸塚ヨットスクールの実情を新聞報道によってしか知り得なかったに違いない。従って、情緒障害の本能と戸塚ヨットスクールの関係を正確に把握したうえで発言されたわけではなく、批判がましいことを申し上げるのは適切ではないかもしれない。
しかし、これまでみてきたように「病的」なのは過度の安逸に囲まれた子供達の生活様式であり、「退廃的」なのは不可解な現実と格闘することをせずに管理主義や抽象論に逃げ込む教師と精神科医であり、「ふざげはてている」のは自分達の無智と不勉強を棚に上げてデタラメな報道をしたり顔してタレ流す新聞ジャーナリズムである。
そして、ソフト化社会で脳幹機能の低下した子供がちょっとしたストレスをきっかけに、登校拒否、家庭内暴カへと発展して行く図式こそが、教育荒廃の根底のメカニズムである。
だから、
山本「子どもの心性の方は、学校がイヤだと自分で体ごと言っているのに、学校が気になってしょうがない。それほど学校化されてしまっていますから、もう術を失ってしまっているかのような出方として、直接性で出すほかない」
などというのは全く逆であって、脳幹の弱い子が学校でほんの少し嫌なことを経験したために神経症的登校不能状態に陥ってしまったが、それでもダメ教師やいじめっ子のいる教室で皆と一緒に普通に授業を受けていたいという子供心を持ち続けている、と申すべきである。また、
山本「家庭内での暴力は、1度調べたことがあるのですが、家庭暴力一般としてそれを決してくくってはならないということだけが分かりまして、また、臨床的処置が一時しのぎの有効性を、あるときはもちえるように見えても根底では全くもたない。
(略)
教育的働きかけ、医療的な対処(治療・診断)は、絶対的に無効ですし、制度改革なんて全くどうしようもない。それだけは言っておきたいと思います。」
に至っては、いったい何をどう調べたのかと問わざるを得ない。
家庭内暴力は一般に、中程度以上に進行した典型的情緒障害ととらえるべきものであり、カウンセリング的処置が一時しのぎの有効性をあるときはもちえるように見えてもどうせ長続きはしないので、脳幹に直接的に働きかけてその機能を強化するような対策を大急ぎで講じなければならない性質のものである。
そして、こうした情緒障害が多発するのは、生産諸力の増大が閾値を越えた人間社会において自然成長的脳幹トレーニングの場が失われてしまったことに根本的原因があるのだから、現実に病態に陥っている子供に対しては医療的な対処(治療・診断)が是非とも必要であるし、社会全体としては人間の動物性を踏まえたうえでの教育制度改革が絶対的に必要である、とそれだけはいっておきたいと思う。
この時点での吉本氏と山本氏の対談は、情緒障害の実態を全く無視したものであったが、2人をそのような誤解に導いた原因は徹頭徹尾、無智な新聞ジャーナリズムが作り出したおびただしい誤報にあったといってよい。しかし、残念なことに吉本氏にあってはその誤解が一層深いものに発展してしまった。
「戸塚ヨット・スクール」事件の核心が、全く違うところにあるのは、はっきりしている。この事件の本質は精神科の作業訓練療法に類した治療方式のひとつが惹き起こした致死事件である。
これを批判に取り上げるとすれぱ、このヨット・スクールの治療理念の錯誤と、その実際の方式として取り上げるほかない。
戸塚宏の著書をみれぱこの「ヨット・スクール」の理念はすぐ分かる。(筆者注:ここで吉本氏が言っている著書とは『私はこの子たちを救いたい』のことであると思われる。しかし、情緒障害とその治療理念について述べた戸塚宏の主著は『私が直す!』であって、吉本氏はおそらくこの本をご覧になっていない。)
彼の経験からくる指摘では、家庭内暴力を引き起こす少年少女たちの家庭をみてみると、ほとんど例外なく父親が家庭・子どもに無関心で、職場の仕事に熱中し、夜遅く帰宅するような家庭である。これを代償するように母親が過剰に子どもに干渉し、子どもを引き寄せ、自分の意図の方に方向づけようとして、息苦しいような母子関係をつくりあげている。それがこじれて異常状態になったときに子どもの「家庭内暴力」が現れる。
戸塚宏の理念では、「強い父親」像を復権するほかに、これの治癒はないということになる。
彼の「ヨット・スクール」は、家族の信頼をうけて、子どもを「ヨット・スクール」に入れるときから、「強い父親」の代理として、問題児たちに対して、決して譲歩しないという原則をたてた。
問題児たちが暴力的に我意を通そうとしたときには、容赦なく叩きつぶして、そのまえに立ち塞がる。それは、瞬間の油断や甘えがあれば生命の危険にさらされるヨット訓練の最中でも貫徹される。
ようするに戸塚宏は、家庭内での問題児の理不尽な暴力のまえに、無限に後退し、子どもの前にひれ伏して侘び、ついに耐えかねて一緒に死んでくれと懇願しだす親たちと、ますます苛立って病的な暴力をつのらせる問題児たちが対立する典型的な縮図のなかで、一緒に死んでくれと懇願する父親または母親ではなく、これ以上は許せないからおまえを殺すといって立ち塞がる父親と母親像を代理できたとき、治療のきっかけは得られると考えている。
これは現象論としていえぱとても正確な事態の把握と言える。だが治療の理論としては違っていると思える。
これらの問題児たちは、たぶん例外なく胎乳児期に何らかの理由(たとえば経済的な危機や、性的な事件による両親の不和)で母親との接触に失敗したに違いない。この時期の代償あるいは延長として母親は過剰に子どもの生長期を通じて干渉を続けた。父親の子どもからの退場(つまり妻からの疎隔)も同時に進行した。これが典型的な家庭内暴力の像だと思える。
だから、この問題児たちの治療方式は戸塚宏の「ヨット・スクール」のようにはなりえない父親と母親とが、いわば性的な関係を修復し、とことんまで不一致をきたさずに、問題児の前に立ち塞がって、それ以上子どもの暴力に踏み込まれたら、夫婦が同意の上で自分の子を殺してもいいという心的な状態が作れたら、治癒への回路は見つけられるに違いないと思える。」
(吉本隆明「映像から意味が解体するとき」中央公論 昭和59年5月号)