
情緒障害児問題に寄せて(六)
「不勉強な評論家」
横田 建文
六、新聞報道が生み出した誤解と偏見(承前)
七、小中陽太郎の犯罪行為
この本は、戸塚ヨットスクールの教育と、『積木くずし』という現代の最もホットな事例を取り上げ、ぼく自身テレビや対談を繰り返しつつ、それでも、どうしてもこぽれおちてしまうホンネの考え方や、隠された事実を先入感なしにストレートに明かした。そして、この2つの例をもとに、あなたは、子どもにどう接したらいいか、そこにしぼりこんでみた。
いまも知多の海では、子どもたちが海中で必死でもがき、都会のジャングルでは、シンナーや異様な服に身をつつんで苦しみ傷ついている。それが我が子として、どなったらいいのか、叩いたらいいのか、カギをしめるのか、電話を切るのか、学校に首ネッコをとらえてつれていくのか、それでいいのかいけないのか、具体的に自分の腕をどう動かせぱいいのか、肉体が反応するように考えてみた。
冬の朝のことで、まだ、あたりは闇につつまれ、海は暗い。対岸の渥美半島の灯がまぱたいている。
異様なのは少年少女たちが黙りこくっていることだ。
これが運動部の合宿だと、コーチが声を出す前に、部員たちが、威勢のいい声を出す。
「さあ、はりきっていこう!」
とか、
「ガンバルワヨ」とか。
そういうことが一切ない。子どもたちは、異常にブヨブヨしているか、骨と皮のように痩せているかである。
非行や登校拒否の子どもについて言っておかなければならないことは、彼らが、肉体的な鍛錬に欠け不健康なことである。
ぼくは、非行や登校拒否、精神障害[筆者注:情緒障害のことを言っているであろう]は心とともに、からだの病である、と思っている。とすれば、その治療もまた、子どもたちに生活習慣を正させ、ルーズな時間を改めさせ、健康な時間割に戻すことだろう。
たとえば暴走族をとってみよう。かれらは車をとばしてウルサイからいけないというだけではないのだ。車だけに頼っている子供達は、健康で引きしまったからだをもっているとは言いがたい。生活時間や食事がめちゃめちゃだからである。そういう少年たちのからだを鍛えることに反対ではない。しかし、ここでは鍛錬というよりサディズムである。〔コーチ達は子供をいたぷるのが楽しみで、冬の朝、暗いうちから起き出して浜に行くというわけだ〕
初めてここに送られてくる子は、たいがいライフジャケットのヒモが結べない。整列しても、手をだちりと両側にぶらさげたたままヒモに手を伸ばそうともしないのだ。
初めての日なので、母親が堤防の陰からのぞいている。子どもはそれを知っている。さて、ここのコーチは、ヴォランタリーのコーチ志望の女子大生がよく来る。戸塚は、この女子大生に命ずる。
「あのヒモを自分で結ばせてこい」
女子大生は、おずおず子どもの隣に並んで、
「ヒモを結びなさいよ」
と言ってみる。もちろん、少年は聞きはしない。女子大生は、肩で押してみる。だめだ。
堤防の陰で母親は、切ない思いに身もだえしている。ついに、そこから小走りに出て、ヒモを結んでやる。子どもは、(フン、迷惑だ)というように横を向いたままである。「ありがとう」1つ言うわけではない。これがいけない、と戸塚はいう。
女子夫生は、
「ねえ、アンタ、ありがとうと言いなさいよ」
もちろん、子どもはそっぽを向いている。どうするか、ここで、戸塚方式の登場だ。
〔ライフジャケットのヒモが結べないと命にかかわるぞと教え、ヒモを必死に結ばせ、それでもダメなら〕堤防の上に連れて行く、3メートル下は海だ。後ろから、ちょっと押す。ふんぱる。さらに強く押す。
「ドボン!」
水中に落ちる。
水中でもがく。ライフジャケットがないから、ほっておけば死んでしまうかもしれない。ここで手を伸ばしてやる。
母親はもう、周りの目も、ものかは、とび出してきて、ヒモを結んでやる。
子どもは、そのとき初めて、
「ありがと」
と言う。
これが戸塚の説明だ。
なかなか、説得力がある。
ぼくも聞いていて、ヒモを結べない子に、イライラするオトナの側の気持ちについなった。誰でもそうだろう。水中に突き落とす、という教育は実に効きそうである。
だが、ここが考えどころだ。〔下手の考え休むに似たりということがある〕
たしかに、14、5歳にもなって、自分で胴着のヒモが結べないようでは、情けない。だが、ヒモが結べないことが、そんなに問題か。〔14、5歳で、ライフジャケットのヒモであるなら問題だ〕
実は、ぼくはヒモが苦手だ。〔ナルホド〕
子どものころ、からだが弱くて、母がヒモでからだを締め付けてはいけない、とヒモのある服を着せなかった。それでクツのヒモさえ苦手である。〔50歳でクツのヒモが苦手なのもママのせいというわけだ〕
ぼくは、それが恥ずかしい。
ぼくが、ほんのちょっとでも、自分を束縛することに猛然と反発するのは、ここからきているかもしれない。〔甘やかされて育てられた人間によくあることだ〕きっとそうだ。
ぼくは、これを自慢で言っているのではない。〔当り前だ〕これはぽくの欠点だ。〔当り前だ〕ヒモは結べた方がいい。〔……〕
でも、ぼくは、ちゃんと生きている。人間はすべてのスポーツと技術に習熟するわけにはいかないではないか。
ヒモを結ばせたいなら、わざわざ、海中に突き落とさなくても教えておくことができる。少しは時間がかかるだろうが。〔場合によると50年かかる〕
問題は、この少年が、ヒモを結ぶことは命にかかわることだということを学ぶのに、こんなことをしなけれぱいけないかどうかということだ。実はここに戸塚を肯定するか否かのポイントが潜んでいる。〔戸塚を肯定するか否かは、情緒障害児問題を徹底的に分析し、ヨット訓練によって実現する生理学的効果と精神力強化の意義を理解することから始まる〕
――ぼくの考えはこうだ。
「14、5にもなって、水に落とさなけれぱ、器具のヒモのありがたみや大切さも分からないなんて、少し抜けている。〔50歳にもなって、しかも現場を見ていながら情緒障害の深刻さに気がつかないなんて少し抜けている〕そんなこと、いちいち、体験してみなくたって、頭をはたらかせれぱわかりそうなものだ」
どうもここが問題の急所らしい。
「頭をはたらかせれぱ」というところだ。
こういうふうに気がまわらない、そういう病気なんだ、この子たちは。
だから、ぼくは情緒障害児、非行、家庭内暴力の子らは、性格の問題〔?〕でなくて、気がまわらないのだと思う。〔何をトンチンカンなことを言っているのだ〕
大急ぎで誤解のないように言っておかなければいけないが、ここでいうアタマの働きは、勉強ができる、できない、とか、知能指数のことではない。〔要するに何も分かっていないわけだ〕
そして、そうゆうようにアタマがはたらかないものを治すには、実例を示して教えてやればいい、と思う。〔これが小中のいう「肉体が反応するように考えた」結論である。〕
「教育とは、もっと人間の中に潜む自主性にはたらきかけるものであってほしい」とぽくは戸塚に言った。
だが、戸塚にも言い分はある。
「自主性? そんな甘っちょろいことを言っておっては、何年かかっても直りゃせんやろが」
それからまた、一応はこう言う。
「殴ることだけで終わりじゃないのんよ。そうやって精神力をつけたら、あとは、その上に立って自分でやっていくんよ」
戸塚がよく言うところの、「体罰だけで直るなんてそんな簡単なものじゃないんよ」というのは、ここのところだろう。
だがここまできて、対立点ははっきりしてきた。
「人間の中の本能的恐怖にはたらきかけるのが教育としていいかでうか。百歩譲って恐怖によって反抗心をくだき、やる気をおこさせるものとしても、命の危険までともなっていいのか。最後に、命はまっとうしたとして、心に深い傷を残さないか」
これがぼくの批判である。
ぼくたちが張り込んでいるところへ、A新聞の半田支局記者が来た。
「実は家族を張っているんだ」
と言うと、若い記者は、
「おれも聞いてこよっと」と気軽に飛び出して行った。〔この程度の記者達が戸塚暴力団説を流したのである〕こちらから見ていると、ちょうど中へ入ろうとする夫婦の夫のほうにピタリとついた。夫は、つっけんどんに断っている。戻って来た記者に聞くと、「これから子どもに会うところだからだめだ」と言ったと言う。記者はまた出直してくると帰っていった。
そのあとで、夫がすぐに中から取って返して来た。
こちらのマイクロバスに大股で近づいて来る。
「しまった。見つかったか」〔何をコソコソする必要があるのだろう〕
ぼくは、ドアの陰に隠れてしまう。ディレクターが出て行く。夫が言う。
「さっき記者の人に、断ったけれど、今、中に入って、子どもの顔を見たら、これまで笑いもしなかった子が、私たちの顔を見て笑った。あんまりうれしかったので、記者さんにそのことをお話しようと思って」
記者氏は残念なことをした、とも言えるが「娘が直って私はうれしい」という談話では返って新聞では使い道もなかったろう、そう思ったので連絡しないでしまった。〔!………〕
ぼくたちは角屋に戻って、今夜ここに泊まる親とのインタビューに備えた。
――・――
「戸塚さんには許可をとっているので、ぜひ」と夫人に頼みこむ。いったん部屋に入ってから、夫人だけでやって来る。ちょっとおどおどしてもいる。様子の分からぬらしいところを訊き出すのは、気がとがめるが、テレビの1つの手だ。〔………〕
「坊ちゃんは?」
「父親とお風呂に入っています。」
よし、この間に聞いてしまおう。〔私は小中陽太郎という人間は卑怯者であると思う〕
1室に案内してテープを回した。おどおどしているといったが、いや、よくしゃべる人だ。
「本当にすぐ終わるのでしょうね、主人は、インタビューなんかに答えてはいけない、と言うんです。ほんとに私、怒られるんです」
こう言われると不思議な気がする。
主人がだめ、と言っても結局ここにいるではないか。
主人の力は及ばない。男まさりなのだろうか。夫に代わって家のことを切り盛りしているのか。もっとも、こちらも商売だから、インタビューに答えなけれぱならないような雰囲気にしむけている。
「戸塚さんは、いま、マスコミに叩かれて四面楚歌です。先生を弁護する人がいなくては、悪者になってしまいますよ。あなたは、お子さんをここへやってよかったと思っているのでしょう。それを話してくださいよ。噂によると、ここに子どもを預けている父母の間では、署名運動をしてこのスクールを残そうとしているそうじゃないですか。それにお話を聞くのは、校長にも、この角屋さんにもお断りしてます」
こう、おためごかしに言うのだからマスコミ(これはぼくだ)は怖い。〔そういうことをしたツケはいずれどこかで払わなけれぱならないと知るべきである〕
「主人は、鉄鋼会社の専務です。」
「ほう、まだ、お若いのにたいしたものです」
「父の会社ですので」
ぼくの受けた感じでは、この父というのは夫人の父親ではないか。だが、あまり根ほり葉ほり聞いていると、肝心のことを逃すので、子どものことに集中する。
「どういうことに悩んで、こちらにお預けになったんですか?」
「ちょっと、反抗するようになりまして、」
「このちょっとがくせものです」
戸塚が昨夜言った。
「小中さん、ちょっと手に負えないくらいで子どもをここによこしますか、ここによこしたいという親に、私はここの生活を2時間も説明し、訓練も見せているのですよ。それでもここに子どもを預けようと決めた人はやな、子どもに殺されそうになったからですよ」
その言葉を思い出す。すると、この気丈そうな母親も夜中に首を締められたのであろうか。大きな男の子だった。
母親は言う。
「戸塚先生は天使です」
そうだろう。わが子を叩くという親にとって1番辛いことを代わりにやってくれるのだから。