情緒障害児問題に寄せて(六)


「不勉強な評論家」

横田 建文


 六、新聞報道が生み出した誤解と偏見(承前)


 何よりもまずこの問題は、情緒障害についての正確な理解から出発しなければならない。が、吉本氏は明らかにそのようなとらえ方をしていない。問題児(情緒障害児)発生の原因を心的メカニズムから考察することが無意味であるとはいわないが、神経症や心身症をひき起こす際の生理状態と脳幹機能の関係、すなわち身体性の考察を抜きにしてこの問題を語ることは全く不十分である。

 吉本氏は戸塚宏が「家庭内暴力を引き起こす子供の家庭は、父親が家庭や子供に無関心であり、その反動として母親が子供に干渉し過ぎて息苦しいような母子関係ができ上り、ついには家庭内暴力になる」と主張しているというが、戸塚宏が言っていることは少し違っている。
戸塚宏は現代っ子のほとんどが、肉体的にも精神的にも甘やかされ過ぎた結果、動物性さえ完成していない「半人間」であることをはっきり指摘している。
そして、「できなげれぱやらなくていい」、「やれるだけやりなさい」といった教育のしかたで子供の向上心を抑えつけてしまい、一方で未熟な子供を一人前として扱うというアンバランスな育て方をするから、子供は迷いや気負いなどのストレスを負わされて情緒不安定になるとも指摘している。
家庭内暴力や登校拒否は、そうした状態に置かれた子供が弱い父親や過干渉な母親による不安やストレスを受け止めたときそれが引き金となって起こるものだと主張しているのである。

 また、吉本氏は、「戸塚宏の理念では『強い父親』像を復権するほかに家庭内暴力の治癒はないことになる」というが、これも違うと思う。
戸塚宏は、強い父親の「存在感」を与えれば子供にとって安心感や安定感となるから、情緒障害の発生を未然に防ぐ作用があり軽度の情緒障害ならぱそれだけで治癒する場合がある、といっているだけである。情緒障害を原因的に治癒する方法は、ヨット訓練で自然の厳しさに触れ、自然治癒力と精神力を養うことにある(この本が出版された時点では脳幹機能トレーニングという所まで追い詰めていなかった)と主張しているのである。強い父親像は補助的に有効だといっているであって、自分が父親代理であるなどとは決して述べていない。

 吉本氏が提出する家庭内暴力の治療方法は、「(問題児は胎乳児期に母親との接触に失敗し、この時期の代償として過干渉を続けた母親と父親不在が家庭内暴力の典型像である。だから)父親と母親とが、いわば性的な関係を修復し、とことんまで不一致をきたさずに、問題児のまえに立ち塞がって、それ以上子どもの暴力に踏み込まれたら、夫婦が同意の上で自分の子を殺してもいいという心的な状態を作る」ことであるという。私には吉本氏のこの見解を理論的な意味で根底的に批判することはとてもできそうにないので、戸塚ヨットスクールの方法と比較して、いくつかの疑義を提出してみることにしたい。

 まず、吉本氏は家庭内暴力の原因を、幼児期の心的(不安)体験による個体の幻想の変容とその後に両親との間に形成された対幻想の構造に求めようとしているようにみえる。しかし、家庭内暴力の真の原因は、これまでに何度も指摘したように耐性の欠如を招く脳幹機能の低下なのであって、心的体験や母子関係のあり方が作り出すストレス状態は、あくまで情緒障害を生み出すきっかけでしかなく、本来的に二次的要因に過ぎないのである。
吉本氏の説で、先進資本主義諸国の大都市近郊で情緒障害が多発していることや、ヨット訓練により喘息や皮膚炎が治癒することや、最も重大な情緒障害である「無気力」の発生メカニズムを説明できるであろうか。
また、性的な事件で両親が不和となる家庭は非常に多いと思われるが、どういう条件が成立したときに「母親との接触に失敗し、どんなプロセスを経て神経症的な、あるいは心身症的な病態に至り、どんな条件のときそうならないのであろうか。

 「父親と母親が性的関係を修復し、これ以上子どもの暴力にふみ込まれたら夫婦同意の上で子供を殺してもいいという心的な状態が作れたら治癒への回路が見つかるに違いない」と言われるが、何例かの臨床データをお持ちなのであろうか。
この方法では、両親が健在であることを前提としているが、母子家庭(案外多い)の子供や両親に育てられなかった子供の情緒障害はどうやって治癒させるのであろうか。
仮に、家庭内暴力の原因が個体の幻想領域に帰するものであったにせよ、現実に白豚のように肥満し、顔を浮腫のように歪み、精神分裂病と見紛うばかりの病態に陥っている子供の身体性を抜きにした治療法などあり得ようか。

 「夫婦の性的関係を修復して、合意の上の殺意を作り出す」というのは難しい注文である。夫(または妻)の浮気が原因で子供を情緒障害に追い込むような夫婦が、今さら子供のために性的な関係を修復することなどできるものだろうか。
現に狂気としかいいようのない家庭内暴力児が目の前にいるのであるから、夫婦の性的関係を修復するには、逆にこの子供が健康な子供に治癒することが前提条件として必要なのではないだろうか。さらに、自分の子供を殺してもいいと合意できる人間がいったい何組いるであろう。またそのような心的状態に到達できるとしても、それまでに何年かかるのだろうか。

 子供の〈時〉はかげがえのないものである。15歳の情緒障害児を治すのに15年かけることは許されないのである。



 七、小中陽太郎の犯罪行為


 「情緒障害とは何か」という決定的に重要な問を欠落させて戸塚ヨットスクールを論じることは誤謬である。情緒障害は人類が歴史上初めて経験する先鋭な文明病なのであって、体罰だとか子供の自主性がどうだとかいうレベルで論ずべき問題では断じてないのである。
登校拒否や家庭内暴力を受験制度や管理教育と直結させて諭義する凡百の評論家の言動は、今必要とされる人間学にのっとった真の教育改革への道を遠ざけるものであり、否定されなけれぱならない。

 この問題に関して不毛の議論をまき散らした凡百の評論家の代表選手が小中陽太郎である。
小中は、情緒障害について一片の知識もないままにテレビ取材と称して戸塚ヨットスクールを訪れ程度の低い人間論と思いつきの教育論で頭をバタバタさせた末、「戸塚サディスト論」をテレビで吹聴し、戸塚ヨットスクールの歪んだイメージを作り上げるのに大いに貢献した。
さらに、ある雑誌の対談で戸塚宏に「あんたのような人間が日本をダメにした」と誠に的確極まる言葉を頂戴したのがよほど応えたとみえて『我が子が他人に見える時』という駄本を書いたものだから、凡百の凡百たる所以を自ら活字に残すことになった。
この読むに耐えない本を我慢して読んでみると、どんな連中がどの程度のやり方で反戸塚キャンペーンを仕組んだかを知ることができるし、ついでに小中という人物の品性も明らかとなる。序文にこうある。


 この本は、戸塚ヨットスクールの教育と、『積木くずし』という現代の最もホットな事例を取り上げ、ぼく自身テレビや対談を繰り返しつつ、それでも、どうしてもこぽれおちてしまうホンネの考え方や、隠された事実を先入感なしにストレートに明かした。そして、この2つの例をもとに、あなたは、子どもにどう接したらいいか、そこにしぼりこんでみた。

 いまも知多の海では、子どもたちが海中で必死でもがき、都会のジャングルでは、シンナーや異様な服に身をつつんで苦しみ傷ついている。それが我が子として、どなったらいいのか、叩いたらいいのか、カギをしめるのか、電話を切るのか、学校に首ネッコをとらえてつれていくのか、それでいいのかいけないのか、具体的に自分の腕をどう動かせぱいいのか、肉体が反応するように考えてみた。

 序文で、「具体的に自分の腕をどう動かせぱいいのか、肉体が反応するように考えた」という以上、ウソか本当か是非とも本文を見てみたいものだ。まず、戸塚ヨットスクールの朝の体操をポカンと口を開けて何を考えたか……。


 冬の朝のことで、まだ、あたりは闇につつまれ、海は暗い。対岸の渥美半島の灯がまぱたいている。

 異様なのは少年少女たちが黙りこくっていることだ。

 これが運動部の合宿だと、コーチが声を出す前に、部員たちが、威勢のいい声を出す。
 「さあ、はりきっていこう!」
とか、
 「ガンバルワヨ」とか。

 そういうことが一切ない。子どもたちは、異常にブヨブヨしているか、骨と皮のように痩せているかである。

 非行や登校拒否の子どもについて言っておかなければならないことは、彼らが、肉体的な鍛錬に欠け不健康なことである。

 ぼくは、非行や登校拒否、精神障害[筆者注:情緒障害のことを言っているであろう]は心とともに、からだの病である、と思っている。とすれば、その治療もまた、子どもたちに生活習慣を正させ、ルーズな時間を改めさせ、健康な時間割に戻すことだろう。

 たとえば暴走族をとってみよう。かれらは車をとばしてウルサイからいけないというだけではないのだ。車だけに頼っている子供達は、健康で引きしまったからだをもっているとは言いがたい。生活時間や食事がめちゃめちゃだからである。そういう少年たちのからだを鍛えることに反対ではない。しかし、ここでは鍛錬というよりサディズムである。〔コーチ達は子供をいたぷるのが楽しみで、冬の朝、暗いうちから起き出して浜に行くというわけだ〕

 小中が情緒障害に関する本を1冊でも読んでいたなら「異常にブヨブヨしているか、骨と皮のように痩せている」子供達を前にして、通り一遍の鍛練論など通用しないことや、肉体の荒廃を越える精神の荒廃が見えたはずである。
そして、人間としての土台が完成していない子供にとって動物的な訓練や「しつけ」がどれほど重要であるか分かったはずである。


 初めてここに送られてくる子は、たいがいライフジャケットのヒモが結べない。整列しても、手をだちりと両側にぶらさげたたままヒモに手を伸ばそうともしないのだ。

 初めての日なので、母親が堤防の陰からのぞいている。子どもはそれを知っている。さて、ここのコーチは、ヴォランタリーのコーチ志望の女子大生がよく来る。戸塚は、この女子大生に命ずる。
 「あのヒモを自分で結ばせてこい」
 女子大生は、おずおず子どもの隣に並んで、
 「ヒモを結びなさいよ」
 と言ってみる。もちろん、少年は聞きはしない。女子大生は、肩で押してみる。だめだ。

 堤防の陰で母親は、切ない思いに身もだえしている。ついに、そこから小走りに出て、ヒモを結んでやる。子どもは、(フン、迷惑だ)というように横を向いたままである。「ありがとう」1つ言うわけではない。これがいけない、と戸塚はいう。

 女子夫生は、
 「ねえ、アンタ、ありがとうと言いなさいよ」

 もちろん、子どもはそっぽを向いている。どうするか、ここで、戸塚方式の登場だ。

 〔ライフジャケットのヒモが結べないと命にかかわるぞと教え、ヒモを必死に結ばせ、それでもダメなら〕堤防の上に連れて行く、3メートル下は海だ。後ろから、ちょっと押す。ふんぱる。さらに強く押す。

 「ドボン!」
 水中に落ちる。

 水中でもがく。ライフジャケットがないから、ほっておけば死んでしまうかもしれない。ここで手を伸ばしてやる。

 母親はもう、周りの目も、ものかは、とび出してきて、ヒモを結んでやる。

 子どもは、そのとき初めて、
 「ありがと」
と言う。

 これが戸塚の説明だ。

 なかなか、説得力がある。

 ぼくも聞いていて、ヒモを結べない子に、イライラするオトナの側の気持ちについなった。誰でもそうだろう。水中に突き落とす、という教育は実に効きそうである。

 だが、ここが考えどころだ。〔下手の考え休むに似たりということがある〕

 たしかに、14、5歳にもなって、自分で胴着のヒモが結べないようでは、情けない。だが、ヒモが結べないことが、そんなに問題か。〔14、5歳で、ライフジャケットのヒモであるなら問題だ〕

 実は、ぼくはヒモが苦手だ。〔ナルホド〕

 子どものころ、からだが弱くて、母がヒモでからだを締め付けてはいけない、とヒモのある服を着せなかった。それでクツのヒモさえ苦手である。〔50歳でクツのヒモが苦手なのもママのせいというわけだ〕

 ぼくは、それが恥ずかしい。

 ぼくが、ほんのちょっとでも、自分を束縛することに猛然と反発するのは、ここからきているかもしれない。〔甘やかされて育てられた人間によくあることだ〕きっとそうだ。

 ぼくは、これを自慢で言っているのではない。〔当り前だ〕これはぽくの欠点だ。〔当り前だ〕ヒモは結べた方がいい。〔……〕

 でも、ぼくは、ちゃんと生きている。人間はすべてのスポーツと技術に習熟するわけにはいかないではないか。

 ヒモを結ばせたいなら、わざわざ、海中に突き落とさなくても教えておくことができる。少しは時間がかかるだろうが。〔場合によると50年かかる〕

 問題は、この少年が、ヒモを結ぶことは命にかかわることだということを学ぶのに、こんなことをしなけれぱいけないかどうかということだ。実はここに戸塚を肯定するか否かのポイントが潜んでいる。〔戸塚を肯定するか否かは、情緒障害児問題を徹底的に分析し、ヨット訓練によって実現する生理学的効果と精神力強化の意義を理解することから始まる〕

 ――ぼくの考えはこうだ。

 「14、5にもなって、水に落とさなけれぱ、器具のヒモのありがたみや大切さも分からないなんて、少し抜けている。〔50歳にもなって、しかも現場を見ていながら情緒障害の深刻さに気がつかないなんて少し抜けている〕そんなこと、いちいち、体験してみなくたって、頭をはたらかせれぱわかりそうなものだ」

 どうもここが問題の急所らしい。

 「頭をはたらかせれぱ」というところだ。

 こういうふうに気がまわらない、そういう病気なんだ、この子たちは。

 だから、ぼくは情緒障害児、非行、家庭内暴力の子らは、性格の問題〔?〕でなくて、気がまわらないのだと思う。〔何をトンチンカンなことを言っているのだ〕

 大急ぎで誤解のないように言っておかなければいけないが、ここでいうアタマの働きは、勉強ができる、できない、とか、知能指数のことではない。〔要するに何も分かっていないわけだ〕

 そして、そうゆうようにアタマがはたらかないものを治すには、実例を示して教えてやればいい、と思う。〔これが小中のいう「肉体が反応するように考えた」結論である。〕

 戸塚ヨットスクールの訓練の意味が分かりにくいものであることは事実であろう。なにしろ、情緒障害という奇妙な病は人類が初めて経験するものであり、「精神力の強化」によってそれを治癒させるという方法も、たぷんに体験主義の色彩を帯びていた。

 しかし、情緒障害の本質である耐性の欠如についていささかでも理解が及べば、情緒障害児の教育はおのずと既成の教育の枠からはみ出したものにならざるを得ないことが分かるはずである。
そして、この最も難しい子供達の教育を通じて、真の人間教育に対するより深い洞察を得ることができるのである。


 「教育とは、もっと人間の中に潜む自主性にはたらきかけるものであってほしい」とぽくは戸塚に言った。

 だが、戸塚にも言い分はある。
「自主性? そんな甘っちょろいことを言っておっては、何年かかっても直りゃせんやろが」

 それからまた、一応はこう言う。
 「殴ることだけで終わりじゃないのんよ。そうやって精神力をつけたら、あとは、その上に立って自分でやっていくんよ」

 戸塚がよく言うところの、「体罰だけで直るなんてそんな簡単なものじゃないんよ」というのは、ここのところだろう。

 だがここまできて、対立点ははっきりしてきた。

 「人間の中の本能的恐怖にはたらきかけるのが教育としていいかでうか。百歩譲って恐怖によって反抗心をくだき、やる気をおこさせるものとしても、命の危険までともなっていいのか。最後に、命はまっとうしたとして、心に深い傷を残さないか」

 これがぼくの批判である。

 戸塚ヨットスクールでは3件の死亡事故が起きている。最初の事故(病死)は不起訴、2番目の事故は、後に示す検察のメンツをかけた横暴によって1年以上処分保留で放置されていたものが起訴に持ち込まれたが、やはり病死である。
新聞ジャーナリズムが反戸塚スクールキャンペーンの足がかりとした小川真人君死亡事件に至っては、医療ミスの疑いが濃厚であって、新聞は鉾先を向ける相手を全く間違えている。
戸塚ヨットスクールの訓練がどれほど慎重に行われたかは、5年間に500人以上の重症の情緒障害児に厳しいヨット訓練を課しながら、1人の溺死者も心臓マヒによる死亡者も出していないことから察知できよう。

 この問題を明らかにするには膨大な説明が必要であるし、必ずしも本稿の主目的ではないので、これ以上の論究は行わないが、少なくとも従来言われているような「殴る蹴るの暴行の末、ショック死した」という見解は事実に反し矛盾に満ちたものであるとだけは言っておきたい。
新聞やテレビの報道がいかに予断と偏見に満ちたものであったかは、取材の当事者であった小中の記述から十分にうかがうことができる。


 ぼくたちが張り込んでいるところへ、A新聞の半田支局記者が来た。

 「実は家族を張っているんだ」
と言うと、若い記者は、
 「おれも聞いてこよっと」と気軽に飛び出して行った。〔この程度の記者達が戸塚暴力団説を流したのである〕こちらから見ていると、ちょうど中へ入ろうとする夫婦の夫のほうにピタリとついた。夫は、つっけんどんに断っている。戻って来た記者に聞くと、「これから子どもに会うところだからだめだ」と言ったと言う。記者はまた出直してくると帰っていった。

 そのあとで、夫がすぐに中から取って返して来た。

 こちらのマイクロバスに大股で近づいて来る。

 「しまった。見つかったか」〔何をコソコソする必要があるのだろう〕

 ぼくは、ドアの陰に隠れてしまう。ディレクターが出て行く。夫が言う。
 「さっき記者の人に、断ったけれど、今、中に入って、子どもの顔を見たら、これまで笑いもしなかった子が、私たちの顔を見て笑った。あんまりうれしかったので、記者さんにそのことをお話しようと思って」

 記者氏は残念なことをした、とも言えるが「娘が直って私はうれしい」という談話では返って新聞では使い道もなかったろう、そう思ったので連絡しないでしまった。〔!………〕


 ぼくたちは角屋に戻って、今夜ここに泊まる親とのインタビューに備えた。

――・――


 「戸塚さんには許可をとっているので、ぜひ」と夫人に頼みこむ。いったん部屋に入ってから、夫人だけでやって来る。ちょっとおどおどしてもいる。様子の分からぬらしいところを訊き出すのは、気がとがめるが、テレビの1つの手だ。〔………〕

 「坊ちゃんは?」
 「父親とお風呂に入っています。」

 よし、この間に聞いてしまおう。〔私は小中陽太郎という人間は卑怯者であると思う〕

 1室に案内してテープを回した。おどおどしているといったが、いや、よくしゃべる人だ。

 「本当にすぐ終わるのでしょうね、主人は、インタビューなんかに答えてはいけない、と言うんです。ほんとに私、怒られるんです」

 こう言われると不思議な気がする。

 主人がだめ、と言っても結局ここにいるではないか。

 主人の力は及ばない。男まさりなのだろうか。夫に代わって家のことを切り盛りしているのか。もっとも、こちらも商売だから、インタビューに答えなけれぱならないような雰囲気にしむけている。

 「戸塚さんは、いま、マスコミに叩かれて四面楚歌です。先生を弁護する人がいなくては、悪者になってしまいますよ。あなたは、お子さんをここへやってよかったと思っているのでしょう。それを話してくださいよ。噂によると、ここに子どもを預けている父母の間では、署名運動をしてこのスクールを残そうとしているそうじゃないですか。それにお話を聞くのは、校長にも、この角屋さんにもお断りしてます」

 こう、おためごかしに言うのだからマスコミ(これはぼくだ)は怖い。〔そういうことをしたツケはいずれどこかで払わなけれぱならないと知るべきである〕


 「主人は、鉄鋼会社の専務です。」
 「ほう、まだ、お若いのにたいしたものです」
 「父の会社ですので」

 ぼくの受けた感じでは、この父というのは夫人の父親ではないか。だが、あまり根ほり葉ほり聞いていると、肝心のことを逃すので、子どものことに集中する。

 「どういうことに悩んで、こちらにお預けになったんですか?」
 「ちょっと、反抗するようになりまして、」

 「このちょっとがくせものです」
 戸塚が昨夜言った。
 「小中さん、ちょっと手に負えないくらいで子どもをここによこしますか、ここによこしたいという親に、私はここの生活を2時間も説明し、訓練も見せているのですよ。それでもここに子どもを預けようと決めた人はやな、子どもに殺されそうになったからですよ」

 その言葉を思い出す。すると、この気丈そうな母親も夜中に首を締められたのであろうか。大きな男の子だった。


 母親は言う。
 「戸塚先生は天使です」

 そうだろう。わが子を叩くという親にとって1番辛いことを代わりにやってくれるのだから。

 読者は今後、小中陽太郎がひと言でも教育問題について発言することがあったなら、ここに引用した文章を思い起こした上で、その内容を吟味して頂きたい。小中がテレビで発言したり、この本で書いたことは教育に対する犯罪行為であると私は信ずる。