死亡事故起きる……(後)
弁護士辺見陽一を代理として提出された刑事、民事双方の訴状から、桐山晴夫、雪子の主張を紹介すると次のとおりである。
桐山利次は54年2月11日夕方から、他の生徒10人と共に合計11人で5泊6日、つまり2月16日に訓練を終了する予定で愛知県美浜町河和の合宿所に入った。
同時に合宿所へ入った11人の生徒のうち6人は予定どおり2月16日に訓練を終了、残る生徒も18日に1人、19日に3人と19日までに10人が訓練を終了して帰宅。桐山利次1人が、残されることになってしまった。
利次と同じ時期に訓練を受けていた根津公男の証言によると、利次は2月15日夕方から腹痛を訴え、食事をとらず、風呂にも入らない状態で、医者の診察を受けたいと訴えていたにもかかわらず、無視、放置された。
続いて16、17の両日も同じように腹痛を訴えたのに対し、訓練は休ませたものの、医師の診察を受けさせることなく放置した。
18、19の両日にはやはり腹痛を訴えているにもかかわらず、詐病だとして殴る、蹴るの暴行を加えたうえ、海上においてヨットの訓練を強行した。
2月、冬の寒い盛りである。
19日夕方から、1人残された利次は名古屋市内にある戸塚宏の自宅兼ヨットスクールの事務所に移され、23日まで宿泊させられた。
この間、利次は腹痛を訴え、高熱を発し、ほとんど食事をとらず、医師の診察を求めているのにこれを無視、放置した。
23日には利次を再び美浜町河和の合宿所へ連れ戻し、同じ状態にあるにもかかわらず、1日中、合宿所内に放置した。
そして、死亡の日の24日には同じように病気の状態にある利次を寒い戸外に連れ出して約2時間、正座させた。
こうして、1度も医師の診察を受けさせることなく、同日午後2時30分ごろ、死に至らしめた。
利次は12日から15日までの間、コーチから時々、
「お前は太っているから、めしを食うな」
といわれ、昼2回、夜2回、食事をさせてもらえなかったと根津公男は証言している。
そして、2月15日夕方から24日まで10日間も、食欲なく、嘔吐、腹痛、発熱等の症状があり、医師の診察を受けさせてくれるよう訴えたにもかかわらず、無視し続けた。
利次の死因については、いまだ確定した鑑定意見は提出されていないが、十二指腸潰瘍の穿孔(せんこう)による化膿性腹膜炎と伝えられている。
被告が、保護者から預かった児童の生命と健康管理に十分、意を尽くし、早い時期に医師の診察を受けさせていたら、利次が一命をとりとめることができたことは、ほぼ確実である。
生徒が腹痛などを訴えた場合、それが訓練に耐えられるものか否かの判断を、しろうとではなく医師に仰ぐシステムを作らないかぎり、第二、第三の事故が発生すること必定である。
被告人戸塚宏は反省の色を見せていない。よって、訴える次第である。
桐山利次の死亡に関して、両親の桐山靖夫、雪子が起こした訴えに対する戸塚ヨットスクール側の反論は次のとおりである。
54年2月11日。
利次は愛知県美浜町の合宿所ヘ夕刻に到着した直後から、
「帰らせてほしい。頭が痛い。手、足が痛い。腹が痛い」
などと、明らかに虚偽とわかる訴えをした。
翌12日も同じ。
そして、食事は3食とも、他の参加者と同程度にとり、異常は認められなかった。
利次は16日「腹が痛い」と、夕食をとらなかった。
そのため、17日は訓練を休ませた。
洗腸を施し、用便を済ませた後、コーチが腹痛について質したところ利次は、
「すっきりしました。もう痛くありません」
と答えた。
苦痛の様子は全く認められず、コーチが横になって休んでいるよう指示しても、合宿所の内外をうろうろ歩きまわるほどであった。
食事も、朝食はコーチの指示でとらせなかった。
しかし、昼食、夕食は通常どおり。
午後4時には、他の参加者が甘酒を飲んでいるのを見て、
「飲んでいいですか」
と尋ね、与えられると、これも飲むなど食欲はあった。
コーチは16日夜、17日午前中の2回、利次の体温を計ったが、平熱であった。
表情にも異常は認められなかった。
18日。
日曜日なので、情緒障害児でない一般の子供たちのための日曜ヨットスクールが開かれ、情緒障害児と合同で訓練が行われた。
利次は、他の情緒障害児たちとともに、この訓練に参加した。
食事も平常どおり3食とり、異常は認められなかった。
19日。
一緒に合宿に参加した11人の生徒のうち10人は、この日をもって訓練を終了した。
しかし、利次1人は、帰宅させてもまだ登校する見込みがないので残って、訓練を続けることになった。
戸塚の自宅に預かったのは、ヨット以前に、まず、日常生活の基礎から訓練する必要があると判断したからである。
期間の延長、自宅預かりともに追加料金を取らないのだから、利次を回復させたいとの好意から出たものであることは明らかである。
食事は19日も平常どおりであった。
20日。
利次は午前7時ごろ、戸塚宅を脱走、近くの千種警察署今池派出所へ赴き、
「家へ電話をしたいので、電話を貸してほしい」
と頼んだ。
当直の警察官が不審に思い、利次にかわって親もとへ電話をかけたところ、母親が応答に出、利次を戸塚の所へ戻らせてくれるよう依頼した。
母親はさらに戸塚の自宅へも電話をかけ、息子の脱走を詫びたうえで、
「よろしく、お願いします」
と頼んだ。
利次は3食とも平常にとったうえ、脱走前には菓子を、連れ戻されてからは夜中に冷蔵庫内の食物を、ともに無断で食べるほど、食欲があった。
派出所の警察官も利次の体調に異常を認めていない。
21日。
利次は午前7時に、コーチの1人に連れられ、車で三重県鳥羽市に赴き、そこに係留してあった戸塚ヨットスクールのヨットの整備を手伝って、再び戸塚宅へ帰った。
食事はこの日も平常どおり3食をきちんと、とった。
昼にはパン、牛乳、マンジュウ。戸塚宅へ戻ってからの夕食には、うなぎどんぶり1杯を残らず平げるほどの食欲であった。
22日。
利次は戸塚の自宅で1日じゅう、ブラブラして過ごしたが、食事は平常どおりであり、腹痛の訴えもなかった。
23日。
利次は2人のコーチに連れられ、午前10時ごろ、戸塚宅を出発、正午前、車で愛知県美浜町の合宿所へ戻った。
しかし、この日は悪天候であったため、海上においてヨットの帆走訓練を行うことが困難であった。
利次はコーチとともに合宿所で腹筋運動をやったり、本を読んだり、ゴロ寝をしたりして時を過ごした。
利次の食欲は、この日も異常を示していない。
名古屋の戸塚宅から車で美浜町の合宿所に向かう途中、本人の希望によって食堂に立ち寄り、とんぶり物のご飯を3分の2とみそ汁1杯を食べた。夕食にはコーチが作ったカップめん、焼きいものほか、フランスパンを食べ、トマトジュース、身体を暖めるために作ったパター入り砂糖湯などを飲んだ。
就寝は午後8時30分ごろ。
以上が、死亡前日までの利次に関する記録である。
24日。
死亡事故の当日。
利次は午前8時30分ごろ起床。9時ごろから、朝食としてフランスパン3切れとオレンジジュース半分ぐらいをとった。
コーチの1人が利次に、合宿所の周囲を掃除するよう指示した。利次は最初、その指示に従ったが、やがて地べたに、両手を前について座り込んでしまった。
しかし、利次は極度の肥満体のためか、合宿参加当初から同じようにへたり込むことが再三あり、コーチはそれを異常とは感じなかった。
利次は昼に砂糖湯、オレンジジュースを飲んだあと、
「手足が痛いから、病院へ連れて行ってほしい」
と頼んだ。
これは19日まで行われた訓練において、利次がコーチの指示に従わず行動した結果、岸壁等に付着した貝で手足に多数の傷を受け、その治療を求めたものであり、原告の主張するような「腹痛」ではない。
利次は合宿期間中、腹痛で医師の診察を受けたいと希望したことは1度もなかった。
2人のコーチが利次を車の後部座席に乗せ、合宿所から徒歩3〜5分にある辻医院を訪ねた。土曜の午後だったので、コーチの1人が医師の所在を確認に行った。
この間、残ったコーチは利次と二、三言葉を交わした。その直後、バックミラーをのぞいたが利次の姿が見えない。後部座席をのぞいたところ、利次は口を半開きにし、座席に倒れていた。
コーチはすぐ、他の1人を呼び戻し、そこから車で2〜3分の佐本外科へ運び、診察を受けた。
医師は、すでに死亡している、と告げた。
以上が、利次死亡までの事実経過である。
原告らは、戸塚とコーチたちが、合理的理由もなく利次に殴る、蹴るの暴行を加え、激しい腹痛を訴え、医師の診察を求めているのに無視、放置したばかりか、死亡当日にはその利次を寒風吹く戸外に、2時間も正座させたと主張している。
利次の死がまことに不幸な出来事であり、両親の悲嘆が筆舌に尽くしがたいものであろうことを、被告は認めるに決してやぶさかではない。
しかし、健康体でない利次を健康体と偽って合宿に送り込むなど、自らの責任の重大さをかえりみることなく、以上のような事実関係をよく調べることもしないで、責任はあげて戸塚にあるとする主張は、明らかに不当である。
* *
桐山利次と同じ時期に戸塚ヨットスクールで訓練を受けた根津公男の両親、根津正穂と芳子が、長男公男が暴行を受けたとして戸塚宏らを傷害罪で告訴した訴えの内容は次のとおりである。
告訴人らは、公男に登校拒否の傾向があったので、戸塚ヨットスクールの合宿の実態を知らずに、同合宿により公男の登校拒否を治そうと考え、昭和54年2月12日から16日までの予定で始まる合宿に参加させた。
戸塚らは共謀のうえ、合宿所において、2月12日午前8時ごろ、公男に対しヨットの組み立て作業が遅いことを理由に、顔面を殴打する暴行を加え、下唇裂傷の傷害を負わせた。
さらに、16日午前6時すぎには、公男の柔軟体操が指示どおりでないことを理由に、顔面を蹴りつける暴行を加え、左頬部挫傷、鼻腔内裂傷の傷害を負わせた。
戸塚の経営する情緒障害児のためのヨット合宿においては、コーチの指示どおり訓練を行えない子供に対し、その肉体的、精神的限界を考えず、
「腕立て伏せができない、ヨットの組み立てができない」
と言っては一方的に暴行を加え、子供の体に体罰としての程度をはるかに超えた傷害を負わせている。
公男も前記以外に、5日間にわたっておびただしい暴行を受けている。
そして、この暴力指導はコーチ全体に徹底されており、戸塚を先頭に毎日のように暴力を加えている。
また、10人もの子供を市街から離れた合宿所において5日間にわたって訓練させるにもかかわらず、医師、看護婦はおろか医療知識を有する者も置かず、また、薬品等もほとんど備えていない。
人的、物的に医療設備は皆無に等しいありさまであり、それゆえ、桐山利次の死亡事故が発生した。
告訴人らは、5日間にわたり恐怖と暴力の中で生活を余儀なくされた公男の今後に、極めて不安を感じている。
告訴事実についての厳重なる捜査と被告訴人らに対する厳罰を求めるものである。
根津の場合は民事訴訟がなく、刑事告訴だけなので、戸塚ヨットスクール側は法的手続き上、反論を行う必要がなく、従ってここに紹介すべき文書は提出されていない。
また、警察は根津の訴えに関しては捜査を行っていないが、それは、いわば、桐山利次の死亡事故に関する告訴事件の支援、という性格を持ったものと解釈されているからであろう。
* *
55年11月4日に死亡した高松雄吉の遺族は、戸塚宏および、その他のヨットスクールのコーチたちを、傷害致死罪で罰することを求めた刑事告訴を起こすとともに、3,238万5千円の損害賠償を求める民事訴訟を起こして、係争中である。
刑事事件に関しては、愛知県警が名古屋地検に戸塚らを書類送検している。
民事訴訟も目下、審理中である。
遺族による訴えの内容は次のとおり。
高松雄吉は弘、ちよ子の長男として昭和34年8月16日出生。47年同志社香里中学へ入学、53年同志社香里高校を卒業した。
53年4月から大学受験準備のため京都市の関西文理学院予備校に入り勉強したが、54、55年の2回にわたり大学受験に失敗した。
中学時代には250人中60番ていどの成績だったが、高校時代は成績が落ち、かつ、2度の大学受験失敗で、精神的に動揺していた。
55年10月10日ごろ、母親ちよ子が、新聞の夕刊で戸塚ヨットスクールの記事を見つけた。
「登校拒否児の精神訓練に効果がある」
と書かれていたので、ちよ子はヨットスクールへ手紙を出し、案内書等関係書類の送付を受けた。
10月22、3日ごろ、戸塚から電話があり、高松弘、ちよ子は大阪・梅田の新阪急ホテルロビーで戸塚、コーチの2人に会った。
戸塚は、
「31歳の人まで訓練によって治した経験がある。(雄吉は)21歳だから大丈夫です」
といいながら、治療実績を示すアルバムを見せ、
「安心してお預け下さい」
といった。
両親が、
「雄吉の健康に異常はないが、勉強のために運動不足になっている。急激、過激な訓練には耐えられないので、徐々に訓練していただきたい」
と、特に申し出たのに対し、戸塚は、
「練習は厳しいが、暴行とか傷害を加えるようなことはない。健康診断もするから、まかせてほしい」
と語った。
10月27日、ヨットスクールから30日に迎えに行くとの電話が入った。
30日、2人のコーチが車で高松の家まで迎えに来た。
雄吉は心進まず、同行を拒んだが、コーチたちは、
「すぐ親に感謝するようになる」
といって雄吉の両脇をかかえるようにして、車に乗せて行った。
11月1日。午後9時すぎ、戸塚から高松宅へ、
「雄吉は元気で、機嫌よく練習しているので安心するように」
との電話が入った。
家族は再度、
「息子は2年間も運動をしていないので、過激な運動は絶対に避けていただきたい」
と、強く頼んだ。
11月4日。雄吉死亡の日。
午前1時20分。真夜中、戸塚から、
「雄吉は訓練中に異状が見られたので病院に運んだが、さきほど死亡した」
と、電話がかかった。
家族が事情を詳しく尋ねたが、
「警察の手が入っているので、詳しいことは申し上げられない」
との返事であった。
父親高松弘は、義弟中井昌弘を伴って半田警察署に赴き、刑事の案内で棺に横たわる雄吉の遺体を見たが、驚きのほかなかった。
(イ)顔は両方の目が充血して紫色にはれ上がり
(口)唇が切れて血がにじみ
(ハ)口の周辺にも紫色にはれ上がった所、無数にあり
(二)家を出る時の長髪は丸刈とされ
(ホ)左の胸に凶器様のもので殴ったと思われる、紫色に変色した部分あり
(へ)腹部にも足で蹴ったような紫色の充血
(ト)両腕にも無数の充血個所があった
上記の状態からして、病死ではなく、一見して暴行による傷害の結果、死亡したものと思われる。
雄吉の死後、父親弘とその義弟中井昌弘が、雄吉が入校のさい健康診断に当たった医師から聞いたところによると、雄吉の心電図に乱れがあり、血液検査では白血球が異常に多く、普通値6,000ところ、雄吉は2万5,000もあり、さらに、尿に血がまじっていた、ということである。
両親は雄吉を預けるに当たって再三にわたり、長い間、運動をしていない身体であり、衰弱しているので、急激に、過激な運動をさせることは避けていただきたい、徐々にお願いしますと頼んだはずである。
それにもかかわらず、戸塚らはその頼みを無視して、過激な運動を雄吉に強要した。
そして、動作が遅いといっては容赦なく殴りつけ、蹴とばすなどの行為を繰り返した。
そのうえ、雄吉が身体の自由がきかなくなってからも医師の診察を受けさせず、入校6日目にして死に至らしめた。
高松雄吉の死亡に関して、両親から起こされた訴えに対する戸塚ヨットスクール側の反論。
雄吉の母親ちよ子から戸塚ヨットスクールにはがきで、
「東山晴利氏の住所を教えていただきたい」
と照会があった。
東山晴利は、戸塚ヨットスクールで登校拒否を克服して見事に立ち直り、56年夏に催された神戸ポートピア博記念太平洋単独横断ヨットレースに参加、史上最年少の18歳で5位入賞を果たす快挙を成し遂げた少年東山洋一の父親である。
雄吉の母親ちよ子は東山から戸塚ヨットスクールの内容と、洋一が立ち直るに至った様子を聞こうとしたのである。
その後、雄吉の父親は戸塚の出張先まで電話を寄こして面会を申し入れ、やっと大阪・梅田の新阪急ホテルで雄吉の両親は戸塚と面談した。
55年10月23日前後で、戸塚にはコーチ1人が同伴していた。
両親の話によると、雄吉は高等学校1年の2学期から登校拒否を始め、成績は相当不振であった。
大学受験には失敗し、予備校にも3カ月にして通学を拒否しているとのことで、特に雄吉が21歳の成人に達しているという年齢のことを、気にしていた。
そこで戸塚は、31歳の成人を治したことがあることを説明した。
両親は、
「長い間、外に出ておらず、運動をしていない」
と説明。
それに対して戸塚は、
「健康診断をする」
と答えた。
その時両親は、
「検討のうえ、後ほど連絡する」
といって双方別れたが、間もなく両親から申し込みがあり、戸塚はそれを了承した。
その時、両親は雄吉について「覇気がない」「社会性がない」等の説明をした。
戸塚は両親の説明を聞いていて、雄吉に精神病の疑いなきにしもあらずの印象を受け、
「われわれの所は精神病を治す機関ではないので、様子によっては精神科の医師に診てもらうかもしれない」
と両親にあらかじめ告げた。
両親はその時、
「雄吉をかつて1度、精神科へ連れて行って診てもらったことがあるが、はっきりわからなかった」
と打ち明けた。
55年10月30日。
2人のコーチが雄吉を合宿所に連れてくるため、車で枚方市にある高松宅を訪ねると、父親はニコニコしながら、コーチたちを出迎えた。
コーチが雄吉を車に乗せようとすると、激しく抵抗した。父親は息子を殴ったり、蹴ったりして、車に押し込むのを手伝った。
2人のコーチは雄吉を車に乗せ、夕方、愛知県美浜町河和の合宿所に着いた。
車中、雄吉はおとなしくしていた。
31日。
雄吉は午前6時起床、10人ぐらいの生徒とともに体操を始めた。
しかし、雄吉は最初から、腰が抜けたような格好で座り込んでしまった。トレーニングはやらないに等しい状態であった。
朝食後の居室掃除を、雄吉はほとんどしなかった。
その後、入校生を対象とした恒例の健康診断を病院で行った。
雄吉については、
「尿蛋白が出ているが、訓練には支障なし」
という診断が出された。
健康診断が終わると、いつも世話になっている合宿所近くの『角屋』旅館で庭掃除の奉仕活動をした。
しかし、雄吉は乗ってきた車から降りようとしない。みんなで降ろすと、道に大の字になって寝ころんでしまった。
昼食に『角屋』がカレーライスを出してくれたが、雄吉は1人、食べることを拒んだ。
「僕だけにしか出来ない研究があるんだ。こんなことをやっている暇はない」
雄吉がそんなことを1人でブツブツつぶやいていたので、それを聞いた人たちは、
「あの子、おかしいんじゃないか」
と語り合った。
午後1時ごろ、ヨットの訓練開始。
雄吉はウエットスーツに着替えることを拒み、無理矢理、着替えさせられた。
生徒たちは海岸近くに置いてあるヨットの組み立てを始めた。
雄吉は途中までやっただけで、やめてしまったので、コーチが組み立ててやった。
雄吉は水を怖がり、ヨットに乗ろうとしなかった。水が膝くらいまでの所にくると、ヨットにしがみつき、ひっくりかえって水につかってしまう。コーチがヨットの上にかつぎ上げても、寝ころんで抵抗した。
他の子供を1人、同じヨットに乗せ、雄吉を教えさせようとしたが、雄吉は全くいうことをきかない。
しかも、いったん目を離すと、脱走の隙をうかがい、助けを求める相手を捜すかのように、キョロキョロとあたりを見回している。
雄吉はヨットを動かしたが、すぐひっくり返ってしまい、口をあけたまま、水を飲み込むのもかまわず、仰向けに浮かんでいるというありさまだった。コーチは仕方なく雄吉に訓練をやめさせ、火にあたらせた。が、雄吉は火のあたり方も知らない。
しばらくして、コーチが、
「さあ、やるぞ!」
と、うながすと、雄吉はそのとたんに、ヘナヘナと座り込んでしまった。
11月1日。
午前中、炭焼きをするための穴掘り作業。雄吉は休んでばかりいて、無気力。
午後のヨット訓練後、20〜30メートルの合宿所まで帰る時など1人で歩こうとせず、他の生徒の肩に支えられて、やっと。ところが、皆が目を放すと1人で歩き出すので、
「自分で歩け!」
と、不意を突くと、すぐまた、ヘナヘナと座り込む。
2日。
体操はなんとかやったが、ヨット訓練は拒否。昼に合宿所の庭で大の字に寝てしまうなど、ダダをこねた。
寒そうにしており、コーチが異状を感じて熱を計ると、35度しかない。
ストーブ2つをつけ、日当たりのよい場所で湯タンポを抱かせ、合宿所に寝かせた。牛乳を暖めて楽のみで飲ませようとしたが、雄吉は楽のみの口元をかんでつぶした。そして、寝袋や毛布を蹴とばすなど、暴れた。食事をとらせようとしても、とらない。
医師に診察してもらおうと電話したところ、体温が低いくらいで死ぬことはない、という説明。病院が休みでもあるので、様子を見ることにした。
3日。
午前3時ごろ、雄吉は、
「水をくれ」
とわめき、暴れた。コーチが水を与える。雄吉はさらに、
「神よ、わが愛を助けたまえ!」
など、意味不明のことを叫び続けた。異常を感じ、コーチが交代で不寝番を続けたが、肉体的苦痛の訴えはなかった。
他の生徒たちの訓練は平常どおり行ったが、雄吉には看護1人をつけて1日じゅう寝かせた。お茶を飲むていどで、食欲はない。
昼に病院へ電話したところ、
「緊急なら別だが、先生もいないし」
ということなので、様子を見守ることにした。 夜に入って、雄吉の意識が朦朧(もうろう)とした感じになってきた。急いで病院へ運んだが、到着した時には死亡していた。
ヨットスクールにおいて、およそ訓練らしい訓練を始めないうちに、ロウソクの火が消えるようにスーッと生を閉じてしまった。