死亡事故起きる……(前)


 桐山利次の家は堺市にある。
 大阪の難波から南海電車に乗って約30分。
 仁徳天皇陵のある三国ケ丘駅から中百舌鳥、白鷺駅あたりにかけて、大阪や堺の工場地帯のベッドタウンとして開発されたマンモス団地が建ち並んで、よく見かける新興住宅街の観を呈している。
 利次の家はそうしたマンモス団地の一角、白鷺駅を降りて数分のところにあった。

 母親の雪子によると、昭和40年生まれの利次は、小学校低学年のころまでは、ごくふつうの子供だった。
 けっこう腕白で、外へもよく遊びに出かけたし、友達も少なくはなかったという。
 その子供が登校拒否の症状をはっきり示すようになったのは、小学校5年ごろからで、6年生の3学期は半分、中学1年生になると半分以上、学校を休むようになった。
 そしてやがて、いらだちが見えはじめ、部屋に閉じこもり、深夜までテレビを見、物を窓から投げるといった家庭内暴力に至る前期症状を呈してきた。
 原因が不明であることが特徴とされる多くの情緒障害と違って、この子の場合は主な原因が割合、はっきりしているように、親や先生たちには思われた。

 気の毒な話をしなければならないことになるが、2つ違いの利次の兄は知恵遅れで、自閉症である。1人ではほとんど何もできない重症で、そのために母親が兄の身の回りの世話から、そうした子供の学校への送り迎えに至るまで、かかりっきりになっているほどである。
 さらに、利次自身、学校の先生たちの話によると、特殊学級に入れるかどうかもすれすれの線上の知能ていどであったようだ。
 利次は学校へ行きたくない理由を最初は母親に、
「給食当番がいやだから」
と説明していたが、やがて、
「本当は、兄のことを友達にからかわれるからだ」
と告白した。
 給食当番を理由にしたのは、幼い子供の、兄へのせめてもの思いやりであったのかもしれない。
 親にとっては、兄の状態が状態だけに、弟に、残された望みを託していたのだが、その弟まで登校拒否になってしまい、二重のショックを受けることになった。
 悲惨である。

 両親は市の相談所を訪ねた。
 「あせってはいけません。学校、学校といわないように……」
とカウンセラーはやさしくアドバイスしてくれたが、どうすれば登校拒否が治るかについて、具体的な方法と方策を教えて欲しいと思って訪ねた親にとって、満足のいく回答にはなっていない。
 両親はあせった――。
 父親の桐山靖夫は利次を四国のある禅寺へ連れて行き、父子ともに修行を試みた。
 しかし、父親は石段を踏みはずし、足を骨折して入院。息子の登校拒否は治らなかった。

 利次の登校拒否が顕著になった小学校6年の時である。
 利次が中学へ入った直後、運送会社に勤める父親は会社の同僚から戸塚ヨットスクールの話を聞き込んできた。
 「短期間で効果を上げている、いい所があるらしいよ」
 靖夫は妻の雪子にそう話した。
 しかしそのころ、利次は中学へ入ったばかりのせいか、また学校へ行きはじめていた。
 多くの親たちがそうであるように「苦しい時の神だのみ、喉元過ぎれば熱さを忘れる」である。
 戸塚ヨットスクールのことはしばし、緊急の問題ではなくなっていた。
 そして、利次はその年の暮れまで、つまり1学期、2学期の間の大部分、休みながらもなんとか登校するという生活を繰り返していたために、親たちもこれという特別の方策をとらないまま、状態を見守っていた。
 ところが、正月を過ぎて3学期に入ると、利次は再び学校へ行かなくなってしまった。

 両親は戸塚ヨットスクールのことを思い起こし、連絡をとって入校させることになった。
 54年2月のことである。
 冬の寒い盛り。
 海で子供を鍛えるには、最も効果の高いシーズンだった。
 そのころ、戸塚ヨットスクールは今日と違ったシステムをとっていた。
 今日では、長期の訓練を必要とする非行等の子供たちをも対象に含めているために、期間を一定させていないが、当時は登校拒否の子供たちをともかく学校へ行くようにすることだけに目的をしぼっており、訓練は一応5泊6日で足りると戸塚は判断していた。
 だから、桐山利次が戸塚ヨットスクールへ入校した当時の訓練期間は5泊6日。それで多くの子供たちは学校へ行くようになっており、戸塚ヨットスクールは桐山の父親が会社で聞き込んできたように、短期間で効果を上げる治療機関として注目を浴び、戸塚たちも得意の時期にあったのである。
 54年2月11日午後6時、堺の家を出た桐山の一家は両親、自閉症の兄、弟の利次の4人で名古屋駅の指定された集合場所に到着して、他の生徒たちと合流した。家族に連れられてきた生徒の数は11名であった。
 利次も、連れてきた家族も、これが最後の別れになるとは知らず、名古屋駅頭で別れた。


 電話のベルが鳴っている。
 堺市のマンモス団地にある桐山利次の家。
 54年2月24日、土曜日、午後3時ごろのことである。
 片付けをしていた母親の雪子が受話器をとった。
 「モシモシ、戸塚ヨットスクールですが、」
 コーチらしい男の声が心なしか沈んでいた。
 雪子は胸騒ぎをおぼえた。
 「子供さんが重体なので、すぐ来ていただけませんか……」
 「重体って、あの、どうして……」
 雪子はそのあと、何をいったのかよく覚えていない。
 利次がヨットスクールに入校してから2週間たっていた。

 最初の予定は5泊6日ということだった。2月16日には帰宅のはずである。
 ところが、1日前の15日、ヨットスクールから電話があって、
「利次の回復が思わしくないので、他の何人かの生徒とともに訓練期間を延長することになった。19日には帰れると思うので、午後6時に、集合場所だった名古屋駅まで迎えにくるように」
とのことであった。
 それから2日後の17日、またヨットスクールから電話がかかり、利次の回復状態が依然として思わしくないので、訓練期間をさらに延長せざるを得ないという連絡が入った。
 帰宅の日がいつになるかも、見当がつけられないということであった。
 両親としては、5泊6日の短い期間で治る所と聞いて子供を預けていたので、訓練期間がずるずる延長され、子供の帰宅が遅れていることに不安を感じていた。
 しかし、まだ治っていないという報告である以上、辛抱をして待つより仕方がない。
 こうして、両親が不安な気持ちで利次の帰宅の日を待ちわびているところへ「重体」の連絡が入ったのである。

 雪子は、信じられないような気持ちだった。
 夫の靖夫はまだ勤めの時間である。
 雪子は会社へ電話をかけ、夫に利次が重体だと連絡があったことを伝えて、すぐ現地へ行ってくれるように頼んだ。
 雪子自身もすぐに飛んで行きたかった。
 しかし、自閉症の長男の世話をしなくてはならず、手を放せない状態にあった。
 靖夫は会社からいったん帰宅して、ヨットスクールまで出向くことになった。
 家を出る前、念のため利次のその後の容体を聞いておこうと、靖夫はヨットスクールに電話を入れた。
 「亡くなられました……」
 受話器の向こうの声が響いてきた。
 父親の桐山靖夫はすぐ親戚へ連絡をとり、身内の者3人で大阪を出発、愛知県へ向かった。
 利次の遺体は半田警察署に置かれているとのことであった。

 半田警察署に着くと、ヨットスクールからコーチが1人、来ていた。
 「どうして、利次は死んだのですか」
 桐山の一族はコーチに尋ねた。
 コーチは、目下、警察で取り調べが行われており、自分では事情がよくわからない、と答えた。
 父親たちはコーチの口ぶりから水死でないらしいことは想像できたが、詳しい説明がヨットスクール側の関係者から行われないまま、悲しみと、いらだちのなかで時間を過ごしていた。
 校長の戸塚宏の姿がない。
 所在を尋ねると、目下、九州を旅行中であり、急ぎ、こちらに向かつているところだとの説明だった。

 父親たち3人は利次の遺体と対面した。
 利次の遺体の顔は、目と口のまわりが殴られた跡のように黒くはれ上がり、目の下に傷跡、口のまわりには血がついているように、遺族には思われた。
 父親たち3人は、ヨットスクールの用意した半田市内の宿で一夜を明かした。
 九州に出張していたという校長の戸塚が、女性コーチを伴って現れたのは翌日の夕方7時ごろであった。
 九州に行っていたうえ、新聞記者に追いかけられたこともあり、時間がかかって遅くなった。
 「利次の死は、訓練中の事故死ではなく、病死である。責任問題についてはよくわからないが、出来るだけのことはさせてもらう」――といった意味のことを戸塚は遺族に話した。
 父親たちが戸塚に怒りをおぼえたのは、彼がそれを立ったままで話したことである。
 たとえ天災地変で死亡したとしても、預かっている間の出来事に対しては責任者として、両手をついて、心から申しわけなかった、と詫びてもらいたかった――と遺族は語る。
 遅れてきたうえに、冷静な態度だったということが、悲しみに沈んでいる遺族の神経をさかなでした。

 半田市内の海蔵寺で仮通夜が行われた夜、父親の桐山靖夫は供えられている酒をがぶ飲みして、荒れた。
 堺市の自宅で行われた葬儀には、ヨットスクールから女性コーチが1人だけ参列、香典10万円が戸塚から送られてきた。
 「あの時、戸塚さんの態度が違っていたら、少なくとも損害賠償請求の民事訴訟を起こす気にはならなかったでしょう」
と、遺族たちは語っている。


 「モシモシ、桐山さんのお宅でしょうか。このたびのお子さんのご不幸、なんとお慰め申してよろしいやら……」
 根津正穂と名乗る人物から桐山の家へ、くやみの電話がかかってきたのは、利次が亡くなってから間もなくのことである。
 「実は、私の息子も、お宅の子供さんと同じ時期に戸塚ヨットスクールへ行っておりまして」

 根津は大阪市西区で小さな鉄工所を営んでいる。
 彼の長男公男は中学1年の半ばごろ、
「友達にいじめられる」
と言って学校を休んだのをきっかけに、登校拒否を起こしていた。
 市の教育相談所や大学の神経科へ通ったが、登校拒否は治らなかった。
 そのころ、妻の姉がたまたまテレビで戸塚ヨットスクールの番組を見た。効果があるらしい、と姉から妻に連絡があり、2人でパンフレットを取り寄せて検討したうえで、長男を入校させた。
 夫はあまり賛成ではなかったのだが、妻たちの意見に従った。
 ところが、約1週間の訓練を終えて帰宅した長男は顔がはれあがり、体中アザだらけ。あちこちに傷を負って、骨の痛みを訴え、恐怖に震えていた。
 しかも、登校拒否は治っていない。
 「ひどい所だ!」
と、根津正穂は怒り、
「だから、言わんこっちゃない」
と、妻にも苦情を言っていた。

 そこへ、桐山利次死亡のニュースが伝えられた。
 「お父ちゃん、1人だけ残されて、ごつういじめられとった子がおったけど、きっとこの子に間違いない」
 長男の公男は、新聞に載った利次の写真を見ながら父親に言った。
 根津は息子の話を聞いてすぐ桐山の家へ電話をかけ、息子のいったとおり、それが利次であることを確認した。
 「遺体のひどい傷を見て、子供は殴り殺されたんではないやろかと思っとるところでした」
と、利次の親は言った。
 「子供さんをそんなひどい目に遭わされて黙っていることはない。ウチの息子が証人になります」
 根津は協力を約した。
 桐山と根津の家族が集まった。根津の長男公男が合宿訓練中にヨットスクールで体験した事、見聞した事を語り、それをもとに両家族は対策を協議し、それぞれ知り合いの弁護士と相談した。
 そして、桐山が刑事、民事の双方、根津が刑事事件で、それぞれ戸塚宏とコーチたちに対して訴えを起こした。


 前川哲治は死亡した桐山利次の叔父である。
 京都大学卒業、同大学院で心理学を専攻後、法務省に入り、刑務所、少年鑑別所で受刑者や非行少年たちの矯正に当たる仕事に長年にわたってたずさわり、その後は関西大学に移って、学生相談室でカウンセリングの仕事を続けてきた。
 前川は、そうした体験を通じて、犯罪や非行は"心の病"という側面を持っていると考えるようになった。
 凶悪な犯罪者だった男が、前川の懇々と説く話に耳を傾けていて、ある瞬間から、悟りを開いたかのように、立派な人間として生まれ変わっていく。
 「なんで、こんなことがわからなかったのか」「なんてパカなことをしていたのか」「なんと無駄な人生を生きてきたのか」
 生まれ変わった犯罪者たちは異口同音のように、そういう。
 そんな時、前川は、
 「あっ、この人は今やっと、本当の自分と出会ったのだ」
と思う。
 情緒障害児の矯正に当たっている戸塚宏が、
「あっ、今だ!」
と感じる瞬間があると、悟ったのと同じことなのかもしれない。

 「本当の自分と出会う」
 抽象的であり、宗教的ひびきを持った言葉である。どういう状態を指すのか、具体的に説明せよといわれても困難である。
 「あっ、今だ」と感じる瞬間の状態についてもまた、同じであろう。
 前川が心理学を選んだのは、心の問題に非常な関心を抱いていたからである。自分が弱い人間だ、と思っていたからかもしれない。幸せって何だろう。心の平和、「思う」ということ、「心」とは何なのか……そんなことばかり考えていた。
 禅の修行にも通い、次から次へと宗教の門をたたいた。
 そんな時、前川は木村裕昭という医師に出会った。
 前川は長い間、胃潰瘍に悩まされ、さまざま療法を試みてきたが、自分の病気に対する治療は薬や注射のような西洋医学的アプローチではないのではないか、と思い始めていたころである。

 京都に生まれた木村裕昭の家系は代々、医者で、彼はその4代目。父は京都大学名誉教授、学士院会員という名門の出である。
 そのままゆけば、彼もまた名誉と権威に恵まれた医師の階段を上るところだったのだろうが、京都大学医学部の時、学生運動で勇名をとどろかせ、放校になってしまった。
 だが、そのことが木村に新しい目を見開かせるきっかけを与えた。
 京都大学医学部を学生運動で放校になった木村裕昭は山口医大に入りなおし、卒業後、京都に帰って京都府立医大に勤め、さらに大阪千北病院長になった。
 医学生時代、および医者としての長い治療経験をとおして、木村は、病気の中には薬と注射の西洋医学的アプローチでは治し得ない、心因性の病気がかなりあるのではないかと疑問を抱き続け、かつ、そうであることを発見した。
 そして、約8年前に一般の病院を辞め、心の治療をもっと重視し、心身一如の治療を目的とした独白の治療機関を設立し、現在では京都府郊外で治療に当たっている。

 前川哲治は、この木村医師の考え方に深く共鳴し、その門下生にしてもらった。
 以来、前川は木村のもとで手伝いながら、木村独特の哲学とその治療方法を学んでいる。
 甥の桐山利次が登校拒否症にかかっていると知った時、前川は、両親から相談があれば、利次を自分の尊敬する木村医師の所で治療を受けさせてやりたいと考えていた。
 だが、両親から「頼む」という話はなかなかこなかった。
 自分の子供が登校拒否や家庭内暴力であることを明かしたり、いろいろ相談することは、たとえ相手が親や兄弟であっても、はばかられるという人たちが多い。
 何か事が起こると、親兄弟がいながら、なぜ、あるいは、親兄弟でありながら知らなかったとは――と他人は批判しがちなのだが、戸塚ヨットスクールや『角屋』旅館の前まで来ながら、相談しようか、しまいか迷って、前を行ったり来たりしている親たちが何組もあるほど、他人には打ち明けづらいことなのである。

 利次の両親の気持ちを推し量って、前川はあえて発言するのを控えていた。
 だが、利次は前川の知らない間に、戸塚ヨットスクールへ送り込まれていた。
 「短期間で効果の上がる、いい所があるというので、そこへ入れることにした」
と、両親はいった。
 短期間で効果が上がる、というところに両親は惹かれたのだろう。前川にも、彼らのあせる気持ちは痛いほどよくわかった。
 長男は重症の自閉症児、知恵遅れである。将来の望みは、どうしても利次に託されていた。
 その利次が高校にも入らないうちに、登校拒否になってしまった。中学にもまともに行っていない子供が、この激しい学歴社会の中で、将来、どうやって生活していけるというのか。
 だが、と前川は深い自責の念にかられている。利次は木村医師に預けろと、自分はなぜ、一歩、踏み出さなかったのか――。
 利次は、死んでしまったのである。

 前川哲治が自分なりのやり方で情緒障害児を治してみたい、と考えたのは桐山利次の遺体を見、戸塚宏と言葉を交わした直後のことだった。
 アザと傷のついた利次の遺体と対面した時、いいようのない怒りにとらわれると同時に、患者たちの心を忍耐強く解きほぐしながら、いやしていく木村医師の婆を思い起こしていた。
 殴ったり、蹴ったり、恐怖を与えなくとも、環境を変えることによって、情緒障害は治るはずだ、と前川は思った。
 前川がその気持ちをさらに強くしたのは、戸塚と言葉を交わした時である。
 「戸塚は1つの生命の死を前にして平然としているかのようであった。多くの子供たちを助ける過程で生命力のない者が1人や2人死ぬことはやむを得ないと、この人は考えているのかもしれない」――身内を失った怒りのせいかもしれないが、前川にはそう思えるような戸塚の態度だった。

 「ぜひ、私たちをお願いします」
といったのは、桐山利次と同じ時期に戸塚ヨットスクールへ入っていた根津公男の父親、正穂である。
 彼もまた、息子がアザと傷を受け、恐怖にびくつきながら、それでいて登校拒否が治らなかったことに対して、戸塚に怒っていたのである。
 息子と同じ時期にヨットスクールへ行っていたはずの利次の死を知って桐山の家へ電話をして以来、根津は前川と情緒障害児の治療について、何度も話し合っていたのである。

 子供を鍛える戸塚に対して、前川は親が変われば子供の登校拒否は治る、という考え方。つまり、一般のカウンセリングと同じ考え方に立っている。
 前川は木村医師のアドバイスを受けながら、根津夫婦に対して、夫には放任主義を、妻には過干渉を改め、家族で団欒の時を持つようにねばり強くカウンセリングを続け、根津夫妻も、桐山利次の事故から受けたショックや、そこへ自分たちが子供を送り込んでいたという反省もあって、前川のアドバイスに対して虚心に耳を傾け、忍耐強くカウンセリングを受けて、自己変革に努めた。
 息子の登校拒否の状態は、中学2年、3年の間はほとんど変化を見せなかった。
 しかし、高校進学が迫っても根津夫妻が前川のアドバイスを受けて、他の親のようにうるさく口をさしはさむことを控え、心配しながらも黙って耐えていた。すると息子は、先生と相談して自分で高校を選び、受験した。そして、高校に入ってからは、ふつうに学校へ行くようになった。
 子供がふつうに学校へ通うようになったという根津夫妻の話を、前川哲治は胸を締めつけられるような、うれしい思いで聞いていた。
 「おかげで、私も子供とよく話をするようになりましたし、家の中が明るくなりました」
と、根津はいった。

 前川は、太陽が冷たい風に勝って、マントを脱がせることができたというあの童話を思い起こし、亡くなった甥桐山利次へのせめてものはなむけにすることができれば、と思った。
 これをきっかけに、前川哲治は"心の病"に悩んでいる人々の相談に乗る仕事を、自分なりに始めてみようと思いたった。
 木村裕昭医師に相談すると、
「やってみてはどうか」
という勧めであった。
 調べてみると、京都、大阪の近辺では、マンモス団地をかかえた新興住宅地のある豊中市の人々が教育熱心であり、同時に受験戦争のひずみによる情緒障害児たちが、増えている地域であることがわかった。
 前川は自分も住まいを豊中に移し、
「心の健康相談 CCC創造的カウンセリングセンター」
の看板を掲げた。
 彼はいま、木村医師のもとで手伝いと勉強を続けながら、自分でもカウンセリングをしている。

 経済至上主義、物質偏重、金力崇拝、学歴、偏差値信仰……豊かな社会が病み、その病んだ社会と家庭から登校拒否、家庭内暴力、非行等が生まれて社会は危険な方向に向かいつつある。
 前川は"心の病"を持つ人々のカウンセリングを通じて、社会と時代に対する危機感をますます強く抱くようになった。
 皮肉なことに、その危機感は、戸塚宏が情緒障害児たちの矯正、治療を通して抱くに至った危機感と全く同質のものである。
 「なんとかしなくてはいけない」
と、前川も戸塚と同じようなことをいった。
 にもかかわらず「なんとかする」ための方法論において、戸塚と前川は真っ向から対立している。
 環境を変えれば子供は治るという前川。環境は変わらないから子供を変えるのだという戸塚。
 体罰を否定する前川と、しごきが子供を鍛えるのだという戸塚。
 桐山利次という少年の死をはさんで、2人の男がそれぞれ全く対照的なやり方で、情緒障害児を治そうと試みているのだが、前川が、戸塚ヨットスクールへ来ているような重症の情緒障害児に直面した時、はたしてどのようにして治すことができるのか、前川を合め「やさしさ」で治そうとする人々に課せられた大きな課題であろう。

*        *

 高松雄吉が死亡したという連絡が枚方市に住む両親のもとへ戸塚ヨットスクールから入ったのは、日付けが55年11月3日から4日に変わったばかりの真夜中であった。
 桐山利次が死亡した翌年のこと。利次に次いで、戸塚ヨットスクールでは2度目の死亡事故である。
 桐山利次が中学1年生だったのに対して、高松雄吉はこの時、21歳。
 中学時代に始まった登校拒否が高じて、高校卒業後、大学入試に3度失敗、浪人中ということであった。
 雄吉の父、高松弘はすぐ、妻の実弟で、東大阪市に住む中井昌弘に息子の死を電話で知らせた。
 「そら、えらいこっちゃ、すぐ行くからね」
 寝入りばなに電話を受けた中井はびっくりして答えたのだが、その時点で中井は雄吉がてっきり、交通事故かなにかで死亡したものとばかり思っていた。

 中井が戸塚ヨットスクールという名前を知り、雄吉がそこへ行っているうちに死亡したのだということを知ったのは、朝一番の新幹線で、京都から名古屋に向かう途中、雄吉の父、高松弘に事情を打ち明けられてからのことだった。
 中井はそれまで、実の姉の子供が登校拒否になっていたことも、登校拒否を治すために戸塚ヨットスクールへ入っていたことも全く知らされていなかった。
 子供が登校拒否や家庭内暴力であることを、親は兄弟や親類にさえ隠すケースが多いのだが、高松雄吉の親の場合も、弟の中井に何もいっていなかったのである。
 中井は伝法な感じの、あけっぴろげな男である。
 幼いころの雄吉は、
「おじちゃん、おじちゃん」
と、よくなついてきていたので、そういう事情を知っていれば、せめて話相手になって、重苦しい気持ちを、ほぐしてやるくらいのことはできたのではないかと、今にして思えば心残りである。しかし、そのころは、大きくなって姿を見せなくなった雄吉のことを、どこかへ就職して忙しいのだろうくらいにしか、思っていなかったのだという。
 ともかく、雄吉が登校拒否だったこと、それを治すために戸塚ヨットスクールという所へ行っていたということは父親から聞かされたのだが、雄吉の登校拒否の中身がどんなものなのか、戸塚ヨットスクールがどんなことをしている所なのか、中井はほとんど知識のないまま雄吉の父に同道して現地に到着した。
 そして、雄吉の遺体と対面して、中井はいいようのない感情にとらわれてしまった。

 雄吉の遺体は、半田警察署に棺に入れて置かれていた。
 父親の高松弘と叔父の中井昌弘は署員の案内で雄吉の遺体と対面した。
 中井によると、両目のまわり、口のまわり、胸、腹などが紫色にはれあがり、所々、傷がついて血のにじんだ跡があった。
 家を出る時、長髪だった頭は丸坊主にされていた。
 「これはひどい仕打ちを受けたに相違ない」
 「死因は殴られたことにあるのではなかろうか」
と、彼らも感じた。
 桐山利次の家族が、遺体と対面した時に抱いた印象と同じである。
 雄吉の変わり果てた姿に、中井は怒りを覚え、父親はよろよろと倒れそうになって、中井に支えられた。

 半田警察署は父親に司法解剖の許可を求め、父親はそれを認めた。
 司法解剖が終わるとすぐ、父親たちは遺体とともに枚方の家へ向かった。
 遺族は警察に死因を尋ねたが、その時点では解剖の結果がまだ出ていないので、ということだった。
 中井昌弘によると、彼らは戸塚に対して、雄吉がどのようにして死に至ったのかと尋ねたが、戸塚は警察の取り調べが始まっているので自分たちの口からはいうことができない、警察の方で聞いていただきたい、という答えだった。
 「挨拶、謝罪、いっさいなしだった」
と、中井は怒っている。

 それから間もなく、雄吉の父、高松弘が病に倒れた。
 近くの医者に診てもらうと、心労が重なったためでしょうということだったが、念のため大きな病院へ連れて行くと、入院が必要ということであった。
 やがて"盲腸の手術"が行われ、それからややあって妻のちよ子と中井が呼ばれ「肋膜の中にガンが出来ている」と告げられた。
 56年2月、雄吉が死亡してから3カ月目に、父親の高松弘も後を追うように他界した。
 妻のちよ子は、息子と夫を相次いで失い、
「戸塚ヨットスクールのことは名前を聞くのもいやだ」
と、頑として口を開かない。
 中井は、
「あんな所の存在を許しておいていいのか。戸塚は殺したいくらい憎い!」
と、いまも怒りにふるえている。
 高松の遺族も戸塚たちを相手どって刑事、民事双方の訴えを起こしている。  その後、桐山利次の父親も重なる心労から神経科で治療を受けていることが明らかになった。

*        *

 現在、3組の家族が、戸塚ヨットスクールを相手どって訴えを起こしている。
 いずれも結論がまだ出ておらず、係争中なので、家族側の訴え、ヨットスクール側の反論を併記し、補足説明の必要なものに関しては、若干の説明を加える。

 最初に死亡した桐山利次の父親桐山靖夫と母親雪子は、戸塚宏とコーチたちを「業務上過失致死または重過失致死」罪で罰することを求めて、名古屋地検と半田警察署に54年3月23日、刑事告訴を起こした。
 桐山靖夫、雪子の両親はこれと併行して戸塚宏に対し、合計2,602万円にのぼる損害賠償を支払うよう求めた民事訴訟を、54年4月27日付で大阪地裁へ起こしている。
 桐山の訴えに関する現在までの経過は次のとおりである。

 刑事告訴について。
 半田警察署による取り調べ、捜査は終了し、同署から名古屋地検へ書類送検された。
 名古屋地検ではこの書類をもとに検事による関係者の取調べ、捜査を行ったが、事故から2年9カ月を経た56年11月30日現在、同地検からは起訴、不起訴いずれの結論も出されていない。

 民事訴訟について。
 利次の死因は司法解剖の結果「十二指腸潰瘍穿孔(せんこう)による化膿性腹膜炎」だといわれてはいるが、公式な死亡所見(鑑定書)は、刑事事件に関する証拠書類として裁判所に提出されるまで公にされない。
 死因を公式に認定することができなければ、死亡に関する責任の所在を明らかにすることができず、したがって、損害賠償支払い義務の有無についても判断を下すことができない。
 刑事事件の進行がストップしていることによって、民事訴訟も審理が止まっているというのが現状である。
 死亡事故から2年9カ月を経過して、名古屋地検が依然として、起訴、不起訴の判断を下していないところに、この問題の持つむずかしさと、社会問題としての重要性があるように思われる。