事故の波紋と苦悩する戸塚宏
「ボクは、この仕事、やめようと、思うんです」
戸塚宏は、言葉を一つ一つ選ぶようにしながら、沈痛な面持ちで、いった。
山本秀師、今井安栄、加藤豊の3人は、痛ましい思いで戸塚の言葉を聞いた。
「これまで随分、いいことをして、感謝もされているのに……」
3人はほぼ同時に、ためいきをついて、顔を見合わせた。
彼らは弁護士である。
死亡事故に関して戸塚の弁護を担当することになっているのだが、3人と戸塚の関係は単に弁護士と依頼人という以上に、友人であり、海の仲間である。
最初、山本と戸塚が知り合い、それに加藤と、さらに今井が加わった。ヨットでは戸塚が3人の先生という関係にある。
弁護士をしている3人は、多忙な仕事のあい間をぬって、河和の合宿所へやってきた。
そして、情緒障害の子供たちと一緒にヨットの練習をしながら、子供たちの受ける訓練の模様と、快方に向かって行く変化の状態を、つぶさに観察していた。
「われわれの子供だって、ああいうふうにならんという保証はないな」
3人は、次々とヨットスクールへ入校してくる情緒障害児たちの姿を見、その子供たちが、ごくふつうの家庭で、ある日、突然に発生するのだという事情を知るにつれて、河和から帰る電車に揺られながら、暗たんとした気持ちにとらわれるのだった。
3人は、何度もヨットスクールへ足を運んだ。子供がいやがるのを無理矢理、厳しいしごきを受けさせられ悲鳴をあげている状態から、明るく素直な子供に変わっていく婆に接して、魔術を見ているような不思議な感慨と魅力にとりつかれていった。
しかし戸塚は、子供たちがなぜ、どのようにして変わるかについて理論的説明をあまり加えようとしなかった。
「理屈で子供が治るなら、苦労はしない」
戸塚が吐いて捨てるようにいったのが、3人には気がかりであった。
「ボクは素人だから、専門の学者たちに、観察をして、理論化してみていただけないかと頼みに行った。ところが彼らは、ボクのやり方で治るということを信じないばかりか、現場を見にくることもしないで"オカルト療法だ"といいやがった」
戸塚がそういったのは、かなりたってからのことである。
「カウンセラーや専門家といわれる人たちは、
"親の育て方が悪かったのだから、親や環境が変わらなければ子供は治らない"
という。そして、
"10年かかってこうなったのだから、治るのにも10年かかる。あせらずに……"
というようなことをいうんだ。
高熱を出して死にかかっている病人に対して"養生が悪かったからだ"と指摘することがどれほどの意味を持つんだろうか――」
3人は戸塚の説明を聞いてやっと、彼の、理論に対する敵意のような気持ちを理解した。
「しかし、なんとか体系化できんたろうか……」
そんなことを話し合っている矢先の、死亡事故だった。
戸塚宏は、他人に対して絶対に弱音を吐かない男である。
死亡事故に関する刑事事件で書類送検されたという記事が新聞にデカデカと出た時にも、親しい人が、
「先生、大変だねえ」
と励ましの言葉をかけたところ、戸塚はニコリともせず、
「宣伝になって、結構な話だ!」
と、突っ張った。
「ご心配をかけて、どうも……」
といった言い方ができない性質なのである。
死亡事故の時にも、戸塚はまるで何事もなかったかのように、顔色ひとつ変えず、背筋をピンと伸ばして、街を闊歩しているかに見えた。
そういう彼の態度は、見る人の立場によって、全く正反対の2つの印象を与えていた。
戸塚をよく理解し、彼の仕事の困難さと意義を認識、評価している数少ない人々は、泣きごとも、弁解がましいことも言わず、毅然として男らしい態度であると感嘆し、そういう態度でいられるのは、彼が最大限の努力を尽くしてもなお起こってしまった不可抗力の事故に違いないと、戸塚に同情した。
しかし、圧倒的多数の第三者は戸塚の態度を、傲慢不遜(ごうまんふそん)であると非難し、暴力教室、人殺しと口をきわめてののしる者も少なくなかった。
「態度が無礼だ」
と怒った、死亡者の遺族たちはその典型である。
そうした非難があることを十分承知のうえで、なお、頑強に態度を変えないようなところが、戸塚にはある。
その彼が、ヨットスクールの仕事をやめると言いだした。
「余程、こたえているのだな」
海の仲間であり、弁護士でもある3人は戸塚の沈痛な表情に接して、何と励ませぱよいのか、しばし言葉も見つからなかった。
事故の夜、心配して合宿所へ駆けつけた水谷巍(たかし)に対して、戸塚は「参りました……」と、率直に真情を吐露した。
水谷は、名古屋の女子名門校の1つといわれる「淑徳学園」の教師・カウンセラーである。
教師やカウンセラーには戸塚のやり方に対して批判的な人が圧倒的に多い。
その中で水谷は戸塚ヨットスクールに早くから刮目(かつもく)して自ら体験入校し「淑徳学園」の子女の指導に戸塚の教育方法のいくつかを採り入れている貴重な存在であった。
水谷は戸塚にとって、名古屋大学の先輩に当たってもいた。
戸塚は、外部に対しては傲然とした態度をとり続けながら、信頼するごく一部の人びとには、真情を吐露していた。
戸塚ヨットスクールは、死亡事故の発生によって厳しい立場に立っていた。
夜中に、電話がリーン、と鳴る。
受話器をとると、
「人殺しッ!」
といって、電話が切れる。
毎日のように、それが続いた。
「ろくでなし」「人でなし」「暴力団」「ヤクザ」「犬畜生」「子供を返せ」「やめてしまえ」「死んでしまえ」「死んで詫びろ」……悪口雑言の限りが投げつけられた。
電話をとったコーチたちは神経が参ってしまい、リーンと電話のベルが鳴ると、ハッと息が止まる思いがした。
警察からは連日、呼び出しがかかって、厳しい取り調べが行われる。
「殴って、殺したろうがァ、どうだ、エエッ!」
ドーン、と握りこぶしで机をたたく――。
何時間も、延々と続く取り調べが終わり、ホッとして合宿所に帰ると、リーン、と電話のベル。
「このォ、人殺しめがァ……お前たちみたいなヤツは、死んじまえッ!」ガチャン。
それまで戸塚は講演に引っぱりだこだった。
太平洋横断ヨットレース優勝!
情緒障害児の回復に成功!
注目のヨット教育!
学校、PTA、企業、青年会議所、ロータリークラブ、ライオンズクラブ……。
「ご多忙とは存じますが、戸塚先生の貴重なご体験をぜひ、うかがわせていただきたいと思いまして……」
九州、そして北海道。戸塚は席のあたたまる暇もないほど忙しく、全国を駆けめぐっていた。
その申し込みが、見事なまでにピタリ、と止まり、すでに日程が組まれていた分についてもキャンセルが相次いだ。
そして、肝心の入校申し込みもピタッと、止まってしまった。
すでに入校して訓練を受けている子供についても、心配した親たちが血相を変えて駆けつけてきた。
「やはり、子供は連れて帰ります」
戸塚たちがどれだけ説明し、説得しても、納得しない親が何組もあった。
「私は、以前からそう思っていたのだが、これはやはり、起こるべくして起こった事故、といえるのではないだろうか……」
教育評論家、心理学者といわれる人たちが、したり顔で語っている。
有為転変の人の世を、戸塚たちは身にしみて感じさせられていた。
「戸塚さん、あなたたちの責任じゃないよ」
と、山本秀師がいった。
「コーチの皆さんから、いろいろ話を聞いてみたけれども、不可抗力だな、これは」
「問題はね」
と、いったのは加藤豊である。
「200人近い生徒が全員、なんともなく、そのほとんどが情緒障害から回復しているのに、2人だけが死亡しているというところにあるのじゃないだろうか」
「体育の時間に行われたマラソン中、生徒が心臓マヒで倒れた。先生は罪に問われるだろうか。1人の生徒が心臓マヒで死亡したことによって、マラソンは、体育は、間違っていたということになるかね」
これは今井安栄の見解である。
「最初の桐山利次ね。あの子は全くの健康体だと親が保証し、それを証明する医師の診断書が添えられていた。
ところが、あとで調べてみると、兄が重症の知恵遅れ、自閉症で、その兄のために医者からもらった強い精神安定剤を弟も服用し、その結果、利次は異常に肥満し、内臓が衰弱していたことがわかってきた。
2番目の高松雄吉だが、この青年は高校時代から精神病のような症状を呈していたことを親が隠していたうえ、5年近くも部屋に閉じこもりきりで、まるで夜行人間のように太陽に当たると、すうっと消えるように倒れてしまうくらい、体力が衰弱しきっていた。
その他、2人についてはいろいろなことがわかってきているが、要するに、ヨットスクールへ入校するまでの長年にわたる親自身の責任を不問に付したままで、ヨットスクールに全責任を負わせようとする親の態度は、百歩譲っても、フェアだとはいいがたい」
と、今井はいった。
山本、加藤の両弁護士もうなずいて、今井の見解に同意した。
ありがたい、と戸塚は心の中でヨット仲間たちに感謝していた。
自分だって、方法論に誤りがあったとは少しも思ってはいない。裁判になって、具体的事実と経緯が一つ一つ明らかにされていけば、コーチたちの指導が誤っていなかったことが証明されるだろうという自信はある。
だから戸塚は袋だたきを覚悟のうえで、
「私のやり方は間違っていない」
と、記者会見でいい切ったのだった。
だが、事故原因の究明は究明として、自分の管理下にあるヨットスクールで死亡事故が2件続いて起こったという事実は、別の重みをもって戸塚に迫っていた。
* *
「ちょっと、困ったことになりましたなあ、先生」
愛知県知多郡美浜町の町長橋本喜久雄が医師の辻顕吉に話しかけた。
辻は、教育委員長を13、4年もつとめる、この町の名士である。
「ああいう問題を起こすようなところを、美浜町に置いておいていいのか、という声が、まあ、あからさまにではないが、私の耳にもちょくちょく入ってくるもんだから……」
辻の横には町議会副議長を長年つとめる岩本鋼一がすわっていた。岩本は旅館『角屋』の主人である。
「ヨットスクールが使っている建物は河和区のものだから、ああいうところへ区の建物を貸しているのは問題ではないかといってくる議員が、いないわけではない」
と、岩本もいった。
「この町の子供たちがヨットスクールへやっかいになり、治してもらったというような恩恵を受けたわけではないから、町の人たちにとっては親しみが薄いということもありますしねえ」
と、辻がいった。
ヨットスクールで起きた死亡事故の善後策について、3人は話し合っているのである。
数年前、河和の港でヨットスクールを開きたいという戸塚宏の申し入れを受け入れて、その開設のために支援と尽力を惜しまなかった中心人物も、この3人であった。
「先生、ヨットスクールの件については、どう思われますかな」
と、橋本町長は辻医師に尋ねた。
「私は、戸塚さんが依然として立派な方であり、立派な仕事をしておられるという考えに変わりはありません。
亡くなられた子供さんは大変お気の毒ではあったと思うのですが、しかし、事情をよくうかがうと、ヨットスクールへ来ないで家にいたとしても、いずれ人生の敗北者になっていたと思われる。
不運な死を問題にするあまり、助かるはずの数多くの子供とその親たちの人生を犠牲にしてしまうとしたら、その方がはるかに罪が大きいのではないだろうか……」
町長は目を閉じて、うなずきながら辻医師の話に耳を傾けていた。
「角屋さんのお考えは」
と、町長は岩本の方を見た。
「私も、辻先生のお考えに全く賛成だ」
と、岩本がいった。
「戸塚さんがヨットスクールを開きたいと申し入れてきた時、私はヨットスクールが将来、必ず美浜町に貢献するような存在になるという信念のもとに、受け容れに賛成し、及ばずながら微力を尽してきた。その考えは、今も変わっていません」
「いや、お2人にそういっていただくと、ありがたい」
と、町長はいった。
「やがて福祉大学と高校が名古屋から移転して来るし、美浜町は教育の町として育っていきますぞォ。これからは教育が再び見直される時代になりましょうしねえ。
ヨットスクールへの批判の声に対しては、われわれで極力、説得につとめることにしましょうや」
町長の言葉を最後に、3人は立ち上がった。
「オイ、ヨットの連中は、風呂へ来とるか」
岩本鋼一は『角屋』へ帰ると、妻の菊枝に尋ねた。
「そういえば、姿を見とらん。遠慮しとるのかもしれんねえ」
と、女将。
「遠慮せんて、入りに来るよう電話してあげなさい」
気の早い女将はすぐにダイヤルを回し始める。
「それから、節子」
と、鋼一は娘にいった。
「今晩はなにか差し入れをしてあげなさい。みんな、しょげかえって、腹をすかしているといかん。そうだ、お前が得意のハンバーグがいい。デッカイやつを、寒いから、あったかくして持ってってあげよう……」
* *
「イヤァー、戸塚先生、久しぶりですなあ……」
合宿所に突如、大きなダミ声が響きわたったかと思うと、威勢のいい中年の男が手を高々と挙げて飛び込んできた。
明子の父親原三郎である。
「長崎からわざわざ……」
と、戸塚。
「仕事が一段落したもんじゃけん、すぐと飛行機に飛び乗って、駆けつけてきたとです。アッコと家内からも、先生やコーチの皆さんにくれぐれも、よろしく申し上げてくれろということですたい。
ハイ、これが松翁軒のカステラ。ここが本当の元祖で、長崎でしか買えんですもんね。
そして、これが雲龍のぎょうざ。覚えとられますか、思案橋の裏の、きったない店。うまかったとでしょうがァ……」
明子の父親はもともと元気のいい人だが、この日はとりわけ陽気に振るまおうとしているようであった。
「明子さん、元気にやってますか」
と、戸塚が尋ねた。
1万円札を燃やした、あの女の子である。
「元気どころか、先生、1人で店ば切り回しとります。このあいだは、明子ば嫁にくれんかという話がきましてなァ」
父親は嬉しそうであった。
「嫁ンことといえば、私ンとこの前の娘が結婚ばしたとですが、その相手が共同通信社の記者ですたい。
私が戸塚先生のヨットスクールを知ったのは長崎新聞に載った共同通信の記事でした。あの記事がなかったら、私の一家は確実に、心中ばしとったとです。ですけん、共同通信社は私たち一家の命の恩人じゃ――結婚式のスピーチで、私はそういう話ばしたとですよ」
威勢のいい明子の父親がちょっとしんみりとした口調になった。が、またすぐ、元に戻った。
「先生に今日は、無理をお願いに来たとです。長崎の子供ば3人、入れてもらえる余裕があるとじゃろか。アッコの実例を見て、長崎では教育長以下、戸塚先生を大変評価しておる。しかし立場上、表立っていえんので、相談を受けるとすぐ、私ンところへ相談に行けという。おかげで私ン所は、戸塚ヨットスクールの長崎支所ですたい。ウァッハッハッハ」
ありがたい、と戸塚はこの父親の思いやりに心の中で感謝した。死亡事故のことは一言も口に出さずに、長崎からわざわざ励ましに出てきてくれたのである。
こういう人に出会う喜びがあるから、情緒障害児たちとのシシュフォスのように報われない闘いを、自分は続けてくることができたのだと、戸塚は思うのである。
* *
「戸塚さん、あなたやっぱり、この仕事やめちゃ、いけないよ」
3人が口ぐちにいった。
3人の弁護士と戸塚は、死亡事故と刑事告訴、民事訴訟にどう対処し、ヨットスクールをどうするかについてそれぞれの立場で調査検討し、何度も話し合いを重ねてきた。
今日はその、大詰めの話し合いの日であった。
「非難、批判、中傷の電話や手紙は当然、あるだろうさ」
と、山本がいった。
「しかし、あなたの奥さんに尋ねたら、子供を治してもらった親たちからの激励の電話や手紙も、事務所にはたくさんきているそうじゃないですか」
「戸塚さんが責任を人一倍感じる気持ちは、わかるけれどもね」
と、今井もいう。
「ヨットスクールをやめたからといって、責任をとったことにはならないと思いますよ」
今井は、さらに続けた。
「ボクはむしろ、1人でも多くの情緒障害児を立ち直らせる努力を、今後も続けることで責任をとるべきだと考えるんですがねえ」
「そうだ。ボクもそう思う」
といったのは加藤である。
「今までだって、ヨットスクールによって助けられた子供と家族の数の方が圧倒的に多いわけでしょう。戸塚さんがやめてしまったら、これからもずうっと先まで、助かるはずの、おびただしい数の子供とその家族とが救いの道を失ってしまうことになる。むしろ、その方が、責任の放棄になるんじゃありませんか」
そして、3人が異口同音にいった。
「ここでやめてしまえば、やっぱり事故に対する責任があったのだという世間の非難を認めてしまうことになる。亡くなった子供たちの親御さんを相手に争うのは全く気の重い話だが、訴えられた以上、避けて通るわけにはいかなくなってしまった。あくまでも冷静、具体的に事実を明らかにして、戸塚さんたちの潔白を証明したい。
裁判のことは私たちにまかせて、戸塚さんたちは1人でも多くの子供を立ち直らせることに専心しなさいよ」
戸塚は、じっと目を閉じて、こもごもに語る3人の話に聞きいっていた。
見違えるように明るくなって、手を振りながら合宿所から帰って行った子供たち、これが同じ子供とは信じられませんと、涙を流して喜んだ親たちの顔が、いくつも浮かんできた。