"神様"と"劇薬"のあいだで……
毀誉褒貶(きよほうへん)あいなかばするという言葉がある。
何か事を興こそうとするような人物は、褒める人もあれば、批判をする人もある。平穏無事にはいかぬものだ、ということである。
ヨットの訓練によって、情緒障害を直すという全く独創的な治療方法を開拓した戸塚ヨットスクールは、まさに、そうであった。
戸塚の方法は、医療における劇薬に例えることができる。
劇薬は、生死の境にある重症患者を甦えらせる素晴らしい効用を持つと同時に、患者の体力がそれに耐えられない場合には死に至る危険をはらんでいる。
劇薬は、劇薬であるがゆえに、救世主の栄誉と、死と隣り合わせの宿命を、常に負っているのである。
死亡事故を境に、戸塚ヨットスクールは、ごうごうたる非難の矢面に立たされ、人殺しとまで口を極めてののしられた。
だが、一方では、戸塚たちによって家庭の崩壊と、一家心中の危機を救われた親たちから激励の電話や手紙が続々寄せられ、長崎から駆けつけた明子の父親のように、わざわざ合宿所を訪ねてくる人びともいた。死亡事故に関する警察の捜査に対して、告訴は不当であるとして証言を拒否した親たちもいた。そうした人びとは戸塚たちのことを「神様」だと言った。
劇薬だけに、評価もまた極端に分かれる。戸塚は「人殺し」と「神様」という対極の評価を同時に受けることになった。
まさに、毀誉褒貶(きよほうへん)あいなかばである。
そして、こうした厳しい試練の中から、戸塚ヨットスクールには新たな可能性の萌芽(ほうが)が生まれようとしていた。
明子の父が、3人の新しい情緒障害児たちを入校させてほしいという話を長崎からの手土産として戸塚たちの激励に合宿所を訪れたのと同じように、死亡事故と、それに対する世間の厳しい非難を承知のうえで、戸塚ヨットスクールへ、
「ぜひ、子供をお願いしたい」
と、申し込む親たちも、あとを絶ってはいなかった。
戸塚たちを非難する人々のなかで「当事者」は、死亡した2人の子供の親とその関係者だけである。それ以外の圧倒的多数は、情緒障害児を抱えて死ぬような苦しみをしたことのない「局外者」にすぎない。
ほどこすすべもなく悲惨な日々を過ごしている「当事者」たちは、戸塚たちの中の「神様」の部分に一縷(いちる)の望みを託そうとした。
その中に、東山洋一の両親がいた。
おなじみ、『角屋』旅館の大広間は、100人になんなんとする人いきれでむせかえっていた。
広大な畳の部屋に仕つらえられた何列もの座卓の上には、色とりどりの料理と飲み物がいっぱいに並べられ、談笑のざわめきが広がるなかで、来賓たちのあいさつが続いている。
教育委員長辻顕吉、美浜町議会議員富谷(ふかや)芳夫、河和中学校長日比千代久、河和小学校長田中満、町内会、隣組の代表等々。
町長の橋本喜久雄も所用が終わりしだい、駆けつけてくれることになっていた。
年の瀬を間近に控えた、戸塚ヨットスクールのパーティーである。
100人近い人びとの中には、ヨットスクールの子供たちの父兄も多数参加していた。
ふだんは、子供が厳しい訓練を受けている間、親は心配しながらも、戸塚の許可が出るまで面会も、電話をかけることも控えるようにといわれている。
この日だけは、そうした厳しさをしばし忘れて親子久しぶりの歓談に花が咲く。
つい1力月前まで母親の首を絞めていた家庭内暴力の子供も、ここでは、
「東京から来ている○○です」
と素直に自己紹介をする"ふつうの子"になっている。
親にしてみれば、安心して味わうことのできる、久しぶりの団欒の時であったに違いない。
パーティーの趣旨は、大要、3つあった。
第1は、神戸ポートピアを記念して催された太平洋単独横断ヨットレースに参加した加藤忠志、境野貢両コーチと東山洋一の無事帰還、歓迎。
第2は、山口孝道と旧姓山本伸子、境野貢と旧姓古閑千恵子2組のコーチたちの結婚披露。
第3は、戸塚ヨットスクールが今年1年を振り返り、来たるべき新しい年に向かって、情緒障害児を立ち直らせるためにさらなる努力をかたむける決意を新たにする。
そして、これらすべてを含めて年忘れの会とし、この1年間お世話になった美浜町の人びとに感謝する――という会である。
パーティーの司会はこの家の主人であり、美浜町議会副議長でもある岩本鋼一によって進められた。
校長の戸塚宏がヨットスクールを代表して、地元美浜町の人びとの温かい支援に感謝の言葉を述べたのに対し、教育委員長の辻顕吉は、
「教育の混乱の中で、戸塚ヨットスクールの果たす役割はますます、重い」
と、励ました。
そして、東山洋一が立った。
「ボクも、登校拒否の情緒障害児でした。ヨットスクールで一所懸命努力すれば、誰でもボクくらいには、なれます。みんなも、頑張って下さい」
東山洋一の挨拶は言葉少なく、控え目であった。
しかし、この18歳の青年の今日あるを知る者にとっては、さりげない彼の言葉の持つ意味は重い。
東山の家は神奈川県綾瀬市の新興住宅街にある。
洋一が登校拒否症にかかったのは県立座間高校に入学した直後の、1学期中間テストの直前、53年6月ごろであった。母親の博美が朝、起こしに行っても起きてこなかったのが、その始まりである。
その時は母親が「怠けるんじゃない!」と殴り、きつく、叱ったのがきいて、中間テストだけは受けた。しかし、その後再び登校拒否が始まり、そのまま、どんなに手を尽くしても学校には行こうとしなかった。
先生が心配してきてくれると、
「学校へ行きたいし、行かねばと思っているんです」
と、洋一はいう。
それじゃ、と朝迎えにきてくれると、頑として起きない。友達がきてくれても同じだった。
部屋に閉じこもり、昼夜逆転し、風呂に入らず、カーテンを引きちぎり、教科書を破り、親に当たり散らし……と、しだいに家庭内暴力に向かってエスカレートして行く。
若いころ、戦中戦後の混乱期で苦労した父親の晴利が、
「父さんたちは勉強がしたくてもできず、腹いっぱい食べたくても食べられなかったんだ!」
と、説得しても、きかない。
母親は横浜にある県立精神衛生センターへ毎週1回、8カ月にわたって通い、カウンセリングを受けた。
「なんでもお母さんが先回りしてやってあげるのを、やめなさい」
と、アドバイスを受けたが、時すでに遅しの感じである。
年を越した翌54年1月ごろ、高校の先生が教育の専門誌で見たのだが参考のために、といって教えてくれたのが戸塚ヨットスクールである。
両親はすぐ、ヨットスクールへ電話で問い合わせた。
「高校生では責任を負いかねる」
という返事だったが、ぜひに、と頼み込んで、入校を認めてもらった。
洋一は、ヨットはカッコいいから、やってみよう、くらいにしか思っていなかった。
では、出発、という矢先に、電話のベルが鳴った。
死亡事故発生のため、合宿は延期する、という連絡だった。
54年2月、最初の死亡事故の時である。
東山洋一の両親は、死亡事故の直後に、息子を入校させた。
不安がなかったといえば、うそになる。
しかし、
「1つの事故よりも、数多く治っているという可能性に賭けたかった。一縷(いちる)の望みでも、それにすがりたいというのが、ああいう状態にある親の真情ではないだろうか」
と、両親は語っている。
戸塚の目から見ると、入校してきた当時の洋一は、何をやらせても、ドジだった。ドジのうえに頑固であった。
他の子供たちが要領よくこなしてしまうことを、洋一はできない。こうして彼だけが残され、人一倍厳しくしごかれることになった。
ところが洋一は、どれだけしごかれても、立ち向かってくる。
当時は短期間の合宿を繰り返していたが、また来い、と家へ電話をすると、1人でちゃんとやってきた。しばらくたって、あいつも随分執念深くきているなあ、と、戸塚やコーチたちが改めて気づき、感嘆するという状態だった。
「ようし、それなら、どこまで伸びるか、とことん、しごいてやろう」
という気に、戸塚はなった。
両親に話して身柄を預かり、特訓に次ぐ特訓を重ねた。見違えるほどの成長が始まった。
立ち直った洋一は自分から高校へ入り直したいと希望し、戸塚は、ヨットを通じて親しい副校長に頼んで、大阪の私立「清風学園」に預かってもらった。
洋一は高校に入ってからもヨットの訓練を休まなかった。
神戸ポートピアを記念して太平洋単独横断ヨットレースが催されることになった。
「あいつを出してやろう」と、戸塚は考えた。
洋一はそれに耐えられる青年に成長していた。
昭和56年6月7日、サンフランシスコの港を11隻のヨットがいっせいにスタートを切った太平洋横断レース。
「タカラブネ号」を駆った東山洋一は51日余の孤独な闘いに見事うちかち、2人の先輩たちを押さえて第5位に入賞した。
18歳。世界最年少記録である。
あふれんばかりの人出でにぎわう神戸ポートピア会場では、両親が目頭を押さえながら、見違えるように成長した息子の生還を待ち受けていた。
「ヨットスクールへ入ると、どういう子供になりますか?」
と、戸塚はよく質問を受けることがある。
その時、彼は、決まってこういうことにしている。
「本人と両親が頑張りさえすれば、東山洋一のようになります」
年の瀬を控えた戸塚ヨットスクールのパーティーは、気さくでお祭り好きな『角屋』一家の軽妙な司会、進行によって、父兄、生徒、町内、隣組代表の自己紹介から"鬼のコーチ"たちの隠し芸まで飛び出し、ふだんのヨットスクールからは想像もつかない、なごやかな雰囲気につつまれていた。
東山洋一は隠していたらしいのだが、NHK青年の主張コンクールに出場した彼が、情緒障害を克服して太平洋横断に成功するまでの体験を「私の挑戦」と題して語り、大阪大会で見事優勝、代表に選ばれたというニュースが会場に報告されて拍手を浴び、パーティーに花を添えた。
パーティーに先だって、生徒たちは、もちつきを体験。『角屋』の人たちに教わりながら、心もとない手つきでキネを振り、料理、もちつきを手伝った両親たちと一緒に、あんこ、きな粉、大根おろしなどで、つきたてのもちに舌つづみをうつ。
マンション住まいの核家族では味わえない体験であり、家庭内暴力の陰惨な生活など想像もできないほど、むつまじい親子の婆であった。
実は、パーティーが催される数日前、死亡事故に関連して戸塚以下のコーチたちが書類送検されたとのニュースが大きく報道された。ヨットスクールにとっては死亡事故を想起される、いやな出来事だったに相違ない。
にもかかわらず、パーティーは来賓、父兄など100人に及ぶ盛会となり、事故当時のような非難、中傷の声もなく、子供を連れて帰る親もいなかった。
そればかりか、100組を超える親たちが、子供を1日も早く預かって欲しいと順番を待ち、その数は日々、増え続けている。
それは、病める日本社会のうめきであると同時に、戸塚ヨットスクールがさまざまな試練を乗り越えて、つちかってきた評価にほかならない。
2つの生命が、理由はどうであれヨットスクールが預かっている間に失われたという事実を消し去ることはできまい。が、苦しんでいる情緒障害児たちを1人でも多く立ち直らせ、金属バットや子殺しの悲劇を未然に救い続けるかぎり、その親たちにとって戸塚宏は「神様」であり続けるに相違ない。
さまざまな出来事のあったこの1年もやがて幕を閉じようとしているが、情緒障害克服の闘いに休日はない。
あと3日でやってくる新しい年の元旦、戸塚宏に率いられた子供たちは、身を切る寒風を帆にいっぱい、はらませながら、太平洋上を疾走するクルーザーの上で、初日の出を迎えることだろう。
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この年がまさに終わらんとしている12月28日、名古屋地検は第1回目の桐山利次の死亡事故に関して「不起訴処分とする」との判断を下した。