戸塚ヨットスクール開校
伊勢湾と三河湾にはさまれた愛知県知多半島は京と江戸を結ぶ最短距離上にある。源頼朝の父義朝は平治の乱に敗れて東へ落ちのびようと伊勢湾を舟で渡り、この半島を横断してさらに三河湾へ出るためにこの半島の野間という所に上陸、休養中を逆臣の謀叛にあって斃(たお)れた。江戸時代に入ると、徳川の膝元であるこの辺りは、尾張の米を江戸に運ぶ千石船の基地として栄えた。三浦綾子の小説『海嶺』は、その千石船で難破、漂流して日本最初の和訳聖書を完訳した、この辺りの3人の漁師の物語である。
戸塚のヨットスクールのそばに『角屋』という旅館がある。
伊勢、三河両湾を結び知多半島を横断する内海街道と、半島を縦断して名古屋方向から突端に至る師崎街道の交叉する角にあるところから名付けられたものだが、この『角屋』旅館も、千石船で栄えた時代から続く老舗らしくさまざまな歴史を刻んでおり、この家の主は父の叔母から、荒神山の争いで斃れた吉良仁吉の生首を、清水次郎長の輩下たちが持って泊ったのを見たという話を、直接聞いているという。
新幹線でくれば名古屋で名鉄河和線に乗り換え、その終点である河和駅まで特急で45分。
名古屋へ45分、東京へ約3時間の所要時間と交通の便利さを考えれば大都市に近い位置にありながら、都会の喧騒にわずらわされることなく長閑(のどか)で平和な海浜の閑村のたたずまいをとどめ、人々もまた三河湾に面した温暖な気候と田園、豊富な海の幸に恵まれて、気ぜわしく殺伐とした「現代」とかかわることのない生活を送ることができたかに見えた。
その長閑な海浜に忽然と「現代」が姿を現わし、温和な人々を驚きと騒動の渦に巻き込むようになったのは、5年ほど前からのことである。
海辺の近くに住む人々は、海岸で毎日、早朝から繰り展げられる異様な光景に驚きの声を噛み殺し、目を被った。
真っ黒に陽焼けした肌が潮光りに光った屈強な若春たちが、いやがる色白の少年少女たちを、走れないといっては怒鳴り、体操ができないといっては殴る、蹴るの暴行を加え、いたいけな子供たちは悲鳴をあげて逃げまどっているかに思えたからである。
何軒かの家には子供たちが血相を変え、助けを求めて飛び込んできた。
「おばさん、助けて下さい。ボク、殺されます!」
見ると、顔や腕にアザやスリ傷がある。
可哀相に、と思っているところへ、トレーニングウエアにゴム草履の男たちがドヤドヤと押しかけてきた。
「すみません、子供を渡して下さい」
「誰ですか、あなたがたは」
「この子を親元から預っている者です。返して下さい」
「こんなに怖がっているのに、渡せません」
こんな光景が何軒かの家で繰り展げられた。
車を走らせている時、
「お願いです、乗せてって下さい。殺されるんです!」
と、怯えた子供にヒッチハイクを頼まれ、交通費と小遣いまで恵んで逃亡を手伝ってやった人も、何人もいる。
駐在所にも助けを求めて子供が飛び込み、引き渡しを求める潮光りの男たちとの間で何度も応酬が行なわれた。
「あの連中はいったい、何者だろう」
と謀る声が人々の間に広まっていった。
「まるで、暴力教室みたいだ」
それにしても、と人々は、また考える。
「あの連中が住んでいるのは河和区の建物ではないか。すると、誰か町の有力な人が後についているに相違ない」
やがて、人々の耳にこんな人々の名前が聞こえてきた。
美浜町長 橋本喜久雄
同町議会副議長 岩本鋼一
同町教育委員長 辻顕吉
美浜ガス社長 横田忠彦
「ヘエ?!町長さんたちがねえ。すると、あの連中はいったい、何者……?」
大都市においてさえ今日でもまだ充分な認識があるといえる状態にはほど遠い「情緒障害」とその子供たちについて、今から5年も前にこの長閑な海浜の人々に知識と理解を要求するのは酷な話であった。
しかし、そうした閑村の中にこそ、むしろ時代の流れに対する鋭敏な臭覚を持った人々がいたといえるかもしれない。
きっかけは、この地の有力者たちの社交的集まりである美浜町ライオンズクラブの創立10周年記念行事であった。
町の「赤ひげ」的存在である医師の辻顕吉は、教育委員長を長年にわたってつとめるとともにライオンズクラブの中心的メンバーであるが、彼はその記念行事に戸塚宏を招いて町の子供たちに講演を聞かせてはどうだろうと提案した。
戸塚宏はその頃「時の人」であった。
昭和50年に開かれた沖縄海洋博。それを記念して催されたサソフラソシスコ――沖縄間の太平洋単独横断ヨットレースで、戸塚は、『太平洋ひとりぼっち』で知られた堀江謙一らを大差で引き離して優勝してから間もない時である。「リブ号」に乗って参加した小林則子が、競争は論外だったとはいえ、日本女性として初めて、ひとりぼっちで太平洋を横断する記録を作ったのもこの時であった。
辻が感嘆したのは、なによりも戸塚の強靱な精神力であった。「ウイング・オブ・ヤマハ号」を駆ってサンフランシスコから沖縄まで太平洋上を41日14時間33分の孤独な闘い。その間、彼は「勝つ」という目的の為に睡眠を1日4時間に削り、しかも、舵と帆から目を離す時間を最小限にとどめるために、目覚しを掛けておいて15分ごとに目を覚まし、帆と舵を調整してまた眠るという体力の限界に挑戦し、医学者をして「不可能だ!」と叫ぱせたほどの強靱な意志の持主である。
町の校医を長年つとめ、かねてから子供たちの体力と精神力の脆弱さを憂えていた辻は、戸塚にいたく感動し、ライオンズクラブ創立10周年を記念する行事には、町の子供たちにぜひ、戸塚の口からその感動の記録を語ってもらいたいと思ったのである。
辻の提案は受け容れられた。
戸塚はムービーフィルムを見せながら苦闘の記録を語るとともに、彼がそれに乗って太平洋を横断し、優勝したヨット「ウイング・オプ・ヤマハ号」を美浜町河和の港へ回航し、子供たちを試乗させて湾内を帆走してみせた。
戸塚宏から、
「河和の海岸で子供のためのヨットスクールを開きたいのだが」
という相談を辻が受けたのは、それから間もなくのことである。
戸塚もまた、子供たちの体力、精神力が脆弱になっていることを深く憂えていた。体力、精神力が極端に衰えた場合は、知力、人格まで破壊されるようなことになるのではないか。
その頃、彼が「情緒障害」の存在など知っていようはずもない。しかし彼は自分自身の体験を通して漠然とそう考え、ヨットの訓練を通じて子供たちの体力、精神力を鍛える、そういう学校を開きたいと考えていたのである。
辻顕吉は戸塚の話に共鳴し、彼のヨットスクールを実現させてやりたいと思った。それは将来、必ずや美浜町にとって誇り得るものになり、町に貢献する存在になるはずであった。
教育委員長である辻が町の有力者たちに話すと、町長橋本喜久雄、町議会副議長岩本鋼一、美浜ガス社長横田忠彦らが直ちに賛意を表し、協力を約してくれた。彼らもライオンズクラブの有力メンバーであり、先の創立10周年記念事業の際には、戸塚の講演に深い感銘を受けていたのである。
海岸でヨットの訓練を行なうについては漁業権の問題が大きいが、これは町長の橋本と副議長の岩本が漁業組合との間に立って了解を得てくれ、ヨットスクールの合宿所については海岸のすぐ近くにある旧河和観光館と呼ばれる古い建物を岩本一家の尽力で借りることができた。
こうして「戸塚宏ジュニアヨットスクール」の河和合宿所は開校したのだが、開校後時たたずして、戸塚のヨットスクールは大変な社会的反響を呼び起こすことになった。
ある時、合宿にきた子供たちの中に登校拒否の子供が1人、混じっていた。父親が、気分転換のためにヨットにでも乗せてみるか、といった調子で寄こしたのだった。ところが、それまでどれだけ説得しても叱っても学校に行かなかった子供が、ヨットの合宿を終えて帰ると、翌日から自主的に登校しはじめた。
それを伝え聞いた登校拒否の子供を持つ父親が、試しに同じことをやってみると、その子供も学校へ通いはじめたというのである。
その時点で戸塚は、嫌な感じの子供がいるな、という程度で、登校拒否の子供が入っていたことを全く知らなかった。
ところが、新聞記事が出た直後から、登校拒否児童を抱えて悩む全国の家庭から申し込みが殺到した。戸塚のヨットスクールは今でも普通児を対象にした日曜、春夏冬休みの合宿を行なっている。しかし、2人の登校拒否児童が回復したのをきっかけに、その後、家庭内暴力、校内暴力、暴走族、一般的非行から、最近では精神病かもしれないと思われる者までを対象にした治療矯正が行なわれている。
戸塚はそれらすべてをひっくるめて「情緒障害」と呼んでいる。つまり、登校拒否も非行も情緒障害が原因で起こる1つの現象にすぎない、というのである。
戸塚ヨットスクールは、戸塚宏と数人のヨット仲間がささやかに始めたものであり、とくに情緒障害の子供たちをほとんど専門的に預かるようになってからは、社会的要請の方が彼らヨットマンたちの支え得る能力をはるかに超えた重圧となっている。
学者、カウンセラー、学校など、専門家といわれる人々や教育関係者の圧倒的多数から無視され、批判されながら、ジェンナーやパストゥールのように手探りで情緒障害者の治療矯正に必死に取り組んでいる戸塚たちを支えているのは、辻、町長、横田らを中心とした美浜町の人たちである。