現代社会が生む"心のガン"
「私たちは、貧しさから抜け出したい、日本を豊かな国にしたいと願って一所懸命に働いてきた。その結果が、自分の息子がああいうふうになるという形で報われるとは思ってもみないことだった」
高度成長を支えてきた、勤勉なエリートサラリーマンはためいきまじりに語った。
彼は、昭和11年生まれの45歳。日本有数の大手家庭電器メー力ーの中間管理職のポストにある。
彼の家は山陰地方の素封家だったが、戦争で没落、そのうえ、父親も戦死するという二重の悲劇に見舞われた。子供の頃に戦争を経験し、大学で60年安保にぶつかり、卒業して高度成長の第一線に立った。この前後の世代の人たちは多かれ少なかれ、似たような環境に置かれているのかもしれない。
戦後は厳しい貧しさの中で少年時代を過ごすことになる。食糧難、物資不足は当時のだれもが味わった辛酸だが、財産がなくなり、母親一人の手で養われなければならなかった彼の場合はひときわ厳しいものがあった。
ラジオを組立てるのが好きだった彼は、今日なら捨ててあっても誰も見向きもしないような部品を買うことができなくて、無念な思いをしたことが一再ならずある。
草野球のポールは石ころを芯に入れ、古いセーターをほどいた毛糸をぐるぐると巻き、布をかぶせて自分で縫う。グローブはテントの端切れで作った。
彼は大学へ進学したいという強い希望を抱いていたが、当時の家の経済状態では望むべくもなく、それを口にすれば母親がつらい思いをするだけだとわかっていただけに、自ら進んで工業高校を選び、卒業後は電器メーカーに就職した。
しかし、大学を諦めたわけではなかった。
3年間、一所懸命働いて家計の一部を支えながら、同時に、大学進学のための費用を少しでも貯える努力を続けた。
昭和30年代初頭。日本の経済にも、彼の家の家計にも少しはゆとりが出来はじめようとしている頃だった。
3年後に東大工学部に入った彼は、いくつもの家庭教師をかけ持ちしたうえ、休みにはデパートの配達、会社の雑務等、アルバイトというアルバイトはなんでもやって、学資と生活費を稼いだ。
60年安保闘争は、ごく普通の学生であった彼をも連日のデモに巻き込んだ。樺美智子が死亡した6月15日、彼も国会前にいた。バリバリッと音をたてて国会内になだれこむデモ隊、襲いかかる機動隊。せめぎあう大きな流れの中で、個人の意思など何の力ももたない。ワッとなだれこむ一団にまじって、彼もいつの間にか国会内に入り、機動隊にしたたか打ちのめされていた。
37年春、大学を卒業と同時に現在の家電メー力ーに就職。ラジオを組立てるための部品を買えなかった貧しい時代の少年は、何年か後に、それを職業とする会社に就職することによって夢を果たしたのである。
安保闘争によって岸内閣が倒れ、かわった池田勇人首相が所得倍増と高度成長を唱えた1960年の秋、NHKとNTVはカラーテレビの放送を本格的に開始し、その威力を全国に誇示した昭和39年東京オリンピックの中継に向けて、カラーテレビ時代の幕を開けていた。
彼が大学を卒業した昭和37年は、各企業によるいわゆる、青田買いが熾烈を極めたため、日経連が大学卒業者の採用試験日の申し合わせをしないことに決めたほど、産業界は好況であった。
東大工学部卒の彼が三顧の礼をもって迎えられたことはいうまでもない。働きたくても仕事がなく、一杯の「銀シャリ」を食べることすらままならなかった敗戦直後がウソのように思える時代になりつつあった。
特に、彼の就職した家電メー力ーは高度成長から大衆消費時代へかけて、経済と時代の担い手であった。ラジオに始まり、冷蔵庫、洗濯機、掃除機、テレビ、カラーテレビ、電子レンジから皿洗機に至るまで、便利な電化製品が次々開発生産され、所得倍増のかけ声とともに購買意欲の高まった家庭へ、続々と送り込まれて行く。
彼はその第一線に立っていた。
昭和39年、彼は上司の口添えもあって、同じ会社の社員と結婚した。東京オリンピックのカラーテレビの放送を新婚の家庭で見たことを記憶している。
入社2年目の結婚というのは早いように思えるが、大学入学前に3年間会社勤めを経験し、すでに27歳になっていた彼としては、年齢的には早すぎるという年ではない。
妻になった女性は彼とは5つ違い。昭和16年生れの22歳。両親の代に東京へ越してきた東京生まれの東京育ちで、名門の1つといわれる女子短大を卒業していた。
結婚の翌年、長男誕生。
妻の実家には兄がいたがまだ結婚していなかったので、妻の両親にとっては外孫とはいえ初孫。同じ東京なので何かといえば顔を見にきたり、妻が実家へ帰ったりで、可愛がってもらった。
彼の方の母親は弟たちと山陰の郷里に住んでいたが、遠くとも、やはり初孫の顔が見たくてよく上京し、妻もまた彼の郷里へ出向いて、初孫は双方の祖父母から可愛いがられて育った。
2年後に長女誕生。
こちらも、初めての女の子だということで可愛がられた。2人ともすくすくと育ち、素直な子供だった。長男が中学1年の年、父親は九州へ転勤になり、家族も移住、子供たちもそれぞれ転校した。
学齢期の子供を持つ家族にとって転勤は大きな問題である。この家族も、長男は小学校を終えると、受験校として知られる私立中学へ合格していた、毎年、東大合格者の数を競って上位に名前の出る名門高校のある私立で、よほど問題がないかぎり、中学から高校へ行けることになる。
長男の、この私立中学合格は同級生の親たちからも羨ましがられ、双方の祖父母を含めた一家にとって自慢の種であった。
父親に転勤の話が出た時、家族は子供のために東京に残るべきか否か、当然大きな問題になった。
母親と双方の祖母は東京に残ることを主張した。この激しい受験競争の中でせっかく他人の羨む名門校に入れたのに、みすみすそのチャンスを逃して地方の学校へ移ることはないではないかという。今日においては、おそらくほとんどの家庭で行われる主張である。
しかし、父親と祖父は、家族は夫に従って任地へ行くべきであると主張した。本当に優秀な子供なら地方の高校からでもしかるべき大学へ合格できるはずであるし、現に地方の優秀な子供たちはそうやって名門の大学へ合格しているではないか。目の前の受験競争に振り回されるより、地方の空気を吸わせ、違った土地の人々との交わりを経験させ、たくましく育てた方が長い目で見れば本人のためだというのである。
父親同様、祖父も東大の卒業で何度かの転勤を経験していたが、家族は常に同道させ、長男は地方の高校から東大に合格していた。そういう経験が、自信と孫の能力に対する信頼になっていたものと思われる。
「受験、受験という風潮に子供を巻き込ませるのがなんともいやだった」
と父親は述懐している。
中学生の長男は双方の意見を聞き、父親と祖父の考えに従うといった。
一家は九州へ移った。
ところが、中学3年の夏休みを終えた2学期、高校受験を控えた長男が突然、学校へ行かなくなってしまった。
いわゆる、登校拒否である。
両親は諄々と説いた。子供は頑として家を出ようとしない。母親が涙ながらに懇願した。それでも子供は応じない。父親が怒鳴り、遂には殴って、行かせようとした。それでも、手の施しようがなかった。
「なぜ、行かないのか」
と理由を聞いても、何も答えない。
ただ、「ボクはダメな人間だ」と繰り返すばかりである。
一家の苦闘が始まった。
学校に相談をした。
担任の先生が来て、説得をしてくれた。本人も先生には会って、話を聞く。だが、学校には行こうとしない。
先生の指示で、同じクラスの子供たちが代わるがわる迎えに来てくれた。この時も、会うには会うのだが、学校には行かない。
地域の児童相談所へ相談に行った。街の神経科医、大学病院、合宿生活をしてハイキングなどで気分転換を図りながら治癒に当たっている専門医……効果がありそうだといわれる所へは、残らず足を運んだ。
カウンセラーたちは子供が生まれてから今日に至るまでの模様、家庭環境などを詳しく尋ね、次のような点を問題として指摘した。
全体として過保護である。
初孫ということで祖父母たちが甘やかしすぎた。おもちゃ、洋服その他なんでも次々と買い与えたために、子供は欲しいという意欲さえなくしてしまった。泣けば、すぐ抱いてあやしてくれる。食べ物を取ろうとすると、先回りして与えてくれる。食事は、食べなければ大きくならない、とどんどん食べさせられる。
母親が過干渉で、教育ママである。
子供のめんどうを、こまごまとみ、甘やかす点において母親は祖父母たちに劣らない。子供が何かしようとすると、「ハイ、これ」といった感じで先回りしてやってやる。それに、宿題はやったか、忘れ物はないか、学校ではどんなことがあったか、勉強はどこまで進んだか……と、ことあるごとに口をさしはさむ。PTAの会合には積極的すぎるほど出席して、学校と教育のあり方についてあれこれと発言し、役員も買って出て忙しく、家事がともすれば等閑に付され、妻の深入りに夫が不満を抱いたほどである。
特に、九州へ転勤してからの、子供の勉強に対する母親の熱心さはひとかたではなかった。東京の名門校から地方の中学に転校したことによって、受験競争に遅れをとるようなことがあってはならないというあせりからであった。
父親は放任に近かった。子供は、かまわない父親にむしろ救いを求め、父親と学校や勉強以外のとりとめもない話をする時には安らいだ表情を見せていた。しかし、子供は父親に対して母親の過干渉を訴えなかったし、父親も自分のいない間に家庭でどんなことが起こっているのか知らなかった。まして母親は正しいと信じて邁進しているのだから、子供の覇気がなくなり、段々沈んでいくことに誰も気づくはずがない。
もう1つ、カウンセラーから指摘された重要な点は、母乳を与えて育てなかったこと。育児初体験の母親が、熱を出したといえば、スポック博士、むずかったといっても、スポック博士……と、ことあるごとにスポック博士の育児書をバイブルのように参考にしすぎていたこと。子育てのキャリアウーマンである祖母がそばにいれば大騒ぎするほどでもないことを、母親はうろたえなくてはならず、それが幼児に伝わっているのだ、という指摘である。
神経・精神科の病院では精神安定剤、睡眠薬等を注射されたり、投与された。その時には効果が出るが、薬が切れると状態は以前にも増して悪化しているような印象を受けた。両親は、そのまま薬を続けていると麻薬中毒のようになってしまいはしないかと段々怖くなって、医者に通うのをやめてしまった。
カウンセリングを受けても、問題点は指摘してくれ、話し相手にはなってくれるものの、登校拒否は治らなかった。
「学校へ行かないからといって、親はうろたえたり、強制をしてはいけない。勉強の話題は避けるようにして、一緒にキャッチボールをしたり、ハイキングに行ったりしてあげましょう。お母さんはあまり勉強、勉強とガミガミいわないこと。お父さんは出来る限り家庭にいる時間を多くして、スキンシップを心がけること」
カウンセラーはこんなアドバイスを与えた。
両親はいわれたとおりに実行した。
たしかに、キャッチボールをしたり、遊んでいる間は、子供はご機嫌である。しかし、いつまでも遊んでばかりいて学校へ行かないのでは意味がない。
いつかは治るのかもしれないが、治る見通しについてカウンセラーは何もいってくれない。「気長に努力しましょうね」というばかりである。いつかはきっかけがつかめるはず、というはかない言葉を頼りに、親は果てしなく子供と遊び続けねぱならないのである。
一方、子供の状態はむしろ徐々に悪化していた。
自室に閉じこもって出てこなくなる。昼間は寝ていて夜はいつまでも起きている。風呂に何日間も入らなくなる。テレビを番組がなくなるまで意味もなく見ている。それでも足りなくて、ラジオの深夜放送を聴く。
次第にイライラが昂じてきて、部屋の力ーテンが引きちぎられている。戸を閉めきったままでひとりごとをつぷやいている。家族を部屋に近づけない。特に、試験の時期になると、休んでいても気になるのか、教科書やノートをビリビリにやぷいたり、鉛筆を投げつけたり、ヒステリー状態が悪化する。
食事を「こんなものが食べられるかッ!」とひっくりかえす。妹を突如、殴る。家族が話をしていると、テレビのボリュームを大きくして邪魔をする。家族が見ているチャンネルをわざと他のものに変えてしまう。
夜中にステレオをガンガンかける。母親に車を運転させ、右へ行け、左に曲がれと、フラフラになるまでドライブをさせる。母親に殴りかかる。首を締める……。
子供の症状は登校拒否から家庭内暴力へと進み、事態は悪化の一途をたどっていた。
母親は自分が干渉しすぎたことを、反省し、祖父母たちも甘やかせて育てたことを反省したが、ここまできてはもはや取り返しがつかない。
「台所にいる時、長男が背中を向けて目の前に立っている。この包丁でいっそのこと子供を殺して自分も死ぬことができたらどんなに楽だろう、と何度思ったかしれません。ほんのちょっとしたきっかけがあったら、私はやっていたかもしれない。今思うと、ゾッとします」
母語はしみじみと語り、こうもいっている。
「おばあちゃまを殺した優秀な中学生の話。金属バットで両親を殺した子供の話。子供を殺して自殺した親の話……。自分の子供がああなってしまってからは、とても他人事とは思えませんでした。自分たちが同じような状態にならないという保証はないのですから」
父親も母親も、まさか自分の家庭がこんな不運に見舞われることになるなど、夢にも思ったことがなかった。
「ウチの子にかぎって――」
という気持ちがあった。
これは、戸塚ヨットスクールへやってくる親たちが異口同音に語る言葉である。
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父親は東大卒、一流会社、母親も大学出、子供の成績優秀、近所も羨むおとなしい子供。
その子が親の首を締めるようになると誰が予想できようか。
両親は、戸塚ヨットスクールの存在を新聞で知ってすぐ駆けつけた。
治療効果が非常にあがっていると書かれていたことが第一の理由だが、ヨットと海で鍛え、体罰を含め訓練が厳しいという内容に心を動かされた。
子供に厳しい環境が必要だということは親たちも感じてはいたのである。
「ああ、大丈夫。この子なら必ず治ります。頭のいい子は治りが早いし、治し甲斐もありますからね」
校長の戸塚宏は両親の話を聞き終えると、そばに坐った子供を眺めながらいった。
「必ず治ります」
戸塚がいとも簡単にいうのを聞いて、両親は初めて救われた気持ちがしたと同時に、本当だろうかと半信半疑でもあった。
親を殺しかねない重症の子供を目の前にして、
「治す」
といいきったのは戸塚が初めてだったからだ。
「ただ……」
と戸塚は続けた。
「どんなことがあっても、お父さん、お母さんは途中で挫折しないで下さいね。こういう子供は苦しむのをきらって楽な方へばかり逃げようとする。その時、親が可哀そうだからと途中で連れて帰られるようなことがあると、私どもは責任を持てない。治すことができないんです。最後まで、私どもに任せて、子供を突き放す覚悟はありますか?」
両親は不安そうな面持ながら、うなずいた。
「校長先生――」
と、母親がいった。
「どういう方法でおやりになるのでしょうか。かなりきついと新聞には書いてありましたが……。それに、どれくらいの期間で治りますか。時々、うかがってもよろしいでしょうか……子供がどんな状態でいるか心配ですし……」
戸塚の表情が急に険しくなった。
その雰囲気を感じとって、父親がたしなめるように傍らの妻を見た。
「子供さんがこうなった責任が親だけにあるとは、私はいわない。親だけではどうしようもないような社会になってしまっているのだから……。しかし。しかし、です。親に責任が全くないとも、いえないのです。わかりますか、私のいわんとする意味が……」
戸塚はそういって、母親の顔をじっと見すえた。
「それでは、校長先生、よろしくお願いいたします」
下手をすれば険悪な状態になりかねない空気を察知して、父親は頭を下げた。
「大丈夫です。任せて下さい」
戸塚はまた柔和な表情に戻って、父親にいった。そして、
「良くなったらこちらからご連絡をしますから、それまでは電話その他、遠慮していただくように――」
丁寧ではあったが、突っぱねるようにいい放った。
母親も戸塚の気迫に気圧されたのか、諦めたように小声で、
「よろしくお願いします」
と頭を下げると、両親は立ち上がった。
「オーイ」
戸塚は振り向いて、大声で怒鳴った。
隣の20畳を優に超える大きな部屋でたむろしていた子供たちの中から、先輩格らしいのが駆けつけてきて、直立不動の姿勢で立った。
「こいつを連れてって、教えてやれ」
戸塚は、連れてこられたばかりの子供を見ながら先輩格に命じた。
先輩格の子供は直立不動の姿勢のまま、
「ハイッ」
と大きな声で返事をし、
「来いよ」
と新入生をうながした。
新入りの子供は、こんな荒っぽい言葉をいわれたことがない。不服そうにのそのそと身体を動かし、同時に、不安そうな目で、立ち去ろうとする両親を追った。
「ぐずぐずしてるんじゃないッ!」
雷が落ちたような戸塚の大きな声が少年の背中にたたきつけられた。
両親は心残りなまなざしで子供の方を見やりながら、立ち去ろうとしている。
「ご心配はいりません。今からお宅の子供さんの指導に当たる、あのハキハキとした少年。あの子が連れられてきた時には、お宅のお子さんなんか問題にならないくらい、ヒドかったのですから……」
女性のコーチが両親を帰り道の方へ案内しながら説明した。
「本当だ。あの子はどこがおかしいのか全くわからないほど、正常だ……」
父親は自分を納得させるように、いった。
「あの子はもうじき家に帰れます。お宅のお子さんもやがて元気になって帰る日がきます。子供さんが苦しみに耐えて立ち直ろうと努力するんだから、ご両親も辛抱なさらなければ……」
戸塚の厳しさとうって変わって、女性コーチはやさしかった。
「ハイ……」
と、母親が初めて素直にうなずいた――。
新入りの少年は先輩に連れられて浜辺へ出た。合宿所から百メートルほど離れたところが海岸である。浜辺には長さ3.5メートルくらいの小さな1人乗りヨットがずらりと並んでいる。
そのヨットの1隻を水際近くまで運び出し、部品の名称、ロープの結び方、マストを立てたり、セールを張ったりする組立て方、乗り方を先輩格の少年が一通り教えたあと、すぐヨットを海に浮かべ、新入りの子供を乗せて先輩が何度か実際に操縦してみせる。それが終わると、さっそく今度は新入生に操縦させ、先輩がコーチしながら走ってみる――この1回だけで、丁寧な指導は終わりである。
あとは先輩たちのやり方を見ながら自分で憶えていかなくてはならない。
部品の名称や構造を忘れても、組立てができなくても、走れなくても、校長の戸塚やコーチたちからガンガン怒鳴られ、それでも出来ないと殴られる。誰も親切に教えてはくれない。うまく操縦ができなければ、ヨットはたちまちにして風にあおられて転覆し、少年は海中に放り出される。救命具をつけているから溺れはしないが、水は冷たい。特に冬場は凍えるように冷たい。だが、自分でヨットを起こし、操縦しなければ、誰も助けてくれないし、やり方を教えてもくれない。コーチたちは指令船の上から眺めながら、
「そんなことができんのか、バカものォ!」
などと、罵倒するだけである。
情緒障害の子供は甘えと過干渉のために極度に精神力がなくなっているのだ、と戸塚はいう。
登校拒否の子は、学校に行かなくてはと頭の中ではわかっていながら、心と身体がついて行かない。イライラするが自分ではどうすることもできないから、何かと理由を探しては親に当たるのが家庭内暴力である。自分で出来ないことを他人のせいにする――甘えの特徴である。
だから、ヨットスクールではその甘えを粉々に打ち砕き、悪いのは他の誰でもなく自分であること、自分が努力しなくては何も出来ないことを身体で覚えさせる。
「この子供を連れてきた家電メー力ーの中間管理職の家庭が今日の社会を象徴してる」
と戸塚は思った。
夫が、豊かな社会を作ろうとして一所懸命に作り出した電気製品が次々に家庭に入って、妻を家事から解放し、余暇を生み出した。豊かになった一家は子供を甘やかし、余暇の出来た妻は教育ママになってしまった。
豊かな社会、解放された女性――60年代が追い求めてきた夢が満たされた時、皮肉にも子供たちの心はむしばまれはじめていたのである。
だからヨットスクールにおいては質実を旨として、男は強くたくましく、女はやさしく控え目に生きる姿を子供たちに見せて、むしばまれた子供たちを立ち直らせなくてはならない……と戸塚は考える。
この子供の父親とそれほど年の違わない戸塚も、60年安保を大学で迎えていた。「ヨット部で安保合宿というのをやったことがあるなあ」という彼は、ヨットの魅力に抗しきれず、名古屋大学を卒業しても就職をせず、太平洋横断レースに参加するため、ヨット部の先輩たちのあとを追ってアメリカヘ渡った。
それ以後今日まで、昭和50年の沖縄海洋博記念太平洋単独横断レースに優勝して一躍その名を知られるようになったのをはじめ、数々の国際レースに勝ってレーシングヨット界の第一人者として、ずっと海で生活をしている。
外洋を渡るヨットレースには、人間が生きて行くのに必要なあらゆる知識と技術、品物がなくてはならないが、しかし、余分なものはいっさい排除しなくてはならない。
優れたヨットマンであり、思索者でもある戸塚宏が海の生活で体得したことは、生きて行くのに何が必要で、何が余分かがヨットの上ほどよくわかるところはないということだった。
それはちょっと大げさに名付ければ、「海の思想」とでもいうべきものである。
海から陸を眺める景色は、陸の上の発想しか持たない人間たちにとっては実に新鮮であり、海からの眺めには「海の思想」があるように思えてくる。
会社では仕事をしない社員にも給料が支払われるが、ヨットは無駄な人間を乗せている余裕がない。1人が帆を張っている時、舵の操作を怠っている者がいれば、ヨットはたちまちにして転覆し、2人とも荒海に放り出されて命が危険にさらされる。星座や三角関数は、親や先生に言われて仕方なくやる勉強のためにではなく、自分の位置を測定し、航行を安全にして命を守るために欠かせない知識であることを身をもって知る。男と女がいて、荒狂う海で高さ10メートルのマストに昇って帆の修理にあたるのは女であり、彼女のために食事の支度をするのが男でありうるのか。
分刻みでタクシーを乗りつぎ、テレビと新聞と週刊誌と本で情報を集め、大量に生産し、大量に消費し……かなりの部分は必要であるとしても、はたしてそのすべてをわれわれは必要としているのだろうか。
豊かな社会は、生きるために生産するのではなく、生産を維持するために消費しなくてはならないという皮肉な運命を背負いこんでしまった。
伊勢、三河の二湾が合流して太平洋に広がるあたりから内陸を振り返ると、四日市をはじめとする工業地帯が遠望され、石油を満載して入ってくるタンカーと、自動車を積んで出て行く専用輸送船がゆったりと往き交っている。
ヨットの上で戸塚に鍛えられている子供たちは、その豊かな工業社会が生み出した"心のガン"におかされているのではあるまいか。
60年安保を境に、海に出て質素な生活に耐えた戸塚が、高度成長の第一線に立ってきた男の家庭が生み出した、豊かで、それ故に病んでいる子供の心を鍛え直すことになるというのは、なんとも皮肉な歴史のめぐりあわせというほかない。