ヨットスクールと『角屋』旅館
「本当なのかと、信じられないような気持ちです」
と、父親がいった。
「あの子が、あんなにやさしい言葉をかけてくれるなんて……」
母親は声をつまらせた。
「そりゃまあ、本当によかったですわねえ」
女将がお茶をすすめながらいうと、主人も、
「戸塚先生たちは厳しいが、ちゃんと面倒を見てくれますでねえ……」
と、応じた。
「ありがたいことだと思っております」
と、父親が頭を下げ、母親も黙ってうなずいた。
『角屋』旅館の朝のひととき。
すぐ下に三河湾が広がる見晴らしのいい帳場で『角屋』の主人岩本鋼一、女将菊枝と、戸塚ヨットスクールへ子供を預けている両親とが雑談を交わしている。
「お早うございまあーす」
と、はずんだ声をかけて、この家の娘節子が顔をのぞかせ、
「ゆうべは話がはずんだでしょう」
と、仲間に加わった。
「ハイ、息子の方は疲れていたとみえて、いつの間にかぐっすり眠ってしまいましたが、わたくしどもは嬉しくて、まんじりともできませんでして……」
と、母親は前夜の嬉しさをかみしめるようにいった。
「あ、もうヨットが出ている!」
節子の声で、みんながいっせいに窓の方を見た。
すぐ目の前の海に、赤、白、黄色と、色とりどりの帆を立てた小さなヨットが、円を描きながら、ゆっくりと流れている。
空は抜けるように青く晴れ渡り、朝のさわやかな太陽が三河湾一面にふりそそいで白い波頭に照り返しキラキラと輝いている。
対岸の三河が、くっきりと浮かび上がっていた。
「さあ、良い子の皆さん、集まりましょう!」
指令船の上のマイクの声が、風に乗って旅館の帳場まで聞こえてきた。
「フッ!」
と、『角屋』の一家が思わず吹き出し、こらえ切れないように大声を出して笑っている。
「あれは、可児コーチの声だよォ」
と、女将が笑いながらいった。
笑い声が起こったのは校長に次ぐべテランの可児煕充(かにひろみつ)コーチの、ひょうひょうとした風貌を思い浮かべたからだった。
戸塚ヨットスクールは「良い子の皆さん」などといういい方は口がさけてもしない厳しい所というのが定評である。それに、子供たちはとても「良い子」などとはいえない状態の子ばかり。
校長の戸塚は間違ってもこういう冗談をいえない性質だが、可児は時々、人を食ったようなことをニコリともせずにいう。
この両親は、戸塚校長の許可が出て、北海道からはるばる子供に会いに出てきたのだった。
遠方から面会に来た親はほとんど全員が、この『角屋』に泊まる。その夜に限って、子供も親と共に旅館で夕食をとり、親と一緒に泊まることを許される。
厳しい訓練の毎日を送っている子供にとっては嬉しいひとときである。
なかには里心がついて、その直後に脱走を図る者もたまにはいるが、面会が許されるようになれば、帰れる日がそう遠いものでないだろうと予測できるので、ほとんどの子供は辛抱強く"解放"される日を待つ。
この両親の息子は非行と家庭内暴力だった。
中学生だが体の大きい方で、そのうえ空手をやっていて、めっぽう強い。
家の中で暴れだすと母親はもちろん、父親にも足蹴り、空手チョップをダウンするまで加えた。両親ともナマ傷が絶えず、逆に身の危険を感じて、紹介された戸塚ヨットスクールへ頼み込んだのだった。
「厳しくしごく所と聞いたので、お願いにあがりました」
と、両親はいった。
狂暴な子供を両親ではとうてい連れてこれない。
戸塚やコーチたちが迎えに行った時、その子供は学校にいた。
教室の仲間たちの前で、斜めにかまえた身体を揺すりながら、
「おれあ、ちょいと行ってくるからよォ」
といい残し、両手をポケットに突っ込んだまま、肩で風を切って、戸塚たちのいる車の方へのっそのっそという感じで歩いてきた。
いきなり、その胸ぐらを戸塚がつかまえて、4、5発、続けざまに強烈なボディーブローを食わせ、コーチがさらに数発と足蹴り。みんなの前でペシャンコにたたきのめした。あまりの激しさに、見ていた不良仲間が真っ青になったほどだった。
車に放り込み、逃げるといけないので、そのまま北海道から延々、河和まで走り続けた。
「もう、たいぶ良くなりました。1度、会ってみられてはいかがですか……」
戸塚が誘っても、両親は怖がって来ようとしなかった。良くなっている、というのが信じられなかったからである。
何度目かの誘いを受けて、やっと会う決心がついた。
「すみませんでした」
手をついて謝る息子の変わりように、両親は眠ることができなかったのである。
外泊許可は出ても、朝になれば子供は6時からの体操に間に合うよう、起きていかねばならない。
その子は、旅館から目覚ましを借り、自分で5時に起きた。顔を洗い、布団をたたむと、
「行ってきます。今日はもう会えんかもしれんから、元気でね」
と、両親に挨拶をして、出かけていった。
両親はその息子を、これが親に空手チョップを食わせていた子だろうかと、信じられない思いで、送り出した。
両親はそのあと、自分たちも海岸へ出てみた。
邪魔にならないように、遠くから子供が体操をしている姿を眺め、また旅館へ帰って行く。
そうした親たちに『角屋』の主人夫婦は、ころ合いを見計らって、
「ちょっとお寄りになりませんか」
と、お茶に誘うのが常である。
そして、ヨットスクールの話をあれこれして聞かせ、ヨットスクールについて書かれている各種の記事などを見せて、世間話をする。
親にしてみれば、事情をよく知った第三者から話が聞ければ安心でもあるし、同じような境遇にある他の家族の話を教えられて励みにもなる。
そして、自分たちの身の上話も聞いてもらう。
朝のひとときの、この帳場は、人生相談の観を呈する。
『角屋』はこの家の主の考え方を反映してか、一風変わっている。玄関の戸をガラリと開けてから帳場にたどり着くまでに五十余の階段を登り、長い廊下を進まねばならず、距離にしてもおよそ、50メートルはある。
客は、どこまでも階段を登り、廊下を進み、やっと帳場にたどり着いて、
「やあ」
と、声を掛けて初めて、
「いらっしゃい」
という挨拶を受けることになる。
知らない客は、心細くなって階段の途中から帰ってしまうこともある。玄関の戸を開け、はるか上の方まで続いている階段を眺めただけで、溜息をついて、サヨナラをする客もいる。
そんな客のいることを、この家の主は知らないわけではないのだが、エスカレーターをつけたり、旗を持った男衆を常時玄関にはべらせるといった気の利いたことは、どうやら、やる気配がない。
それでもこの宿は、なんとかやっている。というよりも、繁盛している。
客たちは性懲りもなく階段をトコトコ登っては、帳場までたどり着き、
「やあ、また来た」
と、声を掛ける。
すると、帳場の暖簾がひょいと上がって、
「いらっしゃい」
と、主が顔を出し、その背後から、
「まあ、まあ、お久しぶりでございます」
と、女将の大仰な声が聞こえる。
べつだん、お世辞をつかうわけでもない。
枝ぶりのいい松をとおして青く広がる海が見渡せる所に、大きな風呂があり、数人の客が入っていた。
「オイ、石鹸が切れとるぞ」
「おやじにいって、もらってこにゃ、いかんわい」
客の1人が飛び出して行って、石鹸を数個、持って帰ってきた。
「サービスが飛びきりいいというわけでもないのに、なんで、また来てしまったのかねエ、オレたちは」
「行こうといったのは、お前さんだろうが」
「それはいい考えだといったのは、お前ではないのか」
「なんとなく、ホッとするから、不思議なのよ、この家は」
「違えねえ」
客たちは、そんな会話を交わしている。
客はほとんどが、主と女将と一家がかもし出す不思議な雰囲気に惹かれてやってくる常連たちである。
そんな宿に、東大の偉い先生もくる。大きな会社の会長さんや、社長さんもくる。近くまで仕事でくると、お付きをまいて、1人でフラリとやってくる。
東大の先生も、会長さんも、五十余段の階段をトコトコと上がってきて帳場の前に立ち、うんとこ、しょ、と腰を伸ばす。
「おやじ、また来たぞォ」
「女将、おるかァ」
すると、やはり小さな帳場の暖簾がひょいと上がって、
「いらっしゃい」
と、主が顔を出し、
「おや、おや、お久しぶりでございます」
と、女将が大仰に挨拶をする。
「さ、どうぞ、どうぞ、こちらの方へ。お疲れでございましたでしょう」
女将の案内する声が響いて、客たちはやっと、宿らしい扱いを受けるのである。
この家の主と女将は、住む部屋がないわけでもないのに、4畳半ばかりの小さな帳場に寝起きをし、1日のほとんどを過ごしている。実際には6畳の広さがあるのだが、茶箪笥や書類入れのスペースを除くと、まさに方丈であり、そこで語られる苦汁に満ちた人生の悲喜こもごもは現代の方丈記にたとえられようか。
帳場の隣に、ソファーを置いた応接間が一応は造られているのだが、余程の場合以外、主たちは客をこの小さな帳場に招じ入れるし、客たちも心得たもので、帳場へ入り込み、雑談に花を咲かせていく。
200人は収容できるという和風の大きな旅館のなかで、実質わずか4畳半のこの小さな帳場が、主たちの居間、応接間、寝室、指令室といった、多様で重要な役割を仰せつかっているのである。
宿屋というところはもともと、客たちが人生のドラマの一端をのぞかせては去って行く舞台ではある。
しかしながら、この小さな帳場がとりわけ今日的な苦悩と人生の語られる方丈となったのは、戸塚ヨットスクールがこの閑村に登校拒否という「現代」を持ち込んでからのことである。
そして、今日もまた、静かに広がる海原を眺望するこの小さな部屋で、主夫妻は、北海道から訪ねてきた親たちとの四方山話に、ひとときを過ごしているのである。
主が女将の方を向いて、いった。
「この間も議会が終わってから、町長とヨットスクールのことを話してきた。百数十人も順番待ちがおって、それでもまだ毎日申し込みが増えているらしいよといったら、戸塚さんところが繁盛なのは結構な話だが、日本はいったいどうなっとるのかねと、顔をくもらせておった。全く、えらい世の中になったもんだ」
「結局、私どもが甘やかせてしまったために、子供がああいうふうになったんだと思います。今になって振り返ると、いろいろ思い当たることがあるのですが、息子がああいうふうになるまでは全然気づかずに、これでいいものだと、疑うことすらしませんでした」
母親の述懐である。
「若いうちに厳しい生活をしておくのは、本人のためですよ」
と、主がいう。
「私たちも軍隊で厳しい訓練を受けましてねえ。その時はつらいと思ったものだが、後になってみると、随分役に立っている。敗戦後の苦しい時期も、それで乗り切ることができた。戦前がみんなよかった、といっとるわけじゃないんですがね」
「私どもに好一という跡取り息子がおりますんですがね」
と、女将が後を受けた。
「高校に上がった時から、東京にいる叔父の所に預けて面倒をみてもらいました。叔父は大学で教えておったりしとりましたのですけれど、昔気質の大変厳しい人でして、好一はそこでビッシリ、仕込まれたと申しております」
そこへ、この家の長男好一が顔を見せ、
「何の話?」
と、帳場へ入ってきた。
「あ、噂をすれば影だ」
と女将。
「お前も、1つ間違えばヨットスクール行きだったという話さ」
主がいった。
「あ、あの話か」
好一はうなずいた。
「あの時は、厳しかった。なにしろ、寄り道というのが絶対許されない。学校が終わると真っすぐ家へ帰る。叔父が時間を計って待つとるわけです。帰るとすぐ、机に向かって勉強。とにかく、常に机に向かっていないと、バシッとやられましたなあ。
叔父の家では何人もの学生が同じような生活をしとりましたが、苦しくて脱落した者もいる。私も当時、自分だけがなんでこんな時代離れした学生生活を送らなくてはいけないのかと、恨めしく思ったものですが、今にして思えば、あれで救われた面が随分ありますねえ」
この旅館で見ていると、情緒障害児を持った親にはある種のタイプがあることが、おぼろげながらわかってくる。
父親はしっかりしているが寡黙で、母親がとりとめなくよくしゃべる、出しゃばり型。
母親は控え目で、しっかりしているけれど、父親の方があまり意味のないことをよくしゃべる優柔不断型。
両方のタイプに共通しているのは、力関係において父親が弱く、母親が強いということである。
中には、両親とも「あ、これじゃ、ダメだ」というタイプもいる。
逆に「こんな立派な人たちから、なぜ、ああいう子が育ったのか」といぶかるような夫婦もなくはない。
お手伝いさんたちの観察によると、食事の終わったお膳の上をきちんと片付けたり、運びやすいようにお盆の上に整理しているのはまれで、食べっ放しで平気という母親が圧倒的に多いという。子供はそれを見て育っている。
総じて、身勝手で思いやりがない。気がきかない。常識がない。
美人で、聡明、よく気がついて、しかも控え目。非の打ち所がない母親なのに、なぜ、こんな子供が――といぶかるような人は、これまでわずか1人である。