「致知(原文では"到知"となっていますが)より知止に至り、誠意より平天下に至り、灑掃(さいそう)・応対より窮理・尽性に至る」=
「大事」を達成するには、まずは身近な「小事」からきちんと為すべきだということ。
以下は、戸塚校長独自の解説です。
儒教の目的は「修己治人」(己を修めて人を治む)ですから、人の上に立とうとする人間は、まず修身から始めねばなりません。それが順序です。駄目マスコミ、木っ端役人、馬鹿殿、クソ裁判官、無能教師等、皆、己ができていないのに、人の上に立った人間のありさまです。
修身にも順があり、優しいものからやっていかないとものになりません。つまり、「人道に王道なし」という意味です。せっかくですから少し説明を加えておきますと、儒教の「知」は「知行合一」(ちこうごういつ)ということ。「できること」を「知っている」と言います。いわゆる、「単なる知識」ではありません。ですから、致知、知止、誠意、平天下、灑掃(さいそう)、応対、窮理、尽性は全て、「身につける」という意味。「灑掃より窮理」からいきましょう。
掃除ができれば幸福になる
よく、「掃除のできない奴は何をやらしても駄目だ」と言いますね。これが、子供に掃除をやらせる必要のある理由をよく説明しています。「掃除ができる」ということは、「掃除が完璧にできる」ということ。これが、「掃除の仕方を知っている」ということ。さらに、「掃除の理を窮めた」ということです。掃除を窮める(極める)ことによって子供が得るものは、@掃除のHow to A安詳恭敬(進歩する能力) B物の理 C幸福になる方法 です。
「兵法の利(理)にまかせて諸芸・諸能の道となせば、万事において、我に師匠なし」(宮本武蔵『五輪の書』)
――これは、Aの安詳恭敬、進歩には共通点があるから、それを身につけてしまおうということ。Cは、ちゃんとやると結果として幸福になるということ。「なるほど。幸福になりたければこうすればいいのだ」と体得することです。
自動車の好きな人は、車をきれいに洗います。ガソリンスタンドで洗車してもらっても自分で洗っても、結果は同じだけど、自分で洗うと何とも言えぬ満足感があります。これが幸福。自分の行動で目的を達成した時に、「幸福になる」ということを体得するわけです。
B物の理。ほこり、ゴミ、汚れにはそれぞれ、はたき、ほうき、雑巾を使います。ほこり、ゴミ、汚れはそれぞれ、物の性が違うからですが、丸太と斧の関係のように、道具と物の性質をうまく利用しないと、ちゃんとした仕事ができません。
皿洗いをすると、水と油の相性の悪さが分かります。ここに、洗剤という両方に相性のいい物を仲立ちとすると、相性が良くなってしまいます。人間関係でも一緒ですね。相性の悪い2人を協力させる時に、両方に相性のいい人を間に入れておくとうまくいくものです。
窮理はこのように実際の仕事に役立つばかりでなく、人の理にも役立ちます。「水と油だ」とか、「火に油を注ぐようなもの」とか、物と精神を関連づけた言葉がたくさんあるゆえんです。
「能(よ)く人の性を尽くせば則(すなわ)ち能く物の性を尽くす」(『中庸』)
――これは、逆の場合もあるようです。
このように、灑掃から始まり、順次、体力、気力に合わせて薪割り、ウインドサーフィンとグレードを上げ、理を窮めていきます。
精神的・肉体的技術は行動抜きには創られない
「物の理を知る」「理を窮める」「道を極める」は、名人になるということ。言い換えれば、「技術を創る」ということです。人道の場合も全く同じで、「人の性を尽くす」「理を窮める」は、「精神的技術を創る」ということ。技術は、正しい行動によって創られますから、人道も行動抜きにはできません。修身は行動なんですね。
今の受験戦争は、単に知っているだけの"秀才"を量産し、彼らがマスコミ、役人、重役、裁判官、先生になっていくわけですから、うまくいくわけがありません。仕事もちゃんとできないし、人間関係も子供並み。人の上に立つ能力に全く欠けています。
人道は精神的技術ですから、精神的行動により、創られます。ただし、精神的行動をするためには、肉体的行動が必要なのです。ややこしいですが、このことは「安詳恭敬」の章で書こうと思います。
「灑掃・応対より、尽性に至る」――「性」は人の性のことを言っていると思われます。
「天の命じる。これを性という」(『中庸』)
――「天性」です。本能のことだと思えばいいでしょう。
何度も言うように、理性は本能を発揮する技術のことです。ですから、自分で創るより仕方がありません。理性は遺伝しませんよね。偉大なる人の子供でも、親ほどではないし、時にはとんでもない二代目ができ上がり、三代目で身上をつぶしてしまいます。今の日本の状態です。理性が遺伝するのなら、教育は必要がないわけですから、教育問題も発生しないし、日教組に日本をつぶされてしまうこともなかったわけです。
「生まれながらにして理性がある」とする欧米流精神論は大間違いです。精神は、知・情・意の三つからでき上がっています。
情報→情報処理→行動
情報処理の部分が精神ですから、「知」で外部の状況と、それに合わせた状況を判断し、「意」で目的に合わせて情を調節し、「情」で行動させます。つまり、「正しく(知)、強く(情)、安定した(意)理性」を、通常我々は「精神」と呼んでいるわけです。
儒教ではこの三つを「知仁勇」としています。
「知、尽、勇の三者は天下の達徳なり」(『中庸』)
そして、正しく、強く、安定した状態を「誠」と言います。
「これを行う所以のものは一(いち)なり」(『中庸』)
「一」は「誠」です。
「誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり」(『中庸』)
物でも人でも、誠を身につけるのが道であり、「道を修むる、これを教えという」(『中庸』)
つまり、徳育です。徳育は技術を創ることですから、具体的なことで行動しなければ、技術はできません。その取っ掛かりが、灑掃・応対です。
応対については、人道そのもののトレーニングですが、「礼」の説明から入らねばなりません。「詩、礼、楽」というのは大変重要であり、しかも誤解されていることですから、また折をみて書くことにします。
「その次は曲をいたす。曲よく誠あり。誠あれば則(すなわ)ち形(あらわ)れ、形るれば則ち著しく、著しければ則ち明らかに、明らかなれば則ち動き、動けば則ち変じ、変じれば則ち化す」(『中庸』)
――曲は、具体的な技術。「文武両道でなくては大物になれない」ということです。
「君子の道は辟(たと)えば遠きに行くに必ず邇(ちか)き自(よ)りするが如(ごと)く、辟えば高きに登るに必ず卑(ひく)き自りするが如し」(『中庸』)
徳育に王道なし。「致知より知止に到り、誠意より平天下に至り」についても、折をみて述べていきたいと思います。