六芸 <射、御 T>
「孔子の弟子3千人。うち六芸(りくげい)に通ずる者72人」(『史記』)
この72人が、孔子の高弟です。「六芸の名人でなければ君子になれない。大人物じゃない」ということになります。
儒教は、「修己治人(自分を大人物にして、指導者になる)」が目的です。大人物でなければ指導者にはなれません。小人物が指導者になると、一般人は被害をこうむります。
今の日本の4大権力者(=司法、立法、行政、マスコミ)が小物だから、教育も経済も崩壊し、社会不安が増してきました。指導しようとせず、支配しようとするのが小物の特徴ですから、たまったものではありません。
小物を大物にするのが「徳育」です。日教組は、徳育の意味も目的も内容も知らずに否定し、文部省(現文科省)がそれを黙認したため、大物が育たなくなってしまったのです。マスコミは日教組を褒めたたえ、政治家は知らん顔をし、司法は味方しました。
我々一般人も、大物にならなくてはなりません。大物でなければ、自分の持ち場をまっとうできないし、本当の幸福もつかめません。徳育は、教育を受ける者全てを、大物にしようとしているのです。
大物になるための、6つの技芸
六芸は徳育です。このことは、「薪割りは徳育」をお読み頂いた方には、すぐお分かり頂けるでしょう。大物は、「文武両道」「知行合一」でなくてはならないからですね。幼少時から東大合格を目指して受験勉強に明け暮れた者が、大物になれるはずもなく、その「勝者」が権力者になるのですから、我々はたまったものではありません。
周の士君子が身につけるべき、基本的教養として課せられた6つの技芸。つまり、「礼、楽、射、御、書、数」。これを六芸といい、孔子が理想としたものです。礼儀、音楽、弓術、戦車術、書道(国語?)、数学のことと言われていますが、それぞれの目的を考えると分かりやすいでしょう。
「安詳恭敬」が"進歩の法則"であることは、既に説明しました。六芸も安詳恭敬にかなっています。「礼」「楽」は話が面倒になるので、まず「射」「御」から。
達巷村の人が言った。「孔子はどうしてあんなに何でもできるんだろう。いったい、どれが専門なんだろう」
孔子が笑いながら弟子に言った。「射にしようか。御にしようか。そうだ、御がいい」(『論語子罕(しかん)』)
孔子は何でもできる人だったけど、射と御、特に御がお気に入りだったようです。
射、御、ともに意志と感情のトレーニングになります。射は主にソフトウエア(理性)を、御は主にハードウエア(本能)をトレーニングすることを目指しています。安詳の最高のトレーニングですね。
射は武器の練習で、危険が伴います。目的は、ウインドサーフィンなどで創った感情と意志を、実地に応用すること。「クエの法則」の確認でもあります。
スクール生には、射のトレーニングをするように言っておきました。これは、"パチンコ"でできます。的を作り、そこに感情を集中させて玉を放つ。
"狙う"のではなく、当てようと"思う"だけです。完全に集中できれば、的が浮かび上がってきます。
御は、戦車を自由自在に操る名人になることです。が、車といっても今の車とは全く違い、当時の車はタイヤもスプリングもオイルダンパーもありません。それで道なき道を走れば、でこぼこや石のショックを拾って跳ね回ることでしょう。御者は、落ちないように必死でつかまりながら、しかもそれを制御しなければなりません。大変なことでしょう。
「御」で本能を鍛える
「恐怖、驚愕、怒りとウインドサーフィン」のところで言ったように、「死の恐怖」という最も質の高い恐怖を上回る「怒り」を発生させなければ進歩は有り得えません。また、その怒りを制御する強い「意志」も必要です。車に乗るという戦々兢々を繰り返した御の名人の、本能のランクの感情と意志は、最高の状態になっていることでしょう。おまけとして、判断力、習得論、脳と肉体の健康も手に入ります。そして、本能のトレーニングであるだけに、終わった後に最大の満足感、幸福が味わえるのです。孔子が、「専門家になるなら御」と言ったのも頷けます。
スクールで利用している小型ヨットやウインドは、このメカニズムを持っているために、教育効果が上がります。こういうことは、欧米流の精神論では歯が立ちませんね。儒教によく「戦々兢々」という言葉が出てくるのも、意味があることです。
オートバイでスクランブル(不整地走行)のトレーニングをして、うち(戸塚ヨット)と同じ効果をあげている所の話を聞いたことがあります。まさに「御」ですね。
このように、御は主に本能のトレーニングをします。本能が強くなければ、教育はうまくいくはずがありません。
ウインドをやっていると、己が分かってきます。具体的な能力、その正しい評価、他との比較。己が分かり、他と比較できるということが、「恭敬」の能力を創り、「礼」「楽」へとつながっていきます。
「曲(きょく、技の変化)能(よ)く誠(まこと)あり。誠あれば則(すなわ)ち形(あらわ)れ、形るれば則ち著しく、著しければ則ち明らかに、明らかなれば則ち動き、動けば則ち変じ、変ずれば則ち化す」(『中庸』)
オ勉強ばかりでは、決して大物になれません。まずは「灑掃(さいそう)」から。