六芸 <射、御 U>


儒教の目的は「進歩」にあります。まず人間性を進歩させ、その人間性を使って社会性を進歩させる。その社会性で、国の指導者となる。"修己治人"です。「国の政治は、大物、大人物でなければできない」ということでもあります。

進歩は「行動」抜きにはあり得ません。オ勉強ばかりしていては、大物には決してなれません。大物は、必ず文武両道なのです。
進歩するということは、力が強くなるということでもあります。日教組は、「強さ(力)=武力=暴力=悪」という、訳の分からない公式を作り上げました。そして、力を否定し、道徳教育までその公式に取り入れて否定してしまったため、日本は強い者を育て損ないました。当然、最も弱い者が東大を出て権力者となり、日本は衰退に向かっています。

「力」は群れのためにあります。溺れた子供を助ける人は水泳が強く、まずその力を自分が溺れないために使います。そして、余力で子供を助けるのです。弱い者は人の役には立てません。これが、精神の弱さとなると致命的です。「人のために」という気持ちが、全く起こらないのです。弱い者は、自分のことで精一杯ですから。
ヨットスクールでは、精神的に強くなることを第1の目的にしています。生徒に対し、「ある時、ふと、『他人のために』と考えていたら、それはおまえが強くなってきた証拠なんだ」と教えていました。

「権力者」の「権」という字は、重さを測る「おもり」の意味であり、「はかる」の意味。おもりは重量によって変えますから、「臨機応変」の意味があります。
「未だ与(とも)に権(はか)るべからず」(『論語子罕(しかん)』)
権力者とは、力を正しく、自由自在に使える人のことで、当然のごとく「強い人」でなくてはなりません。

私が今放り込まれている「刑務所」は、驚くべき人権無視のところです。が、これも、官僚から小役人まで与えられた権力を、彼らが"自分のため"にしか使わないからです。日本が人権大国だなんて、とんでもない。4大権力は人権侵害を平気でし、いけしゃあしゃあとしています。我々は、人権の意味さえもよく分かっていないのです。

「射」はソフトウエアのトレーニング

さて、「六芸(りくげい)」の「射」の話をします。「射」は弓の名人になることです。「御」は、本能としての安、詳を強くすることでした。ハードウエアのトレーニングです。これに対し、「射」は理性レベルの安、詳のトレーニングをします。ソフトウエアです。以前、「安詳恭敬」の「詳」のところで説明した、「一所懸命」になる能力を養成します。

「御」(昔の戦車の操作)や、ウインドサーフィンでは、本能は「命がけ」(の状況)と判断するため、強い感情と意志を発生させざるを得ません。理性が思おうと、思うまいと、本能は「一所懸命になろう」となってしまう。だからこそ、本能のトレーニングができるのです。ところが、そうした特性は、ソフトウエアを創る上では短所となってしまいます。そこで、理性だけをトレーニングするために、「射」が必要になってくるわけです。

「御」で一所懸命になる"能力"(ハード)を養っても、それが"発揮"(ソフト)できなくては意味がありません。この、"発揮"の仕方のトレーニングが、「射」にほかなりません。いついかなる時も、どんな物に対しても、「安詳」になるためのトレーニングです。

『武士の娘』に、当時5歳位の主人公・鉞子(えつこ)が、書道の寒稽古をしている様子が描かれています。
――大寒の朝、障子を開け放ち、暖房も全くない部屋で書を行っていた時、側にいた乳母がすすり泣いていた。ふと気付くと、寒さのために指が紫色になっていた。――
わずか5歳の子が、これほど一所懸命になれるのか、とそらおそろしくなります。人間の意志というものは、すごいものです。

茶道も華道も、「道」のつくものはみな、これを目指しています。天から与えられた能力を、最大限に活かそうとしているのです。
しかし、ルースベネディクトは『菊と刀』の中で、このことを「茶道、華道といった無邪気な遊び」と一蹴しています。しかも彼女は『武士の娘』を読んでいるのですから、その内容を理解する力がなかったのでしょう。合理主義に凝り固まり、「理性を創る」ということに、全く思いが至らないからです。
それにしても、『菊と刀』を激賞する日本の学者とは、いったい何なのか。教育荒廃が起こるのも、仕方ない気がします。

感情の強さは、動物にも当然あります。が、その強さを永く持続することはできません。これは人間だけがなし得る、意志の力によるもので、人間が進歩するのは、意志をいかに強く、永く持続させるかにかかっています。「御」も「射」も、そのためのトレーニングになります。