六芸 <書、数 T>


「書」、「数」の目的は、「理性を創る能力」のトレーニングです。
儒教は、「正しく、強く、安定した理性」を創る方法です。
私は、薪割りのような肉体的技術も理性だと思っていますが、ここでは、いわゆる理性、つまり、精神的技術を考えましょう。

技術を創る方法は、「正しい行動」、これしかありません。仏教では、「業(行動)により報(技術)ができる」としています。「業報(ごうほう)」です。
薪割りは肉体的技術ですから、肉体的行動で創っていきます。いわゆる理性は精神的技術ですから、精神的行動で創ります。仏教では、「業」を「身(しん)・口(く)・意(い)」の3つに分けますが、「身業」で薪割の技術を創り、「意業」で理性を創ります。

精神的行動(意業)とは、「考える」ということです。「安詳恭敬」の「詳」の部分が、技術の種類によって違う、と思えばいいんですね。
子供が妙なわがままを言って、ガキ大将にいじめられる。子供は、何が悪かったか必死に考える。これが「詳」。これを繰り返しているうちに、人間関係において、正しい理性ができ上がっていくのです。何でもかんでも「イジメ」とひとくくりにし、イジメ撲滅を叫びますが、正しい「いじめ」は無くしてはなりません。いじめられる子供の利益にもなるのですから。欧米流の精神論には、「理性を創る」という考えが抜けていることを忘れてはなりません。

この、「考える能力」を養成するのが、「書」、「数」です。「書」は書道のことと解説されていますが、国語のことでしょう。国語を学習する目的は、コミュニケーション能力を高めるためばかりではなく、「抽象的思考能力」を養うことにあります。

"読み書き"の訓練は正しく反省する力をも養う

我々は夜、今日あったことなどを思い浮かべる時、簡単なことは頭の中で風景にすることも可能ですが、少し複雑になると言葉で考えています。言葉がなければ詳しく"考える"ことはできません。
ガキ大将にいじめられた子供は、その状況を言葉でトレース(追跡)し、反省し、少しだけ、人間関係に関する理性を進歩させます。ですから、ガキ大将は正しくいじめなければならず、子供は正しく反省しなければなりません。最近の陰湿な"イジメ"では(いじめ方が)駄目だし、いじめられる方も、いじめっ子のせいにするだけの合理化では、正しい進歩につながりません。

マスコミや日教組が変な知恵をつけるから、いじめは間違った方向に行ってしまいました。が、本来、子供の場合、正しくいじめ、正しくいじめられるのは簡単なのです。"本能のまま"にすればいいのですから。欧米型合理主義では、こういうところが分からなくなってしまいます。

大人も反省によって進歩していきます。そして、反省は言葉で行います。正しく反省する能力を子供のうちに創っておくことは、一生の宝となります。国語は、この能力を創るための重要な要素です。"読み書き"はしっかりとやっておかねばなりません。

仏教では、「正念(しょうねん)」のうちの「心念住(しんねんじゅう)」がこれにあたります。「心念住」は実にうまいやり方で、瞑想の中で、自分の理性を本能に照らし合わせて反省し、正しい理性を創り上げていきます。瞑想は自分の本能を見る方法であり、そして、正しい理性を創る素晴らしい方法です。

昔の子供は、知らず知らずのうちにこれをやって成長していました。しかし、今の子供は屁理屈をこね、正しく反省できなくなっています。マスコミや、「誉める教育」のおかげで、合理化が激しくなってしまったのです。
「生まれながらに理性がある」とする、欧米式精神論にかぶれた、アメリカのオウムのような連中の責任ですね。日本式の精神論をちゃんと理解し、ものにしていれば、欧米式の精神論の良さも悪さも分かり、両者のいいところを融合できたでしょうに。日本の秀才達は、あまりにも人間性が弱かったため、100%拝米主義となり、教育を崩壊させてしまったわけです。

「反省」については、重要なことなので、また項を改めましょう。