六芸 <書、数 U>


「書」は国語、抽象的思考能力をトレーニングするのが目的ですが、「数」の方は論理的思考能力のトレーニングが目的となります。注目されている"陰山メソッド"は、これに当たるのだと思います。
私は今から50年も前に、北九州の中学校で毎日15分、それをやらされていました。簡単な数学の計算問題が紙いっぱいにあり、始めは2割ほどしかできなかった。それが、2ヶ月もすると全部できるようになるんです。

論理的思考能力はまず、抽象的思考能力がなければできません。だから、「書」「数」は一体のものです。寺子屋の"読み書きそろばん"は、まことに的を得た教育と言えるでしょう。

昔、「日常生活の計算は、足し算、引き算、掛け算、割り算で充分だし、電卓もあるからうちの子供には数学はやらせない」と、威張っている親に会ったことがあります。これでは、子供の将来はありません。<正しく考える>という精神的行動が、正しい理性を深めていくのです。思考力のない子供は、行動力のない運動選手や職人と同じで、たいした進歩はしません。

いくつになっても、精神的に子供のままの人、結構多いですよね。徳育が駄目なためにトレーニング不足になっているか、あるいは、数学を怠ったのでトレーニングの能力がなくなっているか…。理性は技術(ソフトウエア)であることを、肝に命じておかねばなりません。自分で創るんです。方法は、正しいトレーニング、つまり正しく考えることです。

仏教・儒教には、この方法が述べられています。逆に、仏教・儒教を読む時には、このことを頭に入れておかねば正しい解釈はできません。般若心経の真髄は、「五蘊(ごうん)皆空(かいくう)」にあります。「照見五蘊皆空」ですが、この「照見」の部分を原語(サンスクリット語)で読むと、2つの部分に分かれます。
「五蘊があると観察し、それぞれが"空(くう)"であると法則化した」
「五蘊」や「空」については、教育上、非常に重要なことなので、項を改めようと思います。

「照見」は、「物の見方、考え方」ということ。通常、我々が「理性」と呼んでいるのは、この2つです。ぱっと判断するのが「物の見方」、じっくり考えて判断するのが「考え方」。正しくそれができるのが、「正見(しょうけん)」「正思(しょうし)」(仏教)です。「書」「数」は、その基礎を養うことを目的としています。

「正しさ」について、儒教では「学んで」正しさを身につけるのですが、仏教においては、自然の法則を利用した実にうまい「反省の仕方」を採用しています。
儒教の中に、「自ら(明徳を)明らかにするなり」(『大学』)というのがあり、これが仏教の方法に似ているかとも思いますが、詳しいことが書いていないのではっきり分かりません。
「日に三度(みたび)吾が身を省みる」(『論語』)とありますから、やはり「正しさを学ぶ」のが儒教の方法論だと思います。

「御」「射」は情と意のトレーンニング。「書」「数」は知のトレーニングを目的としています。