六芸 <礼、楽 T>
「礼」の目的は2つあります。
(1)自分の進歩、
(2)社会の進歩です。
(2)については、「楽」のところで述べましょう。
「安詳恭敬」は進歩の法則であり、『小学』の一番初めに出てきますが、何も子供だけではなく、当然、大人の進歩にも当てはまります。
「御」「射」「書」「数」は、安詳のためのトレーニングです。「礼」は恭敬のため、「楽」は全てのトレーニングになります。
進歩するためには、「進歩したい」、「進歩しよう」という意志が必要です。この意志が「勇」ですが、恭敬によって創られます。「礼」を嫌がる人は、自分を偉いと思っている人、思いたい人、虚栄心の強い人です。
このタイプはけち臭い小人物なので、礼を尽くすのは、相手にいい思いをさせるためだと思っているんですね。ヨットスクールにもよくやって来る、自己愛的、妄想的な子供達がこれに当たりますが、今の子供達は全体的にそうなってしまっていますね。
"誉める教育"を推し進め、家庭では母性と父性のアンバランスを創りだし、学校では平等の意味を取り違えて、尊敬されることを否定した、「仰いでも尊くない」先生達によって、こうした子供がつくられました。大人になっても、中身は子供のままという人、結構多いですよね。
「矛盾が変化を起こさせる」――マルクスの弁証法ですが、「礼」という矛盾が、進歩という変化を引き起こすのです。マルクスを信望していたはずの日教組が、教育の場に妙な平等を持ち込むのは、それこそ矛盾でしょう。「礼」は、自分の精神の中にあるものです。「礼儀」のことではありません。
自分の能力を正しく知ること(恭)。偉い人の能力を正しく知ること(敬)。これが「礼」です。「恭」はまた、分際を知ることでもあります。そこで、進歩するためには、分際を尽くさねばなりません。これが「忠」です。国学の泰斗(たいと)・安岡正篤先生の、「忠」の解釈には、
「矛盾を克服して進歩する」とあります。
まさに、名訳ですね。
この、弁証法そのままのような「忠」を日教組が否定したのは、「忠」を正しく知らなかったからでしょう。間違って使われた「忠」を、正しく使えば良かったのに…。
このように、古きを全否定しなければならない革命思想には、「敬」がすっぽりと抜け落ちています。
「礼」なくして"偉く"はなれない
「礼」が嫌われるのは、支配者、権力者、指導者側にも大いに責任があります。マンガ・『嗚呼(ああ)、花の応援団』の上級生のように、「礼」を自分の利益のみに使う、「礼」の一方通行が当たり前のように行われているからです。「礼」のもう1つの目的である社会の進歩が、全く頭にないのです。
「礼」は、上に立つ者にこそ要求されるものです。
「礼譲をもって国を為す能(あた)わざれば礼をいかん」(『論語』)=「礼で国を治められないなら、何のための礼だ」
これは、次の「楽」のところで述べることになります。
刑務所は、「礼」の一方通行のいい例で、「矯正」と口だけは立派ですが、全く教育になっていません。儒教、仏教の国なのに、惜しいことです。
「礼」と言うと、下の者が上の者に礼を尽くす、というイメージがあります。が、「これ(人民)を動かすに礼をもってせざれば未だ善ならざるなり」、「君、臣を使うに礼をもってし」、「これ(人民)を斉(ととの)うるに礼をもってす」、「国を為(おさ)むるに礼をもってす」、「上礼を好めば」(いずれも『論語』)など、「礼」は権力者、支配者、指導者にこそ求められるものですから、我々も「礼」に対するイメージを変えねばなりません。
「恭敬」は、自分を進歩させるのみならず、人をも従わせ、進歩させるものです。となると、大学を目指す人、偉くなろうとする人なら、「恭敬」、「礼」は身につけるべき必須事項になりますね。
それにしても、今は上も下も無礼者が多くなりました。「礼」がなければ「忠」はない。「忠」がなければ「楽」は起こりません。これが、"教育"や"経済"が崩壊した理由でしょう。
「礼といい礼というも玉帛(ぎょくはく)をいわんや」(『論語』)=「礼、礼と言っても、型のことではない」
こう、孔子を嘆かせたほど、「礼」は外見だけに堕ちやすいものです。しかし、「己(おのれ)に克(か)ちて礼に復(かえ)るを仁と為す」(『論語』)とあるように、「礼」と「仁」とは一体のものであり、全く内面的なものです。「礼」を身につけなければ本当の偉い人にはなれないと知れば、我々も「礼」を大事にできるというものです。