六芸 <礼、楽 U>


「礼」は、進歩を目的とした精神であることは、『安詳恭敬』を考えれば明らかです。
ヨットスクールにやって来る生徒達は人間性が進歩していないため、多くが子供っぽい、と言うより幼児っぽい。彼らは「褒めて伸ばせ」の犠牲者です。褒められ続けると、当然、"己"が分からなくなってしまいます。「礼」とは、己と名人の差を知ることによって生じるのですから、褒められると「礼」はできません。"無礼者"になってしまいます。

世を騒がす問題児をよく見ると、「決して人を認めない」というところが共通しています。日教組の訳の分からない平等思想が、子供から「礼」の能力を奪ってしまい、問題児をつくったのです。

「礼」は"差"から生じるもの

「礼」はまず自分のためにあるもので、「礼」を尽くさないと自分が損をするのです。そして、その「礼」は、「差」から生ずるものであることをよく理解しなければなりません。
「等殺(とうさい)は礼の生ずる所なり」(『中庸』)

「礼」は他の能力を認めることですから、今流行りの「個性を尊重する」も、「誰にでも何か優れたところがある」も、「礼」です。権力者が「礼」をもって支配すれば、「適材適所」となり、社会は発展します。
「上、礼を好めば、則(すなわ)ち民、使い易し」
「君、臣を使うに礼をもってし、臣、君に事(つか)うるに忠をもってす」(以上『論語』)
適材適所で使えば、持てる能力を全力で発揮します。

「これを斉(ととの)うるに礼をもってすれば、恥ありて且(か)つ格(いた)る」(『論語』)
(=礼で統制していけば、道徳的な羞恥心を持つようになり、正しくなる)
「恥を知るは勇(進歩しようとする意志)に近し」(『中庸』)
権力者が、「礼」でもって人民にうまく恥じをかかせてやれば、人民は進歩し、社会も進歩します。 だから、「良く礼譲をもって国を爲(おさ)めずんば、礼をいかん」(『論語』)、何の為の礼か、ということになります。
日教組の「道徳教育反対」で育った秀才達が権力者となり、国を動かしているのですから、国がおかしくなるのも仕方ありません。

男は会社に入り、係長になれば数人の長となり、課長となれば数十人の長となります。何よりもまず、一家の長とならねばなりません。だから、家族や部下の幸福のために、「礼」を身につけないといけないのです。これが男の責任です。
「礼といい礼というも玉帛(はく)を言わんや」(『論語』)
「礼」は、礼儀や外見のことではなく、己を知り、人を知る能力のことです。「恭敬」のことです。男として「礼」を身につけなかったら、自分も人も不幸にしてしまうのです。

進歩は行動抜きにはありえない

ここで「楽」の説明に移る前に、進歩について述べておきます。
いい車を手に入れたり、結婚したり、課長になったり、株で儲けたりした時、我々は幸福を感じます。人間は「価値」を獲得した時に喜びを感じ、幸福になります。進歩というのは、自分の価値が上がること、新しい価値を獲得することですから、当然、進歩した時には幸福になります。

しかし、"物"という価値は、獲得する度に喜びがどんどん小さくなり、次はもっと大きな価値を獲得しなければ同じ満足を得られなくなります。"物"で幸福になろうとすると、きりがないのです。その点、"技術"の方は、進歩し続ければいいわけで、その進歩した技術を使って行動する度に幸福を味わえます。

仏教、儒教のキーワードは「進歩」です。進歩で幸福になろう、ということだと思います。教育の目的も全く同じですから、仏教、儒教は、教育にそのまま使えるのです。「礼」も、その面から考えないといけません。

進歩は行動抜きには起こりません。今の教育のように、知育中心になってしまうと、益々行動しなくなってしまいます。体育でさえ、筆記試験を優先するという異様さです。知識そのものは、いくらあっても進歩には寄与しません。それを行動に移して、初めて進歩が期待できるのだということを、肝に銘じておきましょう。