六芸 <礼、楽 V>


「礼といい、礼というも玉帛(ぎょくはく)を言わんや。楽といい、楽というも鐘鼓(しょうこ)を言わんや」
(礼は礼儀のことではない。楽は音楽のことではない)(『論語』)
儒教の日本語訳を読んでいて、「まさか」と思ったり、「物足りない」と思うことがよくあります。きっと、訳者がよく分かっていないからでしょう。「礼」、「楽」についても、日本訳はまったくもって意味不明ですね。

「詩に興(おこ)り、礼に立ち、楽に成る」(『論語』)
「"楽"に成就する」のですから、「楽」が目的。修己治人の目的、つまり、人を治めて社会を「楽」にするのが目的です。
その目的を達成するために「礼」を使うので、君子は「礼」の能力を身につけねばなりません。「礼」を身につけるには、まず、人間性を完成させねばならないので、そのために詩(詩経)を習得しなければなりません。詩の意味については、ここでは述べないことにします。

「国家人民のために立てる君にて、君のために立てる国家人民にはこれ無く候」(上杉鷹山)
治人は人民のために行うもの。では、人民をどうすれば人民のためになるのでしょうか。それが「楽」です。
「楽」を分かりやすくするために、「創発」の説明から始めましょう。

「創発」とは

「創発」=「Emergent Property」…先行予件から予測することが不可能な発展。
「全体は部分の単なる寄せ集めではなく、それ以上のものである」(アリストテレス)
単に寄せ集めただけなら「和」です。ところが、その「和」の中にとんでもない素晴らしいものが混じっています。それが「楽」。
「Emergent」は、「新たに出現した」の意。昨年の「SARS」騒ぎの時に、「Emerging ウィールス」という言葉が使われました。
「Property」は「特性」。「創発」は、「新しく出現した特性」という意味です。

私達は、棒1本あれば、石ころを押したり、引き寄せたりできます。さらにもう1本使うと、今度は"つまむ"という能力を獲得し、今まで平面しか移動できなかった石ころを、空間まで移動させることができます。棒が1本から2本になったら、その能力の次元が変わってしまったのです。
棒の数が増えただけで、これほど劇的な機能の進歩をもたらす。これが人間ならどうでしょう。人数が増えると、とんでもない社会の進歩が期待できるのです。

「楽」は、「鈴をふって神を楽しませる」という意味です。楽しむこと、快感が発生すること。
先回述べたとおり、我々は価値を獲得した時に快感が発生します。その中でも、「進歩」が最高です。自分が進歩することも創発ですし、社会が進歩することも創発です。
「新しい能力を獲得すること」、これが「楽」です。
「大学の道は明徳(めいとく)を明らかにするにあり、民を新たにするにあり…」(『大学』)
治人の目的は、個人も社会も進歩させることです。

福沢諭吉、杉本鉞子の行動に「楽」を見る

「諭吉が、わが国を封建国家から近代国家へと転換させることなしには、国家の独立を維持するのは困難であるという使命感から、3度にわたる欧米視察中、知力の限りを傾けつくして、西洋近代文化の構造と機能解明のために精力的に見聞きしてまわった。……それまでのわが国の蘭学洋学研究は、医術、兵術、航海術など、技術が中心であった。けれどもその技術を生み出し、組織化する主体そのものにまでさかのぼって西洋文化を把握しなければ、単なる物まねに終わってしまい、新たな文化の創造などできようはずもない。他の者が汽車の速度やレールの寸法を面白がっている間に、諭吉は鉄道会社の経営について質問していた。他の者が外科手術や病理見本に讃嘆しているかたわらで、諭吉は病院の経営法や社会保証制度に注目していた。他の者がベルサイユ宮殿の音楽隊に聴きほれ、ナポレオン3世に敬意を捧げている一方で、諭吉はアメリカ大統領選挙や南北戦争の動向、それらの欧州外交への影響などを、事細かに『西航手帳』にメモしていた」

諭吉は、文化も文明も「楽」であることを、よく理解していたわけです。
「要するに、目の付け所の的確さもさることながら、他の者が目前の細部事項にかかずらわっている間に福沢はそれら細部を関係づけ、作動させる全体のオーガニゼーションに着目していた」(芳賀徹『大君の使節』…多田建次『海を渡ったサムライの娘 杉本鉞子(えつこ)』より孫引)

諭吉の行動から「楽」の意味が非常によく分かります。
技術の進歩も、芸術も、交通手段も、社会の繁栄も、「楽」として発生したものであり、その母体は社会であり、国である。自分の国も同じような発展をさせようとするなら、その社会の中にあるメカニズムを取り入れねばならない…。<この考え方が、明治以降の日本を、目覚しく発展させることになったのでしょう。

では、戦後の教育はどうでしょう。初めは押し付けられたものであったとはいえ、後でいくらでも修正できたはずです。諭吉のような考え方で接していれば、欧米流精神論を日本の教育に採用してもうまくいかないことくらい、すぐに分かったでしょう。彼らの方法では、日本の教育は「楽」にはならないのです。

『武士の娘』・杉本鉞子も諭吉も、外国の文化文明に対する態度が非常によく似ています。2人とも、外国と自国の2つの文化文明から、「楽」を創り出そうとしています。これができるのは、
「自分自身のアイデンティティを自国の文化伝統に置きながら、異文化をも寛容に受け入れる。そして、自国の文化に対する深い認識と衿時を抱きつつも、異文化への正確な理解と親しみを持っている」
「それは、東西両洋文化に対する、幅広い教養ばかりか、強靭な精神力、公正な視野、柔軟な思考力があって初めて可能なことである」。

秀才は、とかく外国かぶれになりやすいですね。会社でも、アイデンティティを自分の会社に置いていない人の判断や行動が困りもののように、外国かぶれの秀才の判断は、国にとって災いのもととなります。アイデンティティを自国の文化に置くのは、自国に対する「礼」です。
「礼に立ち、楽になる」
「礼」無き者は、「楽」を成すことはできません。