安詳恭敬(あんしょうきょうけい)



「張横渠(ちょうおうきょ)先生曰(いわ)く、
小児を教うるには、先ず安詳恭敬ならしむるを要す」(『小学』)
「安詳恭敬」には、教育を受ける者に必要な全てが含まれている。徳育においても当然不可欠であり、また、子供を安詳恭敬にするのも徳育の重要な目的である。子供のうちに安詳恭敬の能力を養っておかなければ、将来はなくなってしまう。安詳恭敬は、進歩のための重要な能力なのだから。

「人間という種は生物学的進化のある一つの産物である」「人間は自然環境と生物多様性の土俵で発生し、そのため自然環境は人間の"宿命"の重要な部分である」――「以上の2つを考慮しなくては哲学も宗教も意味をなさないだろう」(『Naturalist』1994、Edward.O.Wilson――アリの行動を研究した偉大なる生物学者 20世紀の最も重要な思想家の1人と言われる)。

薪割りは徳育の一例であるが、「掃除」も「応対」も、そして「遊び」も重要な徳育である。子供の全ての行動は、徳育として行っていると思っても差し支えない。ただ、いい加減な掃除、形だけの応対、ゲーム等の遊びには、徳育のメカニズムはない。

横渠の言葉には具体的な方法論が、ウィルソンの思想には目的が述べられている。しかし、ウィルソンの思想は既に2,500年前に釈迦や孔子が到達したのと同じ答えなのである。しかも、2人ともその目的を自分自身で完成し、その方法論を「仏教」「儒教」として法則化し、単なる思想ではなく科学にまで高め、誰でもが到達できるようにしているのだ。

意志の強さが「安定」をもたらす

「安詳」の、まずは「安」から。「安」と「詳」は対になっている。同様に、「恭」と「敬」も対となって働く。

「安」は安定のこと。まずは丸太を安定させる。これがぐらぐら動いては、うまくいかないのは当たり前。次に、斧の軌跡の安定。そして斧を使う人間の安定。人間の安定は、肉体の安定と精神の安定の2つに分かれる。

「お習字は、…唯に技巧にあったわけではなく…複雑なあの運筆を辛抱強く練習致しますことによって、精神力の抑制ということが練り鍛えられるものと思われていたからでございます。精妙な筆のあやには心の糸の乱れや不注意はおおうべくもなく表れますので、一点一画にも心を落ち着けて正確に筆を運ばなければなりません。このように、心をこめて筆を運ぶことを通して、私共子供は心を制御することを学んだのでございます」

「居心地よくしては天来の力を心に受けることができないということになっていましたので、火の気のない部屋でお習字を致しました。…お手習いは長い時をかけて、入念に致さなければならないものでございますから、その朝(一番寒いと言われる寒<かん>の9日目)すっかり指が凍えてしまいましたが、振り返って後に控えていた"いし"(乳母)が紫色になった私の手を見つめて、すすり泣きしているのを見ますまで、それと気づかないのでした」(『武士の娘』)

この時、著者である杉本鉞子(えつこ)は5〜6歳のはずだ。この齢にして現在の大人以上の集中力を発揮する。つまり、意志の強さもそれを発揮する力も既に充分備わっている。

安定させるのは意志の力とそれを発揮する技術の2つである。つまり、意志のハードウエアとソフトウエアである。この2つをトレーニングしなければならない。人間と他の動物の違いは、このソフトウエアの部分である。意志を永く続かせることができるから人間は進歩する。「安」は鉞子の言う通り、「天来のもの」。すなわち「徳」なのだから、鉞子は習字を手段として徳育をしている。

淳子(校長の長女)からの手紙にこう書いてあった。「晋平(スクールにいる小学5年生の男の子)は縄跳びの二重飛びで174回飛び、学年で1番になりました。朝早くから、夜シャワーを浴びた後9時ごろまで、学校でも休む間もなく練習。夜は部屋に入るとボーっとしている。晋平は今、身体を動かすのが楽しくてしょうがないんですね」。――庶民・晋平も順調に徳育を行っているようだ。

子供が動き回るのはこの徳育の為なんだから、部屋の中でゲームばかりしている子供や、テレビばかり見ている子供は将来ちょっと困ったことになってしまう。晋平も次は、習字のような静かなことに集中するトレーニングをするといいだろう。

好きであろうと嫌いであろうと、面白かろうと面白くなかろうと、やるべき事に集中できなければ、大人になってからうまくいかないからだ。

安定なくして、能力発揮はありえない

前かがみになって重い物を持つとひっくり返ってしまう。だから重い物を持つためには、まず身体を安定させなければならない。人間は安定しなければ力が出せないようになっているのだ。王貞治の一本足打法も、一本足で安定して立てるようになった時、完成した。大人2人で押しても動かなかったという。

強い力士は必ず下半身が安定している。肉体も技術も、ハードもソフトも安定しなくては、その能力を発揮できない。

精神は知・情・意の3つからなっているから、それぞれを安定させる必要がある。安定させるのは意志なのだから、まず何よりも意志そのものを強くし、安定させることが必要なのだ。

知・情・意を安定させることができれば、正しく(知)、強く(情)、安定した(意)精神を創ったことになり、これが徳育の目的となる。正しくなければ安定しないし、強くなければ安定しないからだ。戦後教育は不正を教え、強さを否定したために不安定な子供がたくさんできてしまったのだ。

冬の戸外、子供達が寒さも忘れて夢中で遊んでいる。あの姿はハードウエアとしての知・情・意をトレーニングしているのだ。「武士の娘」のやり方は、ハードウエアとソフトウエアの両方をトレーニングしている。薪割りもハードとソフトの両方のトレーニングができる。

精神の場合、ハードは本能、ソフトは理性である。欧米流の精神論が賞賛してやまぬ理性は、本能という能力をうまく引き出す技術に過ぎないのである。正しく、強く、安定した本能から、正しく、強く、安定した理性を創ることができる。だから徳育は、まず、正しく、強く、安定した本能を創るところから始めねばならない。