安詳恭敬 (その2)


淳子(長女)が3歳の時のことです。家の前のアパートは外側に2階に上がる階段がついていますが、ふと見ると、その階段の外側を淳子が上がっていきます。身体は完全に空中です。必死の形相で、手すりを支えている鉄の棒につかまりながら2階までのぼりきり、よいしょと高い手すりを乗り越えてニッコリ笑いました。私は途中で声をかけるわけにもいかず、ただ、手を握りしめて無事を祈るのみでした。

私も3〜4歳の頃、下駄を履いたまま木に登り、高いところから落っこちたと母がよく言っていました。子供はどうしてあんなに危ない遊びをするのでしょうか。それは、その遊びが先回述べた「本能のトレーニング」になっているからです。

危ない遊び、つまり身の危険を感じる遊び、もしかしたら死んでしまうかもしれない遊びを通じ、昔の子供達は強く・正しく・安定した本能を手に入れたのです。そして、これがなければ、強く・正しく・安定した理性はできあがりません。

淳子は我が子ながら強く、優しく、温かいと感心しますが、それはこのような遊びがつくり上げたのです。また、ヨットやウインドサーフィンはこのメカニズムを持っていますので、小さな子にやらせると、その子の将来のために大いに役立ちます。

「祖母は私を可愛がっては下さいましたが、古風なあのお考えでは私の将来を理解して頂くことはできないのではないかと思われました。が、その夜、祖母と話し合っていますうちに、武士の躾を受けた人は来るべきどのような事にも処してゆけるものだということを悟らせられました」「住む所はどこであろうとも、女も男も武士の生涯には何の変りもありますまい」(『武士の娘』)。

江戸時代生まれの著者・杉本鉞子(えつこ)のおばあさん(実は曾祖母)は、鉞子がアメリカへ嫁入りするのに仰天するどころか、自信を持って送り出します。どこでも、いつでも、何をしても、誰とでもうまくやっていける。これこそ徳育の目的と言えましょう。

その結果として、(誠を貫けば)「さすればお前はいつでも幸福になれましょうぞ」(『武士の娘』)ということになります。徳育の目的は、「自分が幸福になること」でもあるのです。

「怒り」を集中させる

次は「安詳恭敬」の「詳」
私は、スクールで時として生徒に講義をし、「一所懸命」を教えることがありました。「一懸命」――「一懸命」ではありません。
私「どのようにしたら一所懸命になれるか?」
生徒「?…」
私「今やっている事だけを考えろ
生徒「なるほど」

クエの法則――「肉体は精神が望むことを実現しようとする」。
我々は何かを行おうとする時、必ず「うまくやろう」として行っています。ですから、今の行動に集中すれば必ず進歩します。「どうせ僕は何をやってもダメなんだ」と思っている負け犬、実に多いですね。彼らには、そろって「詳」の能力がありません。そわそわ、キョロキョロで集中できないのです。

薪(まき)を割る場合は、まず斧(おの)の歯を入れる部分を探し、そこをじっと見つめます。そして、態勢を整え、余分な力を抜き、息を止めてストンと刃を下ろします。

集中させるのは「意識」なのですが、主なるものは「感情」です。それも、「怒り」を集中するのです。ここに「恐怖」が混じってくると失敗してしまいます。「もしかするとうまくいかないかもしれない」――これが、不安(恐怖)を発生させますから、それが混ざると、クエの法則により、失敗してしまうわけです。

下手なうちは必ず恐怖が混じります。技術ができ、怒りのみを集中できるようになった時、我々は「自信ができた」と言います。
「定まって后(のち)能(よ)く静かに…」(『大学』)
「静かに」は強い感情、特に怒りが安定した状態です。「詳」ですね。そのための定、集中力です。諸葛孔明の『子を戒むる書』を見てみましょう。

「静もって身(心)を修め、…寧静(ねいせい)に非(あら)ずんば以(も)って遠きを致すなし。…静に非ずんば以って、学を成すことなし」 「年、時と与(とも)に馳(は)せ、意、歳と与(とも)に去り、遂(つい)に枯落と成り。窮慮に悲歎(ひたん)するとも、将(は)た復(ま)た何ぞ及ばん」

意志の強さが「安定」をもたらす

子供の時に「安」と「詳」を創りそこなうと将来がなくなってしまいます。我々はスクールで、将来どころか、既に現在がダメになってしまっている子供達をいやというほど見て来ました。「逆もまた真なり」――「安」と「詳」はこの関係にあります。

実験をしてみましょう。片足で立って靴下を履きます。バランスが少し崩れてぐらついたら、つま先に意識を集中します。するとぐらつきがピタリと止まります。「安」「詳」がある程度できる人なら、必ずこうなります。安定しなければ一所懸命になれないけど、一所懸命になれば、当然のごとく安定してしまいます。

「安」と「詳」は、このように一対となっているものです。この事実は次のように考えられます。安定するという行動は、恐怖が行なわせる、と思われます。靴下を履くという行動は、怒りがさせますから、怒りはそこに集中し、バランスを取るという行動には無意識に恐怖が集中するからでしょう。靴下の方に恐怖が混ざったり、バランスの方に怒りが混ざったのでは、一所懸命とは言えません。

不快感を悪いものと思っておられる方も多いことでしょうが、「あるものは全て善」です。あるものを「徳」と言うわけですから、徳は善です。「快を求め不快を避ける」、これが人間の行動原理ですから、不快感がなければ人間は行動しません。不快感は人間を行動させるエネルギーです。恐怖、驚愕、怒りを毛嫌いするような事をせず、しっかりトレーニングして、強く・正しく・安定させておかねばなりません。

欧米精神論は、どうしても感情を悪いものとして無視するようですが、感情を嫌う、その感情をどう説明するのでしょうね。一口に言ってしまえば、「本能は正しいが理性は間違っている」が東洋式、「理性は正しいが本能は間違っている」が西洋式の精神論です。理性を絶対のものとしたアリストテレスの"夢"を、西洋はまだ引きずっているとしか思えません。

孟子の性善説の「性」は、「天の命ずる、これを性という」(『中庸』)の性ですから、「本能は正しい」と言っているわけです。この点、「性悪説」は間違いとなります。性が悪なら、人間はとっくに滅亡してしまったことでしょう。性じゃなしに、「理性」が悪なのです。

『般若心経』の「照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)」の「照見」は、原文では「正見=正しく観察し、正思=正しく法則化した」となっています。仏教も儒教も、このようにデータを集め、法則化するという、科学的方法を採用しているので、信用できるし、かつ、実用的なのです。

「古い」とか「けしからん」とか、妙な否定の仕方は厳に慎まねばなりません。一方、その良さを説こうとする者も、科学的に説明しなければなりません。