安詳恭敬 (その4)


「安詳」の総論を話しましたので、今回は「恭敬」の総論を述べておきましょう。大事なのは各論なのですが、なかなかそこまで行きません。

「恭敬」は、「目標設定」のこと。恭敬こそ、人間のみが他の動物に優れて持つことができるものでしょう。これがあるからこそ、人間は「進歩したい。進歩しよう」と思います。

「恭」は、己の本質を知ること。「敬」は名人の本質を知ることにより、生まれます。薪(まき)割りのように、同じ行動をしてみた時に、己の駄目さと名人の素晴らしさを実感し、恭と敬が同時に生じます。そして、名人を師と仰ぎます。「この人に教えてもらおう。この人に学ぼう」とするのですね。

仏教では、教育の総論を「開示悟入(かいじごにゅう)」としていますが、この「開」は、「学ぼうと心を開く」ことですから、恭敬の状態のこと。「仰いで尊くない」先生は、始めから教育者の資格はありません。だから、教育崩壊が起こるんですね。だいたい、先生と生徒が「オトモダチ」では、恭敬は生じません。

価値観と時間の流れが「進歩欲」を創る

「理性とは技術なり」と何度も言いましたが、精神的技術のみならず、肉体的技術も当然、「理性」です。素晴らしい職人技も、野球選手のファインプレーも、おじいさんの薪割りも、我々が自転車に乗るのも、サーカスの熊がオートバイに乗るのも、全て「理性」であり、自分で創ったものです。

熊にも理性がある、というと、アリストテレスはかんかんになって怒るでしょうね。「それは技術知だ」と言うことでしょう。しかし、熊と人間の理性には、歴然とした違いがあります。熊は、何もオートバイに乗りたいと思ってトレーニングしたわけではありません。が、我々は、自転車に乗りたいと思って練習しましたよね。それは、自転車に乗れるようになることが、我々にとって「価値」だからです。

我々は、価値を目標として設定します。もう1つは「将来」。努力の結果が出ることを予想できるからです。熊は、「価値観」もなければ、「時間の流れ」もよく分からないから、自分で進歩しようとは思えないのです。

恭敬は、人間が持つ、素晴らしい価値観と、時間の流れを知る能力から生じます。訳の分からない平等思想から恭敬を否定した、考える力のない一派が教育を乗っ取ったから、日本は傾いてしまったのです。

恭敬は、我々に「」を生じさせます。恥という感情は、「進歩しよう」という強烈な意志を発生させます。これが、「安」につながり、「詳」につながってトレーニングが行われるのです。安詳恭敬は、人間性の重要な一部であり、この能力を強化しておかねば、その人の将来はありません。これが徳育の基本、いや、徳育そのものと言ってもいいでしょう。

「叱るより誉めろ」の教育は、恭敬の能力を奪ってしまいます。ヨットスクールにたくさんやって来た、「自己愛型人格障害」の子供達、「反社会型人格障害」の子供達、その他の、人格障害の子供達も、「叱る」や「体罰」をタブー視したマスコミ論調の犠牲者です。人格障害については、また、機会をみて述べたいと思います。

スクールにやって来た子供達の中で、もう1つ、度肝を抜かれたのは、時間の流れを感じる力のない子供達です。2歳位の子供は、時間の流れがよくつかめません。「昨日、明日と言ったから今日のことだよ」なんて言うと、こんがらがってしまいますね。この状態から、進歩しない子がいるのです。

この位の歳から、他の子と遊ばなかった子供に多いのですが、彼らに、「そんなことで将来どうする」と言っても無駄です。将来という未来の概念自体ができてないのですから。このような、恭敬の能力のない子供は、進歩については熊並です。「自主的」に進歩する能力がありません。

「自主性」も創るもの

よく、「叱ってばかりいると自主性がなくなる」とか、「体罰は自主性を損なう」とか言います。自主性とは何かが分かっていないから、こんなトンチンカンなことを言い出すのでしょう。欧米かぶれは、自主性があると思っています。が、とんでもない!自主性も、やはり創るものなのです。

自主性の目的は進歩です。ですから、進歩する能力ができた時、初めて自主性ができたと言います。自主性と安詳恭敬は同じものです。恭敬からは、「礼」という非常に重要な問題が出てくるのですが、これはまたの機会にしましょう。

左翼思想の人達が「敬」や「礼」を嫌うのは、訳の分からぬ平等思想もさることながら、「エライ人がいい気分になるのはけしからん」という、いかにも小人物的なけちくささが見えます。しかし、ここで述べた通り、「敬」は自分の進歩を目的として湧いてくる感情なのです。自分の行くべき目的地を示してくれます。これに、自分の真実の姿を見る力、「恭」が加わって、「進歩したい、進歩しよう」とする強烈な意志ができ上がります。これが自主性でなくて何でしょうか。

「恭」は自分を卑下することではなくて、自分の今の実力を知ること、「敬」は名人の実力を実感すること。いずれも、自分の利益のために生じます。子供のうちから、恭敬の能力を高めておかねば本人にとって損なのです。