サルトル、ボーヴォワールの誤り


『ソフィーの世界』(ヨースタイン・ゴルデル著)を読んでいると、どうしようもない苛立ちに駆られます。

ヨーロッパ哲学は、ついに正しい精神論を創り出せなかった。東洋では2千5百年も前に完成しているというのに。その上、こともあろうか、日本ではその間違った精神論が幅をきかせてしまい、今の経済、教育の惨状をつくってしまった。それでもまだ、日本の指導者達は気がつかない…。本当のインテリじゃあないんですね。

NHKラジオで「子供と教育・電話相談室」というのをやっていましたが、今でもあるのでしょうか?
ここで、相談を受ける女性カウンセラーの答えはいつも同じです。
「自由にさせておきなさい。抑圧するからいけないんです」

――彼女らは、「生まれながらにして理性がある」という立場に立っています。理性はあるのに、それが出て来ないのは抑圧しているからだ。自由にして理性が出るようにしてやれば、学校へ行く、非行もしない。

このペテンを真に受けて、子供達はみすみす時間を浪費してしまうのです。「理性は創るもの」であることを知っていれば、こんなアホなことを言って犯罪行為をすることもないでしょうに。間違った精神論が日本を駄目にしていく一例です。

人間の本質や、自由についての見解

『実存は本質に先立つ』(サルトル)
「人間の本質とは、人間は本来これこれこういうものである、という定義だ。サルトルによれば、人間にはそういう本質はない。人間は自分をゼロからつくらなければならない。人間は自分の本質をつくらなければならないんだ」(『ソフィーの世界』)

『人間は自由の刑に処されている』(サルトル)
「自由は人間にとっては運命なんだ。人間は自分で自分を自由であるようにつくったわけではないから…自由な個人にしてくださいって、だれかにお願いしたわけじゃない…なのにぼくたちは自由な個人であるのだ、そしてその自由のために、ぼくたちは自分でなにもかも決めるように、死ぬまで運命づけられている。頼りになる永遠の価値も基準もない」(『ソフィーの世界』)

「サルトルの妻、ボーヴォワールは言う。女性の本質も男性の本質もない。…女性はぼくたちの文化のなかで初めて『第二の性』へとつくられる。この文化のなかでは男性が主体だ。女性は客体にさせられる。……女を抑圧しているのは男だけではない。女は、自分で生きていく責任をひきうけないかぎり、自分で自分を抑圧しているのだ」(『ソフィーの世界』)

これらの文章からすると、2人とも「理性はある」からは脱却していますが、サルトルは理性を「創るもの」と能動的に考え、ボーヴォワールは「できるもの」と受動的に考えているように受け取れます。が、彼らの原本を読んだわけではないので、真実は分かりません。ご存知の方は教えて下さい。

本能論のない精神論は間違っている

2人の共通の間違いは、「本質がない」というところです。サルトルは「ゼロからつくる」と言うけれど、無いものからは何もできやしません。本能論がないから、こんな間違いをしてしまうのでしょう。儒教、仏教を読んでごらんなさい。実にうまく本能論を利用しているのが分かります。そして、サルトルが「無い」と言った「頼りになる永遠の価値、基準」もちゃんと書いてあるのです。

このように、西洋思想はその基礎に間違いがあることが多いので、眉につばをつけながら読まねばなりません。そんな人がいるかどうか知りませんが、ボーヴォワールに触発されてフェミニズムに走ったとしたら、それは間違いです。

そういえば、教育界で行われようとしているジェンダーフリーはとんでもないことです。こんな風に、精神に関することで英語で言われているようなものは、まず「アヤシイ」と警戒してかかる必要があります。マスコミは、英語でさえあればすぐ平伏してしまうので、信用しないようにしましょう。

サルトルは「自由」の意味も分かっていないようです。これも本能論がないからです。ローレンツの『攻撃』を読むと、自由の意味が実に的確に(ただし、遠慮がちに)述べてあります。儒教も仏教も完全に自由になることを目的としていますが、自由もやはり創るものなのです。

以前述べたことのある、ウィルソンの言葉をもう1度想い出してみましょう。
「人間は進化の結果生じた。人間は自然の一部である。この二つを考慮しなくては、哲学も宗教も意味をなさない」
すなわち、サルトル、ボーヴォワールは間違いであり、儒教、仏教は正しいのです。