月刊「Voice」4月号特集――"教育『百年の計』"に寄せて――

 
理性は「創る」ものである 
 



諸悪の根源は『世界人権宣言』第1条

 戦後教育が失敗したのは、教育の礎とすべき正しい「精神論」がなかったからです。故に、「教育100年の計」を立てたいのであれば、まず科学的精神論を創らねばなりません。
 では、精神とは何でしょう。どんな構造になっているのでしょう。そしてどのように変化するのでしょうか。さらに、どうやれば正しく変化させることができるのでしょうか。
 古来から行われてきたように、精神を、知・情・意に分けて考えることには、たぶん異論はないだろうと思います。ならば、この3つはどのように絡み合っているのでしょう。
 人を殺しておいて、へ理屈を言う少年達や、個人の自由をふりかざして売春する少女達は、明らかに「知」が間違っています。これを正しい知にするにはどうしたらいいでしょう。「言って聞かせれば分かる」と本気で思っている人はいないでしょう。
 我が子を虐待する母親は、感情が狂っています。巷にあふれる無表情な若者達は、感情が希薄です。では、感情を強く正しくするにはどうしたらいいのでしょう。
 すぐにキレてナイフを振り回す少年、いじめを苦にして自殺してしまう少年…。これは、明らかに意志が弱いと言えます。人々は、彼らに「意志を強く持て」と諭します。しかし、「じゃあ、どうしたら意志が強くなるのか教えてくれ」と反論されたらどうしますか。意志を強くする方法を、具体的に提示できますか。
 こうしたことが具体的にできるのなら、その精神論は正しく、科学的だと言えます。科学とは「再現性」のことだからです。逆に、カウンセリングを受けても効果が上がらないのなら、カウンセリングは科学ではないのでしょう。 教育とは「正しく(知)・強く(情)・安定した(意)理性を創ること」です。そう、理性は「創る」ものなのです。子供に理性がある、などというばかげた前提は、もうやめにしなければなりません。
 1948年に出された『世界人権宣言』の第1条、「人間は生まれながらにして自由であり、権利と尊厳について平等である。理性と良心を与えられており、互いに同胞の精神で行動しなければならない」――これは嘘です。これが全ての間違いの元だったのです。自由、権利、尊厳、平等、理性、良心、これらはすべて「ある」ものではなく「創る」ものです。
 (理性と良心を)「与えられた」といいますが、いったい誰が与えたのでしょう。それは神・エホバです。この第1条は、キリスト教の教えなのです。全く非科学的な!
 これは、エホバとの契約もなく、聖書も読まない我々異教徒には、決して理解できない「宗教思想」です。日本のインテリは、飛鳥の昔から尊敬する外国の言うことを100%信用してしまう癖がありました。その悪しき習性で『世界人権宣言』を受け入れてしまったから、子供にも理性、権利、尊厳があり、大人と平等だなどという戯言が生まれたのです。

「自由」は自分で創るもの

 戸塚ヨットスクールでは、ウィンドサーフィンを教育の手段として用いています。初めは不安定なボードの上に立つことさえ難しいのですが、訓練を重ねることで、強風と荒波の海でも自由自在に乗りこなせるようになります。技術を習得した結果、「自由になった」のです。そして、ここが重要ですが、このウインドーサーフィンの肉体的「技術」も、理性の1つだということです。通常、我々が理性と呼んでいるものは「社会性」のことですが、それは精神的「技術」にほかなりません。そうした技術に過ぎない理性を至高のものとし、抽象的にしてしまったがために、日本人は具体的な精神論を失ってしまいました。やがて、それが子供に影響し、教育崩壊に至り、人間性を喪失した"宇宙人"を作ってしまったわけです。『世界人権宣言』第1条のような非科学的思想に支配されれば、こうなるのは必然です。
 自由の「自」は自分、「由」は、「信頼する」と訳せばいいでしょう。つまり、自由とは、「自分で自分を信頼する」という意味になります。信頼できるのは進歩したからであり、進歩したのは、正しくトレーニングしたからです。トレーニング抜きの自由はありえません。生まれながらの自由などないのです。こうした前提で、『世界人権宣言』をもう1度読み直してみると、31個の自由という文字で、15個の自由を保証していることが分かります。基本的自由です。逆に言えば、それ以外の自由は認めない、欲しければ自分で創れということになります。自由の制限です。

仏教と儒教は"科学"である

 先哲は、宇宙万物の本質は「変化すること」と見抜いていました。
 「諸行無常」(仏教)、「まこと苟に日に新たに、日々に新たに、又日に新たなり」(大学)、「ゆ逝く物はかくの如きか昼夜をや舎めず」(論語)、「万物は流転する」(ヘラクレイトス)、「全ては変化する」(ヘーゲル、マルクス)――皆、同じ事を言っています。すると、次は当然のこととして「その変化の法則は何か」ということになります。この「変化の法則」を「科学」と呼び、その法則を見つける人を科学者と名づけました。
 儒教や仏教が「全てが変化する」から始まるのは、ともに科学を目指しているからであり、科学であったからこそ、古典となり得たのです。仏教が科学だと言われてピンとこないのは、途中から宗教に変質してしまったからです。しかし、初期の仏教経典は誠に科学的であって、「輪廻転生」も「因果業報」も、普通に言われているのとは全く別の意味であったことが分かります。
 お釈迦様は修行の中で真理を体現し、その状態を「如来」と定義づけ、そこに至る方法論を明らかにしました。孔子は帰納法でそれと同じものを見つけ、真理を具現化した人を聖人と呼び、自らは永年の努力の末、聖人に等しい君子となりました。そして、その状態を「恕」と定義し、そこに至る方法論を創り上げました。2人とも現実的であり、行動の人であり、科学者なのです。そして、誰もが再現できる法則を残してくれました。ですから、東洋的な科学的精神論をもとにして教育をすれば、迷わず邁進でき、進歩できるのです。

本能を土台とし、正しい理性を創るのが教育

 進歩とは、自分の価値が上がることです。価値を獲得した場合、本能的な「喜び」という感情が生じます。この「喜び」から、理性的感情であるところの「幸福」「感謝」が生じます。自分の行動で価値(進歩)を獲得した場合が「幸福」、他から価値をもらった場合が「感謝」です。つまり、母親が子供に幸福を与えることは不可能であるということになります。子供は、自分の力で幸福になるしかないのです。さらに、本能的な喜びが大きければ、幸福も大きくなります。従って、幸福になるためにまずなすべきことは、本能を強くすることなのです。無表情で薄気味悪い"宇宙人達"は、その表情に本能の低さを宿しています。彼らは「幸福になる能力」が低く、何の為に生きているのか実感できないのです。
 教育とは、『正しく・強く・安定した理性』を創ることにほかならず、そしてそれは、『正しく・強く・安定した本能』をもととして創られる技術のことなのです。
 『世界人権宣言』第1条で教育を行うことは不可能です。理性が初めから与えられていたら、人間は進歩しません。進歩しなければ幸福もありません。進歩は自分の行動によってしかできないし、それにはトレーニングが必要です。そして、何よりもまず、自分が進歩したいと思わなければ駄目です。
 では、どんな時に進歩したいと思うかというと、自分が人より劣ると自覚した時です。「恥を知るは勇に近し」(中庸)、名言です。「勇」とは、進歩しようとする意志のことです。進歩するためには、恥をかく能力がなければダメ、自分の分際がわからなければ駄目なのです。甘やかされ、褒められ続け、己を見失った子供に進歩はありません。同時に権利と尊厳も、初めからあるものなら進歩の必要はありません。
 我々は、教育について、もっと具体的・現実的に物を言わねばなりません。「体罰は悪」と言うのなら、体罰の定義をしなければ。そして、善と悪の定義もしなければなりません。その2つを科学的に定義できるなら、「体罰は善」であるということが分かります(ついでに言うなら、「力は正義」です。力を間違って使った場合を「暴力」と言います)。
 このように、戦後の教育界では自分の言っていることを自分で分かりもしない人達が、子供を教育しようとしてきたことが分かります。これでは、どんなに努力しても、うまくいくはずがありません。このような状態を、仏教では「輪廻転生」と言うのです。全ては「無明」から始まります。

私に任せて欲しい

 私の説に不満な人達に問いたい。あなたは「精神」の定義ができますか。慌てて心理学辞典を見ても無駄です。ありはしません。心理学は、精神の定義がないまま、精神に関する学問体系を作ってしまったのですから…。
 「教育100年の計」として正しい「精神論」を創ること――これは大変なことのように思えますが、実はそれほど難しくありません。儒教、仏教、動物行動学、脳生理学を使えばいいのです。必要な人材とお金を私にくれれば、3年で創ってご覧に入れます。

戸塚ヨットスクール 校長  戸塚 宏