理性ではなく本能で人間力が決まる
高花 豊(帝国警備保障且ミ長)
VS
戸塚 宏(戸塚ヨットスクール校長)
司会 高花社長のところでは、人の育成にことのほか力を入れておいでですが、ふだんどんなことを念頭に置かれていますか。
高花 結局、ビジネスの世界でも最終的な勝負はテクニックではなく、「人間力」というか、人間の本質的な強さ、そういうもので勝負が決まるんです。
例えば以前、アメリカに行く時に社内公募をして、英語がしゃべれる者を連れて行くということを何回かやりました。ところが、英語ができるからといって、全く役に立たないこともあるのが分かりました。言葉以前の問題が重要なんです。相手が何を言わんとしているか、ものごとの順序はどうなのか、こういう時にはこういうものなんだという常識や本能的な直感。そういうものが欠けていると、言葉がちょっとばかりしゃべれても逆にマイナスになるんです。
戸塚さんの講演にもあったように、人間的な力は言うなれば戦略で、英語がしゃべれるというのは戦術だと思います。戦略ができていないと戦術などではカバーできないという、まさにそのとおりなんです。
戸塚 ヨットスクールがいつも言っているのは「精神が脳から出るからには、精神力をトレーニングすることは脳をトレーニングすることである」ということです。全てはこれにつきるような気がします。現実に、写真に撮りますと脳が変形してきますし……。ただ、そうなっても本人がなかなかそれに気がつかないということがあります。
理性は格好をつける
高花 戸塚さんに不条理というか、情念というか、情のようなものについて意見をお聞きしたいと思います。
人間には情念とか、不条理なものがあるでしよう。人間は案外、そういうところで動くことがあるんですね。たとえば無断欠勤を4日間して、もうクビになるかなと思って出てきたやつに、ホラと言ってネクタイを1本やったりする。これは不条理ですね。本当はなぐり倒さなければいけないわけですから(笑)。
あるいは、自分では意識しないである言葉をちょっとかけたり、あることをやったりした。それを自分では忘れていることがあります。ところが相手はそれをものすごく覚えていて、彼のくさり止めというか、どうしようもなくなるのをちょっと防いでいたということがある。逆に、私がこうだと思い込んで一生懸命やってきたことを、相手は何とも思っていないこともあるわけです。私自身にもそういうことが往々にしてあったと思うんです。
戸塚 結局、本能のままで行けば間違いないですよということです。普通、本能というとレベルの低いものという誤解がありますが、そうではなしに、本能の上の部分である理性の方にむしろ間違ったものがある。本能はそのまま出てきてしまうもので間違えようがないのに対し、理性は格好よくつくるものですから……。
今の教育論なり、しつけ論はそうした理性の産物が実に多いわけです。さっき高花社長が言われた、通常と逆のことをやってみたらかえって良かったというのは、本能に合致していると思います。ですから大変うまくいったのだろうと思います。
医学にせよ心理学にせよ、まだ解明しつくされていないのです。その解明しつくされていないものを絶対として教育などで決めていますが、あれは大変ヤバイということですね。医学を見ればよく分かりますが、究め尽くしていないことだから必ず変な副作用が出てきます。それに対し我々のトレーニングのように、自分を治す力を強めてやれぱ勝手に治るという方法は、副作用が全くありません。精神の場合も、本能にとって正しいことをやるのは副作用がなくて、非常にうまくいきます。また、今の教育論で、叱るのはこうだとか、しつけはこうだというのは、ほとんどが大変格好のいい理性の産物で、これが間違っているのだろうと思います。
司会 先程の、無断欠勤して本当なら怒らなければいけない人にネクタイをあげる話ですが、なぜ本能に合致するのですか。
戸塚 それは、1つは相手が自分が悪いと充分分かっているということです。これでもう罰を受けているのです。不快感を発生させれば罰になるんですから。
もう1つ。間違えていけないのは、いつもネクタイをやっていたらだめになる(笑)。
もう必ず怒られるんだということを覚悟してきて、相手も怒っていることを承知の上でネクタイをくれたから効いたんです。
男として生まれた喜び
高花 私は、戸塚さんのところが非常に不思議だなと思うんです。公判の時の皆さんの言動などを、マスコミを通じてですが見て、やはり不思議だと思いました。
私は1度倒産した経験がありますが、1か月給料を払えなくなったら「社長」と言っていたのが「高花さん」になり、「オイ高花」になるでしょう。倒産したことがある人達の話を聞くと、それは皆共通しています。
しかしその中で、土壇場になって意外な力を発揮する人達も、ごく少数ですがいるんです。それも決してエリートではなく、名前と顔が一致しないような存在だった人達の中に、難破船に最後まで踏みとどまっている人が何人かいる。これは不思議ですね。
だから、人間は必ずしも給料のみで、安定だけで動いているものでないということは分かります。それは分かりますが、ほとんどはそうでない。悲しいけれども私はそういう割り切りを持っています。そのために、何が何でも給料を出すこと、それは社長として絶対に、どんな場合にもやらねばならないと思い込んでいます。そういう目から見ると、コーチの人達が大変な状況の中で、今もついてきているのが非常に不思議だと思います。
こう言っては何ですが、常識ではないようなことを体験したわけでしょう。絶対に治らないと言われた子供を治した。ある種の霊能者のように、人と違うことができるという1つの共有感覚がコーチ達にあるのかなと、私はちょっとそう思いました。
戸塚 私はそれが1番強いと思っています。
男の4つの条件というものの1つに、権威に立ち向かうというのがありました。
その点からしますと、「情緒障害」という問題は、日本の歴史の中で初めて起こった問題ですから、本当は権威がいなかったわけです。いるはずがないのに、権威の顔をした人達はたくさんいた。しかもそれが残念ながら男として非常に弱かった。そして、戦後民主主義をそのまま具現化したような対策を立てて何ともできなかったところへ、我々が、彼らからすると大変なアナクロニズムに見えるものによって大成功を収めた――。
コーチ達は、あんなものを相手にしてこんなことができたという、男に生まれて何ものにも代え難い喜びがあったのだと思います。
高花 大げさな言い方になるかもしれませんが、東京裁判史観というのがありますね。戦後、日本というのは、全てが悪かった、全部悪うございましたというように、総ざんげから出発してきました。その感覚を利用したのが左翼ジャーナリズムですね。だからそれとちよっとでも違うものは、総がかりで攻撃するという体質がありますね。
戸塚さんが行ってきたことは、多分、そういう東京裁判史観と相入れない。戸塚さんはそんなことは全く意識されずに、男の本来のあるべき姿、教育とはこういうものだということをちゃんと見せたに過ぎないわけですが、おそらく彼らは敏感に、まさに本能的にそれを感じたのではないか。だからああいう気違いじみたつぶしというか、叩きというものが出たのではないか、そんな感じがしました。
戸塚 マスコミ人というのは、まさにそういう態度でした。面と向かえばそれこそものも言えなくなるくせに、社に帰ったら悪口を書くので強烈な悪口になるわけです。
今のような文明社会になって、男が男の能力を見せなくてもよくなった。けんかをしなくてもいいし、ヨットならヨットで実際に乗らなくても、こっちで評論していればいい。皆で寄ってたかって、あいつはうまいとか下手とか言うだけの、自分はやらず、失敗もないという評論家的立場に皆が行ってしまったものですから、喜んでヨットに乗りに行く人間に対して「男として負けた」という気が本能的にするんだと思います。それだけに、自分の権威をどうやって示したらいいかというと、それはもう、やつらをつぷすより手がないということになると思います。そういう面を強く感じました。
桃太郎みたいに明るく
高花 今回、研修部の顧問になって頂きましたが、私が戸塚さんに1番期待したいことは、まさに人間力というか、本質を強くするためのアドバイスを教育に取り入れてもらうことだと思います。
我々の仕事は商品を作ったり売ったりするのではなくて、人間そのものが商品の仕事ですからストレートなんです。小手先のテクニックではだめで、本音に対して勝負するしかないんです。
司会 例えばユーザーから、帝国警備の社員は皆こうとか、どのように言われたいと思っておられますか。
高花 明るく、元気に、素直にです。言うなれば桃太郎です。日本人の理想ですね。なぜ明るくなれるのか、なぜ元気になれるか、なぜ素直になれるか。これはものすごく難しいテーマなんです。
明るく、元気に、素直というのは、やはり全部本能に根差しています。全てが解決するもとはそれなんです。コンピューターを使うことでも英語をしゃべることでも、何でもないんです。そんなものは取るに足らないことで、どうにでもなるんです。
戸塚 社員研修なり成人の教育は、やはり東京近郊でやらなければいけないと、つくづく思っています。それもできたら大げさでなしに、何か知らない内に教育になっていたという方法が1番長続きするでしょう。
ですから若い人には、やはりヨットかウィンドサーフィンを使って、ある程度の年齢の方にはブールを使ってやるという方法。そういうものをやっていこうと思っています。プールというのは、毎日でも手軽にできる。ヨット、ウィンドサーフィンは面白いということですね。面白いからできる、手軽だからできる、この2本立てでいけばいいんじゃないかなと思っています。それがうまくいけば、明るく、素直に、元気に……(笑)。
(昭和63年12月21日、東京・新宿ワシントンホテルにて)
女性7人の外洋レース
―スクール卒業生が参加―
福岡市で開催中のアジア太平洋博覧会と同時開催される「オークランド―福岡、ヤマハカップ・ヨットレース」に、戸塚ヨットスクール卒業生の村上由香さんが参加しています。由香さんの乗る「ani(アニ)」は、7人の乗組員全員が女性(平均24才)という話題のウーマンパワー艇。由香さんは昨年出版社を退社、同艦の無線担当クルーとして乗り込む。
「このメンバーで以前、ジャパン―グアムレースに参加した時は男性と一緒でしたが、今回は女ばかりなので緊張します。ウィンチ巻きの時など、皆、改めて男性の強さを感じます。
今度のレースは完走できれば充分。海の上での思いがけない出来事との出会いを楽しみに、クルーとしての責任を果たし、自分を鍛えてきたいと思います」と由香さん。
同艦は4月22日、ニュージーランド・オークランドを出発、6月20日頃、博多港にゴールインの予定。航海の安全をお祈りします。
戸塚裁判の現状と展望
弁護士 山本 秀師
早いもので戸塚裁判は、今年で6度目の春を迎えることになった。昭和58年10月31日の第1回公判以来、開廷数はすでに78回(出張尋問3回を含む)に及んでいる。
その間、検察官の立証に57回の公判手順が費やされ、証人の数は70余名に及んだ。被告弁護人の反証が開始されたのは、ようやく昭和62年11月の第57回公判からである。
被告及ぴ弁護人らは反証の開始にあたり、次のように述べた。
「戸塚ヨットスクール事件は、単純な刑法犯ではなく、その背景に情緒障害問題という極めて深刻な社会問題を含んだ事件である。現在法廷で被告人として断罪されようとしている戸塚校長及ぴコーチ達は、何人も手をつけようとしなかったこの問題にいち早く正面から取リ組み、著しい成果を挙げてきた人々である。これに対して一部マスコミと司法当局は、同スクールを常習的暴力集団と位置づけ、強制捜査によって同スクールを閉鎖に追い込み、戸塚校長らを40に及ぶ罪名で起訴した。しかし、起訴事実の1つ1つが事実上も、法律上も極めて問題を含んだものである。」
そして、同年12月16日の第57回公判から現在までに、計36名の被告弁護人側の取調べを終了している。昨年8月には、約1週間にわたり奄美大島及ぴ汽船・あかつき号事件の現場検証も行われた。この調子で裁判が進むと、あと2年程度で被告弁護人の反証は終了するのではないかと予想される。
これからが正念場
このように見てくると、被告弁護人の反証は順調に進んでいるように見えるかもしれないが、その内実はさほど簡単ではない。
先に述べたように、本件は事実上も法律上も極めて問題の多い事件である。従って、この種の事件については、いかに適確な証人をどれだけ多く準備できるかが勝敗の別れ目となる場合が多い。
しかし、多くの刑事事件の場合もそうであるが、特に本件の場合、進んで被告弁護人側の証人になろうという人は皆無に近い。加えて、証人は全国に散らばっている。このような状況下で、被皆人と弁護人はこれまで、ほとんどすべての証人の住所地まで足を運び、面談して出廷を依頼し、やっと出廷する旨の承諾が得られても、その後数回にわたる事前打ち合わせを行って公判廷に臨む、という行為を繰り返してきた。この手続きに費やされるエネルギーは膨大である。
しかも、本年からは裁判所の要請で、昨年より5回多い年24回に公判回数が増加することが既に決定している。私共弁護人は、もちろん各公判毎に充実した内容の反証活動をやり抜こうと決意を新たにしているけれども、果たして従来のように(まがりなりにも)順調に事が運ぶかということになれば、不安が残るのも否定し難い事実なのである。
今も続くいやがらせ
ここで、少し具体的かつありていに「支援する会」の皆様に要望を申し上げるとすれば以下の通りである。
@ 法延を支援者の傍聴で埋め尽くしてほしい
裁判官という人種がいかに世論の動向に敏感で迎合しやすいかはご承知の通りである。間違った裁判は許さないという、裁判官に対する多くの監視の目こそが正当な判決を獲得する最も有効な手段となる。
A 医学の専門家のご協力をお願いしたい
本件の起訴事実の中には2件の障害致死事件があるが、その何れもが死亡原因に関する鑑定に多大な疑問がある。私共は多くの医学関係者の協力を得て、その疑問点を明らかにする努力を続けてきたが、なお極めて不十分である。特に、低体温死や救急医療の専門家に、是非ご協力頂きたい。
B警察・検察のいやがらせに関する情報提供
つい数カ月前も弁護側の証人に予定されている女性の自宅に、証人尋問の直前、愛知県警の警察官2名が突然現れ、しつこく当時の状況を質問し、かつ本件とは全く無関係である同女の勤務先に赴き、経営者にも面会を求めたという例がある。
――以上、裁判報告というよりはお願いに近いものとなってしまったが、この裁判に勝利するか否かは、ここ1年から1年半の反証活動にかかっているという、私共の気持ちもあって、このような文章になってしまったことをお詫びして筆を置きたい。
「本物」と「にせ物」
作曲家 宮崎 鉄雄
戸塚宏という男が本物かどうか、1度実物を見たいと思っていたところ、日本テレビに一緒に出てしまった。数カ月後、私は彼の家に2泊し、彼の考えを4時間分録音した。その後2年間、彼の教育学を理解してもらおうと全国で、その言説を聴いてもらっている。
彼の子供は、マスコミが彼をいじめていた頃、長女が小学3年、妹は幼児だった。私が泊まった時、長女は6年生になっていたが、2人きりになった折に事件当時の心境を率直に話してもらい、話をテープに入れた。
長女は、マスコミで悪者扱いされていた当時の父について、そーっと低い声でこう私に告げた。
「学校の先生が、大変気を使って、級友を上手に指導してくれた。それに、私は、お父さんが正しい立派な男らしい人間だと思っていたから、テレビを見ても何とも思わなかった」と力まず自然な態度で語ったのだ。
* *
私は作曲家であるが、二十数年前、子供に作曲させる研究の全国大会が札幌であり、私1人が孤立させられたことがある。
大会で、全国数百人の先生方は「子供の作曲は、子供の自主性を尊重させてやらせるべきだ」というテーゼを定着させようとした。私は「相撲、空手、柔道も<型>を大切にします。作曲も、カンタンな基本を子供に分かりやすく説明し、型を身につけてから、その型を思い出しながら創作させるべきだ」と主張したのだが、孤立し、否決されたのである。
自主性――美しい言葉だ。だが本当は、子供は「空想」と「現実」の未分化の中に生活し、巧まずしてウソの天才でもある。孔子の言のように、不完全で、動物性が強い。ところが、子供が両親を殺そうが、自殺しようが、レイプ計画を合同でやろうが、一切「政府の責任、文部省がけしからん」。そして、戸塚氏のような本物の教育家は獄に入れ、愛国心さえ反動と考え、子供の本当の心理と生理を学ぼうとしない数十万人のにせ者に占領されているのが、今の教育の現状ではないか。
国宝的な戸塚氏を囚えて喜んだ日教組、マスコミ、警察、検察よ、反省の念はどこへ行ったのであろうか。
玄冬夜想
コーチ 山口 孝道
中国・唐代末の禅僧、趙州和尚の逸話に次のようなものがある。
何としても悟りを開き、佛(ほとけ)の境地に達したいと焦っている1人の僧がいた。ある時、その僧が趙州のもとを訪れ、どうしたら悟りを開くことができるのでしようかと尋ねる。すると、和尚はそれには答えず「朝飯は食ったか」と問う。僧が「はい、頂きました」と返事すると、「食い終わったなら食器をよく片づけなさい」――。
何か特別な事をするのが修行ではない。近道というのもない。ごく当たり前の、日常の工夫に徹するのが大修行であり、肝要なのだろう。この辺が凡夫にはなかなかつかみにくい。分かっているつもりでも分からない。山の頂上に立つことだけが念頭にあって、自分が下駄ばき姿であることに気づかない。そして、あくせく暮らすうちに顔のシワが増え、いたずらに齢を重ねてしまう……。
* *
つい最近、親しかった友が他界した。「ほっておいても地球は回る、目も回る」などと言いながら、酒ばかり飲んでいる陽気な男だった。享年36。別離は足音もたてずに忍び寄る。誰もが生老病死という四苦を背負って、限りある命を生きている。「悲しみ」は、ものを織らせる泉だそうな。年を追うごとに悲しみの数は増すが、汲めども尽きぬ泉を掘り起こすことは難しい。
近頃、何かにつけてため息が出る。豊かさのなかで見失うものは多い。いっそ現世の事象は本来無であることを見定め、三界への執着を断つために髪でも剃るか……。あの世とやらで、一升酒をあおりながら呵々大笑している友の姿が目に浮がぶ。
全体的人間の復権
秋留台病院院長 井村 進一
戸塚宏氏の理論と実践に共鳴するところ多く、私見を述べたい。
科学としての医学の進歩は極めて速く「三年前の知識は錆び付く」と言われます。しかし、人間相手の第一線の医療は必ずしも科学ではなく、「卓抜した医学者は、概ね優秀な医師ではない」とも言われます。実際、専門医も分野外のことには甚だ臆病で、しばしば見当外れなことが多いものです。
――これからの医療は医療体系が姿を変え、各病院の個別化と地域医療機関の有機的な組織化時代になるでしょう。医師と医療機関は部品修理の職人や工場でなく、文化の薫りある機関でなければなりません。
健康診断、リハビリ、特別室、総合診断を可能にする科、ジム、レストラン、介護用品展示など……。さらに、絵画や彫刻の展覧室、音楽室、サロン風談話室、サウナ、AVルームなども必要です。色・声・香・味・触、即ち知・情・意を総動員しての生命体の活性化が求められているのです。
そして、私の最終目標は、国際的・学術的研究サロンの設立にあります。
医学、体育、理学、経済学、哲学、文化人類学、動物行動学、宗教、教育、芸術、未来学、都市工学、建築、その他様々な分野の専門家と若者文化の旗手たちが一堂に会し放言する。先見性と創造性に満ち溢れた、総合的な意見の"くみあげ″を行う。同時に、実現の方法論にまで至るソフト・テクノロジーの分野で、人類全体のために、夢中になれるような研究サロンを創立するのです。
「日本の叡知」が生まれるはずです。今のところ、トテツもない絵空事、誇大妄想と思われる人が多いでしょう。しかし今、人類にとって一等必要なことは、この総合です。専門馬鹿一般の精神的視野狭窄は邪魔です。第2のルネッサンス、「全体的・総合的人間性」の復権が必要なのです。第2の壮大な曼陀羅世界の復元となるかもしれません。
私は東京の地方・西多摩に、この研究サロンを創りたいのです。同じ志を持つ人材に参集して頂きたいと切望します。本誌の趣旨にも沿うものと確信し、誌面をお借りしました。